10-八月三十一日(水)

 四人で雑談しながら通学路を行き、下足場で靴を交換する。

 そのとき、八尺が小声で尋ねてきた。

「……ミナトくん。佐藤さん、どう思う?」

「露草か」

「うん。いつも通りだと思うし、そのはずなんだけど、なんか変じゃないかな。なんというか──空元気、みたいな」

「今日はまだ、八尺も蹴られてないしな」

「蹴りの回数を元気のバロメータにするのやめようよ」

「茶化さずに答えると、俺にもよくわからん。昨日LINEしたときは普通に──」

 そこまで口にして、下駄箱に折り畳まれた便箋が入っていたことに気がついた。

「なんだこれ」

 人差し指と中指で挟んで持ち上げる。

「わっ! ミナトくん、もしかしてラブレターじゃないかな!」

「便箋むき出しで愛の告白もないだろ」

「そうかなー。ちょっと読んでみてよ!」

「ああ」

 三つ折りにされた便箋を開く。

 そこには一行、


 二年八組に入ると死にます!


 とだけ書かれていた。

 元二年八組。

 俺たちが仲間内でよく使う空き教室だ。

 現在、神徳高校の二年生は五組までしか存在しない。

 数年ほど前、少子化に合わせて各学年の教室の位置を整理した際、プレートを外すのを忘れて、以来そのままにされているらしい。

 それよりも、俺には、気になることがあった。


 死にます!


「す」!


 くるりと回す部分を「○」で代用した、特徴的な丸文字。

「ミナトくん、これ……」

「──間違いない。あの手紙と同じ筆跡だ」

「どうしよう」

「事の真偽を確かめる」

「じゃあ、二年八組に行くの?」

「ああ。実を言うと、最初からその予定だったんだ。お嬢と大吉に話があってな」

「やっぱり……」

 何も知らずに二年八組へ行けば、手紙の示す通りになっていたのだろう。

「僕も行くよ。何が起こるかわからないし」

「いや。八尺には、あんこと露草の安全を確保していてほしい。間違っても巻き込まれないように、だ。お嬢は、俺と大吉で守る」

 八尺が、渋々ながら頷く。

「……わかった」

 手紙を畳んでポケットに突っ込むと、あんこが廊下から俺たちを呼んだ。

「ふたりとも、置いてっちゃうよー」

 俺と八尺は、互いに目配せをして、小走りに二人を追いかけた。



「逆に問おう。俺がその程度の理由でプライバシーを漏らすような人間だとしたら、お嬢は俺に内密の話をしようと思うか?」

「──……う」

「お嬢様の負けでございます」

「う、う──うきゃあーッ! もおーッ!」

「申し訳ありません、ミナト様。お嬢様の慎ましやかな脳がパンクいたしまして」

「いつものことだな」

「聞こえてますわよッ!」

 そこで俺は視線を上げた。

 二年八組。

 そうプレートに書かれている。

 間違いなくここが手紙に記されていた場所だ。


 二年八組に入ると死にます!


 死に方は明記されていない。

 手紙を信じるならば、あらゆる危険を想定すべきだろう。

「……爆弾とかじゃなければいいんだが」

「ミナト、どうしたんですの? 入りませんの?」

「あー、ええと──そうだな。お嬢、大吉、扉からすこし離れていてくれないか」

 元二年八組の教室に、扉はひとつしかない。

〈入れば死ぬ〉というシンプルな文面から推測するに、この扉になにかが仕掛けられている可能性は低くないだろう。

「はあ?」

「お嬢様、ミナト様の指示に従いましょう」

「どうしてですのよ」

 お嬢が不満げな表情を浮かべる。

「ミナト様がそう言うのです。なにかしら理由があるに決まっておりますので」

 大吉が、さりげなく、お嬢をかばうように立つ。

 既に事の次第は伝えてある。

 この執事であれば、何が起ころうとも、命を賭してお嬢を守り抜くだろう。

「わたくしはその理由が知りたいんですわ!」

「たぶん、すぐにわかる。だが、離れなければ、いつまでもわからん」

「むー……」

 頬を膨らませながら、お嬢がきびすを返す。

 恐らく危険のないであろう距離まで二人が離れたのを確認し、俺は、教室側の壁に背中を預けた。

 正面から普通に扉を開くのは、愚行だ。

 仮想罠を〈扉の開閉に合わせて起爆する爆発物〉として、被害を最小限に抑えられる体勢を取る。

 そして、扉の引き手に指を掛け──開いた。


 なにかが引っ掛かる感触と、


 ──ヒュンッ


 という風切り音。


 そして、音を立てて壁に突き立つ矢。


「え──?」

 お嬢が驚きの声を漏らす。

 とりあえず矢を無視し、警戒を怠らぬまま、そっと教室のなかを覗き込む。

 教卓の上にクロスボウが固定されていた。

 そこから白い線のようなものが、扉のほうへと伸びている。

「ピアノ線、か」

 扉を開くと、自動的に矢が発射される仕掛けだ。

 教室のなかを隅々まで観察するが、クロスボウ以外の仕掛けが為されている様子はなかった。

 そっと足を踏み入れる。

 なにも起こらない。

 クロスボウを固定していたガムテープを剥がし、検分する。

「……なるほど」

 ひとつ、わかったことがあった。

「ミナト様」

 呼び声に振り返る。

 大吉が、壁に刺さったクロスボウの矢をじっと見つめていた。

「射出位置と、壁に突き立った矢の高さ。このふたつから、罠を仕掛けた人間が、どこを狙ったのかをおおよそ推定することができます。結論だけ申し上げますと、正中線──つまり体の中心、高さは一四〇センチ前後。扉を開いたのが私ならば心臓、ミナト様ならば首、お嬢様ならば顔面に突き立つと考えられます」

