新聞をめくっている間

増田朋美

新聞をめくっている間

新聞をめくっている間

今日は、寒い日だった。晴れているのに、冷たい風が吹いて、外に出るのが嫌に成る程寒い日だった。

その日は、駅員として勤務を終え、家に帰ろうとした由紀子だったが、ちょっと喉が渇いたので、駅近くのコンビニによった。コンビニでジュースを買い、お金を払いにレジへいこうとしたところ、A4サイズの小さな新聞が、置かれているのに気がついた。表紙が可愛いイラストがついていたので、由紀子は、思わずそれをとって、ジュースと一緒に買っていった。

家に帰ってその新聞を読んでみる。新聞というよりか、雑誌に近いかも知れない。カフェの情報や、公園の情報、はたまた格安で聞くことができる、アマチュアオーケストラのコンサートのお知らせまで。ローカル新聞らしく、記事は富士市のことばかり載っていたが、新聞によくある、悪い記事はひとつもなかった。殺人事件の情報もないし、国会議員の情報もない。子ども向きの新聞かなあ、と思ったが、そうではないらしい。特に、読者の投稿形エッセイが充実していて、仕事が原因で鬱になったとか、自殺未遂をして、足が悪くなったとか、そういう挫折をした人の、エッセイがたくさんのっていた。

そのなかに、反田良子さんと言う、女性からの投稿があった。もちろん、こういうところだから、ペンネームを使っている可能性もないとは言えない。本名かどうか定かではないが、その文書は、有希子にも、心惹かれるものがあった。

「私は、母親がフィリピン人であったため、学校でも会社でも、いじめられてきました。どうして、こんなにいじめられなければならないのだろう、と、悲しくなったことも何回もありました。母に、話を聞いてみると、母は、大変貧しい家庭に育っていて、毎日近所のごみ箱をあさって、その中から食べ物を得て生活していたそうです。私は、それを聞いて、どうしてこんなに不自由な生活になるのなら、私を生む必要もないじゃないか、と母に言いました。そうしたら、母は泣いていました。母は、私にどうしても生まれて来てほしかったようです。」

そんな文書だったのだが、この反田良子という人の書き方は、なぜかとても文学性に優れていて、続きを読んでみたいという印象を与えるのだった。その文書の一番最後に載せられていた、次号に続く、という書き込みを見たとき、由紀子は、読んでみたいと思った。この新聞を定期購読するには、どうしたらいいだろうか。お問合せ欄には、メールアドレスが記載されていなかった。あるのは、電話番号のみである。購読料は、月々980円と書いてあった。ずいぶん安い新聞だ。由紀子はすぐにスマートフォンをとった。


同じころ、佐藤絢子のアパートでは。編集者の高橋さんが、ある人に、お説教をやっていた。

「反田さん、これじゃあダメじゃないですか。いくらつらいことを書くと言っても、自殺をしたいとはっきり書いちゃダメでしょうが。こんな文句が新聞に掲載されてしまったら、この新聞の評判を落とすかも知れないですよ。せっかく、これまで好評を維持しているのに。これじゃあだめです。もう一回、書き直してきてください。」

と、高橋さんに言われて、反田さんと言われた女性は、一寸がっかりした様子でうなだれた。

「ごめんなさい。これしか書くことがなくて。」

「でも、それが、良子ちゃんの正直な気持ちなのよね。」

絢子は、彼女に言った。

「社長までそんな事言わないでください。いくら何でも、自殺したいなんていう文句を掲載したら、それこそ、新聞の評判は落ちます。ただでさえ、精神疾患のある人は、嫌われがちなんですから、その人達が、本当はいい人なんだっていうところをアピールしなくちゃ。この新聞だって、そのために作ったんでしょうが。だったら、自殺したい何て言葉を掲載するのは、絶対だめですよ。」

「高橋さんは、何でもビジネスにしてしまうのね。でも、彼女の考えているような気持ちをもっている、精神障害のある人は多いと思うの。だから、そのまま掲載していいんじゃないかしら。彼女の言葉で、救われるという人もいるかもしれないわ。」

