第37話 まだ見ぬ父の

 その瞬間、ぼくの脳裏に浮かんだのは、古びた額縁の中で微笑む少女だった。あわい金の髪、灰色の瞳。ぼくの父の手によるものだという、母の絵姿。


「わたくしにも、できることはあるのよ。あの一族を頼らなくても、できることがね。ねえ坊や、あなた、お父様がどんな人だったのか、知りたくはないかしら」


 ぼくの父。ぼくの母が――おそらく愛し、ぼくの祖母が憎んだ、ぼくの父。その人のことを、ぼくは何一つと言っていいほど知らなかった。ただ絵を描く人であったということ以外は。


「さっきはお願いと言いましたけどね、わたくしたちが一方的に、あの一族に頭を下げているわけでもないのよ。わたくしたちも、代償としてあちらの望むものを差し出してきたの。互いに利益がなければ、長いお付き合いもできませんからね」


 よどみなく語る老婦人の声が、そのときのぼくにはひどく遠く聞こえた。


「最初の“鍵番かぎばん”は一族の保護を求めたそうよ。誰に唾を吐かれることもなく、石を投げられることもない、安全な暮らしをね。次に土地を、それから財を、地位も名誉も……彼らの望むまま、わたくしたちは与えてきたわ。だから坊やも、遠慮することはないのよ。あなたの望みをお言いなさいな」


 ぼくの父。戦争に行って、それきり帰ってこなかった、そしておそらく今後も帰ってこないであろう、ぼくの父。その人はどんな髪の色をしていたのだろう。瞳は、たぶん薄いすみれ色。ぼくの祖母がうとんじた、この不可思議な眼と同じ。


「ルカ・クルス」


 名を呼ばれて、ぼくは我に返った。


「あなたは知りたいはずよ。自分がどこから来たのかをね」


 ――きみは、学びたい?


 不意に、頭の中に先生の声がこだました。いつかの午後、黄金きん色の光あふれる居間で、先生はぼくにそう訊ねた。あのとき、ぼくは何と答えたのだったか。


「……知りたいです」


 するりと、ぼくの口から答えがもれた。あのときよりよほど簡単に。そう、ぼくは知りたかった。ぼくの父がどんな人だったのか。どんな顔で、どんな声で、ぼくの母の名を呼んだのか。だけど、


「あなたに教えてもらいたくはありません」


 黒いヴェールが揺れた。同時に、老婦人をつつむ霧が濃さを増す。


「……本当に」


 少しだけ、ほんの少しだけひび割れた声が、ぼくの耳を打った。はじめて、このご婦人の本当の声を聞けたような気がした。


「よく似た師弟だこと。でもね坊や、強がりはおよしなさいな。いくらあなたたち“鍵番”でも、できることには限りがあるのよ」


 鍵番、鍵番。またそれかと、ぼくは胸のうちでその言葉を蹴飛ばした。それがいったい何だというのだ。ぼくにだって好奇心はある。その言葉が示す意味を、ぼくはどれほど知りたいと願ったことか。


 だけどそれ以上に、ぼくはほとほと嫌気がさしていた。もうたくさんだ。とても我慢できない。息がつまるような暗い部屋にも、ぼくを試すような物言いにも!


「待ちなさい、坊や」


 たかぶった気持ちそのままに、窓に向かって駆け出しかけたぼくを、老婦人の声が制した。


「そんなことをしても、ここから出て行くことはできないわ。落ち着いて、もう一度よく考えてごらんなさい。あなたにとっての最善が何かをね。わたくしと仲良くしておくのが、坊やにとっても……」


 唐突に、黄金がぼくの目を射抜いた。窓を覆う厚いカーテンがさっと開かれたように、その光は一瞬で部屋いっぱいを満たした。やわらかく、明るく、穏やかでやさしい、ぼくの一番好きな色で。


「――まったく」


 ため息まじりのぼやきを聞くなり、ぼくの膝から力が抜けた。大げさでなく、その手が肩を支えてくれていなかったら、本当にその場にへたり込んでいたことだろう。


「そういう話は、わたしを通していただかないと」


 片手をぼくの肩におき、もう片方の手で白い髪をかきあげながら、ぼくの先生はうんざりしたような声を貴婦人に投げつけた。



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