06-八月三十日(火)

 露草が校舎に寄りかかる。

 俺もそれにならった。

「──…………」

「──……」

「……なんの用だよ」

「すこしは待てないの? こらえ性ないわね」

「なにかを待ってるなら、初めからそう言えよ」

「うるさいわね! まったく、なんでこんなやつがいいんだか」

「はあ?」

「だから、うるっさい!」

 露草がこちらを向き、小さな肩を怒らせ──


 不意に視界が、


 ──パン!


 薄い水色に染まった。


 頭上で響いた破裂音に、反射的に空を仰ぐのと、


 とん、


 と軽い音を立てて、露草が着地するのはほとんど同時だった。

 着地?

 目の前に立っていた人間が、どうして着地するんだ。

 その疑問に至ったとき、


 ──ガシャン!


 遠くでなにか瀬戸物の割れるような音がした。

 振り返ると、地面に茶色い線がどこまでも引かれている。

 さきほどまではなかったものだ。

 音と合わせて推測するに、線の正体は肥料入りの土。

 そして、割れたものは植木鉢だろう。

「──まさか……、ううん、でも……」

「露草。今、お前──」

「るさいっ! ついてこないで!」

 切羽詰った声音でそう叫び、露草は脱兎のごとく走り去ってしまった。

 そして、校舎裏にひとり取り残された俺である。

 悔しいので、いったい何が起こったのか考察することにする。

 まず、割れたものは植木鉢。

 二階の窓が開いている。

 恐らく、そこから落下したものだろう。

 頭上の破裂音と合わせて考えると、俺の頭部めがけて落下してきた植木鉢を、なんらかの手段で吹き飛ばしたというのが妥当な線だ。

 そして最後のファクターである、視界を覆い尽くした薄い水色の正体は──

「そうか! 俺の頭上に落ちてきた植木鉢を、露草が蹴り飛ばしたんだ! そして、あの水色は露草のパンツだ!」

 なるほど信じられねえ。

 俺の身長が平均より少し低めとは言え、自分より背の高い相手の頭上に飛び蹴りを放つだけでも人間業ではないのに、それを落下してくる植木鉢に命中させたのだ。

 植木鉢の飛距離については、いまさら驚きもしないけれど。

 格闘マンガの主人公、というのは的確な比喩だったかもしれない。

「それにしても、助けてくれた──んだよな?」

 なら、礼をしなければなるまい。

 とりあえず、パンツが見えたことは秘密にしておこう。

 蹴り殺されるかもしれないし。



「──それで、だ。どうして俺はまたここにいる」

 校舎の近くは今朝の出来事を彷彿とさせるので、今度は木に寄り掛かったまま何かを待つ羽目に陥っている。

 授業の合間に露草に礼を言ったが、ぼーっとしていて、聞こえているのかいないのかもよくわからない様子だった。

 お嬢にもしっかりと謝罪したが、宝石売却の件は第三者の耳に入れたくないので、まとまった時間を取る必要があった。

 そのため昼休みを待ち、昼食後に空き教室で落ち合う予定──だったのだが。

「アタシは命の恩人よ」

 背後からそんな声が聞こえてきた。

 露草は、同じ木の反対側に背中をもたれている。

「それはそうだが、理由くらい聞かせてくれたっていいだろう」

 片手間にLINEでメッセージを送信する。

 文面は〈露草に捕まった、すこし遅れる〉だ。

 相手は言うまでもない。

「すぐにわかるんだから言わなくたっていいでしょ」

「自分が理不尽を言っていることくらい、わかってるんだろ」

「木陰は涼しくていいわねー」

「ほんと、誤魔化すのが下手だな」

「うるさいわね……」

 そして、無言。

 蝉時雨と、葉擦れの音。

 校舎を挟んだグラウンドから届く、生徒たちの声。

「……イエスよ」

「ん?」

「アンタに許された返答は、イエスだけだから。それ以外は許さないから」

「なんだか知らんが断る」

「なんでよっ!」

「せめて理由を言え」

「どうしてよっ!」

「お前は小学生か」

 と、そこで俺の携帯が小さく震えた。

 メッセージを確認する。

『みなとのばか』

 相変わらずのひらがなメッセージである。

 スマホの使い方は大吉に教わっているはずなのだが、どうにも精密機械に弱いお嬢様だ。

 律儀に返信してくるぶんには大丈夫だと思うが、さっさと向かわないとまた不興を買ってしまうだろう。

 個人的には、バックにいる不良執事のほうが恐ろしいけれど。

「なあ、露草──」

