第4話 活版屋の徒弟

 女王陛下の都グラウベン。ぼくがその街を訪れるのは初めてだったけれど、ソートン通りという場所が王都の中でもあまり上等な界隈でないことはすぐにわかった。


 馬車も入れない細い路地には空樽やら新聞紙やらが散乱し、道端では酔っ払いが高いびきとくれば、どんな田舎者にも察しがつこうというものだ。


「本当にここでいいのかい」


 だから、先生がぼくにそう訊いたのも、場所の確認というより、ぼくへの気遣いの表れだったのだろう。本当にぼくをこんなところに置いていっていいのか、という。


 ソートン通りの一角、古びた二階屋の前に、ぼくらは立っていた。通りの入口で馬車を降り、封筒の住所を頼りにここまで歩いてきたのだ。先生は相変わらずぼくの重たい鞄を手にさげて。


「はい、ここで」


 いいはずだ、とぼくはうなずいた。すでに日は落ち、あたりはすっかり暗くなっていたが、頭上の看板に書かれた「ロブソン印刷所」の文字はかろうじて読みとることができた。


「留守のようだが」


 何度か扉をたたいて、先生は首をひねった。


「出直した方がよくはないかい」

「――おい」


 背中に低い声がかけられたのはそのときだった。ふりむくと、つぶれた帽子をかぶった男の人がぼくたちをにらみつけていた。


「ひとんの前で何やってんだ」

「これは失礼」


 ぼくが口を開くより先に、先生が会釈を返した。


「あなたがロブソン氏かな。じつは、この子が駅で具合を悪くしているのを見かけてね、ここまで送ってきたところなんだが」

「……へえ」


 男――ロブソン氏は先生を、それからぼくをじろじろと眺めまわした。


「てえことは、おまえが孤児院あがりの小僧か。ふん、はずれを引いちまったな。こんなひょろっこいのを注文したおぼえはねえってのに……」


 酒臭い息をまきちらしながら、ロブソン氏はくたびれた上着のポケットをさぐって鍵をとりだした。それから先生を押しのけるように扉の前に立ち、ぼくに向かってあごをしゃくった。


「おら、さっさと来な。おまえの仕事が山ほど待ってんだ」


 ぼくはあわてて先生にお礼を言い、鞄を受けとろうと手をのばしたのだが、先生はぼくから遠ざけるように鞄を逆の手に持ち替え、ロブソン氏に声をかけた。


「ひとつ伺いたいのだが、あなたはいまからこの子を働かせるつもりかな」

「……だったらどうした」


 ふりむいたロブソン氏のまわりに白い霧のようなものがたちこめ、ぼくは眼鏡をかけていたことを心の底から感謝した。さもなければ、ロブソン氏の「色」に当てられて、また具合が悪くなっていたに違いない。


「あんたゃ関係ねえだろうが」

「たしかにそうだが、この子をごらんよ。長旅で疲れきっているじゃないか。今晩くらいは休ませてやるべきじゃないのかね」

「おやさしいこって」


 唇をゆがめ、ロブソン氏は道端に唾を吐いた。


「旦那みてえなお人からすりゃあ、おれは血も涙もない人でなしってことになるんだろうな。けどな、おれだって好きでやってるわけじゃねえんだよ。今夜中に、こいつを」


 ロブソン氏は小脇にかかえた封筒をゆすってみせた。


「活字に起こしてやらんと三クロシュの大損だ。悠長にその小僧を遊ばせとく余裕はないんでね。慈善ごっこをやりたきゃ、よそでやっておくんな」

「しかし、今日着いたばかりの子どもに、まともな仕事ができるかね」

「しつけえな」


 ロブソン氏は舌打ちをして、ずいと先生につめよった。


「あんたにゃ関係ねえっつってんだろ。いいか、おれはここの親方で、この小僧はおれの徒弟だ。徒弟の扱いは親方が決める。こればっかりは、たとえ女王さまにだって口出しはさせねえよ」


 太い指を先生に突きつけてすごむと、ロブソン氏はぼくに手をのばした。思わずぼくが身をよじると同時に、先生がぼくの肩を引き寄せ、ロブソン氏の指はくうをつかんだ。


「この……!」


 真っ赤な顔で拳をふりあげたロブソン氏に、先生は何かを放った。反射的にロブソン氏が受けとめたそれは、黒い革の財布のようだった。


「十ダカット」


 先生が告げた金額に、ロブソン氏のあごががくりと落ちた。


「――は入っている。ついでに、その財布を売れば三クロシュにはなるはずだ。この子を自由にしてやるには充分な額だろう」


 ロブソン氏も仰天しただろうが、ぼくの驚きはもっと大きかった。


 十ダカット、つまり二百クロシュ。一クロシュが二十ルー。祭りの日にしか食べられない砂糖がけの揚げパンがひとつ半ルーだから、つまり……どうか笑わないでほしい。途方もない金額を耳にしたぼくの頭にそのとき浮かんでいたのは、手をつないでくるくる踊る揚げパンたちの列だった。


「さてと、ルカ君」


 先生の声で、揚げパンの輪舞曲ロンドは一時停止した。


「きみさえよければ、どうかな、わたしの慈善ごっこにもう少し付き合ってみるというのは」


 うなずく以外の選択肢を、ぼくは持ち合わせていなかった。


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