第20話。裕秋の欲望

「裕秋。起きなさい」


 その声に裕秋ひろあきの意識を呼び覚まされる。


 飛び起きるようにして体を起こすと、目の前に母親の顔が迫り。裕秋は思わず、後退りをしてしまった。


 すると、逃げた後ろで柔らかい衝撃を受けた。


「アキ。危ない」


「紗奈……お前……」


 後ろには紗奈さながいる。


 裕秋が目を覚ましたのは自分の家だった。リビングのソファーで眠っていたのか、まだ完全には状況が呑み込めなかった。


「母さん、なんで俺は家に……」


「私が連れて帰ってきたのよ。ふふ」


 さっき、カラオケ店に居た。


 その時に紗奈から聞いた話を思い出した。


「俺は……」


 また最悪の感情が呼び起こされようとした時、裕秋の体は母親に抱きしめられた。紗奈の体と違って大きくて、暖かくて。好きな匂いがする。


「裕秋。全部、思い出した?」


「……っ。まさか、知ってたのか?」


 裕秋の背中に紗奈の手が触れた。


「おばさんは、私とアキの関係を知っていた」


 紗奈と肌を重ねた過去。それは紗奈に無理やり迫られたモノだと裕秋は思い込んでいた。しかし、真実は自分の方から紗奈の体を求めていた。


「どうして、あの時。止めてくれないった」


「だって。私が怒られちゃうから」


 この母親は本当にどうしようもない。


「アキ。私は過去の責任をアキに求めるつもりはない。だけど、その勘違いで誰かを責める態度だけは気に入らない」


「紗奈……なんで初めに言わなかった?」


「おばさんに口止めされてたから」


 何故、母親は過去を閉ざしたのか。母親は確かに身勝手なところはある。けれども、この過去を知ることで、自分の人生が大きく歪んでしまうとしたら。


「俺の為に……黙ってたのか?」


 最悪だ。母親も紗奈も、自分の為にやってくれていた。なのに身勝手に紗奈を責めて、拒絶してしまった。


 死。頭の中に浮かんだ一つの選択。


 馬鹿な自分を一秒でも早く殺したい。だというに母親はそれを許さないのだろう。力強く抱きしめられて逃げ出せない。


「離せ」


「おばさん。離さないでください」


「今すぐ離せッ!」


 母親の体に牙を立てると腕が離れた。その隙に逃げ出した。


 リビングから廊下に飛び出すと、そのまま靴を履こうとする。しかし、焦っているせいで、転びそうになり壁に体をぶつけた。


「アキ。そうやって、逃げた先に何があるの?」


 背後から聞こえてきた紗奈の声。どうやら、もう取り押さえるつもりはないようだ。


「逃げて……何が悪い?」


「それに気づけないなら。アナタは一生孤独よ」


「……大切なモノを壊すくらいなら、孤独でいい」


 玄関の扉を開けて、裕秋は外に逃げ出した。


 柚子ゆず時雨しぐれ。大切な家族から目を背けて。




 何も持たずに家を出たせいで、行く場所も限られてしまう。しかし、偶然にも、知り合いに出会うことになった。


「お兄さん」


 萌絵もえだった。手に小さな袋を持ち、買い物の帰りだろうか。


「理沙は……家に居るか?」


「いると思いますよ」


 理沙りさとも話さないといけない。理沙が紗奈の事情を知らないわけがない。それを確かめる為に理沙の家に行くことにした。


 萌絵と一緒に理沙の家に向かう。今まで一度も理沙の家には行ったことはなかったが、それほど緊張しているわけじゃない。


「理沙お姉ちゃん」


 理沙の家に着いた時、玄関で萌絵が理沙を呼んだが。理沙が姿を現すことはなかった。


「私の部屋で待っていてください」


 萌絵に案内され、萌絵の部屋で理沙を待つことにした。柚子の部屋とよく似ているが、部屋の匂いだけはまったく違っていた。


 適当に床に座り、ケータイ。と裕秋は自分が何も持っていないことを思い出す。仕方なく、部屋の中を眺めていたが、萌絵が近づいてくる。


「お兄さん」


 萌絵が隣に座った時、裕秋は気づいてしまった。


 鼻を通り抜ける強烈な匂い。この匂いは、柚子ゆず時雨しぐれと同じ匂い。理性を簡単に狂わせる、裕秋にとっての猛毒だった。


「嘘だ……俺は……」


 精神的にも弱っていたせいで、裕秋は自分を抑えることが出来なかった。体が動き、萌絵を地面に押さえつけた。


 この衝動は理沙や紗奈に抱くことの出来なかった感覚。それを今、裕秋は萌絵に向けている。


「お兄さん……?」


 柚子に対する愛は偽物。


 時雨に対する愛は本物。


 そう信じてきた裕秋の理性は既に壊れていた。


 心に抱いた欲望は幼き魂を喰らう醜いモノ。そこに愛なんて都合のいい感情はなく、ただ欲望に支配されていただけ。


 結局、相手は誰でもよかった。


「お前達は、甘ったるい匂いがするんだよ」


 萌絵の首筋に顔を近づける。


「お兄さん。ダメですよ……」


