12-九月一日(木)

「……──はー」

 右目に当てられた眼帯を軽く撫でて、溜息をついた。

 これでは天ヶ瀬とお揃いではないか。

 とは言え、生々しい傷口を露出したままにするのもマナーに欠ける。

 第三者に不快感を与えるのは俺の本意ではない。

 せめてこの眼帯が、左目だったなら──いや駄目か。

 俺は左目。

 天ヶ瀬は右目。

 そんなことになれば、新たな中二病設定が生まれてしまいかねない。

 万魔眼、だったろうか。

 俺の左目にそのような名前が付けられるなど、想像するだに背筋が寒くなる。

「んふふー」

 あんこは、病院を出てからこの調子だ。

 俺が怪我をしたときは、いつだって心配がてらにヘソを曲げる。

 田淵医師に傷の処置をしてもらっている最中も、わざわざ診察室へついてきて、目を背けながらぶちぶちと小言を言っていた。

 その様子を見た田淵医師と、こっそり苦笑し合ったものだ。

 それがいつの間にか上機嫌になっているのだから、思わず首をかしげてしまう。

「あんこ。どうしていきなり機嫌がよくなったんだ? さっきまで怒っていただろ」

 歓楽街を抜けて、住宅地をすこし歩いたころ、俺はあんこにそう尋ねた。

「んー? にひー、気になる?」

 恋人つなぎにした左手をぶんぶんと振り回しながら、あんこが問い返す。

「気になるから聞いたんだ。病院でなにかいいことでもあったか?」

 病院で起こるいいこと、というものが想像できないけれど。

「ないよー。ただ、いーいことおもーいつーいたーん、だっ♪」

 最後の「だっ♪」で大きくジャンプして、繋いでいた手がするりと離れた。

 あんこが俺の数歩先で、くるりとこちらを振り返る。

 腰の後ろでカバンが揺れていた。

「にっちょーび! ミナト言ったよね。僕と契約して魔法少女に──」

「言ってない」

「あれ、違ったっけ」

「──…………」

 思い出した。

「……なんでもひとつだけ願いを聞いてやる、とは言った」

 ここのところ立て続けに厄介ごとが舞い込んできて、正直忘れかけていたけれど。

「もしかして、決まって──決まったのか?」

 思わず「決まってしまったのか」と言いかけて、慌てて言い直した。

 正直、このまま忘れ去ってもらえれば、それが一番よかったのだが、約束してしまった以上はどんな願いであれ叶えよう。

 死を願うなら、ためらいなくそうする。

「うん! ミナト?」

「なん──」

 なんだ、と言いかけて止めた。

 あんこの人差し指が、俺の鼻先に当てられたからだ。

「そんなイヤーな顔しないの! だいじょぶだよ。この願い事はね、すごいの! ミナトぜったい言うよ。あんこちゃん天才! さいこー! ちゅーして! ──って!」

「絶対言わないと思うが」

「言ーうーよー」

「なら、その願い事を言ってみるといい。聞かないことには、叶えられない」

「そだね! あたしの願いは──」


 気づかなかったのは、熱のせいだろうか。

 あんこの願い事はなんなのだろうと、耳を傾けていたからかもしれない。


「わアあああああああああ────────ッ!」


「──ミナトッ!」


 どん、と。

 体に走った衝撃がなんなのか、すぐには理解できなかった。

 視界がぐるりと回転して、狭く暗い空が見えた。

 背中に痛みと、腕のなかにやわらかな重み。

 俺はあんこに押し倒されたのだ。

「ってェ……」

 体を起こすと、視界の先に小太りの男がいた。

「ななナニ勝手にいちゃいちゃししてるわけ? おお嬢さん! そそいつから離れて! お嬢さんはそそそいつにダマされているんっだァ!」

 男は、俺に向かって右腕を突き出した。

 その手に持った銀色のナイフが、街灯の光を受けて鈍く光る。

 なるほど、俺の背後から襲いかかった──というわけか。

「騙す? 誰が、誰をだ」

 俺は、あんこの手を引いて立ち上がらせると、

「──離れて、警察を呼べ」

 そう耳打ちした。

 あんこが毅然とした表情で頷き、俺から距離を取る。

「ここここの強姦魔! とととぼけるのもいいい加減にしろよォ!」

 ナイフを持つ右手がガタガタと震えている。

 それが気になったのか、小太りの男は左手の汗をズボンで拭いたあと、ナイフを両手で構えなおした。

 さっきは陰口で、今度は強姦魔か。

 今日はつくづく濡れ衣に縁のある日だな。

 思わず自分の人生を省みてしまいそうだ。

「強姦魔? 人違いじゃないか?」

 なるべく会話を引き伸ばすよう努めてみる。

 ここは北二十四条、歓楽街のすぐそばだ。

 人通りだって少なくはない。

 誰かが通りかかって、悲鳴のひとつでも上げてくれれば、当座はしのげるはずだ。

 思考が逃げに走っているのには、理由がある。

 ひとつは、熱がまた上がってきていること。

 足元がふらつくほどではないが、視界に入るすべてが、ほんのすこしだけ遠くに感じられている。

 まるでテレビ越しに世界を見ているようだ。

 こんな状態でナイフを持った相手と格闘をするのは、自殺行為と言えた。

「く九丹島ァ! みみみミナト! だろォ! おおお前のじょ情報なんか筒抜けだぞ!」

「たしかに俺は九丹島ミナトだが、強姦の件は知らない。本当になんのことかわからないんだ。いったい、誰からそんな話を聞いた?」

 ひとつは、この小太りの男から明確な殺意を感じること。

 構え方を見れば一目瞭然だ。

 ナイフでの切り傷は、まず致命傷に至らない。

 だから殺意のない、威嚇が目的の人間ならば、順手でナイフを振り回す。

 けれどこの男は、ナイフを両手で持って腰だめに構えていた。

 刺し傷であれば、刃の短いナイフでも容易に致命傷となる。

 男はいま、俺を殺す気でこの場に立っているのだ。

 こちらも命のやり取りを覚悟しなければならない。

 以上の理由から、なるべくならば戦わずして場を収めたいものだが──

「うううるさい! さびねこさんの仇だァ! ウわァああああ────ッ!」

 男が俺に向かって突進する。

 やはりこうなったか。

 自分に殺意を向けている人間と、まともに対話ができるはずはない。

 彼我の距離は約三メートル。

 三歩もあれば十分にナイフの射程圏内となる。

 幸いなことに、男の動きは思ったより鈍重で、熱に浮かされた今の俺でもなんとか制圧可能に思えた。

 しかし俺は、あえて右へと大きく飛び退いた。

 俺が避けたあと、数メートルほど足踏みし、男がようやく振り返る。

「──よ、よよよ避けるなんてひひ卑怯だぞゥ! すす素直にさ刺されよォ!」

「刺されたら死ぬだろ」

 ナイフを腰だめに構えている、というのが問題だった。

 都築にしたように、足払いをかけて引き倒すことは容易だ。

 しかし、なにかの拍子にナイフが男に刺さってしまう可能性があった。

 ナイフだけを弾ければいいのだが、俺にその技量はない。

 こうして避け続けて、隙を見ながら、警察が到着するのを待つ。

 俺にできるのはその程度だった。

「しし死ねってい言ってんだよォ──ッ!」

 男がまた、ナイフを構えて突進する。

 右へ避けるか。

 左へかわすか。

 後ろへ飛び退くか。

 そう逡巡したときだった。


 そっ、と。


 優しく、男の両手に触れる者がいた。


 ──ブゥン!


 凪いでいた住宅街に起こされた一陣の風が、俺の前髪をそよがせる。

 一瞬、目を疑った。

 男が突然、縦に回転したのだ。

 からん、と音を立てて、ナイフがアスファルトの上に落ちる。

 男の手首を掴んでいる何者かの姿を見て、ようやく俺は得心がいった。

「ありがとう、──大吉」

「礼なら必要ありません。私どもは、いつだってあなたを助けましょう。いつだって、あなたに助けられているのですから」

 大吉はそう言って、ウインクをしてみせた。

「それより、まずは──」

「ぐぼェ!」

 自動車に轢かれたカエルのような声が周囲に響いた。

 大吉が、男の股間に、容赦なく爪先をめり込ませたのだ。

「如何な理由であれ、私の友人に刃を向けたならば、それを許す道理はございません。人を殺そうとする者は、殺される覚悟でもって相手と対峙しなければならない。貴様にはもちろん、その覚悟があるのでしょうね?」

