14-九月二日(金)

「──あれ?」

 作業を始めて一時間が過ぎたころ、狭い図書室の最奥、科学関連の書棚で、見覚えのあるタイトルの本を見つけた。

「タイムマシンは、作れますか……」

 タイムマシンに関連する本は、この図書室には存在しないのではなかったか。

 以前は見つけることができなかったし、図書委員もそう──

「──違う。それを言ったのは、うずらだ」

 うずらが嘘をついていた?

 何故だ。

 俺に、タイムマシンについて知ってほしくなかったから?

 いや、早まるな。

 単にどちらかが見落としただけかもしれない。

 動悸を抑えきれぬまま、〈タイムマシンは作れますか?〉を手に取る。

 そして、裏表紙を開き、図書カードを抜き出した。


 帯出者氏名:佐藤うずら


 名前が、あった。

 ポケットから手紙を取り出し、見比べる。

 比較するまでもない。


〈ず〉


 くるりと回すところに「○」を用いた、特徴的な丸文字。

 間違いない。

「佐藤うずらは──、つッ!」

 脇腹に痛みが走った。

 いったいなんだ、と思う間もなく──


「がッア、あァああアァあァあああ────ッ!」


 全身を引き千切られるような衝撃が俺を襲った。

 視界がちかちかと点滅して、いつの間にか書棚が床になっていた。

 四肢が弛緩して、力が入らない。

 口角からよだれが垂れている。

 そのことだけ、不思議と認識できていた。


 足音。


 そして、首筋に、虫に刺されたような痛み。


 俺の意識は


 徐々に




 遠く──




 再起動リブート




「……──う」

 ゆっくりと目を開いた。

 焦点が定まらない。

 しかし、周囲が闇に没していることはわかった。

 何が起きたのだろう?

 ぐるぐると回る思考を総動員して、事態の把握に努める。

 スタンガンで無力化したあと、麻酔を打たれたのだろうか。

 すこし首を動かすと、窓から夜空が見えた。

 少なくとも二、三時間は昏睡していたらしい。

 一般的によく間違われることだが、スタンガン程度の電流では、人間は気絶しない。

 ドラマに出てくるクロロホルムのような、都合のいい吸入麻酔薬も存在しない。

 なんらかの麻酔を静脈に注射された──そう考えるのが妥当だ。

 しかし、スタンガンを使ったのだとすれば、おかしな点がある。

 有効射程の問題だ。

 人気のない図書室で、俺に気づかれることなく、手の届く距離まで忍び寄る。

 俺が、うずらの名前を見つけて興奮していたことを差し引いても、不可能だ。

 もし射程距離の長いスタンガンがあったとすれば──

「──テーザー、銃……だ」

 テーザー銃。

 トゲ状の電極を発射して対象に突き刺し、電流を流すスタンガンの一種。

 有効射程は約十メートル。

 けれど、日本では銃刀法違反に抵触するため、輸入も不可能なはず。

 いや、いまさら何を戸惑うことがある?

