11-九月一日(木)

 翌日は、朝からすこし熱っぽく、ふらふらとしていた。

 恐らく不摂生が原因ではない。

 考えることが多すぎて、脳がオーバーワーク気味なのだ。

 知恵熱とは言わないが、気疲れしていることは否めない。

 あんこたちとの会話に生返事を返しながら、下足場で靴を脱いだときだった。

「あれ? ミナトくん、それって──」

 八尺が下駄箱を指さす。

 上靴のあいだに、茶封筒が一通挟まっていた。

「ミナトくん! きっと、今日こそラブレターだよ!」

「愛を綴った手紙を茶封筒には入れないだろ」

「そうかなー。はやく読んでみてよ!」

「──…………」

 茶封筒から一枚の便箋を取り出す。

 また、例の丸文字で、俺に対する警告が書かれているのだろう。そう思っていた。

 だから折り畳まれた便箋を開いたとき、

「……へ?」

 そんな間の抜けた声を漏らしてしまった。

「放課後……五時、武道場? ねえミナトくん、ちょっと読めないよ」

「ああ、ほら」

 ナチュラルに覗き見ていた八尺に、まあいいか、と手紙を手渡す。

 短い文章を構成していたのは、恐ろしく読みにくい文字だった。

 一般に、こういった癖のある汚い字を、悪筆と言う。

「えーっと……ミナトくん。これ、あのさ。いわゆる、果たし状──ってやつ、かな?」




 今日の放課後

 午後五時

 武道場にて待つ


 必ずこい

 一人でこい

 さもなくば

 お前のオトモダチがどうなるかわからないゼ


 敬貝




 携帯を取り出し、時刻を確認する。

 午後五時八分。

 俺は武道場の引き戸に手をかけた。


 ──ガラッ


「おおー」

 武道場は、外観から想像するよりもずっと立派だった。

 手前半分がフローリング、奥半分が畳敷きになっており、その畳だけでもざっと百畳はある。

 武道系の部活動に独占させておくのはもったいない。

 しかし、神徳高校のカリキュラムから柔道や剣道が消えてから、十年以上が経過していると聞いたことがある。

 俺が授業で使うことはないだろう。

「──君が九丹島ミナト君、かなあ?」

 視界に入っていた糸目の優男が、軽薄な声音でそう言った。

「ああ、そうだ。あんたは──空手部か? 申し訳ない、胴着の見分けがつかないものでね。空手部の主将、だろうか」

「……いや、副主将だよ。空手部は正解さ。そして──」

 副主将が右腕を大きく開き、背後を示す。

「これが、我が神徳高校空手部の誇る、百戦錬磨のつわものたちさあ!」

 百戦錬磨のつわものたち──要するに空手部の部員たちが、殺さんばかりの目つきで俺をねめつける。

 その数、十名。

 とは言え、半分ほどの部員はあまりやる気がないようで、申し訳なさそうに視線を逸らしていた。

「まあ、いいや。この頭の悪い手紙を書いたのは誰だ? この際、字が汚いのはいいとしよう。けれど〈わからないゼ〉と語尾をカタカナにするのは昭和のセンスだろ。それから〈拝啓〉もないのに〈敬具〉と書くな。おまけに〈具〉が〈貝〉になってるのはなにかの冗談か? 一瞬署名かと思って、珍しい苗字だと感心してしまったぞ」

「──ぷっ」

「くふっ」

 部員のうち、二名ほどが吹き出した。

淡島あわしまあ、等々力とどろきい、あとで校庭二十周なー」

「げっ!」

「お、押忍!」

 淡島、等々力と呼ばれた部員が、慌てて姿勢を正す。

「いやだなー九丹島君。それで挑発のつもりかい? その安っぽい挑発に、ぼかあもう怒り心頭さ! なにをしてしまうか自分でもわからないよ」

「……それで、用事は? ラインダンスでも見せてくれるのか?」

「決まってるだろお?」

 副主将は細い目をさらに細めて、にたあと笑った。

 こいつ、間違いない。

 サディストだ。

「リンチ。私刑。集団暴行。あとはなにかあったかな」

「九丹島君、人聞きの悪いことを言わないでおくれよ。今からここで行われるのは、ただの体験入部さ! ちょおっと怪我しちゃうかもしれないけど、空手部だもん! しかたないよねえ! なあに、ただの十人組手だよ。百人の十分の一だぜ、なんとかなる!」

「ここは極真かよ」

 そう呟きながら、手首の柔軟をする。

 さて、何発殴れるやら。

「あははあ! 九丹島君、やる気満々だねえ!」

「ひとつ聞いておきたい」

「メイドさんの土産かな?」

「どうして俺は、体験入部なんてする羽目になったんだ?」

「へえ」

 副主将の表情から、笑みが消えた。

「僕を小馬鹿にしておいて、そんなこと言うんだあ……」

「──…………」

 なるほど。

 鬱屈の果て、肥大化した自尊心が透けて見えるようだ。

 アウトラインは理解した。

「心の準備はそろそろいいよねえ。よくないって言っても始めちゃうけどねえ! それじゃあ、我が神徳高校空手部の皆さん──」

 副主将が、大仰な仕草で俺を指差した。

「泣きゲロ吐くまでやっちゃえよ」



 そもそも俺は、喧嘩が強いわけではない。

 水準以上の身体能力と、平均以下の持久力を持った、ただの一般人だ。

 運動と言えば風呂上がりに筋トレをする程度の俺が、日常的に人を殴る練習をしているような奴らに、勝てる道理はない。

 一人ですら怪しいのに、それが十人となれば──



「なあんだ、ゲロ吐いてないじゃない──のっと!」

「ぐぶっ!」

 副主将に蹴り転がされ、俺は仰向けになった。

 裂傷一ヶ所。

 捻挫数ヶ所。

 打撲傷、無数。

 骨折はないだろうが、肋骨にヒビくらいは入っているかもしれない。

 まぶたの上が切れて、血が眼球に流れ込んでいる。

 左目の視力はとうにない。

 ボロ雑巾のほうがまだましと言える。

「ま、僕は優しいからねえ。これっくらいで勘弁してあげるよ」

 副主将がしゃがみこみ、俺の顔を覗き込んだ。

 そして、その糸目をまんまるに見開く。

「──今・日・は♪」

 こういった手合いは何度か見たことがある。

 嗜虐欲求が満たされたことに興奮し、さらに快楽を得ようとエスカレートしていく。

 最初の予定を外れて、この程度で済ませるのはもったいないと思い込む。

 相手を可能な限り辱める。

 それしか考えられなくなっているのだろう。

「ふ、副主将! さすがにこれ以上は問題に──ほぶッ!」

 大柄な部員が、顔面を思いきり殴られてたたらを踏んだ。

「お前、僕より偉いわけ?」

「ひ、ひえ!」

 大柄な部員は、鼻からあふれ出る血を押さえながら、慌てて数歩下がった。

 興奮しているサディストに水を差すと、こうなるわけだ。

「えと、あの! ふ、副主将! 九丹島はいろいろな意味で有名人ですので、定期的に痛めつけるとなると、少々目立つかと!」

「そーおだねえ。九丹島君は有名人だもんねえ。僕だって知ってるよ、いろいろ武勇伝も聞いてる。ショージキさあ──チョーシぶっこいてるよねえ! あははあ! そーいうヤツの鼻っ柱を折ってやるのがイチバン楽しいよねえ! まあ、僕だって鬼じゃあないよ。だから、九丹島君がちょおっと僕のお願い聞いてくれたら、やめてあげるぜ?」

 これだから、名前が売れたところでろくなことがないというのだ。

 俺はそっと溜息をついた。

 副主将はそれに気づかなかったのか、機嫌よく弁舌を振るい続ける。

「ねえ九丹島君。ちょおっと合コン♪ セッティングしてくれないかなあ。知ってるんだぜ、九丹島君のオトモダチのコト。かわいい子ばっかだよねえ! ねえ、どの子が九丹島君の彼女なの? 教えてよお! と・く・に、可愛がってあげるからさ! あ、合コン会場はそこの男子更衣室とかでいいよね。十対三だとちょっと狭いかなあ?」

 副主将の言葉に、部員たちがざわめき始める。

 そこに篭められた感情は、戸惑い。そして期待だ。

 なるほど、性格に難はあれど、副主将を務めているだけはある。

 アメとムチを使って人心を掌握する術に長けているらしい。

 しかし、

「人間大砲……」

 ひとりの部員が呟いた言葉に、全員の動きがぴたりと止まった。

「人間大砲? なあにそれ、空でも飛ぶわけ?」

「い、いえ。九丹島の友人の、やたら小さい女生徒のことで……。他校のDQNを蹴り転がしてたとか、校舎裏の根元からぶち折れた木もそいつの仕業だとか、そういう人間離れしたうわさが絶えないんです」