「ひいィ!」

 大吉が酷薄な笑みを浮かべてみせた。

 整った顔立ちであるために、人形じみた冷たさを感じさせる。

 こいつ、都築ほどじゃないけど、サディストの素養があるからな。

「──大吉」

 俺は、大吉の肩に手をかけた。

「た、たたす──」

 地面に倒れ伏した男が、期待を込めた表情で俺を見上げる。

「あんこが警察を呼んでいるから手短に。あと、尋問もしたいな。最低限会話ができる状態であれば、それでいいや」

「承知いたしました」

「いいいややめタスケテェ──ッ!」

 二、三分もすれば、男はなんでも素直に吐いてくれるようになるだろう。

 決して怪我をさせることなく、地獄の苦しみを味わわせる方法──というものがあるらしい。

 執事というのは拷問吏の真似事もこなせなければいけないのだろうか。

 大吉がどうしてここにいるのか、お嬢はどこにいるのか、それを尋ねるのは後にしておこう。

 お楽しみを邪魔するのも悪い。

「あんこは──」

 どこまで行ったのだろうか。

 そう思い、周囲を軽く見回したときだった。

「よー色男! カノジョ探してんの?」

 軽薄な声に、そちらを振り向く。

 街灯と街灯の狭間、その暗がりから、痩せぎすの男がゆっくりと姿を見せた。

「──…………」

 左手であんこの顎を掴み、持ち上げた首筋に、サバイバルナイフの峰を押し当てて。

「……二人いたのか」

 判断ミスだ。

 仲間がいる可能性を考慮できなかった。

「ヒぃハあ! 頚動脈くぱっとイッちゃうよん。ごめんねー怖い思いさせちゃって。でも大丈夫! どっちにしろ一瞬だからよ」

「うう……みなとぉ……」

 痩せぎすが、サバイバルナイフの峰で、あんこの首を斬る真似をする。

 さあ、考えろ九丹島ミナト。

 熱に浮かされているなど不出来な言い訳だ。

 小太りの目的は俺の殺害で間違いない。

 けれど痩せぎすも同じとは限らない。

 本当に殺す気であれば、人質など取らず、手に持ったサバイバルナイフで俺に襲い掛かればよかった。

 すくなくとも、その隙はあったのだから。

 それをしなかったということは──

「大吉、小太りを逃がすな。いつでも殺せる状態で待機しろ。ただし、ナイフは使うな。指紋が残る」

「委細承知」

「ひひいイィ!」

 小太りを組み敷く音が背後で響く。

 俺は、痩せぎすの一挙手一投足に集中する。

「ちょちょちょちょオ! ナニやってんの! こっちにゃ可愛い人質が──」

「おい痩せぎす。小太りを殺されたくなければ、今すぐにそいつを離せ」

 もし仲間意識が希薄であれば、小太りが失敗した時点で単身逃げればよかった。

 かと言って小太りの目的である俺の殺害を引き継ぐ様子もない。

〈人質を殺されたくなければ自殺しろ〉という頭の悪すぎる要求をする可能性もあったが、俺には痩せぎすがそこまで後先を考えない人物とは思えなかった。

 痩せぎすは、もしものことを考え、細心の注意を払いながら、あんこを人質に取っている。

 間違ってもあんこを傷つけないよう、わざわざサバイバルナイフの峰を押し当てている。

 もし傷を負わせてしまえば、警察に捕まった際に罪状が重くなるからだ。

 以上の考察から、痩せぎすの要求は〈小太りを解放しろ〉となる。

 ならば、まだ同条件であるうちに、逆に相手を脅迫してしまえばいい。

「え? ええ!? キミ状況わかってんの? カノジョ! カノジョ人質! ね!」

「お前こそ、状況がわかっているのか? わかっていないようなら、わかりやすく教えてやろう。大吉、小太りをどのように殺す?」

「はい。首を二七〇度ほど捻り、頚髄を損傷させます。この作業には一秒とかかりませんが、死因は頚髄損傷による窒息死となりますので、五分ほどたっぷり苦しむかと」

「──以上だ。他になにか質問は?」

「ええと……キミ、本気で──」

 痩せぎすが俺の目を見つめ、動きを止める。

 そして、数秒ほど固まったと思うと、唐突に笑い出した。

「ヒぃ──ッハハハハハあッ! すっげ! すげえ! 本気だ! こんな大馬鹿、ヒィ! ひさびさに見た! ウヒぃハハハハッ!」

 爆笑しながらも、あんこの拘束は緩まない。

 この痩せぎす、恐らくそこそこの場数を踏んでいる。

 下手に隙を見つけて、漫然とそこを突いても、返り討ちに遭うのがオチだ。

 だから、今回必要なスキルは〈交渉〉である。

 現在、互いに人質を取っている状態だ。

 人質を殺す用意は双方共にある。

 最終的な落としどころは人質の交換だろう。

 その地点まであんこに傷ひとつつけさせず、かつ相手から情報を引き出すよう、この場の舵を取る。

 できるか?

 やるのだ。

「ウひぃヒィ──き、キミさ! オジさんがカノジョの首、ちょっとだけ! 死なない程度にちょっとだけ切ったらさ、どうする?」

「ぶん殴る」

「じゃあさじゃあさ! 勢い余って殺しちゃったら?」

「殺す」

「ヒぃハあ! こらダーメだジュンジ! 役者がちげーわ。あと、この色男──クタジマクンだっけ? こいつ、レイプなんてやってねーよ」

 ジュンジと呼ばれた小太りの男は返事をしない。

 その余裕がないのだろう。

 しかし、痩せぎすは何故、俺の無実を唐突に主張し始めたのだ?

 会話の流れとして不自然だし、そう判断した根拠もわからない。

「おっ、クタジマクン怪しんでんねー。ちょっちオジさん自慢していい? オジさんはねえ、相手の目を見ると、ココロが読めんだわ! ヒハハ!」

 妄言だ。

 しかし、それを口にはしなかった。

 条件を対等にし、交渉に持ち込むために、既にいくつか危ない橋を渡っている。

 これ以上、相手をいたずらに刺激するのは賢明でない。

「信じてねーなー。ヒハ、まー半分ウソだしな。別に超能力とかウサンくせーのじゃなくて、アクのつえー奴らを何百人何千人と見てきたら、自然とそういう眼力つーの? それが身についてたってだけの話よ。相手がマジなのか、ブラフなのか。そいつがどんな人間なのか。だいたいわかるし、だいたい当たる。クタジマクンは女レイプして喜ぶような、そこらの小悪党じゃねーな。五万賭けてもいいぜ。──おい、わかったかジュンジ!」

 ああ、そうか。

 痩せぎすの意図が、ようやくわかった。

 痩せぎすも、俺に対し、交渉を仕掛けようとしているのだ。

 だから、その材料を作ろうとしている。

 俺の無実をジュンジに納得させ、二度と襲わせないという形で。

「痩せぎす。お前がこのままあんこを傷つけず、先に解放するというなら、こちらもジュンジを無事に引き渡すと誓おう」

「なあクタジマクンよー。その馬鹿、オジさんの弟分なんだよね。いきなり殺そうとしたことは謝るし、二度とやんねーよう躾けとっからさ。だから、カンベンしてくんね?」

 会話が噛み合っていない。

「……勘弁、とは?」

「ケーサツ。仇討ちで人殺して捕まんならいーけどよ、カンチガイで殺人未遂なんて間抜けもいいトコじゃん? ヒハハ、こいつらまだ前科ねーしさ。クタジマクン、どーせ人質交換したあとで、俺らぶちのめしてケーサツ呼ぶでしょ。カノジョが一一〇番すんのはなんとか止めたけどさー」

 読まれていた、か。

 さて、どうしようか──と悩む必要もない。

「──…………」

 優先すべきは、あんこの無事だ。

 そこに一点の曇りもない。

「──了解した。素直にあんこを解放してくれたなら、警察は呼ばない。ただし、その前にジュンジから詳しい話を聞きたい」

 ジュンジの口にした〈さびねこ〉という人物が、俺の殺害を扇動したとするならば、元二年八組にクロスボウトラップを仕掛けた人物と同一である可能性が高い。

 俺に対し明確な殺意を持ち、かつ俺の個人情報を容易に得られる位置にいる。

 そう推定される人間が、同時期に二人も現れるとは考えにくいからだ。

「ヒハ! 交渉成立だ! 聞くならさっさと──」


 こつん。


 俺の足元に、小石が転がった。

「チッ!」

「んう──」

 痩せぎすが舌打ちし、あんこに覆い被さる。

 その行動に身を躍らせかけたが、理由はすぐにわかった。

 足音だ。

 ゆっくりと規則的に歩く、靴の音。

 第三者の介入。

 あんこの首筋に当てたナイフを、その身で隠したのだ。

「──ンだ、餓鬼かよ。おらオジさんたちゃ学芸会の練習だ! ヒっハハ!」

 けれど、痩せぎすは呆れたようにそう言って、元の体勢へと戻った。

 相手を見て、隠す必然性がないと判断したのだろう。

 足音は続く。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

 そして、俺の横を通り過ぎた。

「騙されないで」

 聞き覚えのある甲高い声を、耳に残して。

 後ろ姿でもわかる。

 特徴的な矮躯。

 ひっつめてくくった、短いツインテール。

「ガキじゃなくて、露草。佐藤露草」

 露草は、痩せぎすの前に仁王立ちすると、凛とした声でそう言った。

「へえへえ、ツユクサちゃん。そこにいられっと練習のジャマなんですわ。あんまナメてっとオジさん怒っちまうよ?」

「怒ったらどうなるってゆーのよ、小悪党」

 痩せぎすの薄ら笑いが、わずかに歪んだ。

「殺っちまうぞ、餓──」


 ──パン!


 拳銃の発砲にも似た破裂音が、住宅地に響いた。

 その瞬間はあまりにも短くて、俺もすべてを理解できたとは言いがたい。

 ただ、挑発に乗った痩せぎすが、露草へとサバイバルナイフを向けようとしたこと。

 そして、その一瞬でナイフが上空へ蹴り飛ばされたこと。

 これだけは疑いない事実だ。

「でぇッ!」

 痩せぎすが痛みに顔を歪めるのと、

 露草がスカートをひるがえして足を下ろすのと、

「──すいません、ちょっと痛いです、よっ!」


 ドォン……!


 八尺が、痩せぎすを背中から地面に叩きつけるのは、ほぼ同時だった。

 呼吸すら許されず、痩せぎすがアスファルトの上でバタバタとのた打ち回る。

「なかなかうまい手だな、露草。八尺」

 痩せぎすの背後から八尺が近づいてくる様子は、ずっと見えていた。

 にも関わらず痩せぎすが気づけなかったのは、露草と八尺が、互いに足音を合わせていたからに他ならない。

 露草が気を引き、無力化し、八尺がとどめを刺す。

 露草の蹴りではあんこを巻き込みかねない。

 適材適所と言えた。

「──アンタがそうしろって言ったのよ」

 俺が、言った?

 その疑問に答える前に、からん、と遠くの地面で音がした。

 蹴り上げられたサバイバルナイフが、ようやく落ちてきたのだろう。

 それを契機にしたように、

「ミナどぉッ!」

 あんこが俺の首に腕を絡め、抱きついた。

「あーよしよし、怖かったな」

 背中越しに頭を撫でてやる。

 命を危険に晒されたのだ。

 さぞ恐ろしかったことだろう。

「だじゅげ、れで……どう! ごあ、ごあー……っだよう!」

 なに言ってるかわかんねえ。

 ともあれ恐怖心と安堵は痛いほど伝わってきたので、このまま落ち着くまで──

「くたじま、油断しないで。どこかわからない。でも──もうひとりいる」

 露草の言葉に、悪寒が走った。

 思い出したのだ。

 痩せぎすの発言に違和感を覚えたことを。

 こいつらまだ前科ねーしさ。

 こいつら。


 近づいてくる足音。


 こちらへと、駆け寄る音。


 ──どん。


 あんこを突き飛ばし、そちらへ向き直る。


「……ひゅー、ひゆー……ら、らいきち……はやすぎぃ、れすわ……」

 そこにいたのは、肩で息をする、汗まみれのお嬢だった。

「申し訳ありません、お嬢様。一刻を争うと判断いたしましたので」

「そ、そうら! み、みなと……は、らいじょうぶ……?」

「──ああ、おかげさまでな。お嬢こそ大丈夫か?」

 お嬢のそばに歩み寄り、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭いてやる。

 気持ちよさそうに目を閉じるお嬢の姿に、ふとあんこの姿を重ね、

「って、そうだ。あんこ、すま──」


「ゥろアああああああ────────ッ!」


 あまりの光景に全身が凍りついた。

 住居と住居のあいだ、五十センチほどの隙間。

 街灯の光も届かない、完全な死角。

 そこから、ジュンジそっくりの男が躍り出たのだ。

 ナイフを両手で持ち、振り向こうと不安定な体勢の俺を目掛け、一直線に。

 ずっとそこで息を潜めていたのか?

 ただ、隙を伺っていたのか?

