第四章

第42話 誰よりも大人

 チェンバース邸から帰った日の晩、ぼくは熱を出した。夕方からなんだか頭がぼうっとするなと思っていたのだが、たくさん走ったせいだろうと、特に気にとめずベッドに入り――翌朝起き上がることができなかった。


「当てられたね」


 朝になっても降りてこないぼくを心配して部屋をのぞきにきてくれた先生は、ベッドの中のぼくを見るなりそう言った。


「はじめて“扉”をくぐると、たいていそうなる。きみみたいな子は特に」


 しぶい顔で白髪をかきまわす先生に、ぼくはとりあえず謝った。


「すみません。朝ごはんの用意がまだ……」

「馬鹿なこと言うんじゃないよ」


 先生はきゅっと眉をひそめ、ぼくの額に手の甲で触れた。ひんやりと冷たい手が火照った額に心地よかった。


「とりあえず今日は寝てなさい。明日になれば熱も下がるだろう」


 そうこうしているうちにキャリガン夫人がやってきて、ぼくの介抱を引き受けてくれた。


「お疲れだったんですよ」


 迷惑をかけてすみませんと恐縮するぼくに、キャリガン夫人はそう言って笑った。


「慣れない街で、ずっと気が張っていたんでしょう。大人だって、新しい暮らしに馴染むのは大変なことなんですよ。それを坊ちゃんは、誰よりも頑張っていらっしゃいましたからねえ」


 体が弱ると気持ちもそれに引っ張られるらしい。夫人の笑顔が目に沁みて、ぼくはこっそり顔をこすった。


 かいがいしく世話を焼いてくれた夫人には申し訳ないことに、そして先生の予想に反して、ぼくの熱は翌朝になっても下がらなかった。


「どうもきみは相当影響を受けやすいらしいね」


 後悔しきりといった様子で、先生はぼくに詫びた。


「すまない。わたしがあんなところに連れて行ったばっかりに」

「そんなことないです」


 枕に頭を沈めたまま、ぼくは首をふった。断じて先生のせいじゃないという思いが少しでも伝わるように。


「すごく楽しかったですし」

「頼もしいね」


 微笑んだ後で、先生はふと真顔にもどってつぶやいた。


「こんなことなら、もう二、三部屋吹き飛ばしてやればよかった」

「それはちょっと……」


 ダリルさんが気の毒なので、とは言えなかったが、とにかくそれはやめてくれと、ぼくは先生に訴えておいた。


 そのダリルさんも、ぼくを見舞いにきてくれた。園遊会の翌日、いつかのように「アーサー!」と怒鳴り込んできたところを即座に先生に追い返され、次の日ふたたび――今度は静かに――訪ねてきてくれたのだ。


「叔父貴が迷惑かけたな」


 肩を落としたダリルさんのまわりに漂う綺麗な赤も、その日はいつもより勢いがなかったと思う。


「何か欲しいものはあるか?」


 何も、とぼくはまた首をふった。ダリルさんが持ってきてくれたオレンジやサクランボや、その他いろんな珍しい果物だけで十分ありがたかったので。


「じゃあ、良くなったらまた新しい服を仕立てに行くか」


 それもちょっと、と思ったぼくだったが、とりあえずその場は曖昧あいまいに笑ってごまかした。


 それから数日の間、熱はぐずぐずと引いたり上がったりをくりかえした。一日の大半を眠って過ごしていたぼくだったが、目覚めている間の窓の外は、いつもきまって灰色の曇り空だった。


 天気の悪さも、そのときのぼくにはむしろ幸いだった。気持ちよく晴れた日にベッドで過ごすことほど、みじめなことはないからだ。重く垂れこめた雲は、ぼくに休めと促しているようで、ときおり屋根をたたく雨音は、やさしい子守歌のようだった。


 浅い眠りの合間に、切れ切れの夢を見た。よく現れたのはイヴォンリーの孤児院の光景だ。懐かしい友達が出てきたときは嬉しく、院長が登場したときは……とりあえず懐かしくはなかったとだけ言っておこう。水色のリボンの少女が微笑み、それが老女の姿に変わる。祖母かと思ったのは一瞬で、すぐにその顔は黒いヴェールで覆われた。


 大事な大事な扉の鍵。ヴェールの向こうでしわがれた声が歌う。違う、とぼくは思った。それを口にしたのはあなたじゃない。


 目を開けると、部屋は金色の光につつまれていた。朝日より濃く深く、ほんの少しの陰を含んだ輝きは、いまが夕暮れ時だとぼくに教えてくれた。


 久しぶりの光にまばたきをするぼくの目に、椅子に座る人影が映った。組んだひざに頬杖をつき、じっと窓の外を見つめるその人は、はじめて会ったときと同じように金縁の眼鏡をかけていた。やわらかな西日のもと、その眼鏡も白い髪も、ひとつの黄金きんに溶けていた。


 先生、と呼びかけるのを、ぼくはしばしためらった。ぼくのすぐ側にいるようで、先生がまったく別の場所にいるような気がしたからだ。ぼくの声が聞こえない、ぼくの手が届かない、ずっとずっと遠いところに。


「……やあルカ君」


 ぼくが声をかけるより先に、先生がこちらを見た。眼鏡を外してぼくに微笑みかける先生は、いつも通りの先生だった。


「具合はどうだい」


 だいぶいい、とぼくは答えた。実際、頭はすっきりと晴れていた。窓の外の空と同じように。


「うん、これなら大丈夫だ」


 先生が額に当てがってくれた手は、はじめの日ほど冷たくはなかった。


「でもまあ、大事をとって明日まではおとなしくしていた方がいいだろうね」


 すぐにでもベッドから抜け出したかったぼくは、先生の判定にがっかりした。そんなぼくの気持ちなど、先生はお見通しだったに違いない。おかしそうに小さく笑い、椅子ごとぼくに向き直った。


「退屈しのぎに、少し話でもしようか。たぶん、きみも興味がある話だよ」


 それから先生はゆっくりと語りはじめた。先生の一族について。この世界の“鍵”について。

 

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