「オレ、ボールでゴールネット破ったって聞いたわ」

「中島公園で、神徳の制服着た男子を少林サッカーみたいにぶっ飛ばしていたと──」

 すみません、最後の男子ってたぶん俺です。

「──お前ら、黙れよ」

 副主将が小さな、しかしよく通る声で呟いた。

「あのさあ。お前らって、あんなチビ女に負ける程度の鍛錬しかしてないわけ? いくら補欠だからって自信過剰──の逆ってなんつーのかな。とにかく、それすぎない? こっちは僕含めて十一人いるんだぜ。まさか十一対一で、女に勝てないとか言わないよなあ?」

 副主将が部員たちをねめ回す。

「返事は?」

「「「お、押忍!」」」

 まだ戸惑いを打ち消しきれていない様子で、部員たちがそう返事をした。

 さて、そろそろいいだろうか。

 全身各関節のチェックは既に済んでいる。

 走ることは無理だろうが、立って歩くことくらいは問題ない。

 痛みを我慢すれば、だが。

「──いで、いててて」

 俺はゆっくりと立ち上がった。

 脇腹の打撲が特にひどいようだ。

「あれえ、九丹島君。もう立って平気なのかい? もうすこし寝ててもいいんだよ?」

 副主将がにやにやと、うつむき加減の俺の顔を覗き込む。

「ああ、心配ありがとう。神徳高校空手部副主将、都築つづき正親まさちか

 俺は、さらりと、副主将をフルネームで呼んでみせた。

「──……?」

 副主将──都築は、不思議そうな顔で小首をかしげていたが、

「えっ」

 しばらくしてその不自然さに気づいたようだった。

「く、九丹島君。僕の名前なんて、知らないんじゃなかったのかい?」

 都築が一歩、俺から距離を取る。

 俺はポケットから一枚の紙を取り出すと、それを開いた。

「名前だけじゃない。えーと、三年一組出席番号十番、都築正親。もうすぐ引退なのになにやってんだあんた。ふむ、一年生の四月に空手部に入部。同九月に他校の生徒と問題を起こし、一週間の停学。停学はこれだけか、意外だな。同期入部の現空手部主将、多田野ただの次郎じろうとライバル関係にあるが、すくなくとも記録上勝てたことは一度もない。さらに、マネージャーの入鹿いるか梨香りかと──」

「だ、黙れえッ!」

 都築はそう叫び、俺の手から紙を無理矢理に奪う。

 そしてその内容を一瞥し、

「──は?」

 口を開いたまま動かなくなった。

「その部員、手紙の書き方講座にでも通わせたほうがいいんじゃないか?」

 何故ならそれは、今朝俺の下駄箱に入っていた、頭の悪い手紙だったからだ。

「え……、えっ? どういう、こと?」

「あんたのプロフィールを、その手紙持って暗誦してただけだよ」

「なんで?」

「ちょっと面白いかと思って」

「──…………」

 都築の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

「ば──」

 くしゃり、と。

 都築が手紙を握りつぶし、

「馬鹿にすんじゃねえよおおお──ッ!」

 その手で俺に殴りかかってきた。

 怒りにまかせた一撃は、あまりに大振りで、空手部副主将のものとは思えない。

 わざわざ挑発した甲斐があるというものだ。

「よっ──と」

 その腕を掴み、都築の体勢を崩すと、軽く足払いをかける。

 そして、仰向けに倒れた都築の鳩尾に、適度な威力でカカトを叩き込んだ。

「ぐぼッ!」

 という呼気とともに、都築が悶絶する。

 これで数分は動けないだろう。


「「「──…………」」」


 空手部の面々は、目の前でなにが起こったのか把握しきれていないらしい。

 ならばちょうどいい。

「大吉! 八尺! そろそろ入ってきていいぞ!」

 俺が声を張り上げると同時に、武道場の引き戸ががらりと音を立てた。

「す、すいませぇん……」

 最初に武道場へと足を踏み入れたのは、恐怖に身を竦ませている胴着姿の男子生徒だった。

 見張りが一人というのは、いささか警戒心が足りないと言わざるを得ない。

 続いて、にこやかな笑みを浮かべている大吉と、片手にビデオカメラを持ち、苦虫を噛み潰したような表情の八尺が姿を現した。

「刑法第二〇四条、人の身体を傷害した者は、十年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処す──だったかな。未成年者がどういう扱いになるのかは知らんが」

「ェほッ! どう──して……」

 畳の上で側臥しながら、都筑が乱れた呼吸で問う。

「手紙を見つけたのが午前八時で、指定されたのが午後五時。九時間もあれば、武道場のスケジュール表を確認して、今日の使用予定が空手部だけであること。空手部主将が現在足を骨折して自宅療養中であること。副主将の人となり、それから詳しいプロフィール。それくらいは簡単に調べられる。わざわざ人目のないところに呼び出す理由なんて予測するまでもないのだから、ビデオ撮影班を用意して窓から覗けばあら不思議。動かぬ証拠が手のなかに、というわけだ」

 情報源は、半分ほどがあんこ。

 残りは三年生や教師への聞き込みだ。

 こちらも学年問わず知人の多いあんこの人脈を最大限に利用させてもらった。

 今回の件に関しては、情報収集をしていることが相手にばれても、さほど問題はない。

 ビデオカメラは俺の私物だ。

 雑然とした部屋から発掘するのに手間取って、指定の時刻にすこし遅れてしまったが。

「都築。あんたの進路希望はたしか、スポーツ推薦だったな。まだ夏だし、今から頑張れば、その成績でも一般入試に間に合うさ。なんとかなる──」

「うお前らあッ! ビデオ奪い取れやああッ!」

 都築が上半身を起こし、渾身の力で声を張り上げた。

「「「押忍ッ!」」」

 その声に呼応し、部員たちが弾けるように動き出す。

 狙いはビデオカメラを持っている八尺だ。

 しかし、その直線上に──

「私を無視するとはいい度胸ですね」

 大吉が割り込んだ。

 俺の位置からでは、ふたりに群がる部員たちの陰となり、なにをしたのかはっきりとはわからなかった。

 けれど、その行動が導いた結果だけはわかる。

「ぐぶっ!」

「がああ!」

「あだァッ!」

 一息で三人がその場から吹き飛んだ。

 そのいずれもが戦闘不能には至っていないが、部員たちが大吉を脅威であると認識するのに十分すぎた。

「大回りしてうすらでけえのを狙えッ!」

 都築が鳩尾を押さえながら指示を飛ばす。

 五人が大吉を取り囲み、まだ立ち上がれていない三人を除いた二人が、左右から八尺を挟み撃ちにする。

 八尺の取った行動は、鈍重だった。

 ゆっくりとビデオカメラを足元に置き、首をこきこきと鳴らす。

「僕はね──」

 そして左右から同時に殴りかかった部員の襟を、親猫がするように掴み上げると、

「僕は、怒ってるんだよ」

「へ?」

「うえ──」


 ──ぶんっ


 そのまま、腕の力だけで投げ飛ばした。

 柔道ではない。

 そんな技術はまったく関係がない。

 ただ膂力だけで、八十キロはあろうかという人間ふたりを、同時に数メートルも放り投げたのだ。

 フローリングから一気に畳敷きまで移動したふたりは、その事実を認識できていないのか、不思議そうな顔できょろきょろと周囲を見回していた。

 残った五名が、動きを止める。

 今、目の前で起こったことが信じられないのだろう。

 それはそうだ。

 自分の頭上を、仲間がふたりも飛んでいけば、夢と現実の確認くらいはしたくなる。

 なにしろ、八尺の腕力を知っている俺さえ、目を疑ったくらいなのだから。

 それが隙となったのだろうか、

「──動くな、よお」

 気づけば俺は、背後から都築に首を極められていた。

「ぐ、う……」

 視界に入る都築の腕を、爪で引っかくように抵抗する。

 胴着が滑り、掴めない。

 完全に喉輪に入っている。

 鳩尾への一撃を手加減しすぎたのか、空手部ゆえに殴られ慣れているのか。

「執事い! でけえの! 動いたら僕の手が滑っちゃうよお! 入っちゃいけないところに指が入っちゃうって、ちょっとえっちいよねえ!」

 視力を失っていない右目のまぶたに、都築の指先が当てられた。

 意外ときれいに爪を切っているな、などと、緊張感のない思考が脳裏をよぎる。

「等々力い! ビデオ、回収しろ!」

 等々力と呼ばれた部員が、恐る恐る八尺へと近づいていく。

 そして、足元に置かれたビデオカメラを──

「動くなあ!」

 ぴくりと動いた八尺に、恫喝の声が飛んだ。

 等々力がビデオカメラを掴み、駆け足で元の位置へと戻る。

「──つ、づう……きぃ!」

「あははあ! 形勢逆転だねえ! 悔しい? 悔しいかい、九丹島くうん!」

 都築の勝ち誇った声が、耳元でいやらしく響く。

「あ、れを──あの、ビデオカメラぁ、を……壊、したら! 壊したらな、あァ! 予言する! 都築ィ──おま、え……絶対、絶対だ! 後悔、する──ぞッ!」

「壊すう? そんなひどいこと──」

 都築の顔は見えない。

 けれど、狐のように笑っている。

 そう確信する。

「するに決まってるじゃないか」

 そして都築は、等々力に指示を飛ばした。

「床は、まずいよねえ。──そうだ! 等々力い! 壁の、その鉄骨の出てるところにさあ! 思いっきり叩きつけてやれよ! 原型無くなるまでさあ!」

「お、押忍!」

 等々力が壁に近づいていく。

「つうぅ──づう、きいいい!」

「あはははあはははははははあははあ──」


 ──ガァン! カァン、ガンッ!