「そうか。こちらも情報がある。この罠は、ごく単純なピアノ線トラップだ。二年八組の扉を開くと、無差別に起動するよう仕掛けられていた。矢を射出するギミックとして採用されているのは、大型のクロスボウ。当たれば冗談では済まない」

 大吉がこちらを振り返る。

「……信じたくはありませんが、間違いないのでしょうね」

「ああ。これは、悪戯ではない。悪戯という言葉で済ませるべきではない」

「犯人は、この扉を開けた人間を──」

「殺すつもりだった」

「ちょちょ! ちょっと待ってくださいな! わたくし自慢じゃないですが、展開にぜんぜんついてけてませんわよ!」

 本当に自慢にならない。

「お嬢様、ご心配にはおよびません。今からミナト様が、納得の行く説明をしてくださいます」

「ああ。三十秒ほどくれ。要点をまとめる」

 ポケットのなかには、H大附属図書館で入手したもの、今朝下駄箱に入れてあったもの、合計二通の手紙が入っている。

 手紙の性質を説明するためには、一通目についての詳細も話さなければならないだろう。

 事ここに至って、お嬢に隠し事をするメリットはない。

 そして、話さないことによるデメリットは限りなく大きい。

「──時系列順に話そう。質問は後でまとめて受け付ける」

 そうして俺は、日曜日から続く奇妙な出来事について、語り始めた。



「どうしてそんなこと、いままで黙ってたんですのよ!」

 お嬢が、唾を飛ばす勢いでまくし立てた。

 それでも俺が話し終わるのをきっちりと待っていたのだから、実に真面目である。

「すみません、お嬢様。無闇に心配をかけるべきでないと判断したのは、私です」

 大吉が、深々と頭を提げる。

「その気持ちは嬉しいですけど、黙って危険な目に遭われるほうが嫌に決まっているでしょう! 逆の立場だったらどう思うか、考えてみなさいな!」

「う」

 確かに。

「ほんと、申し訳ない」

 お嬢の怒りは、心配の重さと同じだ。

 だからこそ胸に突き刺さる。

「あんこと露草にも、ちゃんと伝えておかないとな……」

「当然です!」

 お嬢の怒りが収まるまで平謝りしたのち、大吉が口を開く。

「……この際、理解の外にある手紙のことは置いておくとしても、捨て置けないことがあります。何より重要なのは、人を殺しうる罠を仕掛けるような人間が、恐らくこの学校に潜伏しているということ。こればかりは看過できることではありません」

 大吉の言葉は慇懃だ。

 けれど、その声は怒気をはらんでいる。

 近しい人間だけがようやく気づくことのできる程度の、わずかな、しかし激しい怒り。

「そうだ。それも、俺たちを意図的に狙った可能性がある」

「わたくし──たち、を?」

 お嬢の顔から血の気が引いていく。

 明確な殺意に晒されたことを、ようやく実感したのかもしれない。

「ああ。この二年八組は、以前から俺たちが使っていた空き教室だ。けれど、他にも定期的に利用していた生徒がいるかもしれないし、それだけでは根拠として弱い。だが、思い出してみろ。トラップが仕掛けられる前、最後にここを使ったのは?」

「お嬢様と、私──そういうことですか。ミナト様との密談のため、私たちは昼休みの終了までこの空き教室におりました。罠が仕掛けられたのは、昨日の放課後──」

「あるいは、今日の早朝となる。授業中という可能性もないではないが、これで犯行時刻が絞れたというわけだ」

 二人の顔を順繰りに見る。

 お嬢は、自分の胸に両手を当て、不安そうな表情を浮かべている。

 大吉は、毅然とした態度で視線を返してきた。

「ここで二人に意見を求めたい。この事件を教師に伝えるか否かだ。参考として、俺の認識している現状をまとめよう。教師に届けた場合、犯人は見つからない。被害者がいない以上、警察の介入もない。事件は集会などで全校生徒の知るところとなるだろう。しかし、これ以上の犯行の抑制にはなるかもしれない」

 唇を舐め、続ける。

「次に、届けない場合。俺たちは情報というアドバンテージを得る。トラップの存在を知る俺たち以外の存在が、自動的に犯人だ。俺たちの動き方次第では、このようにして犯人を特定することも可能だろう。ただし、事が露見しなかったことに味をしめて、犯行を繰り返す危険もある」