 過去改竄に比べれば、随分と常識的じゃないか。


「くたじま──さん? 目がさめた、ですか?」


 思いがけない声に、咄嗟に体を起こした。

 麻酔の効果は切れているようだ。

「うず、ら? 佐藤うずらか?」

「は、はい……。佐藤うずら、なのです」

 声のするほうへと視線を向けると、窓とは反対側に小さな影を見つけた。

 それが、体育座りをしたうずらだと認識するまで、数秒ほど目を慣らす必要があった。

 同時に、気づく。

「ここは、図書室か?」

 圧迫するように聳え立っている壁は、書棚だった。

「はい。図書室、みたいです」

「なら犯人は、俺を気絶させたあと、どこへ運ぶでもなく、殺すでもなく、ただ放置しただけだと? 何故だ。動機がわからない」

「う、うずらに聞かれてもわからない、ですよ!」

「あ──いや、すまない。独り言を呟く悪癖があってな。なかなか直らないんだ」

 そう言い訳したあと、この状況が好機であることに、ようやく気がついた。

 うずらに尋ねたいことなど、いくらでもあるのだから。

 かと言って、思いつくままに質問を重ねるのも、いささか道義に反する。

 まずは状況を把握すべきだ。

「うずら。お前は何故、ここにいる? 経緯を知りたい」

 右手と左手の指先を互いにくっつけ合いながら、うずらがぼんやりと答えた。

「──覚えて、ないんです」

「覚えていない?」

「はい。朝おきて、ごはんたべて、歯をみがいて、支度して、外にでました。そこから記憶がぶつん、なんです。気づいたらここで横になってました。うずらが起きたのも、くたじまさんが目をさます、十分くらい前なんですよ」

「では、うずらは犯人を見ていない?」

「──…………」

「うずら?」

「は、はい! うずらは、なにも知らない、です!」

 知らないと言うものを、これ以上追求しても仕方がない。質問を変えよう。

「うずらは──その、過去改竄者……なのか?」

 核心を突いた。

 いずれ尋ねなければならないことだ。

「かこかいざんしゃ、ですか?」

 うずらが小首をかしげる。

 今までの推測は間違っていたのか?

 いや、まだわからない。

「過去改竄。時間遡行。タイムリライト──は、星羅の造語か。ともかく、呼び方はいくつもあるが、本質はひとつだ。意識でも、体ごとでも、過去へ戻ることが可能なのか?」

「──っ!」

 うずらが、息を呑んだ。

「どうして、くたじまさんが──」

 うずらの視線が、いつも着けているポシェットへと向かうのを、俺は見逃さなかった。

「友人と、推論に推論を重ねた結果だ。幾度に渡って俺に命の危機を知らせてくれた手紙と、うずらの筆跡とが一致することも確認している」

「そう、ですか……。すごいのですね、くたじまさん。さすがです。こんな、とってもおかしなことを、導き出してくれて、信じて……くれ、て……っ!」

 うずらが目元を拭う。

「何故、黙っていた?」

「こんな、こと──こんなこと、信じてくれるひとがいるなんて、思わなかった、から……ぜったい馬鹿にされるって、思ってた──からっ!」

 俺は、うずらの隣に腰を下ろすと、彼女の頭に手を乗せた。

 すこし乱暴に撫でる。

「──ありがとう、うずら。俺たちは、お前に助けられた」

「くだじまざんッ!」

 うずらが俺の胸に顔をうずめて、感極まったように泣き始めた。



「落ち着いたか?」

「は、はい……。なんだか、こっぱずかしいところをお見せしてしまった、です」

 うずらは俺からすこし距離を取っていた。気恥ずかしいようだ。

「──あらためて、くたじまさんの質問にお答えします」

 うずらが、自分の胸に手を当てて、告げる。

「くたじまさんや皆さんに手紙を出したのは、うずらです。うずらが、リライターです」

 驚きはなかった。

 やはりそうだったか、という諦観だけが、俺のなかにある。

「うずらは、時間をまきもどることができるんです。たぶん、まきもどってるのは、意識だけだと思います。まきもどると、ケガもなくなりますので……」

「まるで、ゲームのコンティニューみたいだな」

「はい。それも、無限に使えるのです。甲羅を踏みすぎたマリオみたいに」

 説明を続けながら、うずらがポシェットに手を入れる。

 その中から出てきたものは、俺の手のひらよりも大きい、金属製の、なにか。

「──……っ」

 それを見た瞬間、全身を怖気が這い回った。

「……? くたじまさん、どうしたのです?」

「あ、いや……それは?」

 改めて観察すると、それはまるで砂時計のように見えた。

 見えた、というのは他でもない。

 正方形をしたふたつのプレートのあいだに、四本の支柱と、禍々しくくびれた円柱が挟まっている。だが、そのすべてが鈍色の金属なのだ。本体部分すら。

 中身の見えない砂時計に、なんの意味がある?

