第二章

第15話 人としてまっとうな

 先生との暮らしは、はじめからすべて順調――というわけにはいかなかった。長年の集団生活が身に染みついていたぼくと、こちらもおそらく長年の独り暮らしに慣れていた先生が、互いにちょうどいい距離感をつかむまで、どうしたってある程度の時間は必要だったのだ。


 だけど、はじめはいくぶんぎこちなかった生活も、日を追うごとになめらかに回るようになった。そこはなんといってもキャリガン夫人の功績が大きいだろう。夫人の明るい、そしてひっきりなしのおしゃべりは、ぼくと先生の間に横たわる沈黙や、ちょっとした遠慮なんかをまとめて吹き飛ばしてくれた。


 にぎやかな小鳥が空に舞いもどるようにキャリガン夫人が帰っていくと、ぼくと先生はわずかな寂しさとほんのちょっぴりの安堵がないまぜになった視線を交わす。そのたびに、先生との距離が少しだけ縮まったような気がしたものだ。


 キャリガン夫人はぼくに掃除のこつや簡単な料理なんかも教えてくれた。本当は坊ちゃんにさせるものじゃないんですけど、と夫人は嘆いていたけど、おかげでぼくは自分が役立たずなんじゃないかという思いから解放されて、とても嬉しかった。


 朝起きると、ぼくはまず着替えて顔を洗う。それから家の前に届いている新聞を回収し、台所で朝食をつくる。といっても、ごく簡単なものしか用意できないけど。卵を――もちろん先生の好きな両面焼きで――焼いてトーストにバターを塗り、お湯を沸かしてお茶をれているあたりで、先生があらわれる。寝間着にガウンをひっかけた姿で。


「おはよう、ルカ君」


 まだ眠たそうな声でそう言い、お茶をすすりながら新聞に目を通す先生の前に、ぼくは朝ごはんの皿を並べる。台所の隣にちゃんとした食堂があるのだが、ぼくがこの家に来て最初の朝から、なんとなく朝食は台所の作業台ですませるという習慣が定着してしまったのだ。


 キャリガン夫人に聞いたところによると、それまでの先生は昼より前に起きてくることはなく、もちろん朝食もとっていなかったのだそうだ。ぼくが先生の習慣を無理に変えてしまったのではと、ぼくはおそるおそる先生に訊ねてみたのだが、先生は「心配ない」と首を横にふった。


「人としてまっとうな暮らしにもどっただけだ」


 そうですよ、と力強くうなずいたのはキャリガン夫人だ。夫人にしてみれば、朝食を抜くという行為はとんでもなく罪深いことで、前々から先生に物申したくて仕方なかったらしい。そこへぼくがやってきて、夫人の悩みも一気に解決したというわけだった。


 坊ちゃんのおかげ、とキャリガン夫人は喜んで、大きなチョコレートケーキを焼いてくれた。ぼくは何もしていないのにと恐縮したが、だからと言ってケーキを断るなどという、それこそとんでもないことは、とてもできなかった。


 ラム酒漬けのレーズンがたっぷり入ったそのケーキは、午後のお茶の時間に先生と一緒に食べた。早起きするといいことがあるねと、先生は笑ってお茶のカップを掲げてみせた。



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