「ヒハッ」

 痩せぎすの笑い声が、耳元で聞こえたような気がした。

 あと三メートル。

 体は動かない。

 あと二メートル。

 体は動かない。

 あと一メートル。

 体は──


「……──ッ!」


 す、と。

 視界の下半分に影がさした。

 それがお嬢の後頭部であると気づいたときには、もうすべてが終わっていた。


「──つッ、う……」


 布を強引に引き裂く音。

 ジュンジに似た男が、俺の横で派手に転倒する。

 そんなことは、どうだってよかった。

 お嬢が俺に背を向けたまま、寄りかかるように尻餅をついた。

 俺をかばって、そうなった。

 俺を、凶刃から、守って。


 全身を巡る血が、液体窒素にでもなったかのようだった。


 友人さえ守れない〈人間〉なんていらない。


 機械だ。


 もう、機械で、いい。


 視界が赤く染まる。


 赤い、赤い、歯車の海。


 俺の意識は水底へと落ちて──


「──ッたあい! いだだ! いたいですわ! 大吉これ痛いですわよッ!」


 は、と我に返る。

 お嬢の声は、ナイフで刺されたにしては元気すぎた。

 慌ててお嬢を抱きかかえ、傷をあらためる。

「ほわ! ちょ、ミナト!」

「喋るな」

 お嬢の制服は、右胸のあたりが大きく裂けていた。

 そこから覗くものは、痛ましい傷口でも、まして下着などでもなく──

「なんだ、これ」

 表面がうろこ状になった、見たこともない生地の服だった。

「防刃ベストでございます、ミナト様」

「──……あ、あ」

 振り返ると、にこやかな笑みを浮かべた大吉が、ジュンジに似た男に、関節技にも似たよくわからないなにかを施していた。

 苦悶の声すら上げられないあたり、これが〈決して怪我をさせることなく地獄の苦しみを味わわせる方法〉なのだろう。

 人間って、あんなところがあんなふうに曲がるものなのか。うわあ。

 ジュンジのほうは、すぐ隣で、ピクピクと白目を剥いていた。

「だ、大吉! このぼうじんべすとというの、ぜんぜん効かないじゃありませんの! 絶対アザになってますわよこれ!」

 俺の肩から力が抜けた。

 どうして防刃ベストを着ているかなんて、どうだっていい。

「──心臓に悪いよ、お嬢」

「ミナト……」

 思わず、互いに見つめ合ってしまう。

「お嬢様。折角の機会ですので、痛むところをミナト様に撫でてもらってはいかがでしょう。それくらいは役得ということで」

「ンなっ!」

 お嬢の顔が、一瞬で朱色に染まる。

「なななななななにを!」

「勘弁してくれ」

「そそそそうですわよね! こここーんな道端で! 破廉恥な!」

「……ぶうー」

 ふと横で、ぶーたれる声がした。

 俺がそちらへ振り向くのと、手を取られるのとは、同時だった。


 むに。


「あたしのがたぬちよりおっきいもん!」

 俺の左手が、あんこの胸に埋もれていた。


「──…………」


 一同、沈黙。


「……有罪」

 あんこの顔が一瞬にして絶望に染まる。

「えちょだってミナトたぬちといちゃいちゃしてあたしのこと無視──」

「ふッ!」

 ごくごく手加減した俺のこぶしが、あんこの鳩尾にめり込んだ。


「……イつつ。なー、でけえあんちゃんよ」

「あ、はい」

「クタジマクンって、いつもあんなん?」

「あはは……まあ、だいたい」

「ヒハ、あらみんな苦労すんねー」

「あれでいてみんな、結構楽しんでますから」

「……なー、でけえあんちゃん」

「はい」

「見逃してくんね?」

「また投げてもいいですか?」

「ヒっハハ……ジョーダン、ジョーダン……」



「──やっと、終わった」

 八尺と痩せぎすが会話をしている横で、露草がそっと呟いた。

 色のない瞳で。

 乾いた声で。



「えーと、まとめるよ。ボウイチさんとジュンジさんは双子の兄弟。ふたりとも、趣味はネットで、あんまり人の来ないブログを見るのが好き。ある日、懇意にしていた札幌の女子高生〈さびねこ〉さんが、レイプされたって日記を上げた。激怒したふたりは、さびねこさんからスカイプで詳しい話を聞き、レイプした男に復讐を誓った。そのときさびねこさんから教わった男の名前というのが──」

「くく九丹島ミナト! お前っだぶへあ!」

「うっせ、黙ってろ」

 八尺のまとめに口を挟んだジュンジが、痩せぎすに横っ面を張り倒された。

 通りがかりの女性が頭上に疑問符を浮かべながら通り過ぎていく。

 アスファルトに座り込んだ三人を、俺たち六人で逃げないように囲んでいるのだ。

 どう見ても怪しい一団である。

 警察は既に露草が呼んでいたので、通報されても問題はないのだが。

「……レイプ──っても、なあ」

 俺はやっとのことで、それだけを口にした。

 顔が熱い。

 頭が重心になったかのように、ふらふらと安定しない。

 アドレナリンが過剰分泌されると、一時的に症状は軽くなるが、その後に利子がついて返ってくるのが厄介だ。

 さっさと家に帰って、ポトフを作って寝たい。

「ほ本当にここ心当たりはなないんですか」

 ボウイチが、俺の目をまっすぐに見ながらそう言った。

 この兄弟、吃音癖があるのは共通しているが、ジュンジがタメ口、ボウイチが敬語を話すという点で異なっている。

 それ以外にも、服装や髪型などの点で細かな違いはあるのだが、いまの俺では見分けがつかない。

「心……当たりもなにも……俺、童貞だし……」

「え、へぇ!?」

「ううううウソだ! だだだってカノジョといちゃいへぶう!」

「だ・ま・っ・て・ろ」

 ジュンジがまた殴られていた。

「ヒハハ、んでどーなんよ。クタジマクン、経験ねーの?」

 痩せぎすが、全員を見渡しながらそう尋ねた。

「童貞ですね」

「あはは……童貞みたいですよ」

「どーてーだねー」

「どっ──……なに言わせるんですの!」

「童貞野郎よ」

 童貞野郎て。

 いや別に事実だしいいんだが、さすがに複雑だぞ。

「あああんちゃん、どどうですか?」

 ボウイチが痩せぎすに問う。

「ヒっハ、全員マジだ。だから言ったろ? クタジマクンは、レイプして喜ぶよーな小悪党じゃねって」

「──…………」

 ボウイチとジュンジは、揃って下を向いた。

「こちら、からも……二、三聞きたい。警察が来る前に」

 ふらつく頭を片手で押さえながら、言った。

「まず──スカイプで、連絡を取っていた、という話……だが、スカイプ通話なのか、スカイプチャットだったのか、そこを確認して……おきたい」

「どどどうしてそそんなことき聞くんだばふぉ!」

 ジュンジが無言で殴られていた。

「ははい。つつ通話はささびねこさんが嫌がるので、ちチャットを主に。ここ声聞いてみみたかったなあ」

 ボウイチがそう答えた。

 やはりそうか。

「では、そのブログ……だが、個人情報はどこまで、晒してあった?」

「えええと、さ札幌にす住んでいることと──あれ? そ、そうだ。しゅ、趣味とか、ね年齢とか、あああとたまに写真も」

「趣味、とは?」

「みみミリタリーグッズの収集です。め珍しいですよね」

「写真──というのは、ミリタリーグッズの?」

「ははい。そそそれもあるし、たたまに、へへ。ちちょっとセクシーなのも」

「さびねこ氏が、ミリタリーグッズを、持っている写真──は?」

「へ、は? もも持ってるし写真、ですか?」

「ナイフ、クロスボウ、バンダナやら迷彩ジャケットやら色々あるだろ。ミリタリーグッズ──を、持っている写真。装備している写真。一枚くらい、思い、出せないか?」

 ボウイチはしばらく考え込むと、首を横に振った。

「ぼぼ僕のし知る限り、なないです。ジュンジは?」

「お、お覚えてねーよ、そんなし写真。ささびねこさんはいいろんなボウガン持ってるみたいだったけど、いいつも机の上に置いて撮ってたから」

「ブログの──名前は? こちらでも確認したい」

「あ、ははい。〈さびねこにっき〉です。ででもき昨日突然へ閉鎖しちゃったので、ももう見れないと思います。そそのこともあって、ぼ僕たちはく九丹島さんにふふ復讐しなきゃってお思ったんです」

 なるほど。

 だいたいわかった。

「……ありがとう。参考になった」

 現時点での結論を、再発の防止も含めて三人に伝えておくべきだろう。

 俺は両手で頬を張って、気合を入れた。長台詞になる。

「──さびねこ氏は、お前たちを扇動して俺の殺害を企てた。理由はまだわからない。けれど、俺は今週に入って、すくなくとも三度命を狙われている。一度目は植木鉢を落とされて。二度目は空き教室にクロスボウを仕掛けられて。そして三度目は、お前たちをけしかけられて。俺に対する殺意を持ち、俺の個人情報を知ることのできる立場にあり、かつミリタリーグッズを集めている。この共通点から、さびねこ氏が神徳高校、あるいは神徳中学の関係者であり、三件の殺人未遂の犯人であることは明らかだ。そして、空き教室に仕掛けられていたのは、張力一五〇ポンドのコンパウンド・クロスボウ。弦を引くのに成人男性相当の腕力が必要だ。ここまではいいか?」

 ボウイチとジュンジは、気圧されたような表情で頷いた。

 痩せぎすはにやにやと嫌らしい笑みを浮かべている。

「さびねこ氏は、スカイプ通話を嫌っていた。これは会話が苦手というより、相手に声を聞かせたくなかったからとも考えられる。個人情報はある程度晒しているようだが、特定されない範囲に留まっている。ミリタリーグッズの収集という趣味は、女性としてはひどく珍しい。セクシーな写真は掲載している。ミリタリーグッズの写真も掲載している。けれど、本人がそれを持っている写真は掲載していない。女子高生の半脱ぎ写真など、泡沫ブログやSNSを探せばいくらでも見つかる。偽装可能。けれど、女性がミリタリーグッズを持っている写真というのは、そうはない。偽装不可能。以上の観点から──」

 くら、と。

 視界が回る。

 それをなんとか押しとどめて、言った。

「──以上の観点から、さびねこ氏は、筋骨隆々でミリタリーマニアの、ネカマだ」


「──…………」


「──…………」


 双子の頭から、魂が抜け出た。

「ヒぃ────ッハハハハハハハハあッ! ジュンジ! ボウイチ! やられたなァ! ヒハ、まあなげー人生ンなこともあるわな! ウヒぃ、ハっハあ!」

「こっちは……笑い事じゃ、ないんだが……」

「ヒヒッ、いーじゃねーのクタジマクン! 死ななかったんだからよ! あ、そーだ。イイコト教えてやっからカンベンしてくれや」

 もう限界だった。

 立っていることすらままならない。

 回る世界で直立を保つことなど、不可能だ。

 さあ、帰ってポトフを作ろう。

 二日前からそう決めて、材料だって買ってあるんだ。

 楽しみにしていたんだ。


「ヒっハ! クタジマクンとおンなじ目ーしたやつ、むかーし見たことあんだよ。終末思想にかぶれたカルト宗教の教祖でな。会って話した次の週に、信者三十八人引き連れて集団自殺しやがった。強くて、澄んでて、狂ってる、宝石みたいな──っておい! おいおい! 人が話してっ最中に──」


 痩せぎすの声が、遠く、遠く──


 そして、俺の意識は暗転した。




 再起動リブート




 意識が浮上するとき、海面に向けて泳いでいるような気分になる。

 はるか上方の、ほの赤い光を目指して。

 思うように動かない四肢で、必死に水をかきながら。


「──ん、う……」


 ゆっくりと目を開く。

「あ、ミナト。目が覚めたんですのね」

 逆光でよく見えないが、そこにお嬢の顔があることはわかる。

 そして、ここが俺の家の居間であるということも。

 前髪を指でやさしく払い、冷たくてやわらかな手が額に当てられた。

「んー……熱は、まだある、かな。もうすこし、このまま寝ていてくださいな」

 言われるままに、まぶたを閉じた。

 蛍光灯が、薄い皮膚を通して、暗い赤の光となる。

 覚醒するときに感じていたのは、これだったのだろう。

「──あの、三人は?」

 思った以上にかすれた声が出た。

「安心してくださいまし。特に抵抗もなく、素直に逮捕されていきましたわ。わたくしたちにも事情聴取があったのですけど、ミナトが倒れたことと、わたくしの制服が破れていたこともあって、後日にしていただきました。明日、中央警察署に全員で出頭──でしょうかしら。……あ、ミナトの服を拝借させていただきましたわ。勝手に部屋を漁って、ごめんなさいましね」