「もう、社長も甘いですね。もともとこの新聞は、相模原の大量殺人とか、川崎のバス停での殺人とか、そういう時の犯人が、精神障害があったので、そう言う人ばかりじゃないって伝えたくて作ったんでしょ。だったら、出来るだけ、悪いところは書かないようにしましょうよ。障害があっても一生懸命生きている、みたいなことを書く新聞にしましょうよ。」

しいて言えば、新聞を作ったきっかけはその通りなのであった。絢子が、相模原事件のニュースを聞いたとき、思いついたのである。

「だから、反田さんのその投稿は、やめた方がいいと思います。すぐに書き直してきてください。」

と、高橋さんが言ったのと同時に、電話が鳴った。

「はいはい。佐藤新聞社でございますが。」

家政婦のおばさんが電話を取る。相手は若い女性のようだった。

「あの、御宅でやっている、佐藤新聞を定期購読したいんです。購読料は、すぐにお支払いできます。お願いできませんでしょうか。」

「はいはい。わかりました。それでは、購読料は、現金書留で送ってくれればと思います。住所はどちらですか。あ、富士市内ですね。はいわかりました。」

と、家政婦さんは、住所をメモに書いて、佐藤新聞社の住所を、相手に伝えた。そして、

「あの、失礼ですけれども、どうしてわが社の新聞を購読しようかと思ったのか、教えていただけませんか?」

と、家政婦さんが聞くと、相手の女性は、

「ええ、その新聞に載っている、エッセイが面白かったからです。特に、反田良子さんという方のエッセイは感動しました。是非、続きを読んでみたいと思ったんです。」

といった。高橋さんが、ほら、こういってますよ、と、反田さんの肩をたたく。

「そうですか。彼女に伝えておきます。きっと自信を持ってくれるのではないかと思います。じゃあ、購読料を送っていただいたら、もう一度連絡をください。申し込んでいただいて、ありがとうございました。」

家政婦さんは、そういって電話を切った。

「ほら、読者が一人増えたんですから、絶対にこの文句は、書き直さなきゃいけません。新しい読者にいきなり死にたいという文句を突き付けたら、絶対に、離れて行ってしまいますよ。」

「いいえ、新しい読者が出てくれたからこそ、彼女のエッセイを掲載したいんです。高橋さん、今回ばかりは、降りてください。」

高橋さんがそういうと、絢子は、きっぱりとそういうことを言った。高橋さんは、はあ?という顔で彼女を見たが、

「これを見せれば、より、精神障害のある人たちが置かれている立場とか、そういうことを理解できるんじゃないかしら。彼女を、いじめから救ってやるためにも、本当の気持ちを書かせてあげたいんです。」

と、絢子は言った。しかたなく、高橋さんも折れて、反田良子さんのエッセイは、そのまま新聞に掲載されたのである。


数日後、由紀子の自宅に、佐藤新聞がやってきた。由紀子は、仕事が休みの日に、その新聞をもって、製鉄所に赴いた。

「こんにちは、水穂さん。最近寒いわねえ。具合はどう?」

四畳半にはいると、水穂さんはうっすらとめを開けた。

「相変わらず、大変なようね。今日はね、面白い新聞を持ってきたの。中でも、反田良子という人のエッセイが面白いのよ。この人も、事情は違うけれど、変えられない境遇のせいで苦しんでいるの。だから、水穂さんも、似たような人がいると思って、もうちょっと元気になってよ。」

由紀子は、そういって、A4サイズの小さな新聞を、水穂さんに渡した。水穂さんは、ありがとうございます、と言って、寝たままであったけれど、新聞を取り、読み始めた。

「事情はちょっと違うかも知れないけど、生まれたところが、貧しかったという事は同じじゃない。だから、そういう人がほかにもいると思って。自分だけが悩んでいるのではないと思って。お願いよ。」

由紀子は、そういうことを言った。水穂さんも、真剣な顔をして読んでいる。由紀子はこれを見て、やっぱり定期購読してよかったなと思うのだった。

「でも、この人は、母親がフィリピン人であったというだけで、僕とは、また違うような気がするんですが。」

水穂さんがそういうと、

「何を言っているの。フィリピンでは、ネグリトとか、恵まれない少数民族の人たちがいっぱいいるじゃないの。きっとこの人のお母さんは、そういう人たちだったのよ。だから、ごみをあさって、食べ物を探すとか、そういうことをしなければならなかったのよ。」

