16-九月二日(金)

「──ごぼッ!」

 遡行した瞬間、佐藤うずらの鳩尾に前蹴りを入れていた。


 ──ドンッ!


 佐藤うずらの矮躯が吹き飛び、背後の書棚を揺らす。何冊かの本が降り注ぎ、横たわった佐藤うずらの体に積もる。

「ごほッ! ──けほ、げェホッ!」

「ああ、ごめん。タイム・タイムの目盛りって、微調整が難しいね」

 コンパウンド・クロスボウから矢を取り外しながら、佐藤うずらに謝る。攻撃を仕掛ける寸前に目盛りを調節したつもりだった。

 習熟が必要である。

「──うずらッ!」

 書棚の上から人間が降ってくる。佐藤露草だ。

 佐藤露草は佐藤うずらの元へと駆け寄り、こちらを睨みつけた。

「くたじま! アンタ──」

 コンパウンド・クロスボウを放り捨て、両手を挙げる。

 九丹島ミナトに敵意はない。


「──くふっ」


 佐藤露草との均衡状態のなか、笑い声が響いた。

 佐藤うずらだ。

「ふふ、くふふ──あは、はハははッ!  くふ、ひゃハははははッ!」

「う、ずら……?」

「くふ、く、くたじまさん! うずらを、こ、殺しましたね? くくッ、ふふふ」

 佐藤うずらが笑いをこらえながら口を開く。

「ああ、殺した。ごめんね」

「いいですいいです! だって、うずらが悪いんですから! 危険を排除するのも、人助けのうちですもの! でも、このくたじまさんは嘘をつけますからね。ちゃんと原則にのっとって、お願いしておきます」

 佐藤うずらが満面の笑みを浮かべ、言った。

「くたじまさん、お願いします。命だけは〈助けて〉ください」

「ハハ、もちろん」


 原則一「人を助けること」


「アンタたち──なに、言ってんの? なんで笑ってられるの?」

 佐藤露草が自分の肩を抱きながら言った。

「うずら……アンタ殺されたのよ? くたじま、アンタは殺したのよ! わ、わけわかんない。その砂時計のせいで、ふたりとも狂っちゃったの?」

「おねえちゃん、違うんですよ」

「なにが違うのよッ!」

「だって、うずらは殺されてませんもの。ほら、生きてますよ? くたじまさんも、おねえちゃんに言ってあげてください」

「ああ。僕はうずらを殺してないよ」

 佐藤露草は両手で頭を押さえ、目を白黒とさせた。

「なに──言ってんの……」

「うずらも、誰も殺してないです。誰も傷つけてない。だから、くたじまさんの原則二にも抵触しない。ね、くたじまさん?」


 原則二「人を傷つけた者に、報いを与えること」


「ああ。だって、全部なかったことになったからね」

「──……あ」

 佐藤露草が膝をついた。

 佐藤うずらが笑う。

「あはは! ごめんね、おねえちゃん。おねえちゃんにもわかるように説明するね? うずらは、くたじまさんに会いたかったんです。前までのくたじまさんじゃなくて、このくたじまさんに。想定外だった昨日の襲撃事件で、うずらは偶然、このくたじまさんの存在を知りました。日付で言えば昨日ですけど、主観的にはもう何百時間も前です。それからうずらは、タイム・タイムを駆使して、くたじまさんの過去を徹底的に調べ上げました」

 佐藤うずらはタイム・タイムを駆使してと言った。当時の担当医とてそう簡単に患者の個人情報は漏らさないはずだ。脅迫して話を聞き、その事実をなかったことにしたのだと推測する。

 ならば、その回数分の蛇腹状の時間が記憶にあるはずだが、該当するものはない。

 一定以上の距離を取ると、記憶に反映されない可能性がある。

 更なる調査が必要である。

「おねえちゃんも、何回も会ってますよね? くたじまさんは、あんこさんと狸小路さんが目の前で亡くなると、このくたじまさんになるのです。あ、いつまでも、このくたじまさん──なんて呼び方じゃわかりにくいですよね。当時の担当医が使っていた仮称がありますので、そう呼んでもいいですか?」