 再び、うすく目を開く。

 お嬢が着ているのは、去年まで好んで着ていた濃紺のパーカーだった。今年に入ってからは一度も袖を通していないはずだ。

「べつに漁られて困るものもない。そのパーカーは、返さなくてもいいよ」

 俺を守って、服が破れたのだ。

 弁償をするのは当然として、それくらいはしたい。ユニセックスデザインだし、サイズもそれほど大きくはない。部屋着くらいにはなるだろう。

「ンなっ! く、くださるのですか?」

「ん? ああ。洗って返す、というのも手間だろうしな。好みに合わなかったか?」

 要らない、というならば無理に──と、言おうとしたところで、

「あっ、ありがたく頂戴いたしますわっ!」

「お、おう」

「──っ♪」

 なんだかよくわからないが、喜んでもらえたようだった。

 それにしても、今まくらが揺れて気づいたのだが、

「ひざまくらだったのか……」

 珍しいこともあったものだ。

 ふにふにとやわらかく、寝心地はいい。

「ふふっ、役得ですわ。守られたあんこさんと、守ったわたくし。どちらが優位かなんて言うまでもありませんわね! おーっほっほっほっほ!」

「んっふー、たぬち! その発言ダウトっ!」

 すこし遠くで、あんこの声がした。

「なんでですのよーっ!」

 お嬢が台所のほうを振り返り、ひざがすこし揺れる。

「女の子なら、守るより守られるべき! たぬち……キミは試合に勝って勝負に負けたのだよ……」

「な、なんですって!」

「いや、実際に東尋坊さんを助けたのって、佐藤さんと僕なんだけど……」

「八尺様、これは女の戦いでございます。巻き込まれると怪我をいたしますよ」

「ほ、ほーっほっほっほ! しかしこの通り、ミナトをひざまくらしているのは、このわたくし! あんこさんがいくら難癖をつけても、負け犬の遠吠えにすぎませんわ!」

「しかーし! あたしはさっき、ミナトにおっぱい触られました!」

「触らせたんでしょうに! しかもしっかり殴られて──」

 やかましい。

 俺は、お嬢のひざの上で、そっと溜息をついた。

 とりあえず、八尺と大吉も台所にいるらしいことはわかった。

 それにしても、三人揃って台所で──


「──ポトフッ!」


 思わず体を起こしていた。

「ミナト、もうすこし寝ていたほうが……」

 お嬢が心配そうな表情で俺を見る。

「いや、お嬢。俺はポトフを作らねばならないんだ」

「ええ。なんだか気絶しているあいだ、ポトフポトフとうわごとのように呟いてらしたので、今大吉たちが晩御飯に──」

「ちょ!」

 大吉は、ごく軽度の味覚障害があるにも関わらず、完璧を求めて工夫を凝らし、挙句に失敗する完全な料理オンチだ。

 狸小路家の食卓が冷凍食品で埋め尽くされているのは、大吉に対して料理禁止令が出ているからである。

 あんこは、家に帰れば母親が、外出すれば俺が料理を作ってくれるため、その必然性を感じたことがない。言わば、完全な素人だ。

 八尺の料理の腕は未知数だ。ゆえに、八尺だけが頼りと言えた。

「……と言うか、そもそも俺はポトフを食べたかったのではなく、ポトフを作りたかったんだ……。わがままだとは思うが、目が覚めるまで待っていてほしかったんだ……」

 思いきり肩を落とす。

「目が覚めたって、倒れた人間に料理なんて作らせられませんわよ。今日のところはみんなの作ったポトフで我慢してくださいまし。……夏場にポトフというセレクトも、よくわかりませんけれど」

「冬場に雪見だいふくが食べたくなるのと同じだ」

「ぜんぜん違うような……あ、ほら。なんだかいい香りが──」

 お嬢の言葉につられて、台所から漂ってくる香りに意識を集中する。

「カレー?」

「カレー……ですわね」

 俺とお嬢は顔を見合わせた。

 サイズの合わないエプロンをつけた八尺が、台所から姿を見せる。

「……ごめん。なんか、カレーになっちゃった」



 八尺謹製のカレーは、たいへん美味しかった。

「しかし、何故ポトフがカレーに……カレーポトフならわかるが……」

 食後の片付けを終えて、五人で居間に集まった。

 露草は、三人が逮捕されるのを見届けたあと、用事があると帰ってしまったらしい。

「まだ言ってるんですの、ミナト……」

 お嬢が呆れたように言う。

 その向かいで、八尺がソファに身を沈めながら俺の疑問に答えた。

「あ、うん。ポトフ作るって言ったら、ミナトくんのお父さんが、もしものときのためにってカレールーをくれたんだ」

「もしものときが来たのか」

「ちょっと……僕の口からは言えない事態になってね……」

「そうか……」

「カレーって、偉大だよね」

 八尺が遠い目をした。

 料理オンチの大吉とド素人のあんこがサポートを担当したのだ。

 なにも起こらないはずがない。

 恐らく、カレールーなしではどうにもならない事態に発展したのだろう。

 それでいて、野菜の大きさなどはきちんと揃っているのだから、なにがあったのやら。

「──そういえば、オヤジは? 姿が見えないけど」

「オヤジさんはねー。ミナトをひざまくらして動けないたぬちにセクハラしようとして、だいきっちゃんに関節きめられたあと、キャバクラ行くってふらふら出てった」

「あのクソオヤジ……」

 身内の恥をここぞとばかりに晒しやがった。

 オヤジの性格については全員が熟知しているので、今更ではあるのだが。

「あ、伝言預かってますわよ。ミナトが起きたらって」

 似合わないことをする。

「ひざまくらの感触がどうだったか、あとで聞かせて──だそうですわ」

 これ以上ないほどクソオヤジらしい伝言だった。

「あと、心配するのが親の仕事とはいえ、過労死だけは勘弁してね──とも、おっしゃっておりましたわね」

「あー」

 傷だらけの息子が意識不明で運ばれてきたのだから、さすがに肝を冷やしただろう。

 これはなにか埋め合わせが必要だな。

「──ああ、そうだ。お嬢。大吉。情報収集の結果は?」

「大吉、例のものを」

「御意に」

 大吉が自分のカバンから一枚の紙を取り出す。

 受け取って目を通すと、それは丁寧な手書きの表だった。

「火曜日の放課後と、水曜日の早朝。元二年八組付近で目撃された人間の、性別と学年とをまとめたものです。残念ながら、二年八組への入退室を目撃した──という情報はありませんでしたが」

「いや、十分だ。ふたりとも御苦労だった」

 火曜日の放課後に目撃されているのは、総計で二十二名。部活動のためか、かなり多い。調査漏れを考えると、この二倍では済まないだろう。

 対して水曜日の早朝は、総計で三名。内訳は、


 中学女子 一名

 二年男子 一名

 不明男子 一名


 となっている。

 ちなみに、学年は、上靴の色で見分けることができる。

「大吉、聞き込み対象の情報は?」

「はい。それは裏面に」

 紙を裏返すと、そこにもびっしりと表が書き込まれていた。こちらは表面よりも仔細に渡っており、半分ほどは氏名まで記載されている。

「さすがの手際だな……」

「恐れ入ります」

 独自の判断で、こちらが言っていないことまで実行してくれる。

 実に有能な執事だ。

 惜しむらくは、料理のときにその性格が裏目に出てしまうということだが。

「ねーミナトー。聞いたことまとめるのはわかるけど、なんで聞いたひとのことまで必要なの?」

「見たということは、そこにいたということだろ。怪しまれないよう、聞き込みのときには、ペンダントを拾ったからだと伝えてある。なら、聞き込み対象のなかに犯人がいてもおかしくはない」

「あ、なるほど」

 八尺がぽん、と膝を打った。

「そして、この表からわかることが、ひとつある」

 ぐい。

 四人が一斉に身を乗り出した。

「……そんなに大したことじゃない。もともと予想できていたことが、証明されたというだけだよ。たとえばお前たちが犯人だったとして、廊下に人がいるときに、人間を射殺しうるトラップを仕掛けようと思うか?」

「思いませんわね……」

「トラップを仕掛けるために、実際にどの程度の時間がかかったのかはわからない。けれど、単純とは言えそこそこ大掛かりなことも事実だ。ピアノ線を引き、クロスボウを固定させ、ふたつを連動する。仮に二、三十分必要として、そのあいだに誰かが入ってきては目も当てられない。断言はできないが、トラップが仕掛けられたのは、水曜日の早朝と見るべきだろう」

「なら、この三人のなか?」

「その三名を目撃した証言者も足して、計六名。互いに目撃し合っている──ということはなさそうだな。この六名が、現段階での有力な容疑者だ」

 場に沈黙の帳が下りた。

 皆、自分なりに事実を咀嚼しているのだろう。

「──ひとつ、ずっと気になっていたことがあるのですけど」

 お嬢が手を挙げて、口を開いた。

「なんだ?」

「ちょっと横道に逸れるのですが……。あのピアノ線の罠って、教室のなかから仕掛けるんですわよね?」

「そうだな」

「なら、仕掛け終わってしまったら、教室から出られないんじゃ……。ほら、あそこって扉がひとつしかないでしょう?」

「ああ、なるほど」

 そう考えてしまう気持ちはわかる。

「実際に開けてみればわかるんだが、あのトラップにはすこし遊びがあってな。半分ほどまでなら、扉を開けても起動しないようになっていたんだ。だから、ほんの少しだけ開いて、横歩きで出れば問題ない」

「あ、そうだったのですか。胸のつかえがようやく取れましたわ」

「それは重畳だ。他に質問はあるか? なければ、次に移りたい」

 全員を見回す。

 特に質問はないようだった。

「では、話を進める。先程三度目の殺人未遂があった。これにより、事態は次のステージへと移ったと言える。何故なら、みっつの重大な事実が白日の下に晒されたからだ」

 俺は指を一本立ててみせた。

「まず、ひとつめ。狙われているのが、俺個人であること」

 指を二本に増やす。

「ふたつめ。第二と第三の事件が同一犯であること」

 事実ではなく、極めて確度の高い推測にすぎないが、これを認めることで第一の事件との繋がりも強固となる。

 指をもう一本増やし、三本とした。

「みっつめ。犯人がミリタリーグッズマニアであること」

「はい! はいはーい!」

 あんこが体を目いっぱい伸ばして手を挙げた。

「みりたりーまにあ? って、軍隊とかのまにあでしょ? ふたつめの事件でくろすぼうを使ってたんだから、そんなのミナトならもうわかってたんじゃ?」

「いや、単にクロスボウトラップを仕掛けるだけなら、ひとつ買えば事足りる。マニアである必要はない」

「? どうちがうの?」

 あんこが小首をかしげてみせる。

 どうして俺、こいつにテストで負けてるんだろう。

「ミリタリーグッズ収集が趣味というのは、明確な個人情報だろ。それも、あまりメジャーな趣味とは言えない。親しい友人にすらそれを教えないほどの秘密主義か、そもそも友人がいないか──このどちらかでさえなければ、聞き込みによって、ほぼ確実に特定できる。チェックメイトだ」