由紀子はそう訂正した。由紀子もフィリピンの民族事情は、一寸調べたことがある。フィリピンは多民族国家で有名であるが、恵まれているのは、タガログ族とか、そういう多数派の民族だけだといわれていると、本に書かれていた。もともと原住民として住んでいた、ネグリトと呼ばれる人たちは、山の中で寂しい生活を強いられているらしいから。由紀子は、無理やりそれに当てはめて、勝手にそう解釈していた。

「そうかもしれないですね。」

水穂さんは、静かにそういうのだった。

「でしょ。こんな風に困っている人がほかにもいるんだから、水穂さんも頑張って生きようと思って頂戴よ。あたしだって、応援するわ。」

「そうですか。わかりました。」

水穂さんはほっとため息をついて、そして咳をする。由紀子は、すぐに、彼の背中をそっとさすってやった。それをしながら、水穂さんも少しはこの記事を読んで、感動してくれたのかな、と思い直す。それを読者投稿してもいいと思った。というのは、この新聞、精神疾患を持っている人でなくても、誰でも、投稿してよいことになっていたのである。という事は、この記事を読んだ感想だって送っていいはずだ。由紀子は、そうすることにした。

その後、直ぐに製鉄所を後にした由紀子は、自宅に帰り、ビジネス用の便箋を出して、先ほどの記事の感想を書き始めた。この新聞ではメールでの投稿は禁止されていたし、匿名での投稿も許可されていなかった。たぶん不正投稿を防止するためだろう。匿名が禁止というのはちょっとやりにくいな、と思う人も少なくないと思われるが、由紀子はそんな事は平気だった。それよりも、自分の書いた感想がちゃんと新聞に掲載されるかどうか、が、気になっていた。


「ほら、反田さん。あなたの記事を読んでくれて感想が来ましたよ。きっと、こんなくらい記事を書いて、もう気持ちが悪くなったとか、そういう事ですよ。」

編集者の高橋さんは、絢子と、新聞社にやってきていた反田さんに言った。たぶん、高橋さんも、どうせ碌な感想ではないと思っていたのだろうが、とりあえず、封筒を解いて読んでみる。

「よかったわね、反田さん、とりあえず、生まれて初めて他人から感想をもらったのよね。」

と、絢子もにこやかに反田さんの方を見る。確かに彫の深い顔をした反田さんは、一寸日本人とは違うなという、趣を持っていた。

「はあ、女の人からの感想ですね。ずいぶん丁重に書かれていますなあ。どれどれ。はあ、ああ、すごい内容ですよ。私は、重い病気の人をずっと看病し続けている女性です。彼は、どうしても自分の出身が悪いと言って、どうしても前向きになってくださいませんでした。でも、反田さんの、自分がフィリピン人であって、日ごろから、悲しい思いをしているという投稿を見て、彼も、同じ境遇の仲間を見つけてくれて、とてもうれしいようです。この投稿をして下さった、反田さんにとても感謝しています。きっとこの投稿を出すには、かなり勇気が要ったと思いますが、こうして私たちを前向きにしてくださった以上、素晴らしい投稿だったと思います。私も又、彼を看病するにあたって、一寸前向きになれたような気がします。本当に、素晴らしい投稿をありがとうございました、、、。って、何ですかこれは。こんな素晴らしい感想を、よく出してくれましたなあ。」