 あと五分待ってもなにもなかったら、教室に戻らせてもらう。

 そう言おうとしたとき、第三者の足音が耳に届いた。

「──くたじま、さん?」

 そこにいたのは、

「昨日の……」

 驚きに両手で口元を隠した図書委員──佐藤うずらだった。

「うずら」

 露草がうずらの傍へ歩み寄る。

 やはり姉妹だったか。

 並べて見ても、身長以外に似ているところはないけれど。

「お、おねえちゃん! どどどうしてくたじまさんがいるんです!?」

 うずらがわたわたと両腕をばたつかせ、露草へと詰め寄った。

 露草が口を開く。

「九丹島が、九丹島のくせに、生意気にもうずらに一目惚れして、紹介してくれ紹介してくれうるさいからしかたなく連れてきたのよ」

「な──ッ!」

 さらりととんでもない大法螺を吹きやがったぞこの女!

「ちがぐほッ!」

 違う、と言おうとした瞬間、一呼吸で距離を詰められて鳩尾にこぶしを打ち込まれた。

「……アンタ、紹介してくれって言ったでしょ」

 露草が耳元で囁いた。

 俺も小声で答える。

「そ──ういう、意味じゃ、ねえ──よッ!」

 不意をつき、渾身の力で露草の腹を殴りつける。

「チッ!」

 しかし、俺のこぶしは、露草の左手によって軽々と受け止められていた。

「アンタ流に言えば、防がれたほうが悪い──だっけ。アンタと馬鹿みたいにやり合うのなんて二度とゴメンだから、単刀直入に言うわよ」

 露草が俺の襟を掴み、引き寄せた。

 耳元で囁く。

「うずらと付き合いなさい。ロリコンのアンタには、悪い話じゃないでしょ」

「──…………」

 頭が真っ白になった。

 こいつはなにを言っている?

 どん、と背中を押され、気づけば俺はうずらの前に立っていた。

「あ、と……」

 思わずかゆくもない後頭部を掻いてしまう。

 空いた左手を、

「ッ!」

 うずらに、取られた。

「だいじょうぶ、です」

 うずらが微笑む。

「聞こえてたです。おねえちゃん、声おおきいので」

「ちょ、うずら!? これはちがくて!」

 露草があわあわと慌てだす。

「おねえちゃんは、とてもいいおねえちゃんですけど、うずらのために頑張りすぎちゃうところがたまにきずなんです。だから、くたじまさんが悩む必要なんてない、です」

 うずらの柔和な声につられ、俺の思考回路も元の速度を取り戻し始めていた。

「間違っては、だめなんです。くたじまさんが、うずらのことを、好きなんじゃない。うずらが、くたじまさんのことを、好きなんです」

 だから、こうして唐突に告白をされても、醜態を晒すことはなかった。

 深く、深呼吸をする。

 異性から告白を受けるのは初めての経験だ。

 ひとつひとつの言葉を慎重に選び出して、口を開いた。

「ありがとう、うずら。でも、俺は君のことを知らないし、君も俺のことを知らない。友人から、というわけには行かないだろうか。そうしなければ、互いに納得できる答えは見つけられないように思う。陳腐かもしれないが、そう思うんだ」

「──…………」

 俺は、うずらの双眸を見つめた。

 深い色の瞳だった。

「……ありがとう、ございます。くたじまさんにそう言ってもらえて、うずらはとても嬉しい、です。くたじまさんに好きになってもらえるよう、うずらはがんばります」

 うずらはぺこりと頭を下げると、おもむろにきびすを返し──

「あ、そうだ。くたじまさん、これ──図書室に落ちてたのです」

 途中で振り返り、制服のポケットから何かを取り出した。

 生徒手帳だった。

「……落としてたのか。重ね重ね、ありがとう」

 礼を言って、受け取る。

 裏返すと、確かに、俺の顔写真が貼られていた。

「それでは、失礼します、です」

 そう告げて、今度こそ生徒用玄関のほうへと足を向けた。

 いい子だ、と思った。

 俺の言葉は、誠実に見せかけた虚飾だ。

 柔らかな拒絶だ。

 だが、すこしだけ違和感があった。

 偏見かもしれないが、女子中学生と言えば、恋に恋する年頃だ。

 告白は、きっと、一世一代の勇気を振り絞るもので、その瞬間には期待と不安が同居しているに違いないのだ。

 それにしては、うずらの告白は、すこし淡白ではなかったか。

 いや、淡白とは違う。

 ただ事実を述べているように、まるで挨拶をするように、自然だったのだ。

 照れもなく、不安もなく、期待もなく、穏やかだったのだ。

 あの子は本当に、俺のことが好きなのか?