 おー、と四人が拍手をした。

「以上のことから、明日以降の行動が決定される。全員で聞き込みをし、学内のミリタリーグッズマニアを洗い出すんだ。聞き込みの優先度には、お嬢と大吉の調査結果を反映する。さすがに全校生徒から無作為に探し出すのは難しいからな」

「ミナト様。ひとつ質問が」

「なんだ、大吉」

「以前の聞き込み調査は、極秘裏に行いました。今回、機密性の保持はよろしいので?」

「ああ、構わない。何故なら、俺たちが〈犯人はミリタリーグッズマニア〉だと知っていることを、犯人は知らないのだから」

「は、犯人がグッズマニアで何故なら知ってることを知らない……?」

「たぬち深呼吸しよ、深呼吸」

「ミナト様。申し訳ございませんが、もう一度わかりやすくお願いいたします」

「ああ。今回、犯人が使った道具というのは、人間だった。しかもネット越しだ。犯人側としても、駄目で元々。期待なんて、ほとんどしていなかったはず。そして、あの三人が捕まった以上、犯人に対する情報のフィードバックはない。だから、明日以降、俺たちが変わった様子もなく平気で登校していれば、それだけで犯人は〈未遂に終わった〉ではなく〈何も起こらなかった〉と考える。当然〈犯人はミリタリーグッズマニア〉という情報を俺たちが持っていると知ることもない。これは大きなアドバンテージだ。俺たちが全員で動けば、必ず犯人の知るところになる。探す口実に説得力を持たせれば、意図的に疑心暗鬼に陥らせることもできるだろう。攻勢に出るにせよ、守勢に出るにせよ、なんらかの動きを見せるはずだ。そしてなにより、もし動かなくとも特定するまでにそう時間はかからない。今回に限っては、パワープレイで構わないのさ」

「なるほど、了解いたしました」

「もっけの幸い、警察を味方にできるようになったことも大きいな。なにしろ、明確な殺人教唆だ。植木鉢だけではただの悪戯か事故。クロスボウトラップほど瞭然な殺意があっても、学校側で内々に処理されることが目に見えていた。明日、中央警察署に出頭するならば、仕掛けられていたクロスボウとピアノ線を証拠として提出し、経緯を洗いざらい話すことにしよう。あれには俺しか手を触れていないから、他の指紋があれば、十中八九犯人のものだ。それに、警察なら、閉鎖したブログからでも個人の特定ができるだろ。こちらからもチェックメイト──となる。あとは全員、犯人が見つかるまでしっかりと自衛すること。犯人については、こんなところだろう」

「はー、ひと段落って感じだね」

 八尺が、目に見えて肩の力を抜いた。

 八尺はこれでいて、誰よりも感受性が強い。俺のぶんの疲れや緊張まで、肩代わりしてしまっていたのだろう。

「八尺様。終わりは見えましたが、犯人が見つかるまで油断はなりませんよ」

「そうですわよ。軍隊マニアということは、ほかにもボウガンを持っているかも、ということでしょう? ……というか、そんなもの日本で販売していいのかしら」

「道具に罪はないんだよー、たぬち。ひとを刺せるからって包丁禁止したらこまるもん」

「ボウガンなんて、そもそも人を殺傷せしめるための道具じゃないですの!」

 皆、一斉に雑談を始めてしまった。

「──…………」

 しかし、まだ話は終わっていない。

 大事なことが残っている。

 ぱん、ぱん!

 と両手を叩き合わせて、皆の視線を集めた。

「──今度は、俺からの質問だ」

 四人が襟を正すのを確認して、口を開く。

「先程は、俺とあんこを助けてくれて本当にありがとう。お前たちがいなければ、俺の命がどうなっていたかわからないし、あんこも無傷とは行かなかったかもしれない」

 恐らく、ジュンジの突進を避けているあいだに、家屋の隙間に隠れていたボウイチに刺されただろう。

 奇跡的に回避したとしても、一対二。

 しかも相手は獲物を持っていて、こちらはあんこを人質に取られている。

 完全に詰みだ。

「だが、不自然だ。どうしても納得できない。想定外のピンチに、次々と仲間が助けに入る。これは漫画的な美談だ。けれど、そんなことが現実に起こりうるか? 全員が全員、まるでタイミングを合わせたかのように現れた。挙句の果てに、お嬢は対刃ベストまで着込んでいたんだ。これはもう偶然では済まされない。何者かの意図が介在している。違うか?」

 想像はついていた。

 この事件の陰には、ふたりの人間がいる。

 ひとりは、三度に渡る殺人未遂事件の犯人。

 そしてもうひとりは──

「──ミナトくん。これ」

 八尺が、ポケットから一枚の紙を取り出した。

 ノートを適当に破り取ったような、見覚えのある手紙。



 とわでらはっしゃくさんへ


 このまま行けばくたじまみなとさんが死にます

 がっこう帰り、家のそばで

 ナイフをもった男たちにおそわれます

 たすけてください


 ※ちゅうい※

 このことをだれかにいうと、どうしてもたすけられません

 くたじまみなとさんは死にました

 だれにも言わないでください



「──やはり、か」

「手紙のことをあらかじめ知ってて、ほんとによかったよ。従って、ほんとによかった」

 八尺が、安堵の溜め息をつく。

「お嬢と大吉もか?」

「ええ。こちらが、わたくしたちへの手紙です」

 お嬢から、同じようなノートの切れ端を渡される。



 たぬきこうじあやかさんと

 こばやしだいきちさんへ



 宛名は連名で、内容はほぼ同じものだった。

 ただし、〈狸小路にあるミリタリーショップで防刃ベストを購入し、制服の下に着込んでおけ〉と、お嬢への具体的な指示があることだけが異なっている。

 値段や型番、サイズまで事細かな指定までしてあった。

 手紙の主は、あらかじめ、在庫の確認まで済ませておいたのかもしれない。

「この手紙がなければ、お嬢様の命すら危うかった。目の前で主が危険に晒されているのに、私は反応さえできなかったのです。私は自惚れていました。これでは執事失格。今までなんのために自分を鍛え上げてきたのか……」

 ああ、大吉が自虐モードに入ってしまった。

 こうなると長いんだよな。

「だ、大吉! 結果的には怪我ひとつなかったのだから、気にすることないですわ!」

「そーそー、だいきっちゃんは結果だしてるもん。元気だしなよー」

「くうっ! きれいどころが総出で大吉さんを慰めに! やはりイケメンでないとダメなのか! 妬ましい……、妬ましいよミナトくん……」

「すげえどうでもいい」

 それにしても、指定された防刃ベストの値段がすさまじい。



 七万円です

 いちばん高いやつですけど、これならケガしません



 確かに、お嬢は怪我ひとつしていなかった。

 いくら刃筋が立っていなかったとは言え、ナイフで刺されてアザすらなかったと言うのだから、値段相応の性能である。

「よくそんな金があったな……」

 ふと呟いてから、しまったと思った。

「あ、僕もそう思った。七万円なんて、よくポンと出せたねー。僕もあんまお小遣い残ってないけど、よかったらすこし出すよ」

 そう言って、八尺が財布を取り出そうとする。

「──…………」

 お嬢と大吉が、顔を見合わせた。

「いえ……、あの、八尺さん? だ、大丈夫ですから。財布をお仕舞いになってくださいな」

 お嬢が作り笑顔を浮かべながら言った。

 ああ、これは、黙っていることに罪悪感を覚えている顔だ。

「えっ、どうして? 狸小路さんの家って──」

「り、臨時収入! 臨時収入がありまして! 現在狸小路家の家計はそこそこ潤っているんですわ! それはもう、ディナーのおかずが一品増えるくらい!」

 すると、宝石を売却したのだろうか。

 悪い話にはなっていないということだったから、俺の見立てよりも値が落ちたということはあるまい。

 それにしては例えがしょぼいので、比較的安価な品からいくつか見繕って売った──というあたりが妥当なところだろう。

「そ、そっか。よかったね、狸小路さん!」

 なにも知らない八尺の素直な言葉が矢となって、お嬢の胸に突き刺さる。

「え、ええ……ありがとうございますわ……なんか、す、す……すみま──おーっほっほっほっほっほっほっほっほ!」

 あ、誤魔化した。

「……?」

 八尺は、事情を知らないまま、ただにこにこと笑みを浮かべていた。

 この場に露草がいれば、八尺だけを仲間はずれにするという形にもならず、お嬢もパンクせずに済んだかもしれないのに──

「って、そうだ。露草だ。露草も手紙を受け取ったのか?」

「え、佐藤さん? いや、知らないけど……」

 八尺はそう答えて、考え込んだ。

「……僕が佐藤さんに会ったのは、ここ──ミナトくんの家に向かってるときでね。そのときは、たまたまだって言ってた。でも、遠くから東尋坊さんが人質に取られてるのが見えたとき、作戦があるって」

「例の、前後から足音を合わせて──というやつか?」

「そうそう! あれはうまいこといったよね! 僕、思わず飛び出してくとこだったからさ、佐藤さんが止めてくれてほんとよかったよー。なんかミナトくん思い出しちゃった」

 興奮して語り続ける八尺を尻目に、俺は思考に没頭していた。

 露草は「俺がそうしろと言った」と言っていた。

 しかし、当然ながら俺にそのような記憶はない。

 作戦を立てられるくらいならば、そもそも不意を突かれたりなどしていないだろう。

 噛み合っていない。妙な気持ち悪さがある。

「ねーミナトー」

 あんこが俺の袖を引く。

「この手紙の子、誰なのかなあ。どうして未来のことがわかるのかもフシギだし、どうしてあたしたちを助けてって手紙でおしえたのもわかんない。あたま、ぱんっぱん!」

「そうだな。特定こそできていないが、ある程度は絞り込めている。天ヶ瀬のおかげだ」

「天ヶ瀬さん、ですの?」

 お嬢が怪訝そうな表情を浮かべる。

「ああ。面倒なので言ってなかったが、天ヶ瀬は今回のアドバイザーだ。俺と天ヶ瀬の見解を話そう。まず──」



「──以上だ。なにか質問は?」

「東尋坊さん、終わったよ……。そろそろ起きなよ……」

「んう──おわっはあう……?」

 寝るなよ。

「さすがのわたくしも、すこしうとうとしてしまいましたわ……」

「あはは。東尋坊さんは爆睡だったから、それに比べれば」

「へあうあわ──う……」

 あんこが妙なあくびをする。

 惨憺たるありさまだった。

「……本当に要点だけをかいつまめば、この事件には〈俺を殺害すること〉を目的とする犯人と、〈俺を助けること〉を目的とする手紙の主がいるということだ。手紙の主は過去に遡り、事実を改竄することができる。そのため、俺が死んだという未来を観測した時点で過去へと戻り、事象の改変を行っている。その手段が、手紙だ」