 お嬢と大吉が顔を見合わせた。

「教師にまかせるか、俺たちで犯人を捜すか。さあ、どちらがいい?」

 す、と。

 大吉が一歩下がり、頭を垂れた。

「──私は、お嬢様の御心のままに」

「ちょおっ! だ、大吉! わたくしに丸投げですの!?」

 ああ、大吉ならそう言うだろうなあ。

 お嬢はしばらくあわあわと両腕を動かしていたが、やがて観念したように胸を張った。

「わ、わかったわよ……わかりましたわよ! この狸小路家の一人娘、狸小路綾花に仇なしたことをあの世で後悔させてやりますわよ! これでいいんでしょこれで! お、おーっほっほっほっほ!」

 殺してどうする。

 いささかヤケクソ気味の高笑いを聞きながら、俺は口を開いた。

「これで方針は決まったな。それでは、これからどう動くべきかを指示する。各自別行動で、大吉は女子を、お嬢は男子を中心に聞き込み調査を行ってほしい。内容は、昨日の放課後から今朝にかけて、二年八組付近で生徒を見かけなかったかどうかだ。理由を問われたら──そうだな。当人にしか価値がないもの。教師に届けては困るもの。年代物の安っぽい水晶のペンダントを拾った、ということにしよう。見せてほしいと言われたら、その場にいないほうが持っていると答えればいい。この件に関して、一切の口外はしないこと。こと校内においては、仲間内で話すことも禁ずる。よって、調査人員は二名となるが、頑張ってほしい」

「了解いたしました」

「……ミナト。ちょっと待っていただけるかしら」

「なんだ?」

「異を唱えるわけではありませんが──みんなに話して、全員で聞き込みをしたほうがよろしいのではなくて?」

「理由はいくつかある。ひとつは適性の問題だ。たとえばあんこは、こういった調査に致命的に向かない。社交性が高すぎてすぐ雑談になってしまうし、そもそも口が軽い。聞き込み対象にこちらの情報を漏らしてしまいかねないんだ」

「そんな……、あんこさんだって、もうすこし信じてあげても……」

 お嬢が悲しげに目を伏せる。

 どうやら誤解させてしまったようだ。

「信用と盲信は違う。数学の得意な人間に高得点を期待するのは信用だが、数学ができるからと苦手な国語にも同じ点数を期待するのは盲信だ。相手の能力をきちんと把握し、相手の苦手なことには手を貸す。そして、自分の苦手なことには手を貸してもらう。そういった信頼の仕方もある、ということだ。理解してくれるか?」

「……なんとなく。すこし、納得いかない気もしますけど」

「そんなものさ。話を戻す。もうひとつは、俺たち全員で行動すると、恐ろしく目立つということだ。俺だけでも相当に顔が売れてしまっているのに、同じくらいの知名度の生徒が六名、雁首揃えて聞き込みしていれば、なにかあったと喧伝しているようなものだ。ペンダントを拾った、なんて、そんな言い訳で済まなくなるのは目に見えている。その点、二人で一人という認識が広まっているお嬢たちならば、リスクに対するリターン効率が高い。──さて、人の記憶というものは時間とともに風化し、曖昧になっていくものだ。特に質問がなければ、行動を開始したいと思うんだが」

「ひとつ質問が。あんこ様や八尺様、露草様には、いつ、どのように伝えましょう」

「基本的には、LINEのグループチャットで構わないと思う。タイミングは放課後だな。この件に関して校内で話す愚は、万にひとつも犯せない」

「それでは、校内にいるあいだ、皆様の安全を確保することができません。このトラップが他の場所にも設置されている可能性も、ゼロではないのです」

「たしかに。だが、ピアノ線トラップは、性質上、仕掛けられる場所がある程度決まっている。今回のように、扉か、あるいは狭い通路に限られるんだ。つまり、人気のない廊下や教室に無闇やたらと行かなければいい。二通の手紙、その両方に目を通している八尺への説明は、二言三言で済むだろう。あんこと露草が危険な場所へ向かわないよう、二人で注意するくらいのことはできると思う」

「犯人が直接襲い掛かってきた場合はどうでしょう」

「あるとすれば登下校のとき、か。八尺と露草は、負ける未来が見えん。あんこには俺がつくつもりだ。お嬢は──大吉、お前が守るだろう?」

「ええ、もちろん。私からの質問は以上です」

「お嬢からは──」

「ピアノ線が扉の正面であんこさんがクロスボウで命をトラップが……トラップ!?」

 くるくると目を回しながら独り言を呟くお嬢の姿に、俺は軽く肩をすくめた。

「ないようだな。俺は一人ではなにも成せない。だからお前たちの力が必要だ。俺は怒り狂っている。自分が殺されかけたことに。お前たちを失いかけたことに」

 俺は、こぶしを固く握り締めた。

 爪がてのひらに食い込む。

 その痛みの心地よさに、陶酔する。

「──だから俺に、犯人をぶん殴らせてくれ。それでは、行動を開始する!」

 大吉の動きは迅速だった。

 腹に据えかねているのは俺だけではない。

 当然だ。

 もしこの手紙がなければ。

 俺が真に受けていなければ。

 そして、扉を開いたのがお嬢だったならば。

 犯人が、それをむざむざと許してしまった自分のことが、たまらなく許せないのだ。

「あの、ミナト──」

 大吉に置いていかれた形となるお嬢が、扉の縁に手をかけたまま動きを止めた。

「どうしたお嬢。昼休みが終わってしまうぞ」

「ミナト……、ときどき、言いますわよね。自分にはなにもできない、って。なにも成せないんだって。言いたくないのなら、いい。でも──わたくしから見ればなんだってできるミナトが、そんなことを言うのがどうしても気になって」

