第11話 キャリガン夫人

 玄関の扉が開く音とともに、誰かが入ってくる気配がした。


「まあ、旦那さま」


 台所に顔をだしたのは、小柄でやせた初老のご婦人だった。きらきら光る黒い瞳が印象的なそのご婦人は、先生を見るなり驚きの声をあげた。


「どういう風の吹き回しです? こんな早くに起きていらっしゃるなんて」

「おはよう、キャリガン夫人」


 先生は優雅に――寝間着姿ではどうしたって威厳には欠けたけど――そのご婦人に挨拶をした。


「お茶を召し上がっていらっしゃるんですか? もしかして朝食も? あらまあ、雨が降らなきゃいいんですけど。やっぱり洗濯は明日にしたほうがよかったですかねえ」


 帽子をとりながら、キャリガン夫人と呼ばれたご婦人は茶目っ気たっぷりにそう言った。灰色の髪を後ろでひとつにまとめ、日に焼けた頰に笑いじわが素敵なキャリガン夫人は、ぼくに黄色のカナリアを連想させた。それは夫人のまわりに、目にも鮮やかな「色」が踊っていたからだけではなく、高い声で陽気に話す夫人の様子が、にぎやかにさえずる小鳥そっくりだったからだ。


「それで旦那さま、こちらが、うちの人が言っていた坊ちゃんですね?」


 うちの人、というのが、このご婦人のご夫君、昨夜の御者のキャリガン氏なのだろう。立ち上がったぼくに、キャリガン夫人はにっこりと笑いかけてくれた。


「はじめまして、坊ちゃん。わたくしはコニー・キャリガンと申します。こちらのお宅の家政婦を務めさせていただいておりましてね。それにしても、まあ本当に、かわいらしい坊ちゃんですこと!」


 かわいい、という表現にはちょっと引っかかったが、キャリガン夫人の笑みはとても温かく、ぼくも自然と笑顔になった。


「ルカ・クルスです。どうぞよろしくお願いします、キャリガン夫人」

「あらあ、かわいらしいだけじゃなくて、お行儀もよろしいんですねえ。いえね、昨日うちの人の帰りが遅かったものですから、何かあったのか訊いてみたら、旦那さまがちっちゃな坊ちゃんをお連れになったっていうじゃありませんか! わたくしもうびっくりして、とにかく今日は早くお伺いするつもりだったんですけど、朝起きたら久しぶりにいいお天気で。こんな日はまず洗濯物を片付けなくちゃと思って……」


 口をはさむ隙がまるでない夫人のおしゃべりに、ぼくはたじたじとなって先生を見たが、先生はかすかに首をふっただけだった。無駄な抵抗はよしなさい、とぼくをさとすように。


「それで、旦那さま、坊ちゃんは昨夜どこでお休みになったんです?」

「屋根裏の――」

「なんてことでしょう!」


 先生の声に甲高い悲鳴が重なった。


「あんな埃っぽい部屋にお客さまを寝かせたんですか⁉ ずっと閉め切りで、掃除もろくにしていないあの部屋に!」

「いや、そんなにひどくは……」

「シーツだって、いつ洗濯したものかわかったものじゃないんですのに! まあまあ、本当になんてことでしょう。ごめんなさいねえ、坊ちゃん!」

「いえ、ぼくはとても……」

「やっぱりもっと早く来るべきでしたわ。やらなきゃいけないことがたくさん! まずは、ここを片づけて……あら、なんですか、このお焦げは」


 キャリガン夫人はてきぱきとコートを脱ぎ、手にさげていた鞄から大きなエプロンをとりだして身につけた。


「おふたりとも、お食事がお済みでしたら、ちょっとそこをどいていただけますか。それから、顔を洗って着替えていらしたらどうです?」


 大きな笑顔を前に、ぼくらは一も二もなく退散した。




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