第32話 静かな食卓

「それで結局どこまで行ったんだい」


 ニシンのパイを切り分けながら、先生はぼくに訊ねた。いつもどおりの、二人きりの晩餐。それがいつにも増して静かに思えたのは、昼間ダリルさんとにぎやかに過ごした記憶が、まだ新しかったせいだろう。


「川向こうの……ええと、大きな時計塔のある……」

「ラドリー街? またずいぶん遠くまで足をのばしたものだね」

「ダリルさんが最後に帽子がいるって言いだしたんです。でも気に入るものがなかなか見つからなくて……」

 

 もちろんぼくが、ではなくダリルさんが気に入る帽子という意味だ。帽子屋を三軒はしごして、ついには橋向こうまで遠征したにもかかわらず、ダリルさんのお眼鏡にかなう帽子を見つけることはできなかった。


「それで来週も、というわけか」

「すみません」


 ぼくは首をすくめてパイの皿を受け取った。暮れなずむ街に時計塔の鐘の音が響きわたる頃には、さすがのダリルさんも疲れた顔で「帰るか」と言ってくれたのだが、別れ際に「来週もういっぺん探すぞ」と宣言されて、思わずひざが崩れそうになったぼくである。


 ちなみに、ぼくが帰ると、居間を埋め尽くしていたはずの手紙の山は綺麗さっぱりなくなっていた。どうやったんですか、と訊ねたぼくに、先生はすました顔で「送り返した」と答えるだけで、それ以上は教えてくれなかった。


「きみが謝ることじゃないさ」


 あわれみ六割、おもしろみ四割といった配合の表情で、先生はぼくを慰めてくれた。


「あいつの着道楽は学生時代から有名でね。着飾りたければ好きにすればいいが、まわりを巻き込もうとするからたちが悪い。わたしも何度か被害にあいそうになったものだよ」


 被害にあった、ではなく、あいそうになった、あたりが先生らしいとぼくは思った。たぶん先生だったら、ダリルさんの猛攻も難なくかわしてしまえるのだろう。


「ダリルさんとは学校も一緒だったんですか」

「まあね」


 昔を懐かしむように、先生はわずかに目を細めた。


「不運なことに年が同じだからね。ちょうどきみと同じ年頃に同じ寄宿学校に入って、卒業までずっと一緒だ。わたしの忍耐力は、あの時代に磨かれたといっても過言じゃないね」


 先生にもぼくと同じ年の頃があったという、ごくあたりまえの事実が、その時のぼくにはひどく新鮮なものに思えた。


 その頃の先生は、とぼくは空想に沈んだ。どんな子どもだったのだろう。黒い制服の裾をひるがえし、伝統ある学び舎の廊下を、手入れの行き届いた芝生の間を、赤毛の学友と肩を並べて駆けていく少年。陽射しに透けるその髪は、いったいどんな色をしていたのだろう。


「ところでルカ君、きみ、そんなにあちこち出歩いて大丈夫だったのかい」


 先生の声で、ぼくは短い物思いから覚めた。


「眼鏡は持っていかなかったんだろう?」


 そうなのだ。ダリルさんに急き立てられ、ぼくは眼鏡を取りにもどる暇もなく連れ出されてしまったわけだが、


「大丈夫でした」


 強がりではなく、ぼくは答えた。


「移動はずっと馬車でしたし」


 それにダリルさんが側にいると、なぜか周囲の「色」がさあっと引いていくように感じられたのだ。まるで強い炎がよどんだ霧を吹きはらってくれるかのように。


「それならよかった」


 先生はおだやかに微笑んだ。


「そのうちもっと楽になるよ」


 それからもぼくは先生に訊かれるまま、ダリルさんとまわった店のことや仕立ててもらった服のことなんかを話した。


 いろいろあってくたびれたけど、そうやって先生と語らっているうちに、なかなか素敵な一日だったように思えてきて、ぼくは何となく満ち足りた気持ちで食後のお茶を淹れた。いつもどおり先生の好きな茶葉で、いつもより少しだけ丁寧に。

 

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