高橋さんは、読んでいくにつれて、思わず口を開けたままになってしまった。そして、その丁重な筆跡で書かれている、ビジネス用の便箋を机の上に置いた。

「あの。」

急に反田さんが、そう言いだした。

「あの、この文書を投稿してくれた人、だれなのか、お分かりになりませんでしょうか。」

「どうしたの?勿論、私たちは匿名での投稿は禁止してるから、書いた人はすぐわかると思うけど。」

と、絢子が言うと、

「はい。こんなにすごい感想をあたしに出してくれるなんて、お礼がしたくて。だって、今までこんな豪華な感想を用意してくれる人なんて、本当にいませんよ。」

と、反田さんは答えた。絢子は、編集者の高橋さんに教えてあげてよ、と目くばせする。

「ええ、女性の方です。今西由紀子さんという方です。ああ、封筒に住所が書いてありますね。富士市内の方ですが?」

高橋さんは、素っ頓狂な声で言った。

「そう、富士市内なら、私、その方に手紙を送ってもいいですか?だって、こんなに丁寧な感想貰ったの、生まれて初めてよ。だから、ぜひ、お礼をしたいんです。お願いします。」

「そうねえ。」

絢子にしてみても、投稿者に対して手紙がやってくるというケースは、初めての事であったので、ちょっと困っているようである。

「いや、いいじゃないですか。少なくとも、あたしたちは一般的な新聞社のつもりでやっているんじゃありません。人助けをする、新聞社として設置したんですから、新しい交流を作ってもいいと思いますよ。」

と、家政婦のおばさんがそういうことを言うので、高橋さんは、一つため息をつき、

「じゃあ、この封筒に書かれた住所に送ってみてくださいね。何かトラブルが起きないといいんですけどねエ、、、。」


と、心配しながら、反田さんに封筒を渡した。

数日後。由紀子の部屋に設置されている郵便ポストに、きれいな和紙で作られた、一枚の封筒が入っていた。字は、決して上手ではないが、一生懸命書いたという内容が伝わる封筒である。由紀子は封を切って読んでみる。中には、手すき和紙でできた、きれいな桜柄の便箋。それに、万年筆で、上手ではないけど、丁重な字で、こういうことが書いてあった。

「今西由紀子さんへ。先日、佐藤新聞で、私の投稿に感想を書いてくださり、ありがとうございます。私の投稿が、そんなに役に立ったとは、思ってもいませんでした。私のような、汚いことばかりして生きてきた人間が、重い病気の人を看病するのに役に立てた何て、信じられません。これで一期一会になってしまうのは、本当に悲しいことですが、でも、お礼だけはさせていただきたくて、この手紙を送ってしまいました。ありがとうございました。反田良子。」

由紀子は、こんなきれいな手紙を送ってくるのだから、やっぱり私の憶測は間違っていなかったんだな、と確信した。こんな手紙をもらって、うれしいなと思った彼女は、ビジネス用の便箋とはまた違う便箋を出して、返事を書き始める。

「拝復、お手紙、ありがたく拝読いたしました。丁寧なお礼の手紙をありがとうございます。私も、こんな丁寧な手紙をもらってすごくうれしかったです。もし、可能であれば、の話ですが、私、ラインをやっているので、ここにメールを送ってきてください。私も、一期一会で終わってしまうのは、なんだか寂しいので。」

そう書いて、由紀子は、自分のラインのIDを、書き込んだ。その人がラインを持っているかもわからないし、いずれにしても、一期一会になってしまうのは、もう目に見えてしまっているのであるが、一応書き込んでおく。

由紀子は、反田さんのあて名を書いた封筒に、便箋を入れて、ノリで封をし、〆を書いて、切手を貼り、家の近辺にあった、郵便ポストに行って、そのままポストに入れた。

二三日たって、由紀子のスマートフォンに、見慣れないラインが入っていた。よく見てみると、反田良子です、と書かれている。由紀子は、彼女が手紙を読んでくれたんだな、と思い、それを開いてみる。

「丁寧なご返事ありがとうございました。あの、これを言っては何ですが、直接お話をして、話すことは、可能でしょうか。」

と、ラインには書かれていた。こうなると、普通の人であれば、一寸躊躇してしまう事もあると思われるが、由紀子は、こういう事情がある人は、会って話すことを重視する傾向があると知っていたので、