 すこし考える。

 答えるべきか否か。

 俯瞰的に考えれば、答えるべきではないだろう。

 人員は少なく、時間は押している。

 しかしこの質問に答えなければ、お嬢の作業効率が──


 ──ゴンッ


 俺は自分の頭を殴りつけた。

「ミナトッ!? なにやってるんですのよ!」

「自分が許せなくなりそうだから、殴った。気にするな」

「気にするなって……」

 目を閉じて、胸中で呟く。

 友人は友人だ。

 道具ではない。

 協力するのはいい。

 だが、利用するな。

 最高の結果があるとして、最短距離を演算する機械になるな。

 最善の一歩を求めて足掻く人間であれ。

「──そうだな。まず、お嬢に問おうか。お嬢は、俺のことを心配してくれているのだと思う。その気持ちはありがたく受け取ろう。だが、よく考えてみてほしい。九丹島ミナトと、卑屈。あるいは自虐。これ以上に水と油な言葉が、この世にあるか?」

「よ、よくわかりませんが、とにかくすごい自信ですのね」

「俺はただ事実しか言っていない。人間には水と酸素が必要だ。地球は太陽系の第三惑星である。本質的には、それと同じだ。俺ひとりでは、なにも成せない」

 俺は、教卓に肘を預けた。

「それでは、お嬢の好きな、漫画やライトノベルに例えてみようか」

「ンなッ! ななななんで知ってるんですのよ!」

 三日前に大吉がほのめかしていたので鎌をかけてみたら、正鵠を射抜いていたらしい。

「まあ、色々あってな。さて問題だ。俺以外の五人に共通しているものって、いったいなんだと思う? いや、それだと少々漠然としすぎているか。じゃあ──そうだ。たとえば八尺が漫画に出演したとして、適した役柄はなんだと思う?」

 お嬢はすこし考えて、

「……主人公のお友達、でしょうか?」

「半分正解だ。友人役も適しているだろう。けれど俺は、こう思う」

 俺はにやりと口角を上げた。

「永久寺八尺は、主人公だ」

「主人公──ですの?」

「ピンときていないみたいだな。なら、わかりやすく説明しよう。気は優しくて力持ち。柔道、そして恵まれた体格を活用した一対一戦闘のスペシャリストで、条件が整わない限りあの大吉ですら勝つことは不可能。そんな八尺に、主人公が務まらないと思うか?」

「そう言われると、そんな漫画があってもいいかもしれませんわねぇ……」

「次は大吉だ。モデルのような容姿を持つ執事で、さらに運動神経も良く、こちらは一対多戦闘のスペシャリストでもある。文武両道イケメン執事だ。文句なく主人公格だろう」

「大吉は狸小路家の執事ですから、当然ですわね!」

「次に、露草。過激ツンデレなど要素はいくつかある。だが、なかでも頭ひとつ抜けているのは、同じ人間とは思えないほどの驚異的な身体能力だろう。アクションものの最低条件を見事に満たしている。露草も主人公格だ」

「露草さんはほんと、生まれる世界を間違えてる気がしますわ……」

「あんこには、女性として優れた容姿と、男女を問わない高い社交力がある。さらにその才覚は学業にまで届き、一学期の期末テストでは学年首位。性格に少々の難はあるが、これだけの完璧人間だ。どんな漫画の主人公にもなれるだろう」

「ぐぬ、さすがわたくしの永遠のライバルですわね」

「さて、最後はお嬢だ」

「……ごくり」

「特にない──」

「があん!」

 お嬢のリアクションは見ていて和む。

「と、いうのはもちろん冗談だ。没落した資産家の一人娘、という環境だけでも十分務まるだろうが、お嬢にはそれ以上の資質がある」

「資質、ですの?」

「ああ。誇りと、そして強い心だ。挫けそうになっても必ず立ち直る。どんな逆境にだって負けることはない。そして、最後には必ず目的を果たすんだ。そういった意味では、お嬢以上に主人公に適した人間もいないだろう」