 各人が各人の手紙へと視線を落とす。

「手紙の主については、あまりにも謎が多い。何故過去改竄などという常識はずれの行為が可能なのか。何故俺を守ろうとするのか。何故手紙などという間接的な方法で、それを行おうとしたのか。何故いままで俺にしか送らなかった手紙を、今回は皆に、しかも複数人へと送付したのか。疑問はいくらでも湧いて出てくる。だが、どうしても、手紙の主に言いたいことがあるんだ」

 俺はこぶしを固く握り締めた。

「──ありがとう。その一言だけ伝えたい。手紙の主は、もしかすると、自分の正体を隠したいのかもしれない。礼など求めていないのかもしれない。だが、俺を助けておいてそんなことは許さない。地の果てまでも追い詰めて、必ず感謝してやる。なんらかのお返しを伴ってな! ククッ……」

「とてもお礼をする側の発言とは思えない……」

 八尺が苦笑する。

「そうなると、また天ヶ瀬に助言を求めたいところだ。これは明日の課題かな。あいつの電話番号は、さすがに知らない」

「天ヶ瀬さんって、そんなに頭がよいんですの?」

「ああ。普段の言動から想像がつきにくいと思うが、めちゃくちゃだ。どうかしている。たぶん、あいつの知識は、しっかりと体系化されているんだろう。高度な教育を受けている証拠だな。俺みたいに穴だらけの独学とは違う」

「ええと……それについて行けるのだから、ミナトもひとりで勉強しているわりにはすごいんじゃ」

「独学としてはすごい、なんて褒め言葉は、ヤンキーとしては真面目、みたいなものだよ。あまり意味はないな」

「そ、そうですか……」

「んー、ミナト。よくわかんないけど、せらちゃんになんか聞きたいの?」

「せらちゃん?」

 誰だよ。

「天ヶ瀬星羅ちゃん。せいらちゃんだから、せらちゃん」

「……もしかして、友達になったのか?」

「うん!」

「いつの間に……」

 もしかして、校内でアドレスを知らない人間のほうが少ないのではないだろうか。

 あんこなら、ありうる。

「ちょっとまってねー」

「え、ちょ」

 止める間もなく、あんこが携帯を耳に当てた。

「あ、せらちゃん? あたしー。あはは、闇の子じゃないよ、あんこ。ほいでねー」

 俺と天ヶ瀬が揃うと、どうしても長話になる。

 あまり電話で会話したくはないのだが、あんこの厚意を断るのも悪い。

 今度、なにか甘いものでも奢ることにしよう。

 そんなことを考えていると、

「うん、カレーだよ。ミナトが作ったんじゃないけど。……うん。うん、そう。んじゃ待ってるからねー」

 あんこはそう言って、携帯を仕舞った。

「あれ?」

 電話を替わってくれるのでは。

「あ、せらちゃん今からくるってー」

「ちょっと待て。何故天ヶ瀬が俺の家を知っている?」

「えー」

「なにが不満だ」

「ミナト、せらちゃんち知らないの?」

「知るわけなかろう」

「だって、せらちゃんちってすぐそこだよ。ご近所さんだよ」

 あんこが指差したのは、あんこのマンションとは反対の方向だった。

「……もしかして、ジェントル北二十四条か?」

「うん、一階」

「おとなりさんじゃないか……」


 ──ぴんぽーん


 そのとき、インターホンが鳴った。

「って、早いわ!」

 リビングに、俺の突っ込みが虚しく響いた。



「んむ、ごちそうさま。なかなか深みとコクのあるカレーじゃないか。市販のカレールーではこうは行かない。私を満足させるに足る一品だったよ」

 残念ながら、それは市販のカレールーだ。なにが入っているかまでは知らないが。

「はは……」

「……──ふっ」

 八尺と大吉が、顔を見合わせて苦笑する。

 より正確に言えば、大吉は得意げな笑みを浮かべている。

 いや確かにお前の功績かもしれないけど、そのリアクションは違うから。

 たぶん偶然の産物だから。

「くたんじま、水を一杯くれたまえ」

「我がもの顔だな」

「ゲストが勝手に食器棚を開くのも、常識はずれではないかな?」

 もっともだと思ったので、素直に水を汲む。

 天ヶ瀬は小さく礼を言うと、懐から粉薬を取り出した。

「病気なのか?」

「大事はない。いまどき、持病のひとつもないほうが珍しいと思うよ」

「俺はいたって健康体だな」

「あたしもー」

「わたくしも、病気はあまり」

「私は執事ですので」

「僕も風邪くらいかなー」

「この健康優良児どもめ! 病弱は悪魔信奉者の必須スキルだと言うに!」

「スキルではないだろ」

 俺は天ヶ瀬の妄言を受け流すと、ティッシュを取って天ヶ瀬の頬を拭いた。

「カレーがついている」

「へうー……」

 と、

「──!」

 黙って口元を拭かれていた天ヶ瀬の左目がギラリと光った。

「狸小路綾花嬢! 君はう!」

「まだ取れてない」

 きれいになったあと、ティッシュをゴミ箱に捨てた。

「──綾花嬢! 君は今、とても興味深い視線を私に向けていたね?」

「ンなっ! ち、違いますわ! 見てませんわ!」

 お嬢の顔が一瞬で朱色に染まる。

「私にはわかるのだよ──人間の視線、そしてそこに篭められた感情が! ふふ……君はここにいる誰より才能がある。あらゆる負の感情は、悪魔の餌となろう。さあ! 私の同志となるが、ほあっ!」

 とりあえず、チョップをかました。

「お前、カレー、食った。いいから、意見、言う」

 天ヶ瀬がカレーを食べているあいだに、状況はすべて伝えてあった。

 この女なら既になんらかの答えを算出しているだろう。

「な、なぜカタコトなんだい!? 闇の子! なんかくたんじまが怖い!」

「闇の子じゃないよ、あんこだよー。よーじ済ませちゃってから、あとであそぼ? ミナトは短気じゃないけど、ガンコだから。あんこと、ガンコ。んふー」

 またつまらないことを。

 ちなみにあんこが闇の子と呼ばれているのは、

 闇の子

 闇子

 あんこ

 ということらしい。

 和菓子好きな両親の付けた名が、妙に仰々しくなったものだ。

「──ふ、ふふ、くたんじまよ! 契約には対価が必要だ! 私の見解を聞きたければ、相応の対価を支払えと言ったろう!」

「今カレー食っただろ」

「安い!」

「美味かっただろ」

「美味しかったけど!」

「じゃあ、いいじゃないか」

「よくない!」

「わがままだな」

「悪魔とはそういうものと知るがいい!」

 やけに子供っぽい悪魔だ。

「なら、どうすればいいんだ? そこまで言うなら、代案があるんだろ」

「当然だ! 私はこの頭脳が恐ろしいよ! なんて素晴らしい対価を思いついてしまったのだろう! くたんじま、君にとっては悪夢かもしれないが──」

「そういうのいいから」

「はい! ときどきでいいんで、晩御飯食べにきてええですか!」

「いいぞ」

 友人に料理を振る舞うのは、今に始まったことではない。

 週に一、二度は、必ず誰かが食べに来るしな。

「やたーっ!」

 天ヶ瀬がスプーンを持ったままくるくると舞う。

 今日の天ヶ瀬は無駄にテンションが高い。

 いまは私服だからか、マントを羽織っていなくてよかった。

 もし着けていたら、食卓テーブルの上の食器やら調味料やらが、すべて薙ぎ払われているところだった。

「はー……天ヶ瀬さんかわいい……」

「本気ですの八尺さん……」

 八尺が、小動物を愛でるような目で天ヶ瀬を見つめている。

「いやはやよかった! 私は料理ができないし、父もほとんど研究室で寝泊まりしているようなものだからね。日々の食事がまさに死活問題だったんだよ。しかも、闇の子がやたらくたんじまの料理の腕を褒めるものだから、もう食べたくて食べたくて!」

「研究室? 天ヶ瀬の父親は、研究職か」

「ああ、言ってなかったかな。H大の教授だよ。専門は宇宙科学だ」

 天ヶ瀬の知識の源泉が理解できたような気がした。

「それはすごいな。是非一度、会って話をしてみたいものだ」

「構わないよ。今度着替えを持って行くときにでも、一緒に来るかい?」

「ああ、頼む」

 俺と天ヶ瀬は、自然と握手を交わしていた。

「だだだ大吉! ミナトがあの女の御父上に挨拶に行くと!」

「落ち着いてくださいませ、お嬢様。あのミナト様が、そのような意図で言っているはずがありません。それに、ミナト様は、既に旦那様と面識がありましょう」

「そそそうですわよね! こちらが先ですわよね!」

 お嬢と大吉がなにか話していたが、よく聞き取れなかった。

「──さあ、対価もいただいたことだし、こちらも知識を授けなければならないね」

 天ヶ瀬が、マントをひるがえすように右腕を払った。

 マントはないが。

「私の灰色の脳細胞は、既にいくつかの興味深い着想を得ている。くたんじまはなにから聞きたい? まずはリクエストに答えよう」

「そう──、だな。何故、今回は俺ではなく、皆に手紙が宛てられた?」

 いつものように俺宛てにすれば、空手部のときのように、あの三人を封殺することができただろう。

 全員の手を借りて、僅かの危険すらなしに。

「逆だよ、くたんじま。皆に手紙を宛てたのではなく、君に手紙を出せなかったんだ」

「どういうことだ?」

「簡単なことだよ。手紙の主を──そうだな、リライターと呼称しようか。由来は言わずもがなタイムリライトだよ。リライターも、最初は、くたんじまに手紙を出していたんだろう。けれど、それではくたんじまの死を回避できなかった。君に手紙が届かなかったからだ」

 俺に手紙が届かなかった?

 思考を巡らせ、ある可能性に至る。

「空手部からの果たし状──」

「イグザクトリィ! 空手部の誰がくたんじまの下駄箱に果たし状を入れたのかはわからないが、先に手紙が入っていたとして、彼はどう行動すると思う?」

「ラブレターと思い込み、処分する──か」

「その可能性が濃厚だ。特に、手紙を入れたのが例の笹島とかいう部員なら尚更だね。すべての可能性で、くたんじまに宛てた手紙は処分された。この仮定から、逆説的に、リライターの行動可能な時間帯がわかるね」

「ああ、そうか。何度失敗したあとに気づいたかはわからないが、リライターは常に、空手部員よりも先に手紙を投函している。つまり、早朝に動いていることになる」

「わかるのはそれだけじゃないよ、くたんじま。君に手紙を出すのなんて、朝でなくても構わないはずなんだ。昼休みだっていい。授業をサボったっていい。けれどリライターはそれをしなかった。できなかったんだ。考えられる理由はただひとつ」

 天ヶ瀬が、人差し指を立てた。

「──目立つから」

 ぞくり、と。

 理解が俺の背筋を走っていった。

「リライターは外部の人間か、あるいは──」

「あるいは、神徳中学の生徒。校舎が繋がっているとは言え、下足場は別々だ。人目のある時間帯に高校側の下足場に入れば、さぞ目立つことだろうね」

 おぼろげだったリライターの姿が、徐々に明らかになっていく。

 これだから天ヶ瀬と話すのは面白い。

「では、今回に限って手紙での指示がやたらと細かかったのは何故だと思う? これに関しては、俺も一応の仮説を立てているが」

「そちらを先に聞こう。順番としても、次はくたんじまだよ」

「了解した。一通目の指示は、八尺の図書館利用証を探せ。二通目に至っては指示すらなく、二年八組に入れば死ぬと、事実だけを述べていた。これは、目の前の危機を回避するのに、その程度の情報量で十分だったということだ。実際、俺はここでこうして生きているしな。この認識を持って三通目を見ると、試行錯誤の跡が垣間見える」

「ほう、試行錯誤かい。たとえば?」

「〈このことをだれかにいうと、どうしてもたすけられません〉。これは、たとえば誰かが警察に通報したことでバッドエンドを迎えた──といったような展開を経験しなければ、決して出てこない文言だ。お嬢への手紙にあった、防刃ベストについてもそうだな。今回とまったく同じ展開で、お嬢が俺をかばって刺された。すくなくとも一度、そういうことがあったんだ。バッドエンドへの可能性をひとつひとつ潰して、ようやく今に至る。そう考えるのが妥当だと思う。恐らく数回か、十数回か──」

「私は、数十回単位だと思うよ。他の点についてはすべて同意だ。けれど、以上を踏まえて更にわかることがある。くたんじま、考えてみたまえ」

 天ヶ瀬の言葉に、素直に考え込む。

 以上を踏まえてわかること?