「──最低の勘繰りだな」

 そう呟き、かぶりを振る。

 とすん。

 俺の胸に、ちいさなこぶしが当てられた。

 露草だった。

「ばか……」

 露草は握りこぶしを崩すと、うずらとは逆の方向へと駆け出した。

「本日二度目の馬鹿、か」

 こう馬鹿馬鹿言われては、本当にそうなってしまいそうだ。

 しかし、気にしている余裕はない。

「さて、一度目のところへ戻りますか」

 メッセージを送信してからそこそこの時間が経っている。

 全速力で戻っても、罵倒はまぬがれないだろう。

 約束した空き教室への最短ルートを導いて──

「……あっ」

 何故露草が、下足場とは反対方向へと走り去ったのかを理解した。

 最短ルートを通ると、確実にうずらに追いついてしまう。

 それは、さすがに気まずい。

「今日はつくづくお嬢に縁がないな……」

 俺はそう呟いて、露草の消えた方向へと足を向けた。



「はあー……」

 深い溜め息を漏らす。

 中学校舎の裏あたりで教師に捕まり、何故こんなところにいるのかと問われて釈明すること十五分。

 昼休みの終了にはなんとか間に合ったが、当然ながら込み入った話をする時間などなく、お嬢は見事にぶーたれてしまい、ついでに三度目の馬鹿をいただいた次第である。

 不幸中の幸いだったのは、大吉が理解を示してくれたことだ。

 なんとかお嬢の機嫌を取ってみる、という言葉は心強いが、あれは怒っている自分に興奮してさらなる怒りを呼び込むタイプだからな。こじれなければいいのだが。

 怒りと言えば、露草のほうも問題だ。

 うずらと俺をくっつけようとした真意を尋ねても、こちらの声が聞こえないかのように完全無視を決め込まれた。

 ツインテールをぴこぴこしても、ほっぺたを左右に伸ばしても無反応なのだから堂に入っている。

 腹が立ったので目の前でマジックペンのフタを取ってみせると、さすがに一瞬で没収された。

 近くで見ていた八尺のほうが動揺していたくらいだ。

 一日で友人ふたりと険悪になってしまったのだから、さすがに溜め息も出ようというものである。

「あ、いけないんだー。溜め息つくと幸せが逃げるんだよ」

 本当に、あんこだけはいつでも変わらない。

 その存在に助けられていることを、改めて痛感する。

「そのくらいで逃げる軟弱な幸せなぞ、こちらから願い下げだ。練度の高い軍隊のように自在に動き、吶喊する。そうでなければ必要ない」

「幸せってなんなんだろ……」

 あんこが帰宅の足を止め、その場で思案し始める。

「おい馬鹿、車道で止まるな」

 そう言ってあんこの手を引く。

「ねえミナトくん。それよりさ……」

 八尺の視線の先には、十メートルほどの距離を空けて、とぼとぼと歩く露草がいた。

 四人で一緒に帰っているはずなのに、今日は一言も発していない。

 やはり、俺が原因なのだろうか。

 原因なのだろうなあ。

「なんかつっきー、元気ないよねー」

 あんこが露草のほうを振り返りながらそう言った。

「うん……それは僕も思った。だって僕、今日一度も蹴られてないもん」

「それは──、重症だな……」

「すごい病気とかかも……」

「自分で言っといてなんだけど、蹴られるのが当然の生活って問題だよね? ね?」

 とは言え、このままでいるわけにも行くまい。

「──ふたりとも、聞いてくれ」

 俺は歩みを止めぬまま、言った。

「露草がああなっている原因は、俺にあるかもしれない」

「えっ!」

「ミナト、つっきーいじめちゃダメだよ?」

「いじめとらんわ。というか、そんなことをしたら蹴り殺される」

 八尺が激しく頷いた。

「じゃ、なにしたの?」

 自分の頬に人差し指を当て、あんこが問う。

 さて、どうしよう。

 告白の件は、うずらのプライバシーもあるし、あまり口にしたくはない。

 だから俺は、こう答えた。

「言えない。けれど、俺は自分が悪いことをしたとは思っていない。都合のいい話だと思うが、何も聞かずに協力してくれ」

 八尺とあんこが顔を見合わせる。

「わかった!」

 素直にそう答えたのは、あんこだ。

「現状わかっているのは、俺が話しかけても答えてくれないということ。俺となにがあったかは、露草にとってもタブーだと思う。だから、俺との仲を修復するより、露草の機嫌をとる方向がいいと思うんだが……」