「わたくしが、物語の主人公……」

「そうだ。お前たち五人は皆、主人公たる資質を持っている」

 お嬢はすこしのあいだ頬を染めていたが、すぐ我に返ったようだった。

「──ミナト、は? わたくしたちが主人公だというなら、ミナトだってそうでしょう? どうして、自分は違うみたいな言い方をするんですの?」

「簡単な話だ。違うからだよ。ならば、逆に尋ねよう。お嬢は何故、俺を主人公だと思うんだ? 俺に備わった主人公たる資質とは、いったいなんだ?」

「だ、だってミナトはなんでもできて──」

「大吉のほうが万能だ」

「頭だってよくて!」

「あんこに成績で勝ったことがない」

「知識! ミナトはすごい物知りで」

「知識と発想力についてなら、つい先日天ヶ瀬に白旗を揚げたばかりだな」

「そ、その、強いし……」

「露草と八尺と大吉にボコボコにされるぞ」

「運動神経が……」

「俺の身体能力は水準よりすこし上くらいだ。持久力にいたっては平均以下」

「りょ、料理が上手ですわ!」

「その点だけはたしかに六人中首位だが、料理漫画は無理だろ」

「ひ、人を殴る……」

「そんな通り魔みたいな主人公、嫌すぎるだろ。誰が読むんだよ」

「わわわたくしは読みますわよ!」

「フォローありがとう。これでわかっただろ。俺は主人公の器じゃない。もともと主人公うんぬんというのは、ただの例えだけどな。俺がこの例えを通じて伝えたかったのは、俺以外の五人には、なんらかのスペシャリティが備わっているということ。スペシャリティを、主人公の資質と言い換えただけだよ。ただの一般人が主人公の漫画なんて、探すまでもなくいくらでもあるし」

 お嬢の目が点になる。

「……すぺしゃりてい?」

「これだけは他の誰にも負けない、というなにかだ。八尺は一対一戦闘。大吉は万能性と一対多戦闘。露草は広範的な身体能力。あんこは学業全般と社交能力。お嬢はプライドと精神力。ついでに天ヶ瀬は、理系知識と発想力。それに当たるものが、俺にはない。しかしそれはごく普通のことだ。スペシャリティを持っている人間が、むしろまれなんだ。俺はスペシャリストではない、ただの凡人だっただけのことだよ」

「ミナトを凡人なんて呼ぶと、凡人という言葉に失礼な気がしますけれど……」

 解せない。

「ただし──」

 俺は自分の眼前で、人差し指を立ててみせた。

「俺は、ジェネラリストを気取っている」

「……じぇねらりすと?」

 お嬢の目が、また点になった。

「そうだ。スペシャリストの対義語だよ。広範に渡る知識を持ち、様々な分野に精通し、適所に適材を配置し活用する。お前たち五人がスペシャリストだとすれば、それを効果的に運用するリーダーが、俺だ」

 お嬢の瞳に、徐々に理解の光がともっていく。

「リーダー……、ミナトのこと、だ。そうですわ! ミナトのことですわ! だって、いつだってミナトは皆の中心ですもの! そっか、そうなんだ。喉のつかえが取れましたわ!」

 お嬢が子供のようにはしゃぐ。

 その姿を見て、俺は薄く笑みを浮かべた。

「それはよかった。これで、俺の言葉の意味もわかるだろう? リーダーはひとりではなにもできない。なにも成せない。でも、皆がいればなんだってできる。だから、お嬢が心配するようなことなんて、なにもないよ」

「な、なんだかちょっと、勘違いしてたみたいで恥ずかしいですわね……」

「恥ずかしがることはない。心配してくれて嬉しかったさ。まあ、さすがにそろそろ聞き込みに行かないと、昼休みが終わってしまいそうだけど」

 教室の時計が正しければ、あと十五分ほどで五時限目が始まる。

「そ、そうでしたわね! あ、そうですわ。ミナトはなにをするんですの? リーダーだからって指示だけなんて、まさか言いませんわよね」

「ジェネラリストは、使えるものなら自分だって使うさ。俺は、他の空き教室に、同様のトラップが仕掛けられていないかを調べる。放課後はまた別の用事があるけどな」

「ならいいです。気をつけて調べてくださいましね。では、わたくしも行きますわ」

「──お嬢!」

 廊下に足を踏み出したお嬢を、呼び止める。

「二日連続ですまないな。宝石がどうなったのか、本当に聞きたいんだが」

 お嬢が振り返らずに言う。

「……しかたないですわよ。恨むべきはにっくき犯人ですもの。ですが、ひとつだけ。悪い話には、なっておりませんから。だから、安心してくださいましね」

「そう──か」

 よかった。

 本当に、よかった。

 ほっと胸を撫で下ろしながら、思っていた以上にずっとお嬢のことを心配していた自分に気がついた。



「──つまらない。つまらないよくたんじま!」

 わがままな子供がするように、天ヶ瀬が椅子に座ったまま大きく四肢を広げた。

「なにがつまらないんだ、天ヶ瀬」

「私を試しているつもりかい? この手紙を読んで、君が何を思ったかなんて、お見通しに決まっているだろう! だから君は、この天ヶ瀬星羅を訪ねたんだ。自分の辿り着いた答えを検算するためにね!」