 いったいなんだ。

 一分ほど思考に没したころ、天ヶ瀬が口を開いた。

「……やれやれ、重症だね。くたんじま、君ならわかるはずなんだ。君にはそれだけの頭脳がある。いつまで目を背けている気だい?」

「──なんのことだ?」

「過去改竄のことだよ。そろそろ観念しなよ。もう、タイムリライターの存在は疑いようがないんだ。いつまでも保留にはできない。心当たりがあるだろう?」

「──…………」

「くたんじま。君は今まで、あえて過去改竄について考えてこなかった。もし過去改竄が可能だったなら──そのシミュレートはできても、過去改竄というものが果たしてなんなのか、どういった条件で可能なのか、制限はあるのか、エトセトラエトセトラ。本来疑問に思うべき点について、君は驚くほどノータッチだ。話していればさすがに気づくよ。ねえ、くたんじま。君の常識は、事実より強固なのかい?」

「俺、は──」

「──…………」

 俺の手に、そっと、あたたかいものが重ねられた。

「せらちゃん。あんまりミナトをいじめないであげて」

「いや、別にいじめられていたわけじゃ──」

「へあー……。ま、闇の子に免じてこのくらいにしておいてあげよう。べつに、くたんじまをやり込めたいわけじゃないからね」

 天ヶ瀬が肩をすくめてみせた。

「過去改竄についての、私なりの見解を話そうか。すくなく見積もっても十回以上の連続的な時間跳躍が可能であること。くたんじまの死から早朝まで、最低でも十二時間程度の遡行が可能であること。制限らしい制限はないこと。デメリットはないか、あっても使用することにためらいが起きない程度に小さいこと。逆に確定できないことは、どの程度遡るかの調整は可能なのか。特殊能力的なものなのか、あるいは道具を使用しているのか。リライター以外の遡行はできるのか、できないのか。すこし考えただけでも、このくらいは出てくるね」

「たしかに──言われてみれば、当然の分析だ」

 それだけ俺が、過去改竄について、考えが至っていなかったということだろう。

 天ヶ瀬に喝を入れられてさえ、固定観念が完全に消えたという自信はない。

「……ま、いいさ。過去改竄については、このくらいにしておこうか。ひとつ面白い仮説があってね。いくつか確認したいことがあるから、質問に答えてほしい」

 天ヶ瀬はここで、全員に視線を巡らせた。

「最近、露草嬢の元気がなかったというのは、本当かな?」

 八尺が真っ先に答えた。

「あ、うん。佐藤さんって僕を蹴るのがクセみたいなものなんだけど、ここ何日かはぜんぜん。いいことなんだけど、すこし心配だなーって」

「なるほど。では、露草嬢の知能程度について知っておきたい。成績でもいいし、語彙でもいい。単純か、複雑か。頭はいいのか、悪いのか」

「単純バカですわねえ」

「お嬢様のおっしゃるとおりかと」

「つっきーに言ってやろー」

「ひィ! あんこさん、やめてくださいまし!」

 騒がしくなった居間に、三度質問が飛ぶ。

「では、最後の質問だよ。右から順繰りに答えていってほしい。露草嬢の家族なり友人なりが、悪漢に拳銃を突きつけられたとしよう。彼女が取ると思われる行動は?」

 大吉から答えていく。

「はい。露草様であれば、そのたぐいまれな身体能力でもって、悪漢を即時制圧することでしょう。思考による時間のロスは存在いたしません」

「大吉に同じく、ですわ」

「まっすぐ行ってぶっとばす、右ハイキックでぶっとばす──って感じかな」

「つっきーだっていろいろ考えてるよー。さっきみたいに、まずは拳銃からけっとばすと思うな!」

「──俺の意見、必要か?」

「いや、結構だ。ありがとう。これで可能性をふたつに絞ることができた」

 天ヶ瀬は、そう言いながら、再びダイニングチェアへと腰掛けた。

 そして、ゆっくりと脚を組みながら言葉を継ぐ。

「人間が普段とはあからさまに違う行動を取るとき、そこにはなんらかの要因がある。露草嬢が暴漢を相手に、飛び掛かっていかなかったことにもだ。くたんじま、その原因に心当たりはあるかい?」

 すこし考えて、答えた。

「手紙、だろうか。皆と同じように、リライターからの手紙が露草にも届いていた」

「ひとつめの可能性は、それだね。しかし、不自然だとは思わないかな? 露草嬢と話したことがないからこそ、客観的な観点から断言することができる。私から見た彼女は、そんな胡散臭い手紙に従うほど、素直ではない。仮に駆けつけはしたとしても、作戦なんてまどろっこしいものに頼るほど、慎重でもない。何故ならば、絶対的な自信と、それを裏打ちする異常な身体能力があるからだ。違うかな?」

 言われてみれば、その通りだ。

 露草の取る行動としては違和感が残る。

「──アンタがそうしろって言ったのよ」

「ッ!」

 一瞬、どきりとした。

 天ヶ瀬の声が、まるで露草のように聞こえたのだ。

「露草嬢は、くたんじまにそう言ったのだろう? 実際、前後から足音を合わせて挟み撃ち──なんて作戦は、いかにもくたんじまらしい卑劣さだ。けれど、くたんじまに、そんな記憶はない。それはそうだね。あらかじめ作戦を立てられるくらいなら、不審者がいると通報したほうがよほど確実だもの。──となると、残る可能性はひとつだね」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! そんな──」

「待たないよ。まあ、この件に関しては考えが至らなかったのも仕方ない。ちょっと様子がおかしいくらいで、友人がそうだと断言してしまうようなら、それこそ頭のねじがぶっ飛んでいるからね。第三者だからこその見解、というものさ」

 ああ、そうか。

 そういうことなのか。

 天ヶ瀬は、うすく笑みを浮かべると、いまだ展開についていけていない四人へ向けて、大きく声を張り上げた。


「露草嬢は、過去改竄者──かもしれない!」


 場に沈黙の帳が下りた。

 しかし、それも一瞬のことだ。

 四者四様の驚愕の声に、居間は騒然となった。


 騙されないで

 アンタがそうしろって言ったのよ

 もうひとりいる

 やっと、終わった


 露草の言葉が脳内で踊る。

 露草は、最初から、相手が三人組であることを知っていた。

 それは単にリライターからの手紙に書かれていただけかもしれない。

 だが、露草がこぼした言葉──あれは、無数のバッドエンドの中から唯一のハッピーエンドを掴み取った安堵の声ではなかったか。



「──だめ。つっきー電話でないよー」

「妹さんとか、おうちの電話はどうですの?」

「うずちゃんもでないし、いえでんつながんない。なんか前、あいぴー電話にするって言ってたから、電話番号かわっちゃったのかも……」

「仕方ないね。佐藤さんには、明日直接聞こうよ。ちょっとびっくりしちゃったけど、今すぐにどうこうって話でもないしさ」

「八尺様のおっしゃるとおりですね。それよりも私としては、天ヶ瀬さんにお尋ねしたいことがあるのですが」

 大吉が、鋭い視線で天ヶ瀬を射抜いた。

「へえ、なんだい? 言ってごらんよ」

 射竦められるかと思いきや、天ヶ瀬は飄々としている。

「矛盾しています。先程あなたは、リライターは校外の人間か、中学生だと言った。そのたった数分後に、今度は露草様かもしれないと発言した。露草様は、校外の人間でも中学生でもない。この点について、お答え願いたい」

「あ、そうですわ! なんか変だと思ったら!」

 さすが大吉だ。いいところに気がつく。

「ありがとう、小林大吉。これでようやく話が進むよ。くたんじま、ごー!」

「人をあごで使うな。──大吉、お前の疑問はもっともだ。けれどそれは、必ずしも矛盾ではないんだよ」

「どういった意味でしょう」

「天ヶ瀬は、手紙の主をリライターと呼称した。けれど、露草に対しては過去改竄者としか言っていない。そもそも手紙の筆跡を見れば明らかなんだ。あの手紙は、露草が書いたものじゃない。あいつはもっと荒い字を書く。リライターではないんだ」

「しかし、それでは……」

「大吉。過去改竄者がひとりだと、誰が決めた?」

「あ──……」

 大吉が絶句する。

「露草は過去へと遡っている。これは、事実ではないが、憶測とも言えない。露草の発言を元にした、そこそこ確度の高い推測だ。そこに推測を重ねることで、あるいはリライターの正体さえ──」

「へあ────ッ!」

 がたん!

 天ヶ瀬が、叫び声をあげながら立ち上がった。

「な、なんだ!」

「くたんじま! 勝負!」

「はあ? 勝負?」

「やから、しょ、う、ぶ! 勝負のことわすれとった! へうーっ! ちょーし乗ってあんなことほんなことゆいすぎた! 敵に塩おくるどこの話やない! 重箱のおべんとおくるよなもんやん! くたんじまならぜーったいわかるー……もう負けやー……」

 ああ、悪魔学研究会への入部を賭けた勝負のことか。

 今までの情報を統合し、天ヶ瀬が手紙についてどのような知識を隠し持っているのかを推測すると──消去法で考えて、答えはひとつだ。

「──天ヶ瀬は、リライターの正体を知っている?」

「ぎゃふん!」

 実際に言う人間を初めて見た。

 天ヶ瀬は力なく椅子に腰掛けると、そのまま食卓テーブルに突っ伏した。

「負けてもた……完全に自爆や……」

「いや、それよりもだな」

「へうー?」

「神戸弁、思いっきり出てるぞ」

 俺は、四人のほうを指差した。

「天ヶ瀬さん、方言っ子でもあったんだね! ウルトラレアだよ!」

「せらちゃん大阪のひと?」

「あざとい……なんかあざといですわ、この女!」

「お嬢様。出身地はやむをえないかと」


「……へ、へ、へあう────────ッ!」


 天ヶ瀬の奇妙な叫び声が、古びた九丹島家を揺るがした。



「──さて、約束の情報だよ」

 神戸弁のことを口外しない約束を全員に取り付けた天ヶ瀬は、ようやく元の学者モードへと戻ってくれた。

 俺は天ヶ瀬を、学者モード、中二病モード、素、の三パターンに勝手に分類している。

 本人に言うと大いに抗議されそうだけど。

「私は日曜日、H大附属図書館にいた。ここまではいいね」

「ああ」

「では、図書館のどこにいたと思う?」

「知るわけがないだろ」

「いや、くたんじま。君は知っているんだよ。何故なら君は私のことを見たし、私も君のことを見た。会話こそしなかったものの、互いに認識し合ったのだからね」

「……? すまない。わからない」

「まあ、覚えていられても気持ちが悪い。私は、君の隣の席に座っていたんだよ」

 隣の、席?