 等々力の腕が振るわれるたび、俺のビデオカメラが形を失っていく。

 ガラスの破片。

 割れた液晶。

 電子部品。

 小さなねじ。

 そういったものがフローリングの床に、軽い音を立てて散乱していく。

 もう、修理も不可能だ。

 あのビデオカメラは二度と使い物にならないだろう。

「──さあて、これはお仕置きが必要だよねえ。執事君とでっかい君にも、体験入部してもらわないとさあ! あ、反撃してもいいけど、いつでも僕の手が滑る用意はあるからねえ? そこんところよおおおおおく考えて反撃してねえ!」

 都築の指が、俺の右目にぐいぐいと食い込んだ。

 少々興奮させすぎたな。

 背後で小さく、扉の開かれる音がした。

 都築は気づいていない。

「つ、づき──悪いな……」

「はあァ? いまさら謝っても遅いよ、九丹島くうん!」

「ゆっ、くり……休んでくれ、よ」


 ──パン!


 …………ドォン……


 俺の背後で破裂音がして、戒めが解かれた。

 首をさすりながら振り返る。

「すまんな、露草。一時間以上も待たせて」

「……別にいいわよ。これくらい」

 都築を文字通り〈蹴り、飛ばした〉露草は、俯き加減にそう返した。

 露草に与えた役割は、待機だ。

 空手部が来る前に武道場に侵入し、女子更衣室から様子を伺う。

 そして、場がこじれた際には奇襲を仕掛け、混乱に乗じて鎮圧する。

 基本的に露草の判断で動いてもらう予定だったが、俺が人質に取られている状態のときは、隙を見て乱入するよう伝えてあった。

「都築は──、おお……」

 五メートルほど離れた壁に、上下さかさまになって寄り掛かっている。

 どうやら完全に気を失っているようだった。

「生きてるかな、これ」

「だいじょぶでしょ。手加減したし」

 手加減してこれか。

 相変わらず恐ろしい威力だ。

 そうは言っても、俺は、手加減なしの一発を何度も受けている。

 その上でこうして生きているのだから、よほど運が悪くなければ死にはしまい。

 俺が飛び抜けて丈夫だった、という可能性を考えなければ。

「──……人間、大砲」

 部員の誰かが、夢でも見ているかのような声音でそう呟いた。

 この二つ名も、俺が原因で付いたようなものなんだよなあ。

「いつつ──ああ、誰が呼んだかツンデレ人間大砲。そこのふたりと合わせて、十対三だな。俺は抜かしていいよ。とにかく、勝てると思うなら仕掛けてきても構わない」

 俺はそう言いながら、傷だらけの体に鞭を打って、八尺の元へと歩き出す。

「──ッ!」

 部員たちが慌てて道を開ける。

 そして、相変わらず仏頂面の八尺に向け、手を差し出した。

「八尺、例の──」

「ミナトくん。僕は怒ってる。君にだ」

「ああ……」

 八尺が怒るのは想定内だ。

「どうして君は、いつもそうやって自分を傷つけるような真似をするのさあ──ッ!」

 頭をワシ掴まれて、前後左右に激しく揺さぶられた。

「おおおううあああああやめやめってあーうーおー……」

「八尺様、そのままですとミナト様が気絶しかねないかと」

「はっ! ごめん、ミナトくん怪我人だった!」

 世界が回転する。

 ふらつく頭を右手で押さえながら、再び手のひらを出した。

「うう……あとでいくらでも謝罪はするから、今は例のものを……」

「あ、うん。──はい」

 八尺がポケットから取り出し、俺の手に乗せたもの。

 それは、64GBのSDカードだった。

 俺は空手部員たちに向き直り、SDカードを頭上に掲げる。

「空手部補欠の諸君、これがいったいなにかわかるだろうか?」

「──…………」

 部員たちは誰もが俺の真意が理解できなかったのか、周囲の顔色を伺うばかりだった。

「あっ」

 ひしゃげたビデオカメラを律儀に持っていた等々力が、小さな声を上げる。

 俺は、等々力に向かって軽く頷くと、

「等々力部員が壊したそれは、記録媒体がSDカードなんだよ。これは、あらかじめ撮影後に抜いておくよう指示しておいたものだ。だからビデオカメラを壊したところで意味はない。諸君らの犯行の一部始終が、この親指ほどの小さなカードに収まっている──というわけだ。理解できたか?」

「──…………」

 返ってきたのは沈黙だった。

 ある者は青い顔で、またある者は歯を食いしばりながら、皆一様に床を見つめている。

「俺はこれを、警察に渡そうと思っている。教師にではない。諸君らがした行動を、よく思い返すといい。都築に煽られたから? 断りきれなかったから? それを含めて、諸君らは集団暴行という行為を選択した。選択には責任が伴う。言い訳を聞くつもりはない。俺はただ、攻撃に対し反撃するのみだ。だが──」

 小悪党を真似て、片方の口角をにやりと吊り上げてみせる。

「全員一致で別の罰を受けるというならば、SDカードのデータは消しても構わない」


 原則二「人を傷つけた者に、報いを与えること」


 部員たちは戸惑いの表情を浮かべ、顔を見合わせた。

「あ、あの……その罰とは、なんで、しょうか……」

 ひとりの部員が、小さく手を挙げて質問をした。

「なに、簡単さ。警察に知れて学校内の問題では済まなくなり、他の部員を巻き込んで空手部が無期限活動停止になる──なんて不確定な未来に怯えるより、よほどましだ。この場ですぐ終わって、後腐れもない」

 俺は、両のこぶしを固く握り、胸の前でぶつけ合わせた。

「──お前ら全員、一発ずつ殴らせろ」



「ん……うう──」

 都築がうめき声を上げながら、その細い目をうすく開いた。

「意識が戻ったか、都築。気絶していたのは十分程度だ。壁まで蹴り飛ばされたわりには早い目覚めだな。どこか痛む箇所はあるか?」

「……んう、ああ。腹と、背中がすこし──って、おいィ!」

 ようやく自分の置かれた状況を理解したのか、都築が激しく暴れ始める。

 だが、都築の両腕をがっちりと固めている二人の空手部員が、それを許さない。

「お前らあ! くそッ! 離せえ! なに考えてやがるッ!」

「副主将! 暴れないでください!」

「ああン!? お前らわかってんだろーなあ!」

「副主将こそわかってるんですか! ここで暴れたら、俺たちが殴られた意味がっ!」

「はァ?」

 都築が周囲を見渡す。

 そこには、数人の空手部員たちが、苦悶の表情を浮かべて倒れていた。

「え──、えっ?」

「ビデオカメラを壊してもダメだったんです。九丹島さんは、あらかじめSDカードを抜いておいたんですよ! そして、そのデータを消してほしかったら、一発ずつ殴らせろと言われて──それで……」

「それで言いなりになったってのか! あァ!」

「仕方ないじゃないですかッ!」

「──っ」

 部員の上げた悲痛な声に、都築が思わず息を呑んだ。

「あの執事と巨漢、ちゃんと見てましたか? あいつらが五人潰すのに何秒かかったのか! 十秒だ! 十秒で半壊だぞ! そもそも十人程度じゃ勝ち目なんてなかったんだよ! みんな心が折れかけてたところに、ダメ押しの人間大砲だ! 副主将ッ! アンタ当事者だからわかってねーんだ! あの女がどうして人間大砲なんて呼ばれてるか知ってるか!? 人間を、大砲の弾みたいにブッ飛ばすからだよ! いいか! アンタ蹴り飛ばされて、水平にブッ飛んで、壁に激突したんだぞ! 俺に同じ目に遭えって言うのかよ!」

