第22話。裕秋の最後
実家を出から、何年か経ってしまった。
あれから実家には一度も帰らず、時々連絡を取っていたのは母親だけ。だというのに、妹達と過ごした日々が昨日のことのように
「アキ。たまには実家に帰ったら?」
「帰っても意味ないだろ」
しばらく親戚の家で暮らした後は、新しい家で一人暮らしを始めた。いや、正確には
「あの子達も大きくなったし、今なら平気じゃないの?」
「今さら合わせる顔がない」
「アキの情けなさは今も変わらないか」
紗奈が手を握ってくる。長い時間を紗奈と一緒に過ごしても、恋愛感情を抱くことは出来ず。ただ熱を求め合うだけだった。
自分が情けなさすぎて何度も紗奈を突き放そうとした。けれども、一度たりとも紗奈が離れていくことはなかった。
「紗奈。お前は幸せになれたのか?」
「私に幸せな未来なんて用意されていない」
紗奈の体が裕秋に寄り添う。
「どうして、言いきれるんだ?」
「私がずっとアキと生きるから。アキは永遠に私を愛してはくれないし、もう私はアキから離れられない」
それは紗奈の考え方次第で変わることじゃないのか。
「俺じゃないとダメな理由があるのか?」
紗奈の顔が耳元に近づいてくる。
「アキのこと。ずっと愛してるから」
嘘にしか聞こえない紗奈の言葉。もし、彼女を愛すことが出来たのなら、その言葉を信じることも出来たのだろうか。
紗奈の体を抱きしめ、顔を寄せる。
「紗奈。少しだけ、待っていてほしい」
「ずっと待っている」
どれだけ醜い姿を晒しても、どれだけ傷つけても。紗奈だけは傍に居てくれる。そんな彼女を幸せにしないまま、生きていけるだろうか。
始まりは最悪だったかもしれない。
それでも、今はかけがえのない存在だ。
「なあ、紗奈……」
何度目かのくだらない言葉を口にしかけた時。部屋の扉が空いた。驚きよりも先に見覚えのある顔を見て、懐かしく感じていた。
「二人とも久しぶり」
姿を見せたのは
「なんで、理沙が……」
「私が呼んだのよ」
紗奈が理沙に近づき抱きしめていた。
「アキ。これから、この子も一緒に暮らすから」
「は、いや、なんで?」
「私考えたの。アキには荒療治が必要なんじゃないかって」
紗奈は何を恐ろしいことを口走ってるのか。
「私はアキに愛してもらう為ならなんでもする」
「だからって、理沙を巻き込む必要はないだろ?」
「この子は……私のことが好きみたいだから」
少し紗奈が照れてる気がする。
「裕秋くん。実は私と紗奈は付き合ってました」
「付き合ってた……?」
「裕秋くんが紗奈と付き合うまで。って条件だったから、私ふられたんだよ!」
そう言われると、裕秋は自分が悪いことをした気分になった。同時に理沙から理不尽なことを言われていることにも気づいた。
「アキ。それで、私とアキが上手くいってないってこの子に話したら、一緒に暮らすって言い出して」
「いや、普通は断るだろ……」
「でも、このままだとアキは何も変わってくれない。ずっと待っているのもいいけど、私の方から歩み寄ってみたい」
「紗奈の言いたいことわかった。ただ、理沙に何をさせるつもりなんだ?」
紗奈と理沙が顔を合わせる。
「アキ。アナタ匂いを感じるのよね?」
「ああ」
「私達の匂いってどんなの?」
「……紗奈は石鹸の匂い。理沙は近所の犬だな」
理沙が近くにあったバッグを投げそうになったが、紗奈が止めてくれた。理沙に関してはかなり適当に言ったが、あまり好きな匂いではなかった。
「どうして、あの子達からだけ。アキの性欲を刺激する匂いがするか気になっていたの」
「お前、性欲って……」
「そもそも匂ってることがおかしいでしょ?」
これは精神的な感覚だ。母親にも同じ感覚があるからおかしいと裕秋は感じなかった。ただ、確かなことは匂い自体に興奮するわけじゃない。
自分の状態が、匂いとして現れているだけ。
「アキは私と理沙に強い拒絶があるはず」
「そうだな……」
「じゃあ、その匂いの正体はなに?」
紗奈は何が言いたいのか。裕秋が考え込むと、理沙が近づく。そのまま裕秋の首に腕を回して抱きしめた。
「裕秋くん。私の匂い変わってない?」
「そんなわけ……」
理沙の匂い。深く呼吸すると、よくわかる。
これは。花の香りだ。
「変わってる……」
「なーんてね」
理沙はポケットから取り出した物を裕秋に見せる。
「それ、香水か?」
「そうだよ。紗奈に頼まれて、使ってみた」
「あのな、匂いって言うのは……」
「そんなの、裕秋くんの気持ち次第だよ」
理沙がハッキリと口にした。
「もしかしたら、それは裕秋くんが生まれつき持ってる、特別な感覚かもしれない。でも、それがあるから、正しいことも認識出来てないだけじゃないかな」
「何が正しいかなんて、どこで決める?」
