第41話 宴に華を、逃亡者に乾杯を

「お早いお帰りで、アーサー様」


 チェンバース邸に戻ったぼくたちを迎えてくれたのは、執事のグラハム氏だった。


 突然姿を消し、そして崩れた身なりで戻ってきたぼくたちを前にしても、グラハム氏の落ち着きぶりには毛ほどの乱れもなく、さすが執事、とぼくは内心舌を巻いたものだ。あるいは、あの魔法使いたちの屋敷では、お客が消えるなんてことも日常の一部だったのかもしれない。


「旦那様はまだ書斎にいらっしゃいますが」

「いや、そっちはもういい」


 グラハム氏の案内を断って、先生はそのまま庭に向かった。


「アーサー」


 勝手知ったるといったふうにずんずん進む先生の背中に、ダリルさんが釘をさした。


「ほどほどにしておけよ」


 ふりむいた先生が笑みだけを返したところで、ぼくたちは会場にたどりついた。


 最初に目に飛び込んできたのは、真っ青な空と緑の芝生。思わず駆けまわりたくなるような広々とした庭には丸テーブルがいくつも配され、そのどれもが、まばゆいばかりの純白のクロスと瑞々みずみずしい花々で飾られている。花飾りを囲むのは芸術品のように美しく豪華な料理の数々。それから、日の光をはじいてきらきら輝くグラスと銀器。


 それはまったく、目も覚めるような鮮やかな光景だった。惜しむらくは、そこにつどった人々の間にうっすらと漂う白い霧が、絵画のような景色をくすませていたことだ。もっとも、そんなものが見えるのは眼鏡をかけたぼくだけだったろうが。


「どうぞ皆様、そのままで」


 先生が登場すると、着飾った紳士淑女たちがいっせいに先生を見た。場の注目を一身に集めた先生は、舞台に立つときのように悠然と胸を張った。


「長居はいたしません。ほんの挨拶に立ち寄っただけですので。さて、ご存じの方もおられるでしょうが、このたびわたしは弟子を迎えまして」


 先生がぼくの肩に手を置くと、おびただしい視線がぼくに突き刺さった。とっさに顔を伏せそうになったぼくだったが、ここでうつむいたら負けだという気持ちに支えられ、ぐっとあごを引いて正面を見すえた。


「わたしの弟子のクルス君です。皆様、覚えてくださいましたね? では――」


 先生の声が鋭さを増す。


「今後一切この子に干渉なさいませんよう。知らなかったという言い訳はもちろん受けつけませんし、誰に頼まれただの脅されただのといった事情も斟酌しんしゃくいたしません。それでもという方は」


 そこで先生は指を鳴らした。とたんに、ぼくらの側にあったテーブルの花飾りが、ばちんと大きな音をたててはじけた。近くにいたご婦人がきゃっと声をあげ、その隣で恰幅のよい紳士が尻餅をつく。


「それなりのご覚悟を」


 先生が言い終えると同時に、ふたたび大きな破裂音が庭に響きわたった。今度は会場の真ん中で花飾りが爆発したのだ。うわっという悲鳴は、新たな爆音にかき消された。


 派手な音と火花をまき散らし、次から次へと爆発する花飾り。青い空に無数の花びらが踊り、そしてはらはらと地上に降りそそぐ。まるで花火のよう、とぼくが思ったのも、あながち間違いではなかった。最後にはじけ飛んだ花飾りが、そのまま高く高く宙を舞い――


 ――ガシャン!


 屋敷の二階の窓を突き破った。次いで、ひときわ大きな爆発音が耳をつんざき、ぼくは思わず目をつぶった。


「……叔父貴の書斎が」


 ダリルさんのうめき声に目を開けると、割れた窓の向こうからもくもくと立ち昇る灰色の煙が見えた。


「だからほどほどにしろと言っただろう!」


 赤毛をかきむしるダリルさんに構わず、先生はぽんとぼくの肩をたたいた。


「さてと、ルカ君」


 悪戯っぽく笑う先生が次に言うであろう台詞を、ぼくは先どりした。


「逃げますか⁉」

「もちろん。さすがはわたしの弟子!」


 腹の底から愉快な気持ちがこみ上げてきて、ぼくは勢いよく駆け出した。ダリルさんの怒声をふりきり、生垣をまわったところで、あわやグラハム氏と衝突しかける。ごめんなさいと叫んだぼくと「後始末はダリルが!」と言い放った先生を、グラハム氏が慇懃いんぎんに、そしてぼくの見間違いでなければ苦笑とともに見送ってくれたことは、今でもよく覚えている。


 走って笑って、屋敷の門を出てまた走って、しまいに息が切れて立ち止まったのは、見知らぬ街の路上だった。


「しまった」


 額の汗をぬぐいながら、先生は気の抜けた笑みをぼくに向けた。


「ご馳走を食べ損ねたね、ルカ君」


 返事の代わりに、ぼくのお腹がぐうと鳴った。


 それからぼくと先生は、街角の屋台で揚げ魚を買いこみ、レモネードで乾杯した。


 こんなはずじゃなかったんだが、と先生はすまながってくれたが、そんな必要は全然なかった。先生と並んで塀にもたれ、油の染みた新聞紙から直接かぶりつく揚げ魚は、そのときのぼくには何より素敵なご馳走だったのだから。




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