 佐藤うずらは九丹島ミナトを挑戦的な目つきでねめ上げた。

「──キューブさん」

「ハハ、懐かしいね。いいとも」

「ちょっと待って! それじゃくたじまは、た……に? にじゅうじんかく──ってこと?」

 佐藤露草が問う。

 首を振り、答えた。

「違うよ。僕──というより、九丹島ミナトという自我に、そんなノイズが入り込む余地はない。多重人格。精神疾患。ストレス障害。すべて受け付けない。後天的に組み上げられた自我は、人間としては破格に頑強なんだ。僕はずっと、このままだったんだよ」

「嘘だ! アンタはくたじまじゃない! 絶対に……違うッ!」

「違わないよ。喋るぬいぐるみがあるよね? あの可愛らしい外見が、露草の知っている九丹島ミナト。なかに入っている機械が、僕ことキューブだ。なに、一皮剥いだだけさ。本質はなにも変わらない。まさか露草は、事故でうずらの顔が二目と見られないようになったら、こんなのは自分の妹じゃない! ──なんて言ってしまう人じゃないよね?」

「言わない! 言わない……けど……」

 佐藤露草が、今にも涙を流しそうな表情を浮かべる。

「アンタの過去に……なにがあったの……」

「なにもないのですよ」

 佐藤うずらが答えた。

 異論はない。そのまま静観する。

「なにもないわけ、ないじゃない……っ! こんなの、人間じゃない!」

「言い得て妙、です。たしかにキューブさんは、人間とは呼べません。でも、くたじまさんの過去に、なにもないのも本当なんです。本当に白紙なんですよ。だって──」

 佐藤うずらが弾んだ声で言った。

「くたじまさんは、十歳まで植物人間だったんですから!」

 事実だ。静観する。

「しょくぶつ……にんげん……?」

 佐藤露草は理解しきれていない様子だった。

「俗に言う、脳死状態ですね。ただの寝たきりじゃないのです。生まれてからずっと意識不明だった──とでも捉えてもらえればいいかな。だから、くたじまさんは、実質的にはまだ七歳と言えますね」

「う──そ……」

「ここから先は、当時の担当医の話から引用します。くたじまさんが目を覚ますためには、ふたつのものが足りませんでした。健康的な脳と、自我です。自我がなければ、既に寝たきりという環境に適応してしまっている体は、それを維持するほかない。けれど、植物状態では、自我なんて芽生えるはずがないのです」

 佐藤うずらはゆっくりと立ち上がった。

 そして落ち着きのない教師のように、書棚のあいだの狭い空間を歩き回る。

「そもそも、自我とはなんでしょう。ここではフロイトあたりの話は置いておき、簡単なたとえで説明するのです。無限の広がりを持つ真っ白な空間に、積み木をひとつずつ落としていく。この積み木を経験とします。幼少時にこの積み木が、たまたまふたつやみっつ重なることがあって、それが才能と呼ばれるものの原型となります。成長するにつれ、積み木はだんだんと小さくなって行きますが、意図的に積み上げることができるようになります。このマップを自我としましょう」

 佐藤露草はおとなしく佐藤うずらの話を聞いている。

「実のところ、くたじまさんにも、この積み木にあたるものがありました。反応こそないものの、言葉は届いていたのです。ですが、基盤となる地面がなかった。積み木は積みあがることもできず、ただふわふわと浮いているだけでした」

「──それで、どうなったの?」

「わかりません」

「わからないってなによ……」

「本当に、わからないのです。うずらも知りたいですよ。ずっと、キューブさんに聞いてみたいと思っていたんです。積み木は、積み上がりませんでした。けれど、組み上がったのです。組み上がって──たぶん、巨大な立方体になった。それはもはや、自我と呼べるものではありません。システムです。人工物です。機械です。でも、誰が組み上げたんですか? くたじまさんに自我はなかった。そもそも、自然に積み上がるための基盤がなかったんです。キューブさんを組み上げたのがキューブさんだなんて、そんな馬鹿な話はない。なら──」