「おい、すこし落ち着けよ……」

 荒い息を吐く部員に、もうひとりの部員が声をかけた。

「だからって──だからって、こんな馬鹿な取り引きを飲む馬鹿がいるかよお! データを消す? ンなこた嘘に決まってんだろーが! なんだかんだ小理屈こねて、事あるごとに脅してくるに決まってんだろお!」

「ならどーすりゃいいっつーんだよ! こいつら三人で俺たち全員病院送りにできんだぞ! 一発殴られるだけで済むなら、喜んでブン殴られるに決まってんだろうが!」

「あー……ストップ」

 このままでは埒があかないと思ったので、俺は二人の口論に割り入った。

 ポケットからSDカードを取り出し、親指と人差し指で挟む。

「これが、証拠のSDカードだ。要はこいつを──」

 俺は指先に力を込めた。


 ──パキッ


 と、軽い音を立て、SDカードが二つに折れる。

「こうすればいいわけだな」

「──…………」

「なあ、都築。これで文句はないだろう?」

 都築が床に落ちたSDカードの残骸を見つめながら、ぼんやりと呟く。

「──九丹島君。君、馬鹿じゃないの?」

「よく言われる」

郷田ごうだ塚本つかもと。腕、離せよ」

 名前を呼ばれた二人の部員が、互いに顔を見合わせる。

「大丈夫。素直に殴られることにした」

 俺が頷いてみせると、二人は恐る恐る都築から距離を取った。

「都築。殴るのは腹だ。右と左、どちらが痛い?」

「左の脇腹が死ぬほど痛いよ」

「なら、こころもち右を狙う。これでも殴り慣れているから、そこそこ痛いぞ」

「ああ、僕だって殴られ慣れてる。いつでもいいよ」

「了解した。では」

 俺は小さく振りかぶり、

 思いきり腰をひねって、

 全身の痛みも忘れ、

 ただひとえに右腕を前へと突き出した。

「おブッ!」

 ゴムを殴ったような感触とともに、都築が前かがみにゆっくりと倒れていく。

「──ヴぉえッ! エふっ、ふうッ!」

 体を丸めて痙攣する都築を見ながら、俺は右手を軽く振った。

 殴り損ねて捻挫をすることはないが、それでも渾身の力で十発。

 関節にかなりの負荷がかかっている。

「さて、これで終わりだな」

 そう呟き、武道場を見渡した。

「九丹島さん! こいつ! こいつまだ殴られてません!」

「うえッ!」

 半身を起こした部員が、別の部員を指差していた。

 敗残兵のなかには、強制されてもいないのに敵側に与する者が必ず出る。

 指をさした部員はそういった手合いなのだろう。

 指をさされたほうの部員は、おどおどと視線を逸らした。

 身長一八〇センチ程度で体格もよく、しっかりと体を鍛えていることが伺える。

 補欠に甘んじているようには見えなかった。

 俺は、痛む脇腹を手で押さえながら、その部員の前へと足を運んだ。

「お前、名前は?」

「……さ、笹島ささじま……です……」

「そうか。笹島、手際は見事だったが詰めが甘い。手紙なんかで呼び出さず、油断させて拉致すればよかったんだ。お前の失敗は、俺に時間を与えたこと。それに尽きる」

「──へ……えっ?」

「お前は殴らない。一ヶ月前にもう殴っているからな。──ああ、そうだ。MK-250Wだったか。あれはすごいな。調べてみたが、張力が一五〇ポンドもあるらしい。結構腕力が必要なんだな。やはり通販で買うと、すこし安くなったりするものか?」

「え──は? うゥ、はい……?」

 笹島は、俺が何を言っているのか、本気で理解できていないようだった。

 なんだ、ハズレか。

「いや、勘違いだった。忘れてくれ」

 俺はそう告げて、きびすを返した。

「八尺。大吉。露草。手間をかけたな。もう用は済んだ」

 そのまま武道場を出ようとして──

「待って、よ……九丹島くうん! 納得の行く説明を、お願いできないかなあ!」

 独特の間延びした声が、俺を呼び止めた。

 振り向くと、腹を押さえながらようやく立っている都築が、それでも不敵な笑みを浮かべこちらを見つめていた。

 都築が悶絶しているあいだに立ち去ってしまいたかったのだが、仕方ない。

「──了解した」

 俺は溜息をついて、なにから話すべきかを脳内で軽く整理した。

「手紙を受け取って九時間、俺たちは空手部に関する情報を可能な限り収集した。そのなかには都築、あんたに関する無粋な噂話もある。俺はその情報を元に、お前たちがなにを企てているのかを推測した。なにを目的とし、どう行動し、いかに展開するか。けれどひとつだけ、どうしてもわからないことがあった」

「わからない、こと……?」

 都築が呟く。

「動機だよ。たかだか一人の生徒を集団で暴行せしめるために、ひとつの部活動が動員された理由。俺と空手部とのあいだに、よくも悪くもそこまでの繋がりはないはずなんだ。まさか、目障りなんて理由でリンチにかけるほど、うちの学校も荒れてはいまい」

 がり、と。

 笹島が親指の爪を噛んだ。

「だから、この武道場に足を踏み入れたとき、俺はまだその理由に気づいていなかった。どうせ俺が空手部の誰かを殴ったのが原因なのだろう、くらいには考えていたが──場を主導していた都築を見ても、まだピンとこなかった。印象的な糸目に、独特の口調。会っていればすぐに思い出したはずだ。しかしあんたは〈僕を小馬鹿にしておいて〉と言った。あんたの存在なんて今日まで知りもしなかったのに、馬鹿になどできるはずがない。だから都築。あんたに俺の悪評を、それもあんたを馬鹿にしているといった内容を、言葉巧みに吹き込んで利用した人間がいる。心当たりはあるだろ?」

「──……ッ」

「──…………」

 都築が笹島を睨みつける。

 笹島は、爪をかじりながら床を見つめていた。

「それとは別に、すこし試したことがあった。手紙の内容を読み上げて、挑発してみたんだよ。書いたのが都築でないことはすぐにわかった。あんたは自分への愚弄を冷静に受け止めることができない。吹き出した二人──淡島と等々力だったかな。彼らも違う。そして、歯をむき出しにしながら俺に殺意を向けていた部員が一人だけ……」

 動かそうとすると痛みの走る両腕を、ゆっくりと組んだ。

「情けないことだが、そのときようやく思い出してね。夏休みに入る前、放課後の校舎で女子中学生を空き教室に無理矢理連れ込もうとしていた、男子生徒の顔を」

 そっと横目に視線を向ける。

「笹島。あのとき殴った腹は、まだ痛むか?」

「ウわァ────ッ!」

 笹島が弾けるように殴りかかる!

 対処は可能だ。

 まだ距離がある。

 怒りにまかせた大振りは、さほど脅威ではない。

 だが、そのこぶしが俺に到達する前に、


 ──ベゴッ!