「うずらはこれを、タイム・タイムとよんでいる、です。下のほうに目盛りがあって、これをいじってひっくりかえすと、短いと五分くらいから、長ければ一日くらいまで、時間をまきもどることができます。えへへ……ウソ、みたいな話ですよね」

「どこで手に入れた?」

「あ、はい。あれは──たしか、夏休みの最初なので、七月二十三日だったとおもうのです。うずらは、古道具屋さんとかを見てまわるのも好きなので、その日も──」

「……古道具屋、か」

 らしいと言えば、らしい入手経路だ。

「あ……いえ。その日は、うちの近くのさびれた質流れのお店に行ったんです。そしたら奥のほうに、値札もなく置いてあって──最初は、ただの置物かと思ってた、です。店主さんもそう思ったらしくて、三千円でいいって言ってくれました。ちょっとデザインが気に入ったので、買って帰って、部屋であれこれいじってたら──」

 うずらが喉を鳴らす。

「──気づくと、質屋さんにいたんです!」

「それが最初の時間遡行だった、というわけだな」

「えっ! あ、はい……。あの、おどろくところ、のつもり、だったんですけど」

「時間のリライトが可能なことはわかっているんだ。なにを驚くことがある。日曜日、H大附属図書館にいたのは偶然か?」

「は、はいです! 玄関に車がつっこんで、くたじまさんが下敷きになったって聞いて──ほんとは、直接言えばよかった、ですよね。手紙なんてつかわずに。そしたら、くたじまさんが九回も死ぬことなんて、きっとなかった。こんなことにだって、ならなかったかもしれない。でも、こわかった。うずらは、こわかったんです……」

「怖かった?」

「だって! くたじまさんに、ヘンな子だって思われたくなかった! それどころか、くたじまさんがうずらのことを覚えてさえいなかったら──そう考えたら、からだがすくんでしまって……どうしても、話しかけられなかった、です……」

