第3話 この目に映る世界について
「それで」
一応の自己紹介がすんだところで、先生は――その頃はまだシグマルディさんと呼んでいたのだが、ややこしいので先生で――ぼくに訊ねた。
「どう見えた」
今日の天気はどうだろう、といったくらい気軽な調子で。
「きみの目に、あれはどう見えた」
その問いに、ぼくの心臓は跳ね上がった。この目に映る「色」について、他の誰かに語ることを、ぼくはずっと避けていた。それは物心ついた頃から祖母にかたく禁じられていたせいでもあったし、話したところで厄介事しか引き起こさないと、ぼく自身よくわかっていたせいでもあった。
だけど、組んだ両手にあごをのせ、興味津々の
「……緑に」
口にしてから、それが緑に対するひどい冒瀆のように思え、ぼくはあわてて言い直した。
「すごく汚い、嫌な緑です。あとはオレンジとか、青とか、茶……どれもあんまりいい色じゃなくて……それから」
――黒。
思い出すと同時にまた吐き気がこみ上げてきて、ぼくは口を押さえてうつむいた。
「すばらしい」
感嘆の声とともに、先生の指がぼくの額にかるく触れた。ただそれだけで、喉元までせり上がっていた吐き気が嘘のようにおさまった。その日何度目のことか、ぼくがぽかんとして顔を上げると、口笛でも吹きそうな先生の笑みが間近にあった。
「じつにすばらしい。きみはいい目を持っている」
そんなふうに褒められたのは生まれて初めてだった。ぼくの目。それは他の人のものとは少しばかり異なっている。ぼくの目には他の人には見えない「色」が映るのだ。
「色」のことを説明するのはひどく難しい。それはたいてい他の人のまわりにぼんやりと漂っている。朝靄のように。あるいは煙のように。
その色調も濃淡も、人によって、あるいは日によってさまざまだ。よく見える日とそうでない日、まるで見えない日というものもある。そこに法則性のようなものはない。ただ、十二年間この目と付き合ってきておぼろげにわかったのは、どうやらこの「色」というものが、その人の性格や気分などを映しているらしいということだ。
たとえば、イヴォンリーの孤児院長は、よく曇り空のような「色」をまとっていた。孤児院で何か問題を起こったときは――ほぼ毎日起こっていた――「色」の重さ、暗さが増し、反対に良いことがあった日は――そんな日は数えるほどしかなかったが――薄曇りにちょっぴり晴れ間がのぞくといった具合だ。
うんと幼い頃、ぼくはこの「色」が他の皆にも見えているものだと思っていた。だから、ある日何気なしに祖母にこう言ったのだ。教会には行きたくない。あそこの牧師さまはいつも嫌な色をしているんだもの、と。
そのときの祖母の顔と、祖母のまわりにさっと漂った「色」を、ぼくは生涯忘れることはないだろう。祖母の顔、祖母の「色」には驚きと哀しみ、そして怖れと憎しみが、ぼくに対するまぎれもない嫌悪があらわれていた。
「ところで、ルカ君」
先生の声で、ぼくは短い物思いから覚めた。
「きみ、誰か迎えの人は? なら、このまま送っていこう。どこでもいいよ。住所はわかるかい」
とんでもない、と一度は断ったぼくだったが、先生にやんわり押し切られて結局うなずいた。
「ここに……あんまり遠くないといいんですけど」
ぼくは上着の胸ポケットから折りたたんだ封書をとりだして先生に渡した。封筒の表に目を走らせた先生はちょっと意外そうな顔をしたが、口に出しては何も言わなかった。
「キャリガン」
先生は馬車の小窓を開け、御者に声をかけた。
「待たせて悪かった。ここにやってくれ。ソートン通り三番地――」
封筒を片手に、先生はぼくの行き先を告げた。
「ロブソン印刷所まで」
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