 笹島は、都築によって顔面を蹴り飛ばされていた。

「へぶッ!」

「なあ、笹島あ。ぜんぶお前の作り話ってことはさあ……あの罵詈雑言はお前が考えたってことだよねえ? ぜんぶお前が僕に思ってることってわけだよねえ!」

 倒れた笹島を、都築の蹴りが襲う。

「ひ、ひィ──」

 笹島は鼻血でフローリングを汚しながら、芋虫のように逃げ続ける。

「僕ッ、はあ! 僕を! 馬鹿にするやつを許さない! 全員ッ! 全員だ! 誰であっても! 教師であっても! 主将であってもだ! 死ね! 死ねよおッ!」

 武道場にいる全員が、あまりに凄絶な都築の様子に動けないでいた。

 いや、違う。

 誰もが笹島を自業自得だと、当然の報いだと思ってしまっているのだ。

 空手部員たちは、笹島の稚拙な嘘に踊らされていた。

 俺たちはただの被害者だ。

〈原則二〉に基づき、〈原則一〉の対象にも該当しない。

 だから、都築を止められるとすれば──


「止まれ、都築副主将! それ以上は見過ごさん!」


 武道場に、凛とした声が響いた。

 打っておいた布石のひとつだ。

 都築は武道場の入り口を見ながら、呆然と彼の名を口にした。

「た──だ、の……? 入鹿も……どうして……」

 そこには、左脇に松葉杖を挟んだ精悍な顔立ちの男性と、彼を支えるように右手を取っている目つきの悪い女子生徒の姿があった。

 空手部主将、多田野次郎。

 空手部マネージャー、入鹿梨香。

「彼女たちが家に押しかけてな。事情を聞いて、慌ててタクシーで飛んできた」

 多田野が首の動きで背後を示すと、

「「──ミナトッ!」」

 そこからふたつの人影が飛び出した。

 そして、俺を挟むように、あるいは雑巾を絞るように、ぎゅうっと抱きつかれる。

「ぐゥああああ──ッ!」

 当然、全身に激痛が走る。

「ミナト大丈夫? いたい? 病院いこ?」

「ミナト! 左目は見えますの? ひどい出血……」

「お、前らァ……いいから、離れてくれッ!」

 なけなしの力で抵抗し、ふたり──あんことお嬢を引き剥がす。

「ッ! はぁ、はァ……」

「九丹島君。やっぱりさあ、もう一度体験入部しない?」

 都築が、急に冷めた様子で、細い目をさらに細めて言った。

「──整列ッ!」

 多田野が、武道場の空気を震わす大声で、空手部員に指示を飛ばした。

 副主将の都築さえ例外なく、笹島すら体の痛みに耐えながら、あっという間に全員が一列に並ぶ。

 見張り役だった部員を含め、十二名。

 空手部は総勢二十一名なので、本来ならここにもう一列足されることになる。

「私は貴様たちの蛮行を、一部始終見ていた! こんな情けない気持ちになったのは初めてだ! 武道とは、鍛錬を通して自らを見つめ直し、心身をより高い次元へと運ぶためのものに他ならない! 多人数でたった一人を小突き回すなど、言語道断! 貴様ら全員、一から鍛え直すから覚悟しておけ! まずは校庭五十周! 返事は!」

「「「押忍ッ!」」」

「駆け足!」

「「「押忍ッ!」」」

 部員たちが列を崩さぬまま、駆け足で武道場を出ていく。

「──…………」

 そのとき、多田野とすれ違った都築の表情が、どうしてか印象的だった。

「九丹島」

 ぼんやりと都築の背中を目で追っていると、多田野に声をかけられた。

「すまない。私がもうすこし早く到着していれば、そんな怪我をすることもなかった。そもそも今回の件は、すべて私の監督不行届が原因だ。許してほしい」

「ジロー……」

 多田野が頭を下げるのを、入鹿が支える。

 このふたりは恋愛関係にある。

 そんな情報が、ふと脳裏をよぎった。

「いや、原因は俺にある。俺が殴り、笹島が殴り返した。それだけの話だよ」

 ポケットに手を突っ込むと、カサ、と四つ折にした紙が触れた。

 ああ、忘れるところだった。

「多田野主将。悪いが、これを都築に渡しておいてくれないか」

「? ああ……」

 紙切れを差し出す。

 多田野が受け取ろうとしてよろめいたので、代わりに入鹿に手渡した。

「せいきゅうしょ? 都築正親様、ビデオカメラ代として金五万九千八百円を──」

「……どういうことだ? 何故こんなものが存在している? ビデオカメラが都築の指示で壊されたのは知っているが、そんな……」

 多田野が眼鏡越しに、目を丸くして問う。

「大したことじゃないよ。ただ、こういう展開もあるかと思って作っておいただけだ。都築という人物の評判は、あまりよくなかったからな。だから、言ったはずだ。ビデオカメラを壊したら、絶対に後悔すると」

 そろそろ買い換えようと思っていたことは、さすがに伏せておく。

「ぜんぶ……お前の思い通りだってのかよ……」

 入鹿が怯えた視線を俺に向けながら、人差し指の腹を噛んだ。

 多田野が入鹿の肩に手を置き、口を開く。

「──九丹島。私にも、どうしてもわからないことがあるんだ。そこまで事態のすべてを想定していて、なお、甘んじてリンチを受けたのは何故だ? 君の頭脳と、友人たちの手腕。それがあれば、怪我をすることなく都築たちをやり込められた。そもそも笹島の件だってそうだ。もっと平和的に、望むなら致命的に、あるいは秘密裏に、笹島を止める方策を、君はいくらでも思いつけた。そして実行できたはずなんだ。顔を晒して、正面から殴るなんて愚策を、何故わざわざ選択する?」

 この質問ならば、簡単だ。

 考えるまでもない。

「リンチを受けたのは、俺が笹島を殴ったからだ。笹島を殴ったのは──いや、俺が他者を殴るのは、殴り返すという選択肢を与えるためだ」

 一瞬、武道場に沈黙の帳が下りた。

 それが不理解からくるものだと、俺は知っていた。

「ふざ──けンなッ!」


 ──パァン!


 頬を張られたと気づくのと、痛みが走るのは同時だった。

「お前は何様だ! 何様のつもりなんだよッ!」

 俺を平手打ちしたのは、入鹿梨香だった。

 油気のない長髪を乱し、三白眼気味の目に涙を滲ませながら、怒鳴り続ける。

「選択肢ってなんだよ! 与えるってなんだよ! 先のことが読めるからって神様きどりかよ! 避けられたんだろ! 止められたんだろ! マサチカがあんなことする前に、なんとでもできたんだろ! そうしなかったんなら、ただの当たり屋じゃねーかッ!」

「……否定しないよ、入鹿梨香」

 俺は入鹿に向かい、一歩を踏み出した。

 そして、


 ──パンッ!


 入鹿の頬を、平手で打った。

「俺の視界は、俺の世界だ。ここでは、人を傷つけた者は必ず報いを受ける。それは当然、俺自身もだ」


 原則二「人を傷つけた者に、報いを与えること」


 入鹿がへなへなと膝を折る。

 多田野は、恋人であるはずの入鹿を一顧だにしなかった。

 あごに指を当てて、ただじっと俺を観察していた。

「君の──九丹島の世界? 興味があるな。話してみてくれないか」

 俺は頷いた。隠すようなことでもない。

「人にはそれぞれ世界がある。自分の見える範囲の世界。その世界で、人は王として振る舞える。俺も、あんたもだ。他者を征服するのもいい。強者にひれ伏すのだって構わない。それは各人の自由だ。だから、俺の世界にはルールがある」

「ルール?」

「この小さな世界の住人がおおむね笑っていて、おおむね幸福で、人を傷つけたらその報いを受けること。そのために、王たる俺は全力を尽くす。それだけだ」

「矮小な世界で善政を敷く王──それが、君の正義というわけか」

 多田野は俺を値踏みしているようだった。

 好きにすればいい。

「正義ではない。どちらかと言えば、悪だろうな」

「偽悪者を気取るのかい? 君はたしかに、そのルールで人を笑顔にしているだろう。幸福にしているだろう。救っているだろう。それは誇っていいと思うがね」

「けれど、俺は間違っている」

 多田野の表情が、不理解に歪んだ。


 原則三「自らの正しさを、常に疑うこと」


「間違っているのに、押し付けるのか? それでは自家撞着を起こしてしまいかねない」

「間違っているから、押し付けるんだ。正しければその必要はないだろ。たかだか七年しか生きていない分際で、正義を語るのは滑稽だ。絶対的な正しさなど存在しない。俺がしているのは、子供の我がままだ。価値観の強要だ。だから俺は、正されなければならない。反論されなければならない。反撃されなければならない」

「だから──顔を晒して、稚拙な手段で、相手を攻撃するのか。いつでも反論できるように。誰でも反撃できるように。相手を、正面から、殴るのか」

「そうだ」

 多田野の言葉に、大きく頷いた。

「ふふ──そうか、そうか! ははは! よくわかったよ九丹島!」

 多田野が大口を開けて、呵呵と笑った。

「くくっ、いやすまない。九丹島、前々から君に興味があってね。私はこれでも、人を見る目はあるほうなんだ。それでも以前は、底の浅い正義漢かと思っていたのだが、なるほど君は面白い! 実に面白い!」

「ジロー……?」

 興奮して体を大きく揺する多田野を、入鹿が再び支えようとする。

「──きゃっ!」

 しかし、多田野はそれを撥ね付けた。

「君がそのパーソナリティを得るに至った経緯を、是非とも知りたいものだ! 九丹島、君は自分で気づいているか? 君のそれは、信念なんかじゃない! 信念とは認められない! 君は自動的なんだ。機械的と言い換えてもいい」

「なに言ってるんですの! ミナトは機械なんかじゃ──」

 お嬢が反論するが、すぐに多田野に遮られる。

「どうせ君も、九丹島に救われた口だろう。救うだろうさ、ルールなんだから。そう決まっているんだから。知っているかい? エアバッグにだって人は救えるんだよ」

「──ッ!」

 お嬢が悔しげに口を閉ざす。

 俺は、反論する気などなかった。

「信念と、機械。その差はなんだ?」

 多田野の発言で気になった部分を問う。

 ただそれだけ。

 多田野は人差し指を立て、言った。

「いいかい九丹島。信念は、揺らぐんだよ」

「揺らぐ?」

「どんなに固い信念だって、絶対に揺らぐ。暗闇のなかを手探りで進むようなものだ。まっすぐなんて歩けない。自分がどこにいるのか、振り向いて確かめることもあるだろう。そして、揺らぎながら、迷いながら、それでも目的地を目指すんだ」

 多田野は指先をふらふらと揺らし、最後には天井を指差した。

「対して、機械は揺らがない。入力された目的地に向けて、ただまっすぐに歩いていくだけだ。目的地が間違っていても、止まることはできない。そんなこと、思いつきさえしない。信念を根底で支える強靭な精神なんてない。必要とすらしない。機械的に足を踏み出し続けるだけの自動人形。それはたぶん、ひどく病的で、歪んでいる。もし九丹島が、私の思ったとおりの人間ならば、なにを言ったところで君には届かないだろう。けれど、あえて尋ねよう。君はその信念らしきものを得てから、一度でも揺らいだことはあるか?」

「──…………」

 一度でも揺らいだことはあるか?