「──…………」

 ああ、そうか。

 星羅の言葉の意味が、ようやく理解できた。

 乙女心をわかっていないよ。

 確かに、その通りだ。

「うずら。お前のことを忘れていて──」

 すまない。

 そう言おうとしたとき、うずらが身を乗り出した。

 俺の唇に、人差し指が当てられる。

「……あやまらないでください。お願い、です」

 俺が乙女心を理解するのは、遠い未来になりそうだった。

 そっと首を縦に振ると、うずらは立ち上がった。

「あの。ほんとは、もっとはやく言うつもりだったのですけど」

「ああ、どうした?」

「あんまりここで話しこむのも、よくないんじゃ……」

 うずらの言うとおりだった。

 犯人が、どういった意図で、俺たちを図書室で眠らせたのかはわからない。

 殺されていないこと自体が不自然とさえ言えるだろう。

 けれど、俺たちは今、手足を縛られることもなく、自由に動き回ることができる。

 ならば、それを利用しない手はない。

「……そうだな。とりあえず、学校を出よう」

 うずらにそう告げ、腰を上げる。そして、出入口に向かおうと──

「──…………」

 いや、待て。

 俺とうずらを昏睡させた犯人は、ほぼ間違いなく一連の殺人未遂事件と同一犯だ。

 ならば、ピアノ線トラップが仕掛けられている可能性がある。

 書棚と書棚のあいだなど、これほどトラップに適した場所はない。

 本を数冊抜き取るだけでクロスボウを隠すことができる上、室内は夜闇に塗りつぶされている。

 ピアノ線に気づくことのできる道理がない。

 一瞬のうちにそう考えて、踏み出しかけていた足を止めたとき、


「だめ──────ッ!」


 ぐい、と。

 腰に腕が回される感触があった。

「だめ、です! 矢が! 矢がとんできます!」

「矢──?」

「そうです! たぶん、ワナです! 矢がとんできて、くたじまさんに……」

「落ち着け」

 俺は振り返り、うずらの頭に手を乗せた。

「タイム・タイムを使ったのか?」

「は、はい!」

「俺はどうなった?」

「おなかのあたりに矢がささって……とても、苦しそうだった、です……。だからうずらはタイム・タイムを……」

「そうか。ありがとう」

 頭に乗せていた手のひらを動かし、撫でた。

「えへへ……」

 しかし、妙ではないだろうか。

 俺は、ピアノ線トラップが仕掛けられている可能性に気づき、足を止めた──はずだ。

 うずらに止められなくても、罠など踏まなかったのではないか。

「──考えすぎか」

 もしかすると、トラップなど無いと考え直したのかもしれない。

 なかなか歩き出さない俺にうずらが業を煮やし、それをかばったのかもしれない。

 ありえないとは言い切れない。

「なら、警察を呼ぼう。どのみち、このままでは帰ることもできない」

 そう言って、ポケットに手を入れる。

 携帯電話を取り上げられているかもしれない──一瞬そう思ったが、指先にはしっかりとプラスチックケースの感触があった。

「け、警察、ですか!?」

「ああ、らちが明かないからな。携帯を見落としたのか、それすらも見越しているのかはわからないが、今できる行動はこれくらいのものだ」

「ですけど、そんなことしたら犯人を刺激するんじゃ……」

「かと言って、このままいたずらに時間が過ぎるのを待つわけにもいくまい」

 ポケットから携帯を取り出し、ロックを解除する。

 キーパッドを表示させ、一一〇番を──

「……何をする?」

 うずらが俺の携帯を取り上げた。

 そして、おもちゃを守る子供のように、後ろ手に隠してしまう。

「警察は、だめです」

「理由を言え」

「……だめ、なんです。どうしても、警察だけは」

「──…………」

「くたじまさん……お願いします……」

 俺は、溜息をつきながら、前髪を掻き上げた。

 懇願されると断れない。

 うずらにはそれだけのテイクがある。

「……わかった、わかった。警察が駄目でも、俺の友人連中はいいだろ?」

 うずらは、俺の言葉に目をきらきらと光らせて、

「はいっ!」

 と、携帯を両手で差し出した。

 その瞬間、

「ひやあ!」

 うずらが、唐突に震えだした携帯に驚き、放り投げた。

「す、すみま──」

「──ッ」

 こんなことで携帯を壊してもつまらない。

 放物線の頂点でさっと掴み、画面を確認する。


 東尋坊 あんこ


 あんこからの電話だ。ちょうどいい、手間が省けた。

 応答ボタンを押し、耳に当てる。

「あんこか、俺だ。今──」

『ミナトッ! どこにいるの!?』

 思わず携帯から耳を離してしまった。

「あ、ああ。今は学校の」

『やっぱり! ミナト待ってて! いま行くからねッ!』

「おい、聞け! 図書室にいるが、図書室には入るな! ピアノ線トラップが仕掛けられている! できれば他の連中にも知らせて──って、切れてる……」

 既に発信音しか聞こえない。

 呼吸音からして、あんこは走りながら通話をしているようだった。

 あの様子では、掛け直しても、気づくことはないだろう。

「うずら、座ろう」

「は、はい」

「とりあえず、あんこがこちらへ向かっている。あんこだけでは心許ないので、友人連中にもメッセージを送ろうと思う。単独行動は──あんこは手遅れかもしれないが、ともかく単独行動は控え、まとまって動くように。それから、警察には連絡をしないように。内容はこれで構わないか?」

「はい……。すみません、ありがとうございます」

 先程までと同じ位置に腰を据え、携帯の画面を確認する。

 不在着信が十二件。

 いずれも一時間ほど前、俺が昏睡していたときのものだ。

 半分ほどがあんこで、残りが他の面子。

 お嬢からの着信がないのは、大吉が傍にいるためだろう。

 それにしても妙だ。

 俺が校内にいることは、全員が知っていたはず。

 八尺と大吉には、図書室で調べ物をする旨をしっかりと伝えてあった。

 疑問に思いながらもLINEを開き──

「……してやられた。完全に後手だ」

「どうしたんですか?」

「友人連中にメッセージが送られている。送信時刻は、俺たちが昏睡していた時間帯だ。八尺と大吉には、用事ができたからふたりで中央警察署に出頭するように。女子組には、用事が長引きそうなので、報告は明日にするように。それぞれ俺の文章を真似て、すぐにはバレないようにする念の入れようだ」

