第52話 打ち明け話と隠し事
次に目を開けたとき、ぼくは月明りの下にいた。誰かに負ぶわれているらしく、身体がゆらゆらと心地よく揺れる。耳にとどくのは虫の声と草を踏む足音。それから、
「目が覚めたかい」
のんびりとした先生の声が聞こえた。のろのろと首をめぐらすと、左手の方にあわい月光に照らされた湖面が見えた。クレイ湖だ。その湖のほとりを、先生はぼくを背負って歩いていた。
「気持ち悪くはないかな。吐き気は?」
「いえ……」
どちらもなかった。せいぜい頭がぼうっとして頰が熱いくらいだ。何があったんだっけ、とぼんやり記憶をたぐっていたぼくは、ややあってはっとした。酒樽をくわえた緑の獅子。透明な液体で満たされたグラス。それをぼくは――
「……先生」
顔から火が出るとは、まさにあのことだった。頭をかかえて地面にうずくまりたいところだったが、先生に背負われている身では、それもかなわなかった。
「すみません、降ります」
「いいよ」
背中から降りようとしたぼくを、先生はやんわりと押しとどめた。
「このままで。どうせ降ろしてもろくに歩けないんだろうし」
「歩けます」
「無理するんじゃないよ。さっきまで目を回していた酔っ払いが」
からかうようにそう言って、先生はよいしょと身体をゆすった。
「でも、重いですよね」
「まあ、羽根のように軽いというわけじゃないが、いいんだよ。多少は重くないと罰にならないからね」
意味がわからず首をかしげるぼくに、先生は「まあまあルカ君」となだめるような声をよこした。
「ここはわたしを助けると思って、大人しくしておいで。じつはヘレンにこっぴどく叱られてね。きみを無事に連れ帰ると約束して、ようやく解放してもらったんだ。ここできみを降ろして転ばれでもしたら、あとでどんな目に遭わされることか」
冗談めかした物言いだったが、底の方にはちょっぴり本気が混じっているようだった。
「先生にも怖いものがあるんですね」
「あるとも。怒り狂ったヘレンはその筆頭だ。なにしろ手が早いからね、ヘレンは。初めて会ったときもそうだった。もう二十年近く前になるかな。ダリルも一緒でね……」
それは先生とダリルさんが初めてグレンシャムを訪れた夏のこと。クレイ湖のほとりを散策していた先生とダリルさんは、二人の子どもが取っ組みあっている現場に出くわした。うち一方は大柄な少年、もう一方は
「ヘレンさんを助けたんですか」
「いや、ヘレンに殴られた」
それは、とぼくは絶句した。
「どうも、釣り場をめぐる抗争だか決闘だかの真っ最中だったらしくてね。よそ者が手を出すなと、ダリルともども叩きのめされた。いや、強かったね、あれは」
当然、と言うべきか、その決闘もヘレンさんの勝利に終わり、相手の少年は半べそをかいて逃げ去ったのだが、おさまりがつかないのはダリルさんだった。話も聞かずに人を殴るとは何事だと食ってかかったダリルさんに、銅色の髪の少女は昂然と言い放ったのだそうだ。そっちこそ、事情も聞かずに勝負に割り込んでくるとは何事だ、と。
「実際はもっと口汚く罵り合っていたんだがね」
「はあ……」
それはさぞかし見ごたえのある光景だったに違いない。ぶつかり合う炎の赤と落日の赤。それを前に――これは完全にぼくの想像なのだけど――おそらくわれ関せずの態度を貫いていたであろう少年時代の先生。
「それでどうなったんですか」
「ダリルが
当時から気は短いが公正な性格だったダリルさんは、少女の話を聞き終えてうなずいた。なるほど、おまえが正しい、と。少女は緑の瞳を丸くして、それから笑ったのだという。
「ヘレンが笑ったのを見たのも、それが最初だったね」
それはきっと、とぼくは思った。輝く夕陽のように鮮やかな笑顔だったのだろうと。
「以来、ダリルはヘレンに首ったけだ」
「うえっ⁉」
衝撃のあまり背中から落っこちそうになったぼくを、先生はすんでのところで背負い直してくれた。
「だから大人しくしてなさいと……」
「すみません、でもそれ、本当ですか⁉」
食い気味に尋ねたぼくに、先生は苦笑まじりに「本当だよ」と返した。
「ヘレンにはまるで相手にされていないけどね。求婚だって、わたしが知っているだけで三回はしている。これも毎回ダリルの惨敗だが」
「……それ、ぼくにばらしちゃっていいんですか」
「構わないさ。べつに隠していることでもない。二人とも、卑怯なことと隠し事が嫌いなんだ。わたしと違って」
先生が口を閉ざすと同時に風が吹いた。ざあっと音をたてて湖面をゆらした風は先生の白い髪をなぶり、火照ったぼくの頬を冷たい手でなでていった。
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