 まったくその通りだった。

 放課後、わざわざ教室にあんこを待たせてまで悪魔学研究会の門戸を叩いたのは、天ヶ瀬の意見を求めてではない。

 同じ意見であることを確認するためだ。

 自分と同じかそれ以上の頭脳が身近にあるのだから、活用しない手はない。

 天ヶ瀬には、既に現状のすべてを伝えてある。

 他言する友人もいなければ、自ら危険に飛び込んでいく迂闊さもない。

 相談相手としてこれほど適した人材はいないだろう。

 俺は、まだ暗幕の張られていない窓から身を乗り出し、外の空気を吸った。

「──そこまでわかっているなら、俺が求めていることもわかるだろ」

「私の口から私の考えを聞きたいというのだろう? しかし、賢明なるくたんじまのことだ。勝手に訪れて、一方的に相談した。そんなものに答える義理がないことくらい、理解しているはずだ。私はこの可憐な外見ほど優しくはないのでね。私の意見を聞きたいのなら、相応の対価を支払うがいい。それが悪魔の契約というものだよ」

「五百円でいいか?」

「安いわッ! ちゅーか、お金のことゆーとるんやない!」

「俺の思いつく対価なんて、その関西弁のことをクラスメイトに口外しない──くらいのものだな。どうだろう、相応だと思うんだが」

「へうあっ!」

 天ヶ瀬が椅子からずり落ちた。

「それ、協力せんかったら口外するってことやないか!」

「日本語って難しいな」

「くたんじま、君こそ悪魔の名に相応しいよ……」

「褒め言葉と言うなら、素直に受け取ろう」

「わかった。わかったよ。協力するよ……。だから神戸弁のことだけは勘弁してほしい。キャラを崩したくないんだ」

「約束する。俺は、決して約束を破れない」

「……破れない?」

「ああ」


 制約1「約束を破ってはならない」


「……まあ、いいか。とりあえず、私が何故この手紙をつまらないと言ったか、でいいかな」

「頼む」

「ごく簡単な話だよ。一通目の手紙は、知りようもない事故を差出人が予見していたから面白かった。けれど二通目の手紙はそうじゃない。だってそうだろう? クロスボウトラップのことは、被害者である君たちと、犯人しか知りえない。なら犯人は手紙の差出人だ。クォド・エラト・デモンストランドゥム」

 証明終了、と呟いて天ヶ瀬は後頭部で手を組んだ。

「私の意見はこれですべてだ。単純明快だろう。思考の補強はできたかな?」

「ああ。天ヶ瀬もそう考えるか」

「なにをもっともらしく頷いているんだい。最初からわかっていたくせにさ」

「わかっているさ。もちろん──」

 天ヶ瀬の両頬をつまみ、うにっと伸ばす。

「それでまだ半分だってこともな! 面倒くさがってないでちゃんと吐け!」

「ひ、ひひゃいひひゃい! ひゅーから! ひいまひゅはら!」

 指から力を抜くと、ぱちんと音を立てて天ヶ瀬の顔が元に戻った。

 つまんでいた場所がすこし赤くなっている。

「あにしゅんね! ほっぺたのびるやんか!」

「相応の対価を支払ったのに、相応の働きをしないからだ」

「えーやんかべつに……同じ考えなんわかっとるんやから……」

 天ヶ瀬が口を尖らせてぐちぐちと文句を言う。

「せっかく脳がふたつあるんだ。内部処理と外部入力を同時に行って、より正確に情報を整理しておきたいんだよ。細部の違いもあるだろうしな」

「そらわかるけどさー」

「なら、続きだ。ほら話せ」

「ぶーぶー」

 天ヶ瀬はひとしきりぶーたれると、観念したように口を開いた。

「……わかっているだろうが、さきほどの意見は、二通目を単独の手紙として考えた場合のものだ。トラップが仕掛けられていることを手紙で知らせる──というのは、あまりに不確実すぎる。犯人がトラップを仕掛ける現場を目撃したのだとすれば、それがどういったものなのかもある程度わかるはず。射線に立たないようにして扉を開くだけで簡単に解除できるんだ。もしそれさえ怖くてできなかったのだとしても、何故くたんじまに知らせる必要がある? 先生に言えばいいんだよ。しかも、この手紙は、死を避けるためのものじゃない。危険を知らせるためのものでもない。くたんじまを呼び出し、危険に晒すための道具として機能している。以上の理由から、手紙の差出人を犯人と考えない理由がない。ただし──」

「一通目の手紙の存在が、それを覆す」

「そうだ。……本当に私の意見が必要なのかい?」

「必要だ。ほら続けろ」

「へうー。一通目についての考察は省かせてもらうよ。一昨日、さんざ長広舌を振るったからね。ともあれ一通目に一般的な解釈は当てはめられない。タイムリライトという概念を使わなければ説明できないことは、先日の通りだ。そして、一通目と二通目の差出人が同一人物であることは、筆跡からも読み取れる。ならば、二通目にも過去改竄が関連しているとするのは、決して思考の飛躍ではないね」

 ここまでは俺の考えと同じだ。

 しかし、他人の言葉として入力されると、曖昧になっていた細かな部分が、絡まった糸をほどくように整理されていくのがわかる。

 心地よい感覚だった。

「流れとしては、こうだ。まず一周目、二年八組を訪れたくたんじまがクロスボウの矢で射抜かれて事切れる。〈死ぬ〉と書かれていたのだから、実際に死んだのだろうね。手紙の差出人はそれを目撃したか──もしかすると話に聞いただけで、詳しい状況を知らなかったのかもしれない。手紙の内容がやや不明瞭だからね。クロスボウトラップと書かれていれば、もうすこし対処もしやすかっただろう。とにかく、くたんじまの死を知った差出人は過去改竄を行い、手紙を下駄箱に投函した。とまあ、こうなるわけだ」