「あ、あの……よくわからないのですが、それって」

「ああ。犯人は巧妙に、作為的に、計画的に、俺たちを閉じ込めている。恐ろしく用意周到だよ。この様子なら、校内に残っているはずの教師や用務員も、身動きが取れない状態だろう」

 俺たちのように麻酔で眠らされていたり、縛られていたりするのならば、まだいい。

 最悪の場合、殺害されている可能性すらある。

 さすがに口には出さなかったけれど。

「この状況は、犯人の意図したものだ。なんらかの目的のもと、俺たちはここに足止めされている。あっさりとは殺さず、じわじわと追い詰めるつもりなのかもしれない」

「そ、んな……」

 うずらが両手で口元を隠した。

「犯人は、俺たちが憔悴したころ、姿を見せるだろう。致死性の武器を持って、俺たちを殺しに来るだろう。それは避けられない未来だ。けれど──」

 俺は、無造作に放置されていた自分のカバンを手に取った。

 確かな重みがある。

 携帯電話は、あえて俺のポケットに戻したのだろう。

 けれど、これは明確な見落としだ。

「どうやら、犯人の想定していない要素が、このなかに入っているみたいだ」

 カバンを開き、教科書やノートの代わりに入っていたビニール袋を取り出した。

 コンパウンド・クロスボウ MK-250W。

 中央警察署に証拠品として届けるはずだったものだ。

「それって……空き教室にしかけられてたやつ、ですか?」

「ああ、そう──だッ!」

 俺は渾身の力を篭めてクロスボウの弦を引き、矢をセットした。

 いつでも射出できる。

「殺、す──ですか……?」

「トリガーを引けば、二の矢はない。だから、できる限り撃たない。けれど、相手を無力化することに躊躇いはないよ。死ななければ御の字だ」

 星羅を含めた全員に、現在の状況をメールで送信する。

 まずは全員でひとところに集まり、そこから先は星羅に判断を仰ぐように。

 あんこには、先程からずっと電話を掛け続けているのだが、出ない。

「──……はあ」

 あんこへの発信状態を維持したまま、携帯を床に置いた。

 校舎内に入る前に気づくことを祈る。

「あの、くたじまさん」

 先程からタイム・タイムを指先で弄んでいたうずらが、ふと口を開いた。

「これ──使ってみないんですか?」

 これ、とはなんだろうか。

 その答えは、うずらの視線の先を見れば、瞭然だった。

「……何故だ?」

「タイム・タイムを使えば、最大で二十四時間前にもどれます。戻った時点でもタイム・タイムを持っていれば、さらにその二十四時間前へ。いくらでも、もどれます。うずらなら、タイム・タイムを手に入れた七月二十三日まで──」

「だから?」

「せめて、一日前にもどることができれば──くたじまさんなら、おともだちのひとたちなら! どうにだって、できるはずです!」

「ならば、何故うずらはそうしない?」

「……ッ!」

「警察の介入を嫌がることと関連しているのかもしれないから、詳しくは尋ねない。俺は、単純に、それを使いたくないだけだ。理由は──なにを言っても嘘になりそうだから、言えない」

 タイム・タイムを見ていると、中指を掴んで反らしているような気分になる。

 反れるところまでしか、反らない。

 そこまでなら、痛みもさしてない。

 けれど、これ以上反らすと、確実に指が折れる。

 その分水嶺が、タイム・タイムを使用すること──そんな気がしてならない。

 臆病者と言わば言え。

 俺は、この中身の見えない砂時計が、恐ろしくて仕方ないのだ。

「──タイム・タイムには、言葉ではつたえにくい機能がある、です」

 うずらが、再びうつむきながら、言った。

「タイム・タイムをはじめてつかうと……その、過去にべつのひとがタイム・タイムをつかったときに、消えたはずの記憶がよみがえるのです。それから、そのあとは、自分以外のひとがタイム・タイムをつかっても、一緒に過去へもどるようになります」