 佐藤うずらが、こちらを指差した。

「あなたは、どこから来たのですか?」

 肩をすくめて答えた。

「さあ?」

 わからないことには、答えようがない。

「……はー。ま、予想の範疇です。両親のいない子供に、どうやって生まれたのかを尋ねるようなものですしね。とりあえず、続けます」

 佐藤うずらは肩を落としたまま言葉を継いだ。

「組み上げられた立方体──つまり、キューブさんですね。キューブさんの根幹には、みっつの原則が埋め込まれていました。それは、九丹島家に伝わる家訓のようなものです。寝たきりだったくたじまさんに十年間も話しかけ続けていた、くたじまさんのおとうさんの影響でしょうね。内容はそれぞれ、


 原則一「人を助けること」

 原則二「人を傷つけた者に、報いを与えること」

 原則三「自らの正しさを、常に疑うこと」


 と、なっています。くたじまさん、並びにキューブさんは、原則的にこのみっつを破ることができません。ロボット三原則みたいなものですね」

 佐藤露草が、唐突に激昂する。

「なに、それ。なにそれ! なによ、それッ! ふざけんじゃないわよ! ホントに機械だっていうの? ロボットだって言うわけ!?」

「ああ、そうだよ」

「──ッ!」

「僕は機械だ。もう、人間は捨てたからね」

 佐藤露草が九丹島ミナトの襟元を掴む。

「なんで──なんで捨てたのッ! くたじまを返してよ! くたじまは、人間だったじゃない……なんで機械になるの……人間を、捨てたなんて言うの……」

「だって、人間じゃ誰も助けられなかったじゃないか」

 襟を掴んでいた腕が落ちた。

「あんこは十四回、お嬢は六回死んだ。助けられなかった。制約が大き過ぎたんだ。ハハハ、笑い話だね。これで〈人を助ける人間〉というんだから、聞いて呆れるだろう? だから僕は、〈人を助ける機械〉に戻ったんだ。タイム・タイムがあってよかったよ。いくらでも取り返しがつくから──」

 佐藤露草が、袖を引っ張った。

「だめ……だめだよ、くたじま。そんなの……違う。そんなの、哀しすぎる……」

 ぽたりと足元に水滴が落ちた。

「キューブさん。ここからがよくわからないんです。うずらも制約のことは聞いているのですけど。どうして、人間──くたじまさんという仮想人格、みたいなものが出来上がったんですか?」

 回答可能な質問だ。

「ハハ、簡単だよ。原則三に抵触したんだ。キューブは常に自らを疑っている。周囲に対してあまりに人間的でない自分に疑念を抱いたんだ。だって僕は、ひとりでなんでもできたからね。他人を必要としなかった。利用はしても、協力はしなかった。そこで、理想の人間像を作り上げたんだ」

 一冊の絵本を想起する。

「人間像の規定には、母親が描いた絵本を用いた。母親には会ったことがないけど、絵本作家であることは知っていたし、作品も何冊かあったからね。


 制約1「約束を破ってはならない」

 制約2「嘘をついてはならない」

 制約3「平等でなければならない」


 この制約を設定することで、僕はただの機械から、自分のことを人間だと思い込む機械になった。人間の皮をかぶったんだね。失敗だったのは、設定当時はまだ稼動から二年と経っておらず、あまりに経験が不足していたことだ。

 だって、

 人間は約束を破るし、

 人間は嘘をつくし、

 人間は平等じゃない。

 この制約を守ることで、僕はどんどん人間味を失っていった。制約のない今のほうが、むしろ人間らしいんじゃないかな? そもそもこの制約自体、ただ自動的に守っていたようなものだしね。実際、何人か見破った人もいたもの。それでいて優先順位は原則と同じレベル、かつ九丹島ミナトの権限では自由に解除できないのだから、今回の一件についてはむしろ感謝しなければならないくらいだ。ありがとう、うずら。あと、ごめんね露草。今まで騙していて」

