第35話 名前を知らない友人

「そんなにおびえなくてもいいのよ、坊や」


 椅子に沈む人影が、ゆったりと語りかける。だけどぼくとしては、はいそうですかと警戒を解くわけにはいかなかった。


 どくどくと脈打つ鼓動をなだめながら、ぼくは部屋を見わたした。そこは先生の家の居間よりいくぶん広く、そしてずっと豪華な部屋だった。日の光をさえぎる厚いカーテンに、ふかふかの絨毯。同じくふっくらと詰め物がされた椅子と、優美な曲線を描く脚のテーブル。火のない暖炉を囲むマントルピースは白い大理石で――


 そこまで見てとったところで、ぼくの心臓が再び跳ね上がった。こんな状況でなければ居心地がよいとさえ思えるその部屋には、あるべきものが欠けていた。


「扉は要らないのよ」


 ぼくの心を読んだように、老婦人は言った。


「ここはわたくしの秘密の応接間なの。親しいお友達だけを招いて、内緒の話をするためのね。誰でも入ってこられるようでは困るのよ。だから、扉はないほうがいいの。あんなものがなくても、皆ちゃんと来てくれますからね。あなたのように」


 ね、坊や、と。親しげに呼びかけるご婦人のまわりには、例のごとくうっすらと白い霧が漂っていたが、眼鏡を外してその「色」を確かめる気にはなれなかった。


 ガラス越しの目に映るその人は、一見して高貴な身分とわかるご婦人だった。年齢としはおそらく、ぼくの亡くなった祖母と同じくらい。小柄でふくよかな身体を黒いドレスにつつみ、結い上げた白い髪に黒いヴェールつきの帽子を載せている。そのヴェールのせいで顔はよく見えなかったが、少なくとも、その貴婦人がぼくの見知った人でないことは明らかだった。


「まずはお座りなさいな、坊や」


 老婦人はぼくの側にあった椅子を手で示した。


「お友達を立たせておくのは心苦しいわ」

「……ぼくは」


 かすれた声が喉にからみ、ぼくは咳ばらいをした。


「すみませんが、ぼくは、あなたの友達じゃありません」


 老婦人の顔にかかるヴェールが揺れたが、ぼくはかまわず続けた。


「ぼくは、あなたのお名前も知りません。そういうのは、友達とは言わないと思います」


 ぼくの発言、ぼくの態度が、たいそう礼を失していたことは認める。だけど後悔はしていない。それだけ、ぼくは怒っていたのだ。


 先生と引き離され、一人だけ訳のわからない部屋に連れて来られて、ぼくはひどく混乱していたし、怯えもしていた。それらの感情を、十二歳のぼくは怒りという形で目の前の人間にぶつけるしかなかった。それ以外に、自衛のみちを知らなかったのだ。


「……まあ」


 薄闇を透かして、笑いの波が伝わってきた。


「はっきり物を言う坊やだこと。さすがは、あの子のお弟子さんといったところかしら」


 後半の台詞に、ぼくのお腹のあたりがすうっと冷たくなった。嫌な予感に背中を蹴飛ばされ、ぼくは一歩足を踏み出した。


「先生はどこですか」

「怖い顔はおやめなさいな、坊や。あなたが心配することは何もないわ。あの子に危害を加えられる人間なんて、そうはいませんからね。なんと言っても、あの子はわたくしの英雄ですから」


 英雄。その仰々しい響きの言葉を、ぼくが消化するより先に、ご婦人はふたたび口を開いた。


「わたくしは、イザベラ」


 あっさりと名乗られて、ぼくはいささか気勢をそがれた。戸惑いつつも自分の名を口にしようとしたぼくに、老婦人はかすかに首をふってみせた。それはもう知っていると言うように。


「これで、わたくしたちもお友達になれたかしら。小さな“鍵番”さん」


 黒いヴェールの向こうで、その貴婦人は笑ったようだった。





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