「消えたはずの記憶……?」

 いまいちピンとこなかった。

「あの……くたじまさんが、タイム・タイムをつかうとしますよね? そしたら、H大の図書館で何回も──その、事故にあった記憶とか、三人組のひとたちに何回も襲われた記憶とかを、いっきに思い出すんです。たぶんそれが、タイム・タイムの使用者になった、ということだと思うのです」

「……ふむ」

 うずらの言葉を咀嚼し、わかりやすい形にまとめる。

「時間というものを一本の帯に喩えよう。ここに二十四時間の長さの帯があるとする。上から見ると二十四時間でしかないこの帯だが、横から見ると蛇腹状に折り畳まれていることがわかる。蛇腹はわかるか? 山折りと谷折りを繰り返す構造のことだ。この蛇腹が、タイム・タイムを使うごとにひとつ。使えば使うほどに増えていき、帯自体も長くなっていく。ここで別の人間がタイム・タイムを使うと、二十四時間だと思っていた帯がピンと伸ばされて、実は三十六時間あった、と知らされる。蛇腹状に折り畳まれていた時間と共に、そのあいだの記憶が脳にぶち込まれる──と、こういうことだろうか」

「──…………」

 うずらが小さく口を開けたまま、呆けていた。

「どうした、うずら」

「すごい……すごいですよ、くたじまさん! そういうことだったんですね! うずら、わかってるつもりで、ぜんぜんわかってなかった、です!」

 正しいかどうか、保証はできない。

 それに──うずらにとって、あまりよくない知らせがある。

 本当に隠したいのであれば、なんであれ俺に情報を与えるべきではなかった。

「うずら。ひとつ、確認したいことがある」

「はい! どうしたのですか?」

「その事実は、タイム・タイムを使用した人間がふたり以上いなければ、絶対に知ることができない。妥当に考えて、もうひとりの使用者は──」

 奇しくも、星羅の推論は当たっていたというわけだ。

「──佐藤露草。お前の姉だ。露草もタイム・タイムの使用者であり、蛇腹状の時間の記憶を持っている。そして、うずらと共に幾度も過去へと遡っている。そうだな?」

「……──ッ」

 うずらが息を呑む音が、静かな図書室に響いた。

「推理はクロスワードパズルに似ている。あるピースが確定すれば、別の事実が見えてくる。うずら。お前が警察の介入を拒んだのは、露草が原因だ。お前は、一連の事件の犯人が、露草であると思っている。そうだな」

「──…………」

 ぎし。

 うずらが両手で包み持っているタイム・タイムが、軋んで音を立てた。

「お前が何故、露草を犯人だと思っているのかは、わからない。なにか理由があるのだろう。それも、決定的ななにかが。共に時間を繰り返していない俺には、もしかしたら理解できないようなことかもしれない」

「──…………」

 うずらは、俯いたまま、口を真一文字に結んでいる。

「……答えられないなら、それで構わない。けれど俺は、露草を疑えないよ。あの馬鹿の頭の悪さを信じているからな。あいつがもし俺を殺すつもりなら、正面から蹴り殺すに決まっている。それに、犯人はミリタリーグッズの収集家だ。露草にそんな趣味があれば、あんことお嬢が知らないはずはない。犯人は、別にいる」

 そう言ったきり、会話は途切れた。

 どこか甘い古書の香りが鼻をくすぐる。

 窓から見える夜空に、ふと思った。

 図書室は二階だ。二階程度なら、さして苦もなく外に出られるかもしれない。

 しかし、すぐに首を振った。

 うずらをひとり、この場に置いていけと?


