第7話 台所の魔法使い

 部屋の扉を開けると、階下から焦げくさい煙がたちのぼっていた。火事だと、とっさにぼくは思い、後先考えずに階段を駆け下りた。


 煙の出どころは玄関わきの部屋で、外へ飛び出す前にそこをのぞいたぼくは、あっと声をあげた。


 そこはどうやら台所らしく、たちこめる煙の中で背の高い男の人が肩を落としてうつむいていた。寝間着にガウンをひっかけた姿の先生だった。


「大丈夫ですか!」


 ぼくが台所に駆け込むと、先生はのろのろと顔をあげ、力なく微笑んだ。


「おはよう。驚かせて悪かったね。ちょっと両面焼きに挑戦しようと思っただけなんだが……」

「両面焼き……」


 おうむ返しにつぶやいて、ぼくは先生の手元に目をやった。石炭式のレンジの上では鉄のフライパンがしゅうしゅう音をたてていて、その中で真っ黒いすすのようなものが小さな山をつくっていた。


「熱の角度は問題なかったはずなんだ。何がまずかったのか……殻を割るときの圧かな……」


 口に手をあててぶつぶつとつぶやく先生とフライパンの中身を、ぼくは交互に見比べた。


「……もしかして、卵、ですか」

「そうだよ。両面焼きにしようと思ったんだが、ごらんのとおりだ。どうも加減を間違えたらしい。なにぶん初めてだったから……」

「……卵を、焼こうと」

「まあね」

「それがどうしてこうなるんです」

「だから加減を間違えたんだよ。何度も言わせないでくれないか。これでも少しは反省しているんだ」


 憮然とした顔つきの先生は、なんだか悪戯を叱られた子どものようだった。すみませんと謝りつつも、ぼくが笑いをこらえていたことは先生には内緒だ。


「よし」


 先生は気を取り直したように戸棚から新しいフライパンを、かごから新しい卵を手にとった。


「次はきっとうまくいく。きみ、そこで座って待って……いや、念のため外に出てなさい。あくまで念のためだが」

「待ってください!」


 ぼくは悲鳴のような声をあげて先生の手からフライパンをひったくった。


「ぼくがやります。いえ、やらせてください!」

「きみ……」


 先生はぼさぼさの白い髪の下でまばたきをした。


「そんな高度なことができるのか? なんてことだ。天才というのは本当に……」

「なんのことですか。卵を焼けばいいんですよね? それくらい誰にだってできますよ」


 レンジの火が消えていたので、マッチはどこかとあたりを見まわしたところで、先生がぱちりと指を鳴らした。とたんに、レンジの中にぱっと赤い火が踊った。


「すごい」


 息をのんだぼくに、先生はなぜかきまりが悪そうに「いやまあ、このくらいはね」とつぶやいた。


「ところで、ルカ君」

「はい」


 ぼくに卵を手わたしながら、先生は重々しく告げた。


「できれば両面焼きにしてくれないか」


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