裕秋の傍に紗奈が近づいてくる。
「アキ。匂いじゃなくて、自分の心に聞くべき」
「自分の心……?」
紗奈は裕秋の後ろに回り込み、裕秋ごと理沙の体を抱きしめる。つまり、三人で団子状態になっていた。
「アキ。理沙の心臓の鼓動をよく聞いて」
「理沙の心臓……」
理沙に密着してるからこそわかる。痛いくらいに理沙の心臓が激しく動いていることが裕秋に伝わった。
「裕秋くん。私は紗奈のことが大好き。抱きしめられて、幸せ。だから、この胸の高鳴りは本物なんだよ」
次第に背中側から、もう一つの激しい鼓動を裕秋は感じとる。紗奈の心臓の鼓動は理沙と同じ。同じ感情を持っている。
「私はアキのことを愛してる」
紗奈と理沙。二人が証明したのは、他人を愛するという感情。これまで匂いという感覚に頼ってきた裕秋にしてみれば、意識することすら避けていた。
「理沙。悪いけど、離れてくれ」
今ならわかるような気がした。
「紗奈」
裕秋は体を動かして、紗奈と向き合う。
「どんな結果でも、恨まないでくれ」
「ええ。アキの罪を私はすべて許すわ」
紗奈の体を裕秋は優しく抱きしめる。本来の感覚を一つ一つと研ぎ澄ませ、紗奈という人間を再認識する。
自分よりも小さな体。それでも確かな熱を持っていて、触れれば柔らかい。匂いは自分と同じモノを使っているのに全然違う。でも、本来の匂いの方が好きだ。紗奈の心臓の音が聞こえ、次第に自分の音も聞こえ始める。
「そうか……」
裕秋はすべての記憶を思い出してはいなかった。
紗奈と出会い、別れを経験するまでの間。
その始まりの記憶に本来の感覚を重ね合わせることで、裕秋は隠された真実を知る。
「……一目惚れだった。初めから、俺は紗奈のことが好きだったんだ」
好きだからこそ、裕秋は紗奈を求めた。紗奈と交わることを望んだのは自分自身であり、匂いなんてモノは初めから関係なかった。
しかし、紗奈に会えない時間が裕秋の憎しみを生み出し。偽りの記憶が誤解を生み出した。だからこそ、遠い未来で再会を果たしても、裕秋が真実に辿り着くことは出来なかった。
「紗奈。俺は紗奈のことが好きだ」
「その言葉を私はずっと待ってた……」
紗奈の瞳が、裕秋の見つめる。紗奈の唇が裕秋の唇と重なり、お互いの気持ちを確かめるように、触れ合わせた。
ようやく、裕秋は自分の心に気づいた。紗奈のことを心の底から愛していると、今ならハッキリと理解出来る。
「あの空気読めなくて、ごめんね。つまりどういうこと?」
「理沙。お前、本当に空気読めないよな」
紗奈が少し怒った顔をしている。今の場面で口を挟むべきではないと誰もわかっているはずだ。
「だから、つまりな……」
「私とアキは出会った時からお互いに一目惚れしてたってこと。ただ、色々ありすぎて初心を忘れていたようね」
忘れていたのは自分だけだと、裕秋は口にしてしまいそうになったが。理沙を納得させる為にも余計なことを言わないべきだろう。
「うーん。とりあえず、めでたしめでたしってことかな?じゃあ、私要らないよね。帰りまーす」
紗奈が理沙の腕を掴んだ。
「何言ってるの?これから三人で暮らすのよ」
「それってどんな拷問!」
「ふふ。そっちの方が楽しいでしょ」
「あ、紗奈が普通に笑った顔、初めて見たかも」
そうだ。この笑顔だ。
「紗奈、笑った方が可愛いぞ」
紗奈の笑顔に裕秋は一目惚れをした。
「恥ずかしいから、あまり見ないで」
やっと、思い出すことが出来た大切な記憶。この記憶があれば、もう過去を見失いはしない。紗奈と理沙の二人がいれば、未来で迷ったりはしない。
まだまだ裕秋の未来は続いて行く。その先にどんな困難が待ち受けていたしても、紗奈となら歩いて行ける気がした。
ずっと自分のような人間が幸せになることは許されないと思っていた。でも、今ならわかる。自分が幸せにならなければ、紗奈も不幸であり続ける。
だからこそ、今一度言葉を口にしよう。
「紗奈。愛してる」
「……安っぽい言葉は嫌い」
「結構、真面目に言ったつもりなんだが……」
「無理しなくていいって言ってるの」
紗奈が体に抱きついてくる。いつもよりも重く感じる紗奈の体。紗奈のすべてを背負うと覚悟を決めたからなのか、この重みは嫌いにはなれなかった。
「紗奈。好きだ」
「私も好きよ。アキ」
ようやく、彼女を幸せに出来た。
すべては罪滅ぼしなのかもしれない。それでも紗奈に対する気持ちだけは本物だ。もう二度と大切な家族を傷つけたりはしない。
そんなことを心に誓いながら。
ただ、強く紗奈を抱きしめ続けた。
背徳症状-禁慾の果実- アトナナクマ @77km
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