第36話 もう一つの部屋

 “鍵番かぎばん”。イザベラと名乗った貴婦人は、ぼくをそう呼んだ。先生の一族の間の符牒。大事な扉の鍵の番人。だとすると、とぼくは考えた。この黒いヴェールのご婦人も、先生の一族の人間なのだろうかと。


「あなたにはずっと前から会いたいと思っていたの。願いがかなって嬉しいわ」


 その言葉に嘘はなかっただろう。目の前のご婦人は、いかにも機嫌よさげに両の指を組んだ。


「強引なお招きだったことは認めるわ。でもね、それだけあなたとお話をしたかったのよ。だから坊や、そんなに怖い顔をしていないで、おかけなさいな」


 かさねて椅子をすすめられたが、ぼくはその場に立ったまま動かなかった。


「……先生は、どこですか」

「あらまあ」


 老婦人は呆れたようにかるく手をひろげた。


「たいそうな忠臣ぶりね。うらやましいと言うべきかしら」


 独り言のようにつぶやく老婦人を前に、ぼくの目はせわしなく室内を観察していた。


 扉は、やはりどこにもない。だとすれば、逃げ道は窓しかないだろう。いざとなれば、老婦人の脇を走り抜けて窓から外に出る。できればここが一階か、せいぜい二階でありますように。そんなことを考えていたぼくに、老婦人は「安心なさい」と語りかけた。


「あなたの大事な先生なら、いまごろチェンバース卿がお相手をしているはずよ。あちらはあちらで久しぶりの親子の対面ですからね。邪魔はしないのが賢明というものですよ」


 あの闇色の紳士と先生の関係を、老婦人はいともたやすく明かしてみせた。二人が実の父子おやこではないかということは、ぼくも薄々察していたが、予想が当たって嬉しいとは思わなかった。むしろ、イザベラという名のご婦人に対する不信感がいや増しただけだった。


「だからね、坊や、わたくしたちはわたくしたちで楽しく過ごしましょうよ。せっかくチェンバース卿があなたを連れてきてくれたのですから」

「あの人が……」


 あの人のせいかと、思わずかっとなったぼくは、やはり普段と比べてずいぶん余裕を失くしていたのだろう。この部屋が何階だろうと、衝動的に窓を蹴破ってやりたくなった程度には。


「そうよ、坊や。チェンバース卿に頼んで、あの屋敷の部屋と、この部屋をつなげてもらったの。もと“鍵番”でも、そのくらいのわざはまだ使えるのねえ」


 チェンバース卿のふるった技――ぼくに言わせれば魔法――について、老婦人が感心しているのか、それとも揶揄やゆしているのか、その口ぶりからは判断がつかなかった。


「あなたが、命令したんですか」

「命令じゃないわ。お願いよ、坊や。“鍵番”に命令できる人間なんて、この世界に誰一人いませんからね。もちろん、わたくしも含めて。わたくしにできるのは、お友達としてお願いすることだけ。わたくしの父も祖父も、そうやってあの一族とお付き合いをしてきたのよ。だからね、坊や」


 老婦人はわずかに身を乗り出した。


「坊やが次の“鍵番”で、わたくし、とても嬉しいのよ。あの赤毛の子も悪くはないけれど、坊やのほうがずっと可愛らしいもの。ねえ、坊や、わたくしたち、とてもいいお友達になれると思わない?」


 自分よりずっと年長の、かつご婦人にあまり乱暴な口はききたくないのだが、そのときのぼくの心情をありのままに表現するなら、「ふざけるな」の一言だった。


「いいえ」


 抑えきれない苛立ちをそのまま声に乗せて、ぼくは答えた。


「ぼくはそう思いません」

「まあ、顔に似合わず気の強い坊やだこと」

 

 とげとげしいぼくの態度を気にしたふうもなく、老婦人はおっとりと応じた。


「だったら坊や、これならどうかしら。わたくしと仲良くしてくれるのなら、坊やの欲しいものを何でもあげるわ。玩具おもちゃもお菓子も、お金だって好きなだけ……あら、だめなのね。だったら、そうねえ」


 老婦人はいったん言葉を切り、そのえさをぼくに放った。


「あなたのお父様のこと、知りたくはない?」



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