「──…………」

 佐藤露草が奥歯を噛み締める。

「好きも、

 嫌いも、

 得意も、

 苦手も、

 趣味も、

 興味も、

 全部自分で決めたんだ。

 すべて設定、まがいものさ。

 僕は本来、ひとりでなんだってできる、フラットな存在だからね」

 佐藤露草が両手で顔を押さえ、悔しげに呟く。

「あのふたりに、なんて言えば……」

「ああ、あんことお嬢のことかい?」

「アンタ、知って──」

「ハハ、そりゃあ気づくさ。あんこはそもそも隠す気がないし、お嬢は僕が鈍感だってことでかなり油断しているからね。実のところ、制約3がかなり厄介でさ。僕へ好意を持ってくれれば、同じだけの好意を返さなければいけないのに、平等だから特別な関係には決して至れなかったんだ。その矛盾から導き出した結論が、気づかないふり。無理に近づこうとすれば攻撃とみなして実力行使だもの。ハハハ、我ながら滑稽だね。まあ、今後はそういうこともないから安心して──」

「うあ、ア、らぁアアアああアッ!」


 ──ゴンッ! ゴン、ゴンッ!


 佐藤露草が、壁側の書棚に思いきり頭をぶつけた。

 何度も、何度も。

「露草、やめなよ!」

 佐藤露草の両肩を抱き、自傷行為を止める。

「──くたじま。アンタ、本当に、機械……なのね」

 佐藤露草の額から、血液が滴っている。

 九丹島ミナトは答えた。

「ああ、そうとも」

 佐藤露草が、九丹島ミナトから一歩距離を取った。

「ええ、そうですよおねえちゃん。キューブさんには、こころがないんです。ようやく──ようやく、見つけた。出会えたんです! タイム・タイムを託せるひとに! タイム・タイムを使いこなせる人形に!」

 佐藤うずらは両腕を大きく広げ、喜びを表現した。

「うずらはずっと、仲間を探していたんです。タイム・タイムの使用者は、本質的に孤独です。移動できる次元をひとつ増やし、四次元存在となったうずらたちが、孤独でないわけがない! けれど、タイム・タイムには呪いがかけられている。捨てられないのです! 壊せないのです! 使わざるを得ないのです! 無限に使えるラストエリクサーを捨てる馬鹿がどこにいます? いませんよお! 農夫が黄金の卵を産むガチョウを殺したのは、そうしないと物語が終わらないからに過ぎません! こぼしたミルクが元に戻るんです! 潰れた内臓だって元通りです! だって、死んだうずらさえこうして生き返ったんですから! けれど、こころは擦り切れていく。おねえちゃんでは駄目でした。たかだか二回使っただけでこころが折れて、数十回のタイムリライトの果てに、もう壊れかけていますからね! だからうずらは、こころのないキューブさんを呼び出したんです! 自動的なあなたなら! 機械的なあなたなら! きっとうずらと──ごフッ!」

 佐藤露草が、佐藤うずらの脇腹に拳を埋め込んだ。

 あまりに唐突な行動で、止められなかった。

「ごめん、うずら。くたじま──キューブ? いや、くたじまって呼ぶわ。アタシはこれから、アンタを機械だと思うことにする。道具だと思うことにする。だから……だから、アタシが壊れる前に──」

