第51話 喧嘩の作法

 ぼくが生まれる三年前に始まり、ぼくが生まれた年に終わった戦争について、当時のぼくはほとんど何も知らなかったと言っていい。イヴォンリーの学校では、事の経緯をひどく単純な構図に当てはめて教えてくれたものだ。いわく、ある日悪い国が攻めてきたので、われらが女王陛下の勇敢なる兵士が戦ってこれを退しりぞけた、と。


 いまなら、事実がそれほど単純明快ではなかったことを知っている。領土問題に貿易航路をめぐる争い、民族間の対立と摩擦……ありとあらゆる要因が絡まり、もつれ、そしてはじけた。そこに一方的な悪もなければ完全無欠の正義もない。ただどうしようもなく愚かで醜い泥沼に、誰もが足をとられ、もがいていたのだろう。ぼくの父も。そして先生も。


 英雄。その言葉をぼくが耳にしたのは二度目だった。一度目は、あの暗い応接間で。黒いヴェールのイザベラ女王は、たしかにこう言っていた。わたくしの英雄、と。


 あのときは言葉の意味に思いをめぐらす余裕などなく、輝かしいその響きはそのままぼくの記憶の底に沈んでしまっていたのだが、それをヘレンさんはすくい上げ、ぼくの前に放ってみせたのだ。石ころでも拾うように無造作に。


「ルカ」


 ぼんやり先生の背中を見つめていたぼくは、ヘレンさんの声で我にかえった。ふりむいたぼくに、ヘレンさんは料理を山盛りにした皿をさしだした。


「あんた、今日はよく働いてくれたね。おかげで助かったよ」


 おそらくお礼のつもりであろう料理の山を前にして、正直なところぼくは困ってしまった。それまでさんざんつまみ食いをさせてもらったおかげで、ぼくのお腹はすでにいっぱいだったので。


「ありがとうございます。でも、これはちょっと……」

「食べきれなかったら、アーサーのところへ持っていっておやり。あいつときたら酒ばっかりで、ろくに食べていないんだから」


 やられたな、とぼくは思った。いいかげん仲直りをしておいでと、やさしく細められた緑の瞳が語っているようだった。


「……喧嘩してるわけじゃないんですけど」

「わかってるよ」


 ヘレンさんは苛立たしげにあかがね色の髪をふった。


「喧嘩にもなりゃしないんだろう? あいつの悪いところだよ。いつだって自分は関係ないみたいな顔をして、高いところから見下ろしてさ。喧嘩ってのは対等の相手とやるもんだ。それもやらせてくれないなんて、つまりあいつがあんたを認めてないってことだろ。あんたが腹を立てるのも道理さね」


 とにかく、とヘレンさんはぼくの肩を力強くたたいた。


「いい機会だ。がつんと言っておやり。ついでに横っ面のひとつも張ってやるといい。そのくらいしなきゃ、あいつの目も覚めないからね。なんなら、あたしが加勢してやろうか」


 頼もしい申し出だったが、ぼくはつつしんでそれを辞退した。いくらなんでも、それでは不公平が過ぎるというものだ。喧嘩は正々堂々と。まあ、それも時と場合によるけれど。


「とりあえず一人で頑張ってみます」

「それでこそオリヴァの息子だ」


 この上ない声援に送られて客席ホールに出ると、まだ残っていたお客さんたちが珍しそうにぼくを見た。その視線をかいくぐり、ぼくは先生が座る隅のテーブルにたどりついた。


「やあ、ルカ君」


 いつもと同じように微笑んで、先生はぼくを迎えてくれた。


「ご苦労様。悪かったね、きみにばかり働かせて」

「いえ……」


 とりあえず皿をテーブルに置き、さて何から言えばいいのだろうと頭をひねったぼくの目に、透明な液体で満たされたグラスが飛び込んできた。喉が渇いていたというより緊張をまぎらわせたかったぼくは、とっさにそれを取り上げ、ひと息に中身を干した。


「ルカ君⁉」


 あんなに慌てた先生を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。だけど、残念ながら先生の狼狽ぶりをゆっくり観察している暇はなかった。ぼくが水だと思って飲んだものの正体が、水とは似ても似つかない、辛くて苦くて熱い液体――そう、つまりお酒だったので。


 はからずも生まれて初めて飲んだ蒸留酒ジンに喉をかれ、ぼくは派手にむせた。背中をさすってくれる先生と、心配そうに集まってきたお客さんと、それから厨房から飛んできたヘレンさんに囲まれて、ぼくは目を回してその場にへたりこんだのだった。



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