「その場合、手紙を使って俺を呼び出した──という可能性はなくなる。手紙などなくとも、俺が二年八組に行くということは、主観的事実となるからな」

「けれど、ひとつ解せないのは、どうしてクロスボウトラップを自分の手で解除しなかったのか、ということだ。私はここで引っ掛かってしまった」

 天ヶ瀬は小首をかしげてみせた。

 すこし考えて、言う。

「……死因を知らなかったんじゃないか?」

「現場が元二年八組だということを知っているのにかい? ……いや、ありうるか。生徒が死んだ教室を封鎖するのは不自然じゃない。全校集会で死因を教えるかは──まあ、ちょっと予測がつかないね。ただ、人の口に戸は立てられない。クロスボウで死んだ、ということくらいは知っていてもおかしくない、かな」

「過去改竄ができる、という前提条件で考えると、すこし違和感がある。そのとき手紙の主に打てた最善手は、一周を犠牲にする覚悟で俺の死を見届け、その原因を特定することだ。そうすれば、手紙なんて確実性の低い手段を取らずとも──」

「くたんじま。それはさすがに乙女心をわかっていないよ」

「……乙女心?」

 天ヶ瀬が言うと、ものすごくちぐはぐな感じを受ける。

 それと、手紙の主を〈乙女〉と断定しているのが、いささか天ヶ瀬らしくないように思えた。

 丸文字を書く男性なんて、いくらでもいる。性別はまだ確定していないのだ。

「一通目の文面からするに、差出人は多かれ少なかれくたんじまに好意を寄せている。その相手が死ぬところを、わざわざ見たいと思うかい? それに手紙だって、不確実というだけで、実際にはこうして機能したんだ。二周目を犠牲にしてくたんじまの死を確認し、三周目で確実に助けるより、とりあえず思いついた方法を試してみるほうが人間的だと私は思うね。くたんじまは俯瞰的にものを見すぎなんだよ。主観でしか考えられない視野狭窄な衆愚よりよほどましだけど、客観視で止まっているのはもったいない。ほとんどの問題は人間が引き起こすのだから、二人称的な視点を持つべきだ。相手の視点に立ち、相手のこころを理解し、相手の思考をエミュレートする。今のままでは、ただ性能がいいだけの機械にすぎない。人間になりたまえよ、くたんじま」

「──…………」

 ぐうの音も出なかった。

 俺は、機械より、人間でありたいから。

「中二病に言われたくはないが、たしかにそのとおりだ……」

「うっさいわ! ……まあ、一週間に二度も命の危機に晒された上、今まで信じていた常識が打ち砕かれれば、余裕がなくなるのもわかるけれどね」

「二度?」

 ああ、そうだ。まだ言っていなかった。

「俺が命を落としかけたのは二度じゃない。三度だ」

「……つくづく濃い人生を送っているね、くたんじまは。いちおう、どんな状況だったか聞いておこうか。興味がある」

「わかった。あれは昨日のことだが──」


 昨日の朝の出来事を、かいつまんで説明する。


「……くたんじま。君の友人は変人ばかりだね」

「言うな……」

「いや、露草嬢は変人というより超人か。先日マラソンの授業で延々と全力疾走し続けているのを見たときから、人間離れしてるとは思っていたけどね」

 そんなことしてるのか、あいつ。

「くたんじまの身長は一七〇弱だろう? その頭上に蹴りを見舞ったのだから、助走なしの垂直跳びで、腰の高さを一七〇センチ前後まで上げなくてはならない。露草嬢の身長を一四〇センチ、足の長さを七〇センチと仮定すると、単純計算で──一メートル!? NBAプレイヤーなみじゃないか!」

 常識はずれの数値だが、いまいち驚けないのは本人を知っているせいだ。

 あいつが助走なしで校舎の塀を飛び越えているところ、見たことあるし。

「ま、まあ、それは置いておこうか。とりあえず今は、その話を聞いて私が覚えた違和感の正体を確認したい」

 そう言って、天ヶ瀬が黒板の前に立つ。

 そして、黄色いチョークを手に、かろうじて植木鉢とわかる台形を描いた。

 あまり絵は上手くないらしい。

「くたんじま。君は植木鉢が落ちてきたのを、不幸な事故だと思っている。置き方の悪かった植木鉢が、風に煽られてたまたま落ちたのだと。だから、それ以上の考察をしなかった。というより、露草嬢のインパクトが強すぎて、他の印象が薄れているんだね。私の覚えた違和感というのは、落ちてきたものが植木鉢だと理解するまでに時間がかかりすぎている──という点なんだ」