「──くすっ」


 一瞬、心を読まれたのかと思った。

 けれど、そんなことはありえない。

 すぐ隣に視線を向ける。

 うずらは、笑っていなかった。

 口元にだけ笑みを浮かべ、その瞳は見たこともない色を湛えていた。

「くたじまさんは、知らないです。この道具が、どれほどひとのこころを壊すのか」

 ぎしり。

 タイム・タイムが、軋みを上げる。

「これは、どんな傷でも癒すネクタルなんです。死者さえ蘇らせる万能の霊薬なんです。引っ繰り返すだけで、すべてなかったことになる。いいことも。悪いことも。どちらでもないことも。すべて。すべて、すべてっ! これがどんなことか、わかりますか?」

「──…………」

 今度は俺が黙り込む番だった。

「治るなら、傷つけたっていいですよね。蘇るなら、殺したっていいですよね。だって、誰も覚えていないんだから! みんなうすっぺらくなっていく。大切だったものが、どんどん、どんどん──輝いてたはずなのに。鈍くなって、錆びていく……目の前で朽ちていくんです……」

「なら、壊してしまえばいい」

 そう思った。

 だから、率直にそう言った。

「あはは! ……なにもわかってないです。くたじまさんは、三億円当たった宝くじを、お金がたくさんあっても不幸になるからって燃やしてしまえるひとですか? タイム・タイムを壊した次の日に、あんこさんが交通事故に遭うかもしれない。狸小路さんが刺されるかもしれない。そんなときこれがあれば、手首を返すだけで元通りなんですよ。つらいこと、悲しいこと、耐えられないこと、許せないこと。すべてやり直せます。それでも後悔しないんですか? 悔いはないんですか? 壊せますか? 壊せませんよね? 壊せる人はよほど愚かか──そうでなければ、狂人です」

 ああ──

 ようやく理解できた。

 俺が何故、タイム・タイムに生理的嫌悪を感じていたのか。

 この道具は、天秤の片側が重すぎるのだ。

 なんのリスクもないくせに、リターンは途方もない。

 便利すぎるのだ。

 その利便性の前に、人は〈使わない〉という選択肢を奪われる。

 そして、うずらのように、あるいは露草のように、心を磨耗させていく。

 心が代価なのだ。

 あまりに悪魔的ではないか。

「ああ、そうだ。くたじまさん、いいことを教えてあげます。犯人がミリタリーグッズのコレクターである必要はないと思いませんか? 犯人の身近にいて、いつでも利用できるのなら、それで十分なんです。だって──」

 うずらは、満面の笑みを浮かべた。

「だって、コレクターはうずらなのですから」

「え──」

『──ミナトッ!』

 そのとき、携帯から、くぐもったあんこの声が響いた。

 ようやく発信に気づいたらしい。

 そのこと自体は喜ばしいのだが、いささかタイミングが悪い。

「もしもし、あんこか。今どこにいる?」

『こっちのせりふだよ! ミナト、学校のどこにいるの!』

「とにかく、人の話を聞いてくれ。俺は図書室だ。お前はどこだ?」

『げたばこ! 今くつとりかえて──』


 まず悪寒があり、そのあとに思考があった。

 何故犯人は俺たちを閉じ込め、助けを求められる状態にした?

 違う。

 助けを求めるように、誘導したのだ。

 あんこが慌てているのは何故だ?

 保険として、なんらかの方法で犯人が呼びつけたのではないか?


 自分の言葉を思い出す。


『ピアノ線トラップは、性質上、仕掛けられる場所がある程度決まっている』


『今回のように、扉か、あるいは狭い通路に限られるんだ』


『つまり、人気のない廊下や教室に無闇やたらと行かなければいい』


 狭い通路。

 下足場。

 下駄箱のあいだ。

 意図的にあんこを呼び出したならば、


「──あんこ! 止まれ! そこを動くな!」

『え、なーに?』

「頼むからッ! 来るな! 止ま──」

『っとと、なん』




 ──複数の風切り音。




 携帯と地面がぶつかる音。


 発信音。


「あァ……」

 一手だ。

「ああ、アぁあ、ァあアぁアアア────ッ!」

「くたじま、さん?」

 一手だ!