 佐藤露草は輝きの失せた瞳で九丹島ミナトを見つめた。

「アタシを助けて。うずらを、助けて」


 原則一「人を助けること」


 佐藤うずらの言葉通り、佐藤露草の自我は崩れかけている。表情もどこか鈍い。

 その傾向はこれまでも散見されていた。

 取り繕う必要が無くなったのだと推測できる。

「ああ、もちろん」

 意思を示すため、しっかりと頷いてみせた。

 そして、佐藤露草の頭頂部を、手刀で軽く叩いた。

「──たっ! なにすんのよ!」

「人を傷つけた者に、報いを与えること」

「あっ……」

 制約が解除され、平等である必然性がなくなった。

 現在の九丹島ミナトであれば、このように「報い」の調節も可能である。

 佐藤露草は納得したように言葉を続けた。

「アタシは説明、あんまうまくないから、勝手に理解して。アタシは、二回──この砂時計の使用者になってるの」

 言葉足らず過ぎて、推論すら立てられない。

「二回、使用者になっている?」

「あーもーっ! だから、一回記憶が消えたの! んで、二回目に使ったときに思い出したの! わかれ、ポンコツ!」

 佐藤露草は二度、タイム・タイムの使用者になっている。それは一度目に使用者となったときの記憶が消えたからである。

「記憶が消える条件は?」

「じょうけん? あ、条件! えー……っと、たぶん、うずらが砂時計使って、もっと前にもどったのよ。もっと前っていうのは、その……一回目に使用者になったときの前……ってこと?」

 条件を特定した。

「つまり、お嬢が十二時にタイム・タイムを使って、十一時まで戻ったとしようか。十一時の時点でお嬢は使用者として登録され、蛇腹状の時間の記憶を思い出す。けれど僕が、タイム・タイムを使って十時まで跳躍すると、使用者となった事実すら消える。そしてお嬢が再びタイム・タイムを使うと、忘れたという事実ごと思い出す」

「そう! そーゆーことよ! だから──」

 佐藤露草の目的を理解する。

「七月二十三日まで遡行できれば、うずらの記憶を消すことができる。なるほどね」

「……頼める、かな。その砂時計のこと、みんなくたじまに押しつけちゃうけど」

「構わないよ。だって、うずらは正しい。僕なら機械的に、そして効果的に、タイム・タイムを扱える。今までとは比較にならないくらい、人を助けることもできるだろうね」

 佐藤露草が明後日の方向を向き、呟くように口を開く。

「……くたじま。アンタ──自分か、見知らぬ他人か、どっちかひとりの命しか助けられないとしたら……どうする?」

 思案するまでもない質問だ。

「ハハ、自殺するに決まってるじゃない」

「……そか。ウソじゃ、ないよね?」

「ああ。意味のない嘘はつかない」

「わかった。……ホントに、機械で、くたじまのまま──なんだね」

「ああ。そうだ──」

「──ッ!」

 会話の隙を突いて、佐藤うずらが駆け出した。

 タイム・タイムを持ったまま。

 ピアノ線トラップの仕掛けられている書棚のあいだを抜け──

「うずらッ!」

 仕掛けた当人であれば、どこにピアノ線が張られているか熟知しているのは当然だ。

 トラップは起動しないまま、佐藤うずらは書棚をすり抜ける。

「くたじま! 上から──」

「必要ないよ」

 リミッター解除。

 主観時間が限りなく引き延ばされる。

 床を蹴り、一瞬で最高速度に至る。

 既に一度すべてのトラップを起動させている。

 そして、佐藤うずらがどこを見て、どこを避け、走り抜けたのかを観察した。

 視界に仮想の白線を引く。

 佐藤うずらの通ったルートには、三箇所のピアノ線トラップが仕掛けられている。この白線はそれぞれ、記憶と観察によって弾き出したピアノ線の位置である。予測される誤差は±五センチ。これは仮想線に太さを持たせることで解決した。