「時間が、かかりすぎている?」

「そうだ。思い出してみたまえ。君は何故、落下物が植木鉢であることを、わざわざ推理しなければならなかったんだ?」

「それは──露草が、視認できない距離まで植木鉢を蹴り飛ばしたからだろう」

「ふむ。それでは、どうして植木鉢だと断定したんだい?」

「地面に線を引くように、黒っぽい土が散乱していたからだ」

「そうだ。植木鉢には土が入っていた。これは非常に重要なファクターだ。そうなると、ひとつおかしなことがあるね?」

 論旨がよくわからなかった。

 天ヶ瀬はそんな俺を無視し、さきほどの植木鉢の隣に、斜めに傾いた台形を描いた。

「植木鉢が自然に落ちた。その原因は傾きが限界を超えたからに他ならない。想像してみてほしい。植木鉢が斜めになって、落ちる。二階程度の高さなら、空中で縦に半回転ほどするだろう。となると、最初に落ちてくるのは──」

「土、だ……」

 思わずそう呟いていた。

「そう、土だよ。おかしいと思ったのはここでね。くたんじまが土をかぶっていたら、落下物がなんなのか推理する必要はないんだ。土が入っているもの。それが植木鉢以外にはないと、直感的に気づく。そうならなかったということは、くたんじま。君は土を浴びてはいない──ということになる」

「ああ。浴びていない。少なくとも、その記憶はない」

「なら、私の言いたいことはもうわかるね?」

「植木鉢から土はこぼれなかった。なら植木鉢は、底を下にして落ちてきたことになる。この落下は不自然だ。人為的とも言える。まるで誰かが、植木鉢を空中に差し出し、そのまま手を離したような──」

「その通りさ、くたんじま。君はこの一週間で、三度命の危機に瀕した。すくなくともそのうち一度──君は明確に命を狙われたんだよ」



 LINEのグループチャットでこれまでの経緯を皆と共有したのち、布団に寝転がった。

「──俺は、過去改竄を可能性のひとつとして認めている」

 蛍光灯を見上げながら、呟く。

 丸く光る蛍光灯を眺めていると、精神が研ぎ澄まされていくような気がする。

 考え事をするときのお決まりの姿勢だった。

「未来予知と過去改竄は同一の結果をもたらす。本を濡らしても破いても燃やしてもシュレッダーにかけても、読めなくなるという結果は変わらない。ゆえに、未来予知の可能性を認めるならば、過去改竄もまた同様に認めなくてはならない。非現実。非科学。非常識。そういった言葉で思考を停止してはいけない。頑迷は愚かだ。ありえない現実を観測したのなら、観測した両目を否定する前に、ありえないという認識こそ否定しろ。たかだか数年で築いた世界観が絶対であるわけはないのだから──」

 うわごとのように呟き続ける。

 過去改竄を可能性のひとつとして認めている、なんて、


「真っ赤な嘘だ」


 世界がぎしりと音を立てたような気がした。

 あまりに現実的でない。

 あまりに科学的でない。

 あまりに常識的でない。

 もし手紙の主に過去改竄能力が備わっていたら──そう仮定して、推論を組み立てることはできる。

 シミュレートすることはできる。

 それを基底として、天ヶ瀬と討論の真似事をすることもできる。

 しかし、そこにリアリティはない。

 心の底から信じることができないのだ。

 わざわざ天ヶ瀬を訪ねたのは、実のところそれが理由だった。

 過去改竄を下地にした仮説を他人の口から聞けば、もしかするとそれらしく感じるかもしれない。

 天ヶ瀬星羅ならば、俺をきれいに丸め込んでくれるかもしれない。そう期待して。

 けれど、駄目だった。

 天ヶ瀬との最初の邂逅から、一通目の手紙について、ずっと考えていた。

 天ヶ瀬との勝負と並行して、ただ考え続けていた。

 さまざまな角度から。

 あらゆる視点から。

 既に出た結論を否定する材料を、探し求めていた。

 考えうるすべての可能性を選別し、排除して、それでも残ったもの。

 残ってしまったもの。

 それを真実以外のなんと呼ぼう。

 だから、既にわかっているのだ。

 二通の手紙には、すくなくとも俺の持つ常識では説明できない因子が絡んでいる。

 過去改竄は行われたのだろう。少なくとも、それに類する現象が。

 未来予知では二通目の手紙の存在がどうしても浮いてしまう。

 手紙の主が過去に戻っていると仮定すれば、ロジックは美しい幾何学模様を描く。

 天ヶ瀬は理性の怪物だ。

 自分の導き出した答えに、ためらいなく身を委ねることができる。

 過信でも妄信でもない。

 それは、確信だ。

 自分に対する絶対的な信頼。

 そうでなければ、あんなにも堂々と中二病をぶれはしまい。

 対する俺は、どこまでも愚かだった。

 理性が導き出した答えを、固定観念が許さない。

 なにかを積み上げることはできても、突き崩すことができない。

 見えない橋が架かっていると知っていて、なお、燃え盛る谷底に恐怖し、一歩を踏み出すことができずにいる。

 たかだか七年で築いた矮小な世界観さえ捨てられない、すこし変わった高校生。

 それが、俺の認識する自分の姿だった。

「ああ、たぶん──」

 この迷いが、俺に一手遅らせるだろう。

 それは、決して予知ではない。

 ただの予感だった。

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