「ええ、可能ですよ。会いに来てください。ここの建物に来てくれますか。日付は、あなたが希望する日に合わせます。」

と、返事を送った。その返事には、製鉄所への行き方も付け加えた。出来る事なら、水穂さんにも会ってほしかったためである。

「わかりました。ありがとうございます。火曜日に、そちらへ伺います。本当に、お会いできるなんて、うれしいです。」

反田さんは、素直にうれしいと感情を書いているところは、やっぱり日本以外で育った人間だな、と思わせるところがあった。

「それでは、火曜日のお昼過ぎに来てください。お待ちしています。」

由紀子は、にこやかに笑って、スマートフォンでそういう文句を打ち、送信ボタンを押した。

そして、その火曜日が来た。

由紀子は、早々製鉄所に行って、水穂さんに今日は大事なお客さんが来るのよと言って、彼を無理やり起こす。水穂さんは、そのお客が誰なのか、彼女に詰問したりすることはしなかった。

「こんにちは。」

と、玄関先から声がする。

「ほら、見えたわよ。このときだけは寝てないで、ちゃんと起きて頂戴よ。」

と、由紀子は、水穂さんにそういって、玄関先に迎えに行く。引き戸を開けると、一人の女性が立っていた。ちょっと質素な服装をして、おとなしそうな感じの女性である。でも、日本人離れした、一寸、かわいらしいところもある女性だった。年は、まだ20代後半という感じで、まだ悟りを開くには、早すぎるような雰囲気を持っている。

「あの、先ほど、ラインを送りました、反田良子です。」

と、彼女は、一寸緊張した面持ちで、由紀子に言った。

「はい、私が今西由紀子です。あの感想を送ったのは私よ。」

由紀子は、にこやかに彼女に言った。ちょっと緊張している彼女に、どうぞ、と言って、製鉄所の中に入らせる。

「今日はどうしても会ってほしい人がいるんです。あたしが、お会いさせたいのよ。あなたに、ぜひ、フィリピン人であった、不運なことを語って聞かせてほしいの。」

由紀子は、長い廊下を歩きながらそういうことを言った。彼女はまだ、緊張している様子だ。由紀子は、彼女の顔を何となく想像していたりしたが、服装は確かに地味であるものの、想像とはちょっと違っていると思った。綺麗な人であるが、どこか色っぽいという顔をしているのだ。それは、日本人離れしているだけではなかった。それだけではない、どこか、違うものがあったのである。

「あなた、どうして、あの新聞に投稿しようと思ったの?」

由紀子はそう聞いてみる。

「ええ、あの時は、どうしても、御金がなくて、それを書くしか方法はなかったのよ。働いていたお店がつぶれて、まあ、今時女郎屋というものはそうなってしまいやすいと思うけど。」

と、いう彼女。由紀子は、それを聞いて、何ですって!という気持ちになった。

「じゃあ、あのすごい文書を投稿したのは、、、。」

「ごめんなさい。あれを書いたのは、御金がなくて、絢子さんにご飯を食べさせてもらったときに思いついたもので、、、。」

と、彼女は言っている。

「絢子さんって、誰?」

由紀子が聞くと、

「ええ、佐藤絢子さん。今は、佐藤新聞社の社長よ。あの、車いすに乗っていらっしゃる方で、あたし達みたいな、貧しい人に、時々宅配弁当を配ったりしてらっしゃるの。あの新聞は、絢子さんが、お弁当を配ってあげている人に、書かせたものなのよ。精神障害者の実情を知ってほしいって。」

と、良子さんは、小さな声で答える。そうなんだ、そういうトリックがあったんだ、と、由紀子は、悲しくなった。

「内容は嘘じゃないわ。本当にあったことを書いたのよ。だってあたし、一生懸命働いたけど、日本人じゃないからって、バカにされてきたのは事実だし。それを、絢子さんが、新聞に投稿してみろって言ったから、書いただけで、、、。」

そうなのね。じゃあ、あなたが本気でそう書いたわけではなくて、絢子さんの慈善事業で書いたんだ。あの、大金持ちの佐藤絢子さんは、そういうことを、平気でやってしまうような人だから。なんだか、感想を送ってしまったあたしがバカだったわ、、、。あなたは、女郎さんとして、女郎屋で働いていて、店がつぶれて困っていたのを、絢子さんに拾ってもらっただけだったのね。そして絢子さんが、あなたにあんな文章を書かせたんだわ。そう、そういう事情があったなんて、あたし全く知らなかった。あなたの事を、女郎ではなく、もっと、真剣に生きている女性だと思っていたわ。それなのに、、、。やっぱり文字だけの情報では、こういうところまでわからない。新聞というものは、正確には情報を伝えてくれないのだ。

