第21話。大鳳柚子

 裕秋ひろあきは自宅の玄関に座り込んでいた。


 柚子ゆず時雨しぐれ紗奈さな理沙りさ


 彼女達と歪に繋がった関係を正さなくてはならない。まず初めにやるべきことは既に決めていた。


「ふふ」


 声の方に顔に向けると、母親がしゃがみこんでいた。母親の不気味で優しい笑顔。今は不思議と安心する。


「母さん……」


「何か、話があるんでしょ?」


「頼みがある。一生に一度の頼み事だ」


「いいわよ。何度でも、何度だって。アナタの頼み事なら、聞いてあげる。それが母親だもの」


 これからのことを母親の頼むことにした。


 自分の人生を左右する決断。なのに、母親は初めから答えがわかっていたかのように、全てを受け入れてくれた。


「アナタのこと、愛してるわ」


 話を終えた後、母親に抱きしめられた。


 ただ、乾いた心には母親の優しが届かない。暖かくて、安心する匂い。なのに、鬱陶しくて、邪魔に思ってしまう。


 もう家族と分かり合うことは出来ないのかもしれない。虚しいだけの時間は母親が離れたことで終わりを告げる。


「それじゃあ、さよなら。裕秋」


 母親は別れの言葉を告げて、姿を消した。


 これから先の未来に母親はいない。


 自分の意志を持って、生きなくてはならない。


「お兄ちゃん。おかえり」


 一日のうちに色々あったせいで、その声が懐かしく感じてしまう。背中に寄りかかる重みが、現実を実感させる。


「柚子。怪我は大丈夫なのか?」


 柚子が包帯の巻かれた右腕を見せてくる。


「少し、ひねっちゃった」


「そうか……」


 裕秋は安堵しながらも、別の考えが浮かんだ。


「柚子。大事な話がある」


 裕秋は柚子の腕を掴んだ。


「どうして、階段から落ちたりしたんだ?」


「転んだ」


「なんで、時雨を庇うんだ?」


「私は時雨を庇ったりしてない」


 もし、時雨が柚子を突き落としたとしたら、問題となるのは柚子が黙っている理由だ。


「柚子、本当のことを言ってくれないか」


「時雨は何もしてないし、私が勝手に落ちただけ」


 何度聞いても答えが変わらない。柚子の言葉がある以上、時雨を追求するのは難しくなる。


「お前、前に車に轢かれただろ……その時も本当は……」


 あの時、柚子は時雨に押し出された。


 そんな考えが浮かんでいた。


「お兄ちゃんは、誰を信じるの?」


「……っ」


 柚子や時雨、紗奈や理沙。そして母親のことも信じられない。自分の過去にさえ裏切られたのだから。


 拠り所が無ければ、自分の心は簡単に折れる。だからこそ、誰か一人を選ばなくてはならない。


「柚子。お前は……俺と時雨なら、どっちを選ぶ?」


 それは最低最悪な質問だった。


「時雨だよ」


 しかし、柚子の回答に裕秋は希望を感じた。


 もし、時雨の名前を出さずに兄を選んでいたら柚子を信じられなかった。柚子にとって、時雨は半身も同然。失うくらいなら、他のすべてを犠牲にするはずだった。


「柚子。頼みがある」


「いいよ」


 柚子を連れて、時雨の部屋の前まで来た。


「時雨を呼び出してくれ」


「わかった」


 柚子が扉の前に立つ。


「時雨。今すぐ開けないと、怒るよ」


 頼ってはみたが、柚子の言葉でも時雨を引き出すことは難しい。


「私の怪我のこと。時雨せいになるよ?」


「……っ」


 柚子が嘘を言っているようには聞こえない。ただ、そうなると、柚子が怪我をした理由がわからなくなる。


「柚子。どういうことなんだ?」


「……私が階段から落ちたのは時雨のせいじゃない」


 その瞬間、扉が開け放たれた。


「お姉。なんで、話したの?」


「だって、時雨が可哀想だから」


 柚子が治療をされた腕を差し出してくる。


「私は、ただ。お兄ちゃんに優しくされたかった」


「……わざと、落ちたのか」


 優しく。柚子が求めたのは優しい兄。欲望に塗れた兄なんて必要とはしない。柚子が階段から落ちたのは怪我をすれば、自分に優しく接すると、以前の事故で柚子は気づいたのか。


