第50話 緑の獅子

 ヘレンさんの店というのは、クレイ館から湖をはさんで反対側にある村の酒場兼食堂だった。“緑の獅子”亭という名のその店先には、緑色の獅子が大きな口で酒樽をくわえているという、変わった絵柄の看板が掲げられていた。


「ほらルカ、次はそっちの芋をむいとくれ」


 その獅子の厨房で、ぼくは下働きにいそしんでいた。なんでも、いつも手伝いに来てくれる人が、その日に限って腰を痛めてしまったらしい。店に着いてからそのことを知ったヘレンさんは、困ったね、と天を仰ぎ、それからぼくにこう尋ねた。


「ルカ、あんた料理はしたことあるかい」


 簡単なものなら、と答えたぼくに、ヘレンさんは大きなエプロンを放り、問答無用で厨房に連行したのだった。


 ほとんど初対面の人と初めての場所で働くのは、なかなかに大変なことだったが、同じくらい楽しくもあった。ヘレンさんの指示はてきぱきとしてわかりやすかったし、キャリガン夫人のおかげで、台所仕事にはそれなりに慣れていたぼくだったので。


 おまけに、ヘレンさんは「味見」と称して、ぼくに料理のつまみ食いをさせてくれた。小皿によそったスープとか、炙り肉の端っことか、パイ皿に入りきらなかった具材フィリングとか。味見にしては量が多く、味を見る必要なんてないくらい絶品の料理を平らげているうちに、ぼくはすっかり満腹になってしまった。


 ぼくが美味しい思いをしながら芋の皮をむいたり皿を洗ったりしているあいだ、先生は店の隅のテーブルでお酒を飲んでいた。はじめ「わたしも手伝おうか」と先生も申し出たのだが、「あたしの店を壊す気かい」とヘレンさんに一蹴されてすごすごと――という言い方は失礼だが、あのときの先生はまさにそんな感じだった――引き下がったのだった。


 小さなテーブルで背中を丸める先生の姿に、なんだか可哀想だな、とぼくはつい思ってしまったのだが、すぐにそんな心配は無用だとわかった。その後ぽつぽつとやってきたお客さんたちが、先生を見るなり親しげに声をかけてきたからだ。


「あいつはここの領主さまみたいなものでね」


 厨房の小窓から客席を横目で見ながら、ヘレンさんはそう教えてくれた。


「子どもの頃は毎夏ここで過ごしていたもんさ。赤毛のでかいのと一緒にね」

「ダリルさんも」

「ああ。よく二人で村にやってきて、そのたびにえらい騒ぎを起こしていたよ。あそこであいつを囲んでいる連中は、みんなそのときの被害者だね。今のあいつは、当時のツケをまとめて払っているってわけさ」


 けっこうなことだねえ、とヘレンさんは上機嫌だった。それもそのはず、次から次へと現れるお客さんに、先生は気前よくお酒をふるまっていたのだから。噂を聞きつけたのか、その後さらにお客は増え、その晩の緑の獅子は大いに賑わった。 


「あんたの親父さんはね」


 ヘレンさんがそう語りだしたのは、夜も更けて忙しさも一段落した頃だった。鍋の掃除――という名の、鍋肌にこびりついたクリームをスプーンでこそげ取るという楽しい作業に取り組んでいたぼくの前で、ヘレンさんは作業台に頬杖をつき、昔を懐かしむように緑の瞳を細めた。


「オリヴァは、村の医者の息子でね、なかなかいい男だったよ。あたしより十ばかり年上だったけど、子ども相手にも全然偉ぶったところがなくてね。その頃のあたしはまだあんたくらいの年だったけど、ここだけの話、オリヴァにはちょっと憧れていたもんさ。うん、いい男だったよ、あんたの親父さんは」


 ぼく自身への賛辞ではないことは重々承知していたが、それでもヘレンさんの言葉はすごく嬉しかった。ヘレンさんの記憶の中の、ぼくの父。少女だった頃のヘレンさんの憧れで、そして大人になったヘレンさんにも誉めてもらえるなんて、それはもう文句なしに「いい男」てことじゃないか。


「あとは、絵を描くのが好きだったね。よく画材をかかえて山の中を歩き回っていたっけ。ほら、おもての看板、あれもオリヴァが描いたものだよ。あたしの親がこの店を開いたとき、オリヴァの親父さんが名前をつけてくれて、オリヴァが看板を描いてくれたんだ」


 緑の獅子。それは錬金術をあらわす意匠らしい。あの店にはぴったりの名だ。どこにでもある材料を、とびきり美味しい料理に変えてくれる獅子の酒場。


「それからいくらもたたないうちに、オリヴァの親父さんが亡くなっちまってね。医者の不養生とはよく言ったもんだよ。他人の世話にかまけて、自分のかかえていた病気にはてんで無頓着だったんだから。あそこは父子の二人暮らしだったから、オリヴァも余計にこたえたんだろう。親父さんの不調に気づけなかった自分のせいだって、そう思い込んじまったのかもしれないね」


 ぼくの父、オリヴァ青年が村から姿を消したのは、父親の葬儀を済ませた翌日のことだったという。


「それ以来、オリヴァはここに戻っていない。あちこち放浪して、先の戦争にも従軍したっていうけど、そのあたりのことは――」


 そこでヘレンさんは客席の方にあごをしゃくった。


「あそこの呑んだくれに聞くといい。あいつも戦地へ行って、しかも英雄だなんて持ち上げられていたらしいからね」

「先生が……」


 鍋をかかえたまま、ぼくは呆然とヘレンさんの視線の先を追った。まばらになった客の間で、かつての英雄、白髪の幻術師は静かにグラスをかたむけていた。



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