「じゃあ、ここに入ってください。あたしが、一番大切だと思っている人は、この人なのよ。」

女郎に、水穂さんを会わせたくなかった。どうせ、男性遍歴も多いだろうし、本気で男性を愛したという事はないのではないかと思われる。どうせ口がうまくて、何かおいしい話を持ってきては、水穂さんや、私たちをだましていくんだろう。由紀子はそう思った。

「こんにちは。」

水穂さんは布団のうえに座っていた。良子さんは、大いに驚いたようだ。ここまで綺麗な人がいたとは、思わなかったんだろうか。

「あなたの事は、由紀子さんから聞きました。由紀子さん、あなたの書いた記事にすごく感動してくれました。僕に読み聞かせてくれたりしたんです。」

水穂さんがそういうと、良子さんは、申し訳なさそうな顔をした。

「ご、ごめんなさい。あたしは、そんなつもりで、本当にごめんなさい、、、。」

床に崩れ落ちる彼女に、由紀子はやっぱり絢子さんにそそのかされて、出まかせを書いていたんだと確信した。あたしが、想像していた、女性ではなかったのね。あなたは、口だけはうまいけど、汚いことして、御金を儲けている、ただの女郎よ!

「いいえ、あなたも、その時はたいへんだったでしょうし、やむを得ずその文書を、書かなければならなかったんでしょうから、僕は、仕方ないと思いますよ。」

と、いう事は、水穂さんは全部知っていたのだろうか。それを知っていて、許してくれたのか。

「水穂さん、そんなに誰でも許すことはしなくても、」

由紀子は、そういうことを言ったが、水穂さんは、彼女をにこやかな顔で見た。

「しかたないですよ。そういう事は、誰にでもある事ですもの。」

「誰にでもある事、、、。」

床に座って泣いている良子さんに、水穂さんは、にこやかに笑ってそういっていた。水穂さん、男らしく怒ればいいのに!と、由紀子は思ったが、たぶん、怒るという事は出来ないという事も、水穂さんは知っている。あたしは、何をしたんだろう。正直者はバカを見る。それってまさしく本当ね。水穂さん、お願いします、偉そうにふるまわなくて結構です。自分をだましたことを、もっとしかってください!由紀子はそう思ったが、それ以上に、この会を企画した自分を、叩きのめしてやりたくなったのであった。

「誰でも、間違えることはあります。彼女も、由紀子さんも、同じことです。」

水穂さんがそういう。咳き込み始めた水穂さんに、由紀子は急いで背中をさすってやった。すると、良子さんも、すぐにそばにあったタオルを取って、水穂さんの口に付けた。まだ、吐瀉物が出てくると、口にしたわけではないのに、どうして分かったのだろうか?由紀子が予想した通り、水穂さんの口から血が噴き出したが、それを彼女は、丁寧にふき取ることまでこなしたのである。そして、大丈夫ですか?と声掛け迄する。全く驚いた様子もない。由紀子がぼんやりしている間に、彼女は、水穂さんにもう横になった方がいいですね、と言って、彼を布団に寝かせて、かけ布団迄かけてくれた。

「大丈夫ですか。少し、休んだ方がいいですね。できれば何もしゃべらないで横向きになって寝てください。そうすると、とまる確率は高くなりますから。」

という、良子さんに由紀子は、どうしてそんな事まで知っているんだ?と聞きたくなってしまう。でも、口に出していうべきか、迷っていると、

「ええ、母の実家の人たちは、みんなこういう病気で亡くなってますから。あたし達の国は、貧しくて、みんな、医療を受けることもできなかったので。」

と、良子さんは、にこやかに笑った。

「そうなのね、、、。」

由紀子は、わっと涙を流した。

その日も、そとは、冷たい風が吹いていた。本当に、冷たい風だった。







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