「いや、すこし待ってくれ。俺の隣には、誰も──」


『思索に耽りながら自分の席へ戻ると、隣席に帽子をかぶった女性が座っていた』

『さきほどまでは誰もいなかったはずだ』


「──いた。八尺に呼ばれて席を立ち、戻ってきたときに」

「ああ、それが私だよ。そのときはたしか帽子をかぶっていたし、眼帯もしてなかった。研究室の父親に会いにきたはいいが、すこし時間を潰していてくれと追い返されてね。適当に本を選んで席についたら、隣の席にやたらマニアックな学術書が置いてあるじゃないか。たしかタイトルは、大規模構造──」

「宇宙の大規模構造、そのパーコレーション解析」

「そう、それだ。それだけなら気にも留めなかったんだが、戻ってきたのが同い年くらいの少年ときた。ああ北海道にも知識欲をこじらせたアレな輩がいるものだ、と感心しきりでね。そしたら今度は独り言で、タイムマシンがどうのとのたまう始末だ。これは趣味が合いそうだ、と顔を覚えていたんだよ」

「あれは天ヶ瀬だったのか……」

「面白い偶然だろう? もっと面白いのはここからだよ」

 天ヶ瀬はにやりと笑ってみせた。

「くたんじま。君がノートの切れ端のようなものを読んでいるのを見て、思い出したことがあったんだ。その十分ほど前、とある人物が似たようなものを手に駆けてきて、同じ書棚に入っていったことをね」

「ちょっと待て、天ヶ瀬! もしかして、その人物の風貌を覚えているのか?」

「覚えているとも。当然じゃないか」

「あっさり言ってくれるが、かなりとんでもないぞ」

 数日前にすれ違った人間を、全員覚えているとでも?

 俺の言葉に、天ヶ瀬は首を振った。

「いや、言いたいことはわかるが、違うよ。私だって記憶力には自信があるけど、そこまでじゃあない。せいぜいくたんじまと同じくらいじゃないかな?」

「なら、何故だ」

「簡単な話さ。印象深ければ覚えている。私はくたんじまの顔を覚えていただろう? それは、君に興味が湧いたからだ。同じように、その人物にも、印象に残るような特徴があった。だって、そのとある人物は──」

 天ヶ瀬がこちらを焦らすように、言葉を止める。

 そして一呼吸置いて、また口を開いた。

「その人物とは、子供だったんだから」

「……こど、も?」

 思いがけない単語に首をひねる。

 俺と天ヶ瀬の会話を黙ってきいていた四人も、同じく怪訝そうな表情を浮かべていた。

「リライターの正体は、子供なのか?」

「見た目どおりならね。まとめようか。私が見たのは、小学生くらいの女の子だ。やたら切羽詰まった表情で駆けてきて、手にはノートの切れ端を持っていた。学術書しかないような図書館に、子供がひとりでいるのは珍しい。しかも絵本の一冊もありそうな一階じゃなく、理系書渦巻く伏魔殿たる四階だよ? すこし気になって横目で見ていたんだ。書棚に入って、出てきたときには、もう切れ端は持っていなかった。彼女がリライターである可能性は極めて高い。ここまではいいかな?」

 天ヶ瀬の言葉を、頭のなかで反芻する。

「……ああ、問題ない」

「さっきまでは、私も、彼女のことを小学生だと思っていたんだけど、発育の悪い中学生だった可能性は否定できないね。リライターは外部の人間か、神徳中学の生徒だから、そのどちらでも矛盾はない。高校側の下足場にいれば、目立つことに変わりはないからね」

「発育の悪い、女子中学生──」

 ひとりの少女の姿が、脳内で閃いた。

「そして、露草嬢が過去改竄者であるなら、彼女と顔見知りか、それ以上の関係であると考えるのが自然だね。巻き込まれているだけ、という可能性もあるけれど。──おや? くたんじまに、綾花嬢に、闇の子よ。心当たりがあるのかい?」

 俺たちは顔を見合わせた。

 大吉と八尺は、恐らく会ったことがない。存在くらいは知っているだろうけれど。

 俺は、あんことお嬢に頷きを返すと、天ヶ瀬へと向き直った。

「──佐藤うずら。露草の妹で、神徳中学に通っている。姉に似て身長が低く、童顔であるため、服装によっては小学生と見間違えることもあるだろう。さらに、読書が好きだという情報もある。条件を満たしている」

 天ヶ瀬はすこし驚いた顔をして、

「これはまた……少々できすぎた展開だね。しかし、くたんじまと面識があるという点は見過ごせない。一度も会ったこともない人間を、ここまでの労力をかけて守ろうとは思わないだろうしね。リライターの正体がうずら嬢であるなら、よほどの恩讐があると見た」

「恩讐て」

 あるかもしれないけど。

「ねえ、あんこさん。うずらさんの写真はないんですの? ほら、けーたいの」

「うずちゃんの写真? なんで?」

「そのしゃめを、あのおん──天ヶ瀬さんに見せれば、一発じゃないですの」

「あ、そか!」

 お嬢のアイディアに、一瞬華やいだ表情を浮かべたあんこだったが、

「そだ、ないんだ……うずちゃん写真とられるのキライだから」

「いや、よくやった」

 俺はお嬢とあんこに近づくと、両手でふたりの頭を撫でた。

「ほわ!」

「っ♪」

 ふたりのおかげで、いいことを思いついた。

 食卓についたまま、呆れたような表情を浮かべていた天ヶ瀬を振り返る。

「天ヶ瀬、明日は一緒に登校するぞ。かなり早く出るから、準備しておけ」

「はあ。どうしてだい?」

「校門で、リライターを張る。顔を見れば特定できるだろ? 正体がうずらであれ、別の誰かであれ、これが一番手っ取り早い。外部の人間という可能性は、単に捨てきれないだけであって、かなり低いしな」

「べつにそれくらい、やぶさかでないが……。わかっているのだろうね?」

 細められた天ヶ瀬の視線が、値踏みするように俺の顔を這い回る。

「ああ、わかっている。対価は俺の、悪魔学研究会への入会だ。十分だろ?」

 天ヶ瀬は指を鳴ら──そうとした。

 鳴らなかった。

「マーァヴェラス! さすがくたんじま──いや、同志くたんじまよ!」

 天ヶ瀬が立ち上がり、俺の手を取る。

「しかし、唐突だね。どういう心境の変化だい?」

「なに。勝負の結果に納得が行っていないのは、お前だけじゃないということだ。あれでは勝たせてもらったのと変わらない。それに──」

「それに?」

「いや、なんでもない。これからよろしく、会長」

「……会長は少々気恥ずかしいな。星羅と呼ぶことを許そう」

「了解した。よろしく、星羅」

 天ヶ瀬──星羅は、はにかんだような笑みを浮かべた。

「あ、それなら僕も入るよ!」

 八尺が笑顔で手を挙げた。

 天井に指先がつかないよう、僅かに腕を曲げている。

「ずるい! あたしもはいる! いいでしょせらちゃん!」

 続いてあんこが、飛び跳ねながらそう言った。

「ふむ、千客万来だね。闇の子は言うまでもないし、と、とわ──」

「永久寺八尺だよ。よろしく!」

「ああ。永久寺もくたんじまの友人なのだから、素質はありそうだ。こちらこそよろしく頼むよ。──ふふ、ふふふふふ」

 あ、中二病スイッチが入った。

「アロケル、私だ。とうとう我が巣たる悪魔学研究会が──って、アロケル? あ、アロケル! しもた! デモナ・レメゲトンわすれてもた! この記念すべきときにぃ!」

 と思いきや、入りきらなかった。

 星羅が頭を抱える。

「なんだ、デモナ・レメゲトンって」

「私がいつも身に着けている、アレイスター・クロウリーの六芒星をかたどったタリスマンだよ! あれにはレメゲトンの断片が封じてあってね。契約者たる私はあれを通じてアロケルと交信しているんだ」

「と、いう設定なのか」

「設定ちゃう!」

「み、ミナト……」

 星羅の中二病設定を聞き流していた俺の袖を、そっと引っ張る者があった。

「どうした、お嬢」

「ミナト、本当に──ほんとうに、この女の部活に入るんですの!?」

 お嬢がびしっと星羅を指差した。

「この女とは随分じゃないか、綾花嬢。君も青春の汗を悪魔に捧げてみないか?」

「い、嫌に決まっているでしょう! そんなわけのわからない部活に入れますか!」

「それは残念だ。では、同志くたんじまは、会長たる私のものだね」

 そう言って、星羅が俺の右腕に抱きついた。

「ンなっ!」

「おい──」

「あ、ずるいせらちゃん! あたしも!」

 今度はあんこが、同じように左腕に絡みつく。

「ねえ、ミナトくん」

「なんだ、八尺」

「これは、僕も背中に抱きつく流れ?」

「もう好きにしてくれ」

「……やめとくよ」

「──…………」

 お嬢が肩を怒らせながら、視線だけで人が殺せるくらいに俺を睨みつけている。

 あー、これは荒れるな……。

「お嬢様。ここは、素直になったほうがよろしいかと」

 大吉がお嬢の背中越しに進言する。

「もう一度聞くよ、綾花嬢。悪魔学研究会に入る気はないかな?」

「う、う……」

 お嬢の顔が、狂おしげに歪んだ。

「は、はい、入り──」

「ふむ。入り、なんだい?」

「入り──ま……」

 苦しげに閉じられていたお嬢のまぶたが、カッと見開かれ──


「前向きに検討させてくださいませッ!」


 叫び声にも似た先送りの言葉が、九丹島家に響き渡った。



 このとき俺は、油断していた。

 星羅は、たとえるなら安楽椅子探偵だ。

 他人から情報を得て、実際に体験することもなく、真実に近い推理を組み上げる。

 このとき、もっとも重要なのは、探偵自身ではない。

 見たことを、

 聞いたことを、

 感じたことを、

 考えたことを、

 探偵に伝える助手がいなければ、彼女はなにもできない。

 助手たる俺は、できる限りの情報を、要約して伝えたつもりだった。

 けれど、俺自身が〈なんの関係もない〉と判断したことは伝えていないのだ。


 だから俺は、このとき感じていた気持ち悪さを、気のせいだと思ってしまった。

 星羅がなにも言わないのだからと、頼りすぎてしまった。

 もうすぐすべてが明かされるのだと、気楽に構えてしまった。

 思考を放棄してしまった。


 この日、俺は泥のように眠った。

 根拠のない解決への手ごたえを、胸に抱いて。

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