「時雨が黙っていたのは予想外だけど」


「ボクは……お姉の望み叶えたかった」


「私は時雨を駄目にしてまで、叶えたくない」


 柚子は時雨を想い、時雨は柚子を想っている。


 二人は生まれた時から同じ道を歩いている。本来であれば、その先の道で兄として、二人の手を引くのが、裕秋の役目だった。


 気づけば裕秋は道を外し、柚子や時雨を引きずり込もうとしていた。既に二人の兄としての役割すら果たせてはいなかった。


「そうか……俺はもう……」


 二人と間に大きな距離を裕秋は感じ始める。


「柚子。時雨」


 裕秋は一歩を踏み出し、二人の体を抱きしめる。


「お兄?」


「お兄ちゃん?」


 もう二人の匂いもわからない。呼吸して、空気を肺に取り込む程、胸の苦しみが膨れ上がる。自分のやるべきことを言葉にしなくてはならない。


「二人に、さよならを言わないといけない」


「え……」


 それはどっちの声だったのか。もしかしたら二人とも驚いていたのかもしれない。続きの言葉を口にする為に、覚悟を決める。


「俺は……最低な人間だ。自分のわがままを二人に押し付けて、傷つけた。だから、兄として、最後に出来ることを果たそうと思う」


 確信があった。自分の欲望は完全には消せないと。このまま柚子と時雨と暮らし続けることは、不可能だった。


「やだ。いやだ!」


 柚子の叫び声が鼓膜に響く。柚子の声に感情が混じり自分の感情も揺さぶられてしまう。


「お兄ちゃん、何処にも行かないで!」


 泣き声混じりの柚子の叫び声。悲痛で、苦しみに満ちた声。そんな柚子の叫びを拒絶して、突き放すことが自分に与えられた罰だった。


「私、我慢するから……何してもいいから……」


 柚子は優しくない兄を受け入れられない。


 何度繰り返しても、拒絶を止められない。


「柚子。俺の一番の願いは、お前達に幸せになってもらうことだ。ただ、そこに俺がいたら駄目なんだ」


「わかんない……わかんないよ!」


 柚子の何もかもかき消そうとする泣き声が、次第に力を失っていく。どれだけ泣いても、現実は変わりはしない。


「時雨。お前にも苦労をかけた」


「別に。ボクはお兄のこと、嫌いじゃないし」


「好きとは言ってくれないんだな」


「うん。少し、嫌いになったから」


 もう一度、二人を強く抱きしめる。


「時雨。柚子のこと、頼む」


「わかった」


 そして、二人から離れた。


「……っ」


 もう泣き声も出さなくなった柚子が裕秋の服を掴んでいた。弱々しく、簡単に引き離せる。


 それが、裕秋と柚子の最後の繋がり。


「柚子。俺は……」


 二人が生まれた時のことを思い出す。まだ小さかった柚子と時雨。それぞれを抱っこして、確かな重みを覚えた。


 裕秋は体を動かして、柚子を抱き上げた。


「大きくなったな。柚子」


「お兄ちゃん……」


「大丈夫だ。まだ何も終わってない」


 柚子を下ろして、時雨も抱き上げた。


「時雨は……思ったより小さいな」


「お姉と変わらないけど」


「そうか。そう、だよな……」


 今になって、裕秋は涙が溢れ出してくる。


「なんで、俺……こんなに馬鹿なんだよ……」


 二人と一緒にいたい。なのに、馬鹿な自分が邪魔をして、引き裂かれる。こんな別れ方は、あまりにも残酷だった。


「お兄。ボクはお兄を恨んでない」


「私はお兄ちゃんがお兄ちゃんでよかった」


 その言葉で少しだけ、救われた気がした。


「時雨。柚子。ありがとう……」


 終わりなんて永遠に来なければよかった。


 しかし、閉幕を知らせる足音が近づいてくる。


「アキ。帰ってたの?」


 振り返れば、紗奈が立っていた。


 理沙の言っていたすべてを解決する方法。実行する為には紗奈が最も重要な人物であり、これは自らが新たな罪を背負う覚悟が求められる。


 裕秋は二人から離れ、紗奈に近づいた。


「アキ……?」


 紗奈の体を裕秋は強く抱きしめる。


 世界を変える言葉なら、もう決めてあった。


「紗奈。俺と付き合ってくれ」


 愛の無い告白。最低で最悪な告白。


「馬鹿みたい……」


 紗奈の腕が裕秋の背中に回り込んでくる。


「こんな男、好きになった私が一番馬鹿だけど」


 理沙の言っていた、紗奈の気持ち。それが嘘でなければ、成功するとわかっていた。裕秋が最後に求めたのは最初の罪であり、それを再び背負って生きること。


「アキ。好きよ」


「俺は紗奈のこと好きじゃない」


「それでいいわ。そっちの方が楽しそう」


 これで紗奈と恋人同士になった。ただ、それだけでは残された問題は解決しない。やるべき事なら既に決めていた。


 振り返れば、柚子と時雨の姿はなかった。


 でも、十分だ。もう別れは済ませた。


「紗奈。この街を出よう」


「いいの?」


「今は、お前と向き合う時間が欲しい」


 ここではない、何処か遠くで紗奈と二人で暮らせる場所。そこでなら、自分が柚子や時雨を求めることはない。


 それが理沙の考えた、すべての問題を解決する方法。ただ、一人暮らしをするのではなく、紗奈をみちづれにするというもの。


 よくよく考えてみれば、理沙の提案は紗奈の為に用意されたのかもしれない。大切な友人を幸せにする為に、嫌いな男すら利用する。


 やはり、紗奈よりも理沙の方が恐ろしいと裕秋は感じた。腕の中でじっとしている紗奈に恐怖を感じたりはしない。


「アキ。行きましょうか」


「ああ」


 紗奈の手を取り、進む道を決めた。


 人生の途中。外れた道の先で、裕秋は紗奈と出逢った。これから先にどんな未来が待っていたとしても、二人でなら。何処にでも行ける。


 そう。信じていた。

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