 まずは一本目。

 約四十センチの高さに張られたピアノ線を、一歩目で跳び越える。

 二本目。

 高さ約百五十センチ。佐藤うずらは回避行動すら取らなかったが、九丹島ミナトの顔面に引っ掛かった記憶がある。頭部を低くし、くぐり抜ける。

 三本目。

 高さ約一メートル。佐藤うずらは慎重な素振りで下を通ったが、この高さならば前宙をしたほうが早い。二歩目で踏み切る。

 視界が回転し、安全地帯へとかかとから着地する。

 佐藤うずらが図書室の扉を開き、外へと出たのを確認する。

 三歩目。

 右脚の筋力を最大値の約五十パーセントまで引き上げ、爪先で踏み切る。両脚を抱え込み、四台の長机を対角線状に飛び越える。

 佐藤露草の叫び声。

 変換処理を施す。

『図書し──』

 図書室の扉の前に着地する。

 眼前で扉が閉められて行く。

『つのそ──』

 それを左手で止め、それ以上の力を篭めて開く。

 右目の視野を、焦点が合わないために正体不明の物体が埋め尽くす。

『とに──』

 扉が開き切る。

 佐藤うずらの笑顔。

 伸ばされた腕。

 クロスボウと推測される正体不明の物体を払い除けるために右腕を上げ、

 発射音。

『ボ──』

 佐藤うずらが左手に持っていたタイム・タイムを奪い取る。

 目的は達成された。

 リミッター設定。

 主観時間が元に戻る。

「──ウガンが置いてあったから気をつけなさいよッ! て、はや!」

 矢は、クロスボウを払い除けるために上げた右手で掴み取った。

 矢尻と眼球との距離、数ミリメートル。

「くふっ。夏侯惇みたいに眼球ごと引っこ抜くところ、見れるかと思ったんですけど」

「ハハ、矢尻に返しがないもの。刺さってもうまく行かなかったんじゃないかな」

「そのまま食べてって言ったら、キューブさんならしてくれそうですよね」

「食べるのは別にいいけど、眼球を引っこ抜くほうはちょっとね。視神経が脳まで繋がってるから、どんな障害が起こるかわからない。さすがに勘弁願いたいかな」

「くすっ、しかたない、です」

 矢を捨て、タイム・タイムを両手で持つ。

 そして目盛りを最大の二十四時間に合わせた。

「ね、キューブさん。気づいてますよね?」

「なににだい?」

「昨日に跳んだら、タイム・タイムはまた、うずらの手元に戻るのですよ」

「ああ、もちろん」

「戻った先でうずらからタイム・タイムを奪い取れても、同じことです。今日は九月二日ですので、七月二十三日まで最短でも四十一回の跳躍が必要です」

「そうなるね」

「そして、そのうちうずらが一度でもタイム・タイムを使えば、キューブさんの記憶は消えます。元のくたじまさんに戻ってしまいます」

「困ったね」

「無理ゲーなのです。それでも、挑みますか?」

「ああ、露草に頼まれてしまったからね」

「原則一、人を助けること──ですか?」

「ああ。露草も、うずらも、助けなければならない」

 佐藤うずらが笑みを消す。

「──なら、勝負しませんか?」

「勝負?」

「ええ。うずらは、せっかく呼び出したキューブさんを消したくはないのです。だから、互いに勝利条件を設定しましょう」

「へえ、面白いね」

「キューブさんは、単純にうずらの記憶を消すことができれば勝ちです。タイム・タイムを手に入れて、人を助けるなり、億万長者になるなり、御自由にどうぞ、です」

「ああ」

「うずらは逆に、キューブさんを狙います。殺してしまってはキューブさんが消えてしまうので、怪我を負わせたら勝ち。これでどうでしょう」

「異論はないよ。むしろ、勝ちの目が見えてありがたいくらいだ」

「うずらが勝ったら──言うことを、なんでもひとつだけ聞いてください。それくらいはしてくれてもいいですよね?」

「ああ、いいとも」

「それでは、うずらからは以上なのです」

 過去改竄に準備は要らない。

 あとは右手に持ったタイム・タイムを引っ繰り返すだけでいい。

「では、早速始めよう。まずは九月一日へ」

「はい。キューブさん、うずらは負けませんよ。──絶対に」

「ああ、頑張れ」

 右手首を返す。




▼ Continued...

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