「さんせー!」

「……えっと、ミナトくん。ちょっと確認していいかな」

 八尺がおずおずと手を上げた。

「なんだ?」

「聞くなって言われた矢先にあれだけど──もしかして、さ」

 頬をぽりぽりと掻きながら、八尺が目を逸らす。

「ミナトくんも、佐藤さんも、男と女じゃない。あの、もしかしてふたり……恋愛がらみでなにか、あったのかなって……」

 無駄に鋭いな、八尺。

「はっしゃくん、恋愛がらみって?」

 そして鈍いぞあんこ。

「だから! ミナトくんが佐藤さんに告白されて、振っちゃったとか!」

「あははー、ないない。だってつっきーが好きなのは、はっ──わぷ」

 俺は、慌ててあんこを抱き寄せると、片手で口を塞いだ。

「八尺よ、残念ながら不正解だ。俺は嘘をつかない。わかるな」


 制約2「嘘をついてはならない」


〈佐藤〉に告白されて振った、という意味では正解なのだが。

 八尺は胸を撫で下ろしながら、

「そ、そっか。ごめんね、なんか」

 と呟くように言った。

 八尺のこの反応を見るに、脈があるのだろうか。意外だ。

「はーい! はーい! あたし、カラオケ行きたい!」

 あんこが俺の腕から抜け出し、思いきり手を挙げた。

「カラオケか。悪くはないが……」

 今の露草が承服するだろうか。

「そしてねー、つっきーははっしゃくんが誘うの! ミナト、どうどう?」

「ほう……」

 俺は感嘆の声を漏らした。

「それは名案だ! よくやったぞ、あんこ」

「あたまなでる!」

「おう!」

 あんこの頭をぐりぐりなでて、髪の毛をぐしゃぐしゃにしてやった。

「ひゃー!」

 あんこはこれが大好きで、ごほうび代わりによくねだられる。

 こいつ、俺のママになるとか言ってなかったっけ。

「……あの、盛り上がってるところ悪いんですけど」

「どうした?」

「僕が誘うって、そんなに名案なんでしょうか」

「これ以上ないってくらいにな。理解はしなくていい。実行しろ」

「えっと……うん……なんか立場が逆転してるような……」

「よし行け八尺!」

「いけーっ!」

 俺とあんこは呼吸を合わせて、八尺を押し出した。

「わわっ、わあッ!」

 八尺がたたらを踏む。

 そして、露草と向かい合った。

「な──な、なななによ永久寺!」

 露草の顔が真っ赤に染まる。

 それを見て、俺とあんこはにやにやと顔を見合わせた。

「えと、あの、佐藤さん。あのね。みんなでカラオ──」


 ひゅん、と。


 風を切る音がした。


「──け?」

 八尺が自分の胸を見下ろす。

 そこから、細い棒が突き出ていた。

「えっ?」

 誰かの間の抜けた声が聞こえた。

 矢だ。

 クロスボウの矢が、八尺の背中から胸にかけて貫通しているのだ。

「いた、いたた……なにこれ。これ! これなにかな、佐藤さん、なんだろ。いたい……」

 動けなかった。

 俺も、あんこも。

 あまりに唐突すぎて。

 非現実的すぎて。

「──…………」

 露草が膝から崩折れる。

「きゃあああああァ────ッ!」

 下校中の見知らぬ女生徒が、八尺を指差して悲鳴を上げた。

 その声に、ようやく自分を取り戻す。

「おい! 八尺、動くな! いま救急車を呼ぶから」

「み、ミナトくん、なんかすごくいたい。いたた、胸、むねが。むねから」

「わかった。わかったから喋るな。露──」

 手伝いを頼もうとして、躊躇する。

「──……ら──して……」

 露草は、うつろな目でカバンを漁りながら、何事か独り言を呟いていた。

 これは、駄目だ。

「あんこ! 電話するあいだ、八尺が動かないよう見ていてくれ!」

「──え、あっ。うん……」

 