 その言葉にさえ、俺は揺らいでいない。

 あなたの血液型はA型ですね。

 そう言われて、首を縦に振るときのように。

 俺は多田野の言葉を、ごく自然に受け入れている。

 なぜなら、俺は──

「ミナト……」

 考え込む俺を、背後からそっと抱きしめるものがあった。

 耳元で、あんこが囁く。

 吐息がくすぐったいと思った。

「だいじょうぶ。正しくなんかなくていい。人形だってかまわないよ。そのままで、みんな、ミナトのことが大好きだから」

 言葉が、心の奥に染み込んでいく。

 沈みかけていた意識が、水面に浮上した気がした。

「──…………」

 多田野と視線を交わし、口を開いた。

「──多田野主将。俺も変わっているもしれないが、あんたも相当だ。空手部っていうのは性格破綻者の集まりなのか? 正直、都築のほうがまだ理解しやすいよ」

「なに、これでも公明正大な主将で通っているんだよ。公私の区別がはっきりしているだけだ。私の趣味は人間観察ではなく、人間収集とでも呼ぶべきものでね。ポケモンにでも例えればよくわかると思うのだが、攻略サイトに頼らずに伝説系ポケモンを見つけたときのような昂揚感を、君に覚えていたんだ。興奮にまかせて非礼を言ったならば、詫びよう」

 多田野が軽く頭を下げた。

 どうでもいいが、ポケモンやるのかこの人。

「その代わりと言ってはなんだが、君たちにひとつだけアドバイスをしてあげよう」

 多田野はにこやかに、俺の背後にいる五人へと視線を向けた。

「九丹島は平等という妄念に憑かれている。それはもう、九丹島というパーソナリティから切り離すことはできない。だから、君たちが傷つくことを恐れるなら、彼と距離を置くべきだ。近しければ近しいほど、好意を持てば持つほど、いずれ負う傷は深くなる」

「なにを──言ってるんですの?」

 お嬢が呆然と多田野に問う。

「それは自分で考えてみたまえ。傷つくのを待つのも自由だ。止めはしないよ」

「この、下郎ッ! わたくしたちを侮辱するのもいい加減に──」

 す、と。

 お嬢の言葉を、腕で制した者がいた。

「主の言葉を遮る非礼をお許しください」

 それは、大吉だった。

「多田野主将、御忠言痛み入ります。あなたはミナト様のすべてを暴いた気でおられるかもしれません。けれど、その行為に意味はないのです。すくなくとも私は、ミナト様のけったいな人生観になど、露ほどの興味もないのですから」

 けったいとか言うな。

「私どもは多かれ少なかれ、ミナト様に救われてここにおります。ミナト様にそのつもりがなかったとしても、その事実は──その認識だけは、決して揺るがない。たとえミナト様が平等のもとに、私どもを切り捨てたとしても。その過程で、誰かが深く傷ついたとしても。それが最善なのだと、納得してしまうでしょう。全員が、心から」

「お前ら……みんな、頭イカれてるよ……」

 入鹿が指の腹を噛みながら、そう呟いた。

「イカれてるのはどっちですのよ」

「なんだと!」

「なんですの!」

「てめー、センパイに向かっていい度胸──むぐう!」

 お嬢と口論を始めた入鹿の口を、多田野が塞ぐ。

「君たちには野暮な忠告だったようだね。長々と話してしまった。そろそろ部員たちの監督に行かねばならない。こんなことを言うのもなんだが、有意義な時間だった。謝罪はもう済ませたから、礼を言うよ」

「ああ、こちらこそ」

「都築のことも、できるなら許してやってほしい。あれは確かに問題児だが、本来はそれほど攻撃的でもないんだ。笹島に、よほど痛いところを突かれたんだろう」

「多田野主将。たとえば、あんたに対するコンプレックス──とかな」

 多田野は苦笑してみせた。

「かもしれない。なんだかんだと言わせてもらったが、人の中身なんて結局、推測することしかできない。検算することはできない。近しい人間さえ、ね。けれどたぶん、都築は君のことを気に入ってると思うぜ。あれは素直じゃないが、優秀な人間を好ましく思うたちだ。そうでなければ私の友人は務まらない」

 自分は優秀だ。

 さらりとそう言って、多田野はきびすを返した。

「あんたは自信家だな」

「事実だよ。謙遜するのが嫌いなだけだ」

 そして多田野は、武道場から出るときに、一度だけ振り向いた。

「九丹島。私は君のことが好きだが、君には私のことを嫌っていてほしいよ。だから、会話をするのも、これ一度きりにしたい。それでは、もう二度と会わないことを祈って」

「ああ。またな」

 俺の天邪鬼な反抗に、多田野は体育会系らしいさわやかな笑顔を浮かべた。

 そして、武道場に、いつもの六人が残される。

「むうー……なんなんですの、あのイルカだかアザラシだかいう女子マネージャーは! こっちは被害者! あっちは加害者! そこんとこ自覚が足りてませんわよ!」

 お嬢が頬を膨らませながら、憤懣やるかたない様子でそう漏らした。

 あんこが頬に人差し指を当て、ぼんやりと天井を見上げながら言葉を紡ぐ。

「……でもあたし、入鹿さんのきもちわかるかなー。ほら、万引きGメンってテレビでときたまやってるよね。あれ、万引きしそうなひとをじーっと見張って、万引きするのを待つの。でもそれって、なんかヘンだなーって。わかってるんだったら、する前に止めてあげればいいのにって、いつも思うんだ」

「それこそ甘えくさった考え方ですわよ。止められる人がいてもいなくても、万引きをする人はするでしょう? もし止めたところで、改心するわけでもないでしょう。自分が罪を犯したのは、誰も止めてくれなかったからだ! なんて、ただの責任転嫁。単なる世迷言にすぎませんわ!」

「うーん……犯人のひとはそうなんだけど、家族のひとからすれば──」

 あんことお嬢の会話を興味深く聞いていると、大吉が身を寄せてきた。

「ミナト様。すこし確認したいことが」

 大吉の声量に合わせて、俺も小声で返す。

「どうした」

「笹島部員に仰っていた、型番のようなものについてです。あれは……」

 大吉は、そこで言葉を止めた。

「ああ、二年八組の件だ。あの表現なら、仕掛けた本人か、よほどのマニア以外は理解できまい。逆に言えば、犯人であればなんらかのリアクションを起こしたはず。結果的にはハズレだったみたいだけどな」