 一手だ!

 一手だッ!

 どうして一手遅れる!

 どうして気づけなかった!

 タイムリライトの実在を信じられなかったからか!

 俺が所詮、積み上げることしかできない人形だからか!

 人間のふりをしているだけだからか!

「──ッ!」

 俺は、弾けるように駆け出した。

「くたじまさん!」

 爪先がなにかに引っ掛かる。


 ──ヒュン!


 矢が太腿を貫通する。

 知ったことではない。

 図書室を出るまでに、また何本かの矢が体に刺さる。

 だからなんだ。

 俺の足を止めるには至らない。

「くたじま──」

 露草がいた気がした。

 関係ない。


 足が動かなくなってきた。

 どこか致命的な部分を損傷している。

 確認する気にもなれない。

 下足場までもてば、それでいい。


「──あん、こ……」


 あんこは、下駄箱のあいだで倒れていた。

 足を引きずりながら駆け寄り、軽く状態をあらためる。

 胸部に一本。

 腹部に二本。

 計三本、それぞれが貫通している。

 致命傷だった。

「み、な──と?」

「ああ……ここにいる。ここにいるよ」

 あんこの上体を抱え上げ、耳元でそう囁いた。

「みなと……けが、してる……」

「お前もな。でも【大したことはない】。【救急車を呼んだから、もう大丈夫だ】」


 制約2「嘘をついてはならない」


 そんな制約が、なんの役に立った?

 人間になにができた。

 もういい。

 もう、疲れた。

 九丹島ミナトには、最初から血など通っていなかった。

 ずっと歯車で動いていたのだから。


「みな──と。あのね。ねがいごと……言っていい、かな」

「ああ。約束だからな。どんな願いだって、叶えてやる」

「うん……つッ!」

「あんこ、大丈夫か?」

 あんこは、苦痛に身を震わせながら、それでも笑顔を浮かべた。




「みなと、へ。ねがいごと……です……ッ! もっと、自分を──たいせつにして、ね?」




 ああ──


 胸に熱いものがこみ上げる。


 これが、人間だ。

 俺が、憧れて、憧れて、ついに届かなかった人間の姿だ。


「──わかった。自分を、大切にする」

「あ、はは……ミナト、言うこと──ない、かな……」

 ひとつだけ、心当たりがあった。

「あんこは天才だな。最高だ。キスしてくれ」

「うん……でも、あはは。ちょっと、からだうごかない、から……」

「……ああ」

 俺は、そっと、あんこにくちづけをした。

 あんこの唇はすこしだけ乾いていて、それがなんだか切なかった。

「いま、ちゅー……した?」

「ああ」

「やった。初ちゅー、みなとだぁ……」

「ああ、俺もだ」

「たっせいかん、で──……」


 あんこはそのまま意識を失った。

 まだ息はある。

 だが、二度と目を覚ますことはないだろう。

「他人事じゃない、か……」

 夏場だと言うのに、指先が凍えはじめている。

 腹部を貫通した矢が、重要な臓器を破壊していたらしい。

 にも関わらず、激しい動きをしたことで、傷口が広がり、取り返しのつかない量の血液を失ってしまった。

 俺は目を閉じた。


 ゆっくりと。


 赤い海に、沈んでいく。


 この先になにがあるのか、俺はよく知っていた。


 小さな、不揃いの歯車が、徐々に視界を埋め尽くしていく。


 歯車の海。


 その水底に、巨大な立方体があった。


 これが九丹島ミナトだ。


 人間は、もう必要ない。


 立方体に触れた。


 体が分解されて、歯車に変わっていく。


 その懐かしい感覚に、人間としての俺は恍惚さえ覚え──




《制約解除》




「くたじまさん。これをどうぞ」

 目の前に差し出されたのは、タイム・タイムと呼称されるものだった。

 隣で佐藤うずらが穏やかな笑みを浮かべている。


「──…………」


 それを受け取り、引っ繰り返した。




▼ Continued...

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