第2話 眼鏡の向こう

「立てるかい」


 その人がさしのべてくれた手にすがって立ち上がったところで、情けないことにぼくはよろけてしまった。ちょうど横を通りかかった荷運び人ポーターのまわりに漂う「色」のもやに、まともに顔を突っ込んでしまったからだ。


「……きみは、もしかして」


 その人は何を思ったか、自分がかけていた眼鏡を外してぼくの顔にかけてくれた。


「どうかな。少しはましになっただろう」


 ぼくは思わずあっと声をあげてしまった。少しは、どころではなかった。あれほどぼくを苦しめていた「色」の洪水が、眼鏡をかけたとたんすっとせてしまったからだ。ガラスの向こうに見えるのは、ミルクのような白い霧と、その中を行き交う人々の姿。ただそれだけだった。


「まずはここを離れたほうがいい」


 言うなり、その人はぼくの足元に置いてあった鞄をひょいと取り上げた。


「重いな」


 独り言のようなつぶやきがふってくる。


「きみには重すぎる」

「あの……」

「おいで」


 鞄を持ったままさっさと歩きだした背中を、ぼくはあわてて追いかけた。人混みを縫うように進み、気がつくとぼくは駅の前に停まっていた四輪馬車に乗せられていた。


「しばらく待っていてくれ、キャリガン」


 顔見知りらしい御者にそう声をかけて、その人は扉を閉めた。


「さて」


 向かいに座ったその人が帽子をとるなり、ぼくはまたぽかんとしてしまった。どう上に見積もっても四十は越していないと思われる若々しい容貌とは裏腹に、その人の頭髪が一本残らず雪の色に染まっていたからだった。


「驚いただろう」


 骨ばった指で白い髪をすきながら、その人は言った。


「この街はたいていいつもこんな具合でね。きみみたいな子には難儀だろう。まあ、すぐに慣れるとは思うが……」


 ああ髪のことじゃなくて、と思ったところでぎくりとした。いまの言葉、いまの言いぶり。この人は知っているのだ。ぼくの目に何が映っているかを。


「そうだよ」


 ぼくの頭の中を読んだように、その人は薄い唇をゆがめた。


「きみのような子のことはよく知っている」


 呆然としているぼくの前に、青白い手がさしだされた。


「アーサー・シグマルディ」


 簡潔にその人は名乗り、ぼくを安心させるように笑った。


「そう警戒しなくてもいい。なにもきみをとって食おうというんじゃないからね」


 そこでようやく、ぼくは目の前にさしだされた手の意味に気づいた。それでもすぐに応じることができなかったのは、ぼくがその人を警戒していたからではない。ただ戸惑っていたからだ。ちゃんとした握手を、それも大人の男の人から求められるなんて初めてのことだったので。


「……ルカ・クルスです」


 おずおずと持ち上げたぼくの手を、一呼吸分の間を置いて、その人はしっかりと握ってくれた。想像していたよりずっと温かな手で。


「よろしく、ルカ君」


 眼鏡の向こうで、琥珀色の瞳がやわらかく笑んだ。ガラス越しにもはっきりとわかる、透き通った、そしてほんのわずかにかげりをおびた、それは綺麗な黄金きんだった。




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