 コンパウンド・クロスボウ MK-250W 張力一五〇ポンド

 元二年八組に仕掛けられていたクロスボウの型番を調べた結果、弦を引くために滑車を利用するコンパウンド・クロスボウという種類だということがわかった。

 しかしこの張力になると、滑車の有無に関わらず、弦を引くためには相当な膂力が必要となる。

 実際に試してみたが、七割程度の力を込めてようやく引ききることができた。

 腕力だけにはそこそこ自信のある俺でこの有様なのだから、成人男性でも半数ほどは途中で力尽きるだろう。

 推測される犯人像は、体格のよいミリタリーマニアの男性。

 空手部員はこの犯人像に比較的近い。

 実のところ手紙の申し出に応じたのは、半分以上がそれを確認するためだった。

 クロスボウトラップのことがなくとも、恐らく同じことをしただろうけれど。

「そうでしたか。こちらもまだ、有力な情報は掴めておりません」

「発生日時から二日、つまり明日を目安として情報収集を打ち切ろう。それ以上は不自然だし、目撃者の記憶も曖昧になる。明日以降は別方面からのアプローチを考えておく」

「了解いたしました」

 大吉がそう一礼したとき、

「あ──ッ!」

 と、八尺が唐突に大声を上げた。

「なにか見落としてると思ったんだよ! み、ミナトくん! SDカード!」

「SDカードがどうした?」

「あのSDカード、もしかしてずっとカメラに入れっぱなしだったんじゃない!?」

「そうだが……」

「やっぱり! こないだ海行ったときの撮影データがァーッ!」

「──……あっ」

 夏休みに皆で海へ行って、久しぶりにビデオカメラを使った。

 その記憶がフラッシュバックのように蘇る。

 そのSDカードを入れたままにしてあったことも、ついさっきそれを都築の前で折り割ったことまで、鮮明に。

 痒くもない後頭部をぼりぼりと掻く。

「あー、やっちゃった……」

「やっちゃったーじゃないよ! あああみんなの貴重な水着姿があー……」

 よほどショックだったのか、八尺がへなへなとその場にくずおれる。

 撮影はすべて八尺にまかせていたので、特段の思い入れがあったのだろう。

「すまない、八尺。ビデオを新調したらまた撮ろう。海は季節的に無理だから、今度はプールにでも行こう」

「それは行きたいけど、あの日のデータは二度と戻ってこないんだよう……。東尋坊さんのプロポーションのわりに清楚なワンピース、狸小路さんのプロポーションのわりにチャレンジブルな布面積の狭いビキニ、佐藤さんの──うん、水着姿……。波打ち際ではしゃぐ三人を物陰からそっと撮影した、タイトル〈夏のきらめく小悪魔たち〉が大画面で確認することさえできずひっそり電子の海へ消えて行ったかと思うと胸が痛くて──」

 お前本性隠す気さらさらないだろう、という八尺の呟きに、

「ンなっ──」

 お嬢は頬を染めて絶句し、

「あははー、はっしゃくんえっちだー」

 あんこは屈託のない笑みを浮かべ、

「──…………」

 露草は左腕を押さえながら、ただ俯いているだけだった。

 やはりだ。

 やはり、様子がおかしい。

 この流れで、これ見よがしに突き出されている八尺の尻を、露草が蹴り飛ばさないのは不自然なのだ。

 八尺が神妙な表情でこちらを見た。

 視線を返し、小さく頷く。

 今のは俺たち六人の、完成された流れだった。

 何十回と繰り返した、いわゆるお約束のパターン。

 ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」のような、お決まりの流れ。

 八尺はその流れを、意図的に作り出した。

 露草の様子を伺うために。

 二日前の一件が、まだ尾を引いているのか?

 切なげに伏せられた露草の瞳。

 不安げに肩をすくませるその姿が、ふと記憶の水面にさざなみを起こす。


「……──そう、だ」


 思い出した。

 正確には、思い出していた。

 それがようやく線で繋がったのだ。

 俺は、露草の姿を通して、笹島に襲われかけた女子生徒を見ていた。

 あのとき彼女は、サイズの合わない眼鏡を掛けていなかった。

 肩まである艶めいた髪を、側頭部で結い上げていなかった。

 似ていない姉妹と思っていたが、やはりどこか似ている。


 夏休み前のあの日──

 俺は、佐藤うずらと出会っていたのだ。




 病院での診断は、〈過労〉だった。

 北二十二条にある田淵医院は、内科・外科・胃腸科の三つを標榜する俺のかかりつけだ。

 院長の田淵医師は寡黙な好々爺で、生傷の絶えない俺を何も聞かずに治療してくれる。

 去年の一学期、八尺への暴力行為を巡って露草と〈一発勝負〉を行ったときは、さすがに朴訥な声で「……警察に相談したほうがいいよ」と気遣ってくれたけれど。

 なにしろ日を追うごとに幾何級数的に打撲と擦過傷が増えて行き、最終日には両前腕骨と肋骨を折られて入院する羽目になったのだから。

 ちなみに、一発勝負とは、俺と露草が交互に攻撃し合い、一発でも有効打を当てることができれば俺の勝ち。その前に力尽きれば俺の負け、という単純な勝負だ。

 俺の体重であれば、露草の手加減なしの蹴り一発で、十メートルほど宙を舞う。

 それを、数日かけて計百発。

 総計一キロメートルを蹴り転がされた計算になる。

 しかも、記念すべき百発目は、〈手加減なし〉どころではない〈本気〉の一撃だった。

 防いだ俺の両腕ごと肋骨を数本持っていったのだ。

 あのとき俺が何メートル飛んだのか、誰か測っていた人間はいないだろうか。

 たぶん世界記録だと思うのだが。

 当の露草は、その直後、大吉によって組み伏せられたらしい。

 痛みに朦朧としていたので細部はよくわからない。

 しかし、単純に〈大吉は露草より強い〉と言えるわけでもないようだ。

 大吉いわく、肉体派の三人は、それぞれ異なるステータスが突出しているらしい。

 大吉は、技術。

 八尺は、力。

 露草は、スピード。

 技術はスピードに勝ち、スピードは力に勝ち、力は技術に勝つ。

 偶然とは思えないほどに見事な三すくみを描いているのだ、と。

 もちろん、特定の条件下ではスピードが技術に、力がスピードに、技術が力に勝つこともあるだろう。

 それどころか、俺との一発勝負で露草が疲弊していなければ、ただ他を隔絶する圧倒的なスピードだけで、大吉の戦闘技術を凌駕したかもしれない。

 そもそも速さの根底にあるのは瞬発力、つまり筋力なのだから。

 このとき大吉は、いろいろあってあっさりと八尺に投げ飛ばされているので、三すくみというのは正鵠を射た表現だろう。

 八尺と露草は本気で仕合ったことがないけれど、八尺が勝つ未来はどうしても見えない。

 それにしても──露草の異常な身体能力の源泉は、いったいなんなのか。

 人間の脳は、己の筋肉に対し、常に一定のリミッターを設定していると聞いたことがある。

 持てる力のすべてを出し切ってしまうと、筋繊維や筋組織が自壊してしまう。

 そこで、日常生活を送るにあたり不要な筋力を、脳が抑制しているのだと。

 その度合は、一般人であれば最大筋力の三割程度まで。

 一流のスポーツ選手などは、五割までを引き出すことができるらしい。

 以上を踏まえて考えると、頷ける点は多々ある。

 普通の人間は、五十キロを超える肉の塊を十メートルも蹴り飛ばすことはできない。

 二メートルはあろうかという校舎の塀を一息で跳び越えることはできない。

 炎天下のグラウンドで数十分間も全力疾走を──いやちょっと待て。

 リミッターが機能しておらず、常に十割の筋力を引き出すことができるとしても、いささか人間離れし過ぎてはいまいか。

 ……たぶん、これ以上は考えてはいけないのだろう。


 閑話休題。


 俺の一ヶ月の入院という犠牲を経てようやく、八尺への蹴りが照れ隠しであり、止めようとしても止められないこと。

 その蹴りも、格闘家が小学生とスパーリングをするくらいに優しく放たれていることが理解できた。

 詳しい事情は八尺には打ち明けていないけれど、俺に対する容赦のない一撃を見て、露草の蹴りが自分への悪意ではなかったことを感じ取ったらしい。

〈好意の裏返し〉ではなく、単に〈ものすごくコミュニケーションが苦手な子〉として捉えているようだが。

 結果として、俺は勝負に負け、八尺への暴力を止めることはできなかった。

 しかし、本人たちが納得している以上、これでよかったのだと思うことにしている。

 そのような凄絶な経験から、いまさらこの程度の怪我など、怪我のうちには入らない。

 痛むには痛むが、それだけだ。

 生傷には慣れている。

 それより問題なのが、過労からくる発熱だった。

 アドレナリンの過剰分泌によるものか、朝に感じていた熱っぽさは綺麗に消え失せていたが、武道場から外に出た途端にぶり返した。

 卒倒こそしなかったものの、意識が朦朧としてその場にしゃがみ込んでしまったのだ。

 こういった発熱は、そう珍しいことではない。

 定期テストが終わったあとは、たいてい熱を出して半日ほど寝込むし、連日に渡って難解な学術書を読んだりすると、気づけば数時間ほど倒れ込んでいることもある。

 数年前までは、単に体が弱いのだろうと思っていた。

 しかし、あんこによれば、これは〈エンスト〉なのだという。

 いわく、俺はブレーキのついていない自動車のようなもので、一度アクセルを踏んでしまえば加速することしかできない。

 加速して、加速しきれなくなって、やがて車体が限界を迎え、大破する。

 だからその前に、脳が勝手にエンストを起こすのだと。

 たしかに俺は、集中するとそのことしか考えられなくなるタイプだ。

 あんこの見解は興味深く、また当を得ていると思えたため、その話を聞かされて以来自己認識を改めた。

 だからこれは、エンストなのだ。

 八尺が「負ぶって病院まで連れてこうか」と申し出てくれたが、遠慮させてもらった。

 帰宅ラッシュの札幌駅を、おんぶで踏破する勇気はさすがにない。

 お嬢は病院まで付き添うと言い張ったが、大吉によると宝石売却の件で予定が入っているとのことだったので、こちらも丁重に断った。

 露草は、話し掛けても生返事をするばかりで、いつの間にか姿を消していた。

「んふふー」

 繋いだ左手がぶんぶんと振られている。

 正直、まだすこし痛む。

 まぶたの上の傷が思ったより深かったため、まるで天ヶ瀬のような眼帯を処方されてしまった。

 おかげで視界がかなり限定されてしまっている。

 とは言え、首ごと左を向けば、右目で彼女を見ることができるのだけど。

「んー? どしたのミナト」

「ああ、いや。やたら機嫌がいいじゃないか」

「そーお? ……にひー」

 熱で朦朧とする俺の手を引いて病院まで連れて行ってくれたのは、あんこだった。

 家が隣同士のため一緒に帰宅することが多いあんこは、怪我をしたときなどには必ず付き添ってくれる。

 もしお嬢と大吉に予定がなかったとしても、あんこはついてきてくれただろう。

 そのあんこが、笑い声を噛み殺しきれない様子で、すっかり日の暮れた二十四条の歓楽街を上機嫌で歩いている。

 俺の左手に指を絡めて、ぶんぶんと振り回しながら。

 歩道で幅を取っている俺たちは、他の歩行者からすれば迷惑もはなはだしい。

 ただでさえあんこは整った容姿をしているので、好悪問わない視線があちこちから刺さっていた。

 背後のブレーキ音で自転車に気づき、歩道の端に寄るときさえ、手を離そうとしないのだから。

 あんこと手を繋ぐのは、珍しいことではない。

 半分眠っているあんこを学校まで引きずっていくことなど、日常茶飯事だ。

 けれど、恋人つなぎは滅多にしない。

 よほど機嫌のいいときにしか見られない行動だ。

 田淵医院で治療してもらっているあいだに、熱は峠を越していた。

 いまは顔の火照りが気になる程度で、意識も足取りもしっかりしている。

「なあ、あんこ。家まで近いし、手を繋がんでも──」

「どあーめっ! ミナトを家まで送るのは、あたしのシゴトです、ので!」

「──…………」

 なんだというのだろう。

 俺が怪我をすると、あんこは怒る。

 最初は泣くほど心配して、大丈夫だとわかると、治るまでずっとぶーたれている。

 保護者気取りなのだから当然かもしれない。

 今日だって、病院を出るまではずっと怒っていた。

 それが、

「んふー♪」

 いつの間にかこの通りなのだから、本当によくわからない。

 歓楽街を抜けて、街灯の少ない住宅街へと差し掛かった。

 五分もすれば家に着く。

 だが、帰宅する前に、あんこが機嫌をよくした理由が知りたくなった。

「あんこ。どうしてそんなにごきげんなんだ?」

 満面の笑みを浮かべ、あんこがこちらを向いた。

「にひー、知りたい?」

「ああ、知りたい」

「どーしよっかなー」

「おい……」

「うそうそ、教えるよー。だってミナトに言わなきゃ意味ないんだもん」

 俺に言わなければ、意味がない?

 すこし記憶に引っ掛かるものを感じたが、思い出すことはできなかった。

「ね、ミナト! 覚えてる?」

「なにをだ?」

「にっちょーび! 我が名はミナト、願いをひとつだけ叶えてやろう──って、あたしに言ったじゃん!」

「あー……」

 言った。

 たしかに言った。

 実のところ、厄介ごとが立て続けに起こったせいで、忘れかけていたけれど。

「そんな神龍みたいな言い方はしなかったと思う」

「そんでね、ほいでね! ずうっと考えてて、やっと願い事思いついたんだー」

 う。

 思いついてしまったのか。

 思いついてしまったものは仕方がない。


 制約1「約束を破ってはならない」


 俺は、あんこのどんな願いでも、全身全霊を賭して叶えるだろう。

 一億円であろうと、世界征服であろうと、全力を尽くして。

「──で、どんな願いだ? できれば常識的な範囲で頼みたいが」

 あんこの常識が俺の常識と合致すればいいのだけれど。

「あはー、そんなイヤそーな顔しなくってもだいじょぶだよ! この願い事はね、すごいの! みんな笑顔になれるんだよ。ミナトも、あたしも、たぬちも、だいきっちゃんも、つっきーも、はっしゃくんも! みんな笑顔だよ! にひー」

 あんこはそう言って、カバンを持った左手の人差し指で、自分の口角を吊り上げた。

「笑顔、ね」

 たしかに、それは素晴らしい願いかもしれない。

 すくなくとも、俺の存在基盤に反しない。

「笑顔がいちばん! だからね、あたしの願いは──」

 気づかなかったのは、熱のせいだろうか。

 あんこの願い事とはなんなのだろうと、耳を傾けていたからかもしれない。


「わアあああああああああ────────ッ!」


 だから、背後で上がった叫び声も、自分とは無関係だと思っていたし、


「──……つッ」


 背中を押された衝撃で二、三歩たたらを踏んだときも、あんこと繋いでいた手が離れてしまったことに、複雑な感情を抱いただけだった。


「ヒぃ──ッハハハあ! この馬鹿マジでやりやがった!」

「ささささびねこさん、かか仇は、ととったからね!」

「すっげェよお前! ラヴって人を強くすんな!」

「ららラヴとか言うなよ、ボクとささびねこさんはそういうんじゃねっし!」

「うっせェデブ! いいからさっさとズラかんぞ」

「ぼボクはただ正義をし執行しただけであって──」


 騒がしい声が遠ざかり、ようやくほのかな痛みに気がついた。

「み、な──と……?」

 つぷ、と。

 体内からなにかが抜ける感覚があった。

 背筋を曲げないよう、まるでロボットのように不自然な動きで振り返る。

 あんこが、血まみれのナイフを持って、立っていた。

「あ、あの、みなと。これ刺さって──」

 ああ、そうか。

 抜いてしまったんだな。

 足元を見る。

 まるで失禁したかのように、地面が黒く染まっていた。

 この出血量だ。

 確実にどこかの臓器を損傷している。

 もしナイフが刺さったままであれば、ここまでの事態にはならなかった。

 あんこがナイフを抜かなければ、一命を取りとめることもできただろう。

「ちが、あの──血が、だいじょぶ? ごめん、ごめんなさい……」

 俺は死ぬ。

 心臓の鼓動が早い。

 皮膚が熱を失い、全身に冷や汗が浮いている。

 出血性ショック。

 急速に血液を失いすぎた。

 俺を刺したのはあの男たちで、

 俺を殺したのはあんこだ。

 それを知るのは、今ではないかもしれない。

 けれど、いずれあんこはその事実に苛まれる。

 だから、救急車を呼ぶよりも、大切なことがあった。

「ごめん、ごめ──」

 涙で顔面をぐしゃぐしゃにしているあんこから、震える手でナイフを奪った。

 あんこが俺を殺した──なんて現実を、未来を、俺は絶対に認めない。

 絶対に許さない。

 ねじまげてやる。

 ねじふせてやる。

 今まで俺がそうしてきたように。

 最後の最後だって、足掻いてやる。

「──みなと?」

 一刺しで終わらせる。

「あん、こ……気にするな。【お前のせいじゃ、ない】。いいか。【お前のせいじゃないよ】。【これは──絶対だ】。俺が嘘を、ついたこと……なんて、あったか?」

 感覚のなくなりつつある手であんこの頭を撫でて、髪をぐしゃぐしゃにしてやった。

「うん……、うんッ!」

 あんこが下唇を噛みながら、必死に頷く。


 制約2「嘘をついてはならない」


 俺は嘘をついた。

 人間として、最初で最後の嘘を。

 下手な嘘を。

 そして、あんこを軽く突き飛ばすと、可能な限り素早く──


 ずぶ、と。


 自分の心臓に、ナイフを突き立てた。


 熱が引いていく。


 下がっていた体温が、限界を超えて失われていくのがわかる。


 平衡感覚が失われ、倒れゆく俺を、支えるものがあった。



 意識が消えていく。



 俺が俺でなくなっていく。




 最後に感じたものは、




 唇にそっと触れた、やわらかな







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