第36話 もう一つの部屋
“
「あなたにはずっと前から会いたいと思っていたの。願いがかなって嬉しいわ」
その言葉に嘘はなかっただろう。目の前のご婦人は、いかにも機嫌よさげに両の指を組んだ。
「強引なお招きだったことは認めるわ。でもね、それだけあなたとお話をしたかったのよ。だから坊や、そんなに怖い顔をしていないで、おかけなさいな」
かさねて椅子をすすめられたが、ぼくはその場に立ったまま動かなかった。
「……先生は、どこですか」
「あらまあ」
老婦人は呆れたようにかるく手をひろげた。
「たいそうな忠臣ぶりね。うらやましいと言うべきかしら」
独り言のようにつぶやく老婦人を前に、ぼくの目は
扉は、やはりどこにもない。だとすれば、逃げ道は窓しかないだろう。いざとなれば、老婦人の脇を走り抜けて窓から外に出る。できればここが一階か、せいぜい二階でありますように。そんなことを考えていたぼくに、老婦人は「安心なさい」と語りかけた。
「あなたの大事な先生なら、いまごろチェンバース卿がお相手をしているはずよ。あちらはあちらで久しぶりの親子の対面ですからね。邪魔はしないのが賢明というものですよ」
あの闇色の紳士と先生の関係を、老婦人はいともたやすく明かしてみせた。二人が実の
「だからね、坊や、わたくしたちはわたくしたちで楽しく過ごしましょうよ。せっかくチェンバース卿があなたを連れてきてくれたのですから」
「あの人が……」
あの人のせいかと、思わずかっとなったぼくは、やはり普段と比べてずいぶん余裕を失くしていたのだろう。この部屋が何階だろうと、衝動的に窓を蹴破ってやりたくなった程度には。
「そうよ、坊や。チェンバース卿に頼んで、あの屋敷の部屋と、この部屋を
チェンバース卿のふるった技――ぼくに言わせれば魔法――について、老婦人が感心しているのか、それとも
「あなたが、命令したんですか」
「命令じゃないわ。お願いよ、坊や。“鍵番”に命令できる人間なんて、この世界に誰一人いませんからね。もちろん、わたくしも含めて。わたくしにできるのは、お友達としてお願いすることだけ。わたくしの父も祖父も、そうやってあの一族とお付き合いをしてきたのよ。だからね、坊や」
老婦人はわずかに身を乗り出した。
「坊やが次の“鍵番”で、わたくし、とても嬉しいのよ。あの赤毛の子も悪くはないけれど、坊やのほうがずっと可愛らしいもの。ねえ、坊や、わたくしたち、とてもいいお友達になれると思わない?」
自分よりずっと年長の、かつご婦人にあまり乱暴な口はききたくないのだが、そのときのぼくの心情をありのままに表現するなら、「ふざけるな」の一言だった。
「いいえ」
抑えきれない苛立ちをそのまま声に乗せて、ぼくは答えた。
「ぼくはそう思いません」
「まあ、顔に似合わず気の強い坊やだこと」
とげとげしいぼくの態度を気にしたふうもなく、老婦人はおっとりと応じた。
「だったら坊や、これならどうかしら。わたくしと仲良くしてくれるのなら、坊やの欲しいものを何でもあげるわ。
老婦人はいったん言葉を切り、その
「あなたのお父様のこと、知りたくはない?」
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