 弱々しい体が抵抗をするが、萌絵の力では押し返すことは出来ない。このまま、後戻りが出来ないところまで行ってしまう。


 その欲望に呑まれたせいで、裕秋は背後から近づいてくる人物に気づけなかった。後ろから伸びてきた腕が首を掴んでくる。


「裕秋くん。ダメだよ」


「理沙……」


 この状況で恐ろしいくらい理沙の声は冷静だった。


「萌絵。裕秋くんと二人にしてくれない?」


「でも、お兄さんは……」


「裕秋くんの苦しみは、萌絵には早すぎる」


 萌絵は理沙の言われた通りに部屋を出て行った。萌絵が部屋を出て二人きりになった時、理沙が体から離れた。


「理沙……俺は……」


「全部知ってた」


「やっぱり、そうなのか……」


 理沙という人間の立場。誰よりも見たくないモノが見えていたはずだ、それなのに、理沙は最後まで真実を口をしなかった。


「私は……裕秋くんのことが大嫌い」


「……っ」


「裕秋くんは、私の大切な人を傷つけた」


 それは紗奈のことなのか。理沙は本当に紗奈のことを大切に思っているのだと、あらためて知ることになった。


「だから、私は裕秋くんを困らせたかった。復讐なんて強い気持ちは抱けなかったけど、何も背負わず生きてる裕秋くんが憎かった」


 紗奈の怒り、理沙の憎しみ。


 どちらも自分が原因だと裕秋は気づいた。


「なのに、紗奈は私に言った。裕秋くんが困っていたら助けてほしいって」


「どうして、紗奈は俺のことを……」


「紗奈は同じことしか口にしない」


「同じこと……?」


 最初の被害者。紗奈は何を考えているのか。きっと、理沙は知っているのだろう。だからこそ身構えてしまう。


「アキのことが好きだから」


 理沙の口から告げられた紗奈の言葉。嘘には聞こえなかったのに、それが真実の言葉だと裕秋は信じることが出来なかった。


「でも、アイツはずっと俺に会いに来なかった。俺のことよりも、父親の言いつけを守る方が大事なんだろ、アイツは!」


「裕秋くん……」


 理沙の表情は悲しみに満ちていた。


「紗奈のお父さんは亡くなったんだよ」


 亡くなった。どうして、死んだのか。


「あ……」


 忘れていた記憶。昔、父親が紗奈を預かった時に口にした言葉があったはずだ。それは紗奈の父親が体調を崩し、しばらく入院することになったという話だった。


 もし、そこから悪化して亡くなったのなら。紗奈を縛るものが無くなり、今になって姿を現した理由にも繋がってくる。


「紗奈には裕秋くんのことを気にする余裕なんてなかった。どんな父親だっとしても、弱っていく姿を見れば、子供が平気でいられるわけがない」


「そんなの俺は聞いてない……」


「言いたくなかったんだと思うよ。紗奈って怒りっぽいから、裕秋くんに責められたから余計に」


 過去の記憶を間違え、すべての責任を紗奈に押し付けてしまった。なのに、紗奈はずっと。


「理沙……」


「どうしたの?」


「俺を殺してくれ」


 その言葉を裕秋が口にした時、頬に強烈な衝撃を受けた。


「そんなの絶対に許さない。裕秋くん一人だけで逃げるなんてズルい」


「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」


 裕秋は理沙の肩を掴んで強く揺らした。


「逃げないで、紗奈と向き合って」


「紗奈だって、俺を恨んでるんだろ」


「それは裕秋くんが過去を認めないからだよ」


「認めたところで、今は何も変わらない」


 柚子。時雨。萌絵。それぞれに向けられた自らの欲望。愛情すら抜け落ちた醜い欲望を、消し去ることが出来ないのなら。


 完全に消滅させるしかない。


「裕秋くん。萌絵のことなら……」


「そうじゃない。俺は……」


 理沙の知らない多くの罪を背負っている。


「俺は柚子と時雨にも手を出した」


 これは自分の罪を他人と共有しただけ。救われたいわけじゃない。ただ、理沙が少しでも裁いてくれる可能性があるなら、それでもよかったからだ。


 理沙の体が動き、裕秋の体を抱きしめる。


「そっか。裕秋くんも苦しんでたんだね」


「やめてくれ……」


 母親のように優しい言葉を向ける理沙。本当は罵倒され、拒絶を求めていたのに。理沙の優しさに溺れそうになる。


 しかし、涙は出なかった。ここで涙を流すのは最低で最悪な人間だ。理沙の温もりは自分にはもったいない。


「裕秋くん。私にいい考えがあるんだけど」


「いい考え……?」


「裕秋の抱えている悩みを全部、解決する方法」


 そんな方法があるなら、とっくにやっている。


「裕秋くん。紗奈に会って。そして……」


 すべての問題を解決する方法。


 それは自分が何を犠牲するか。


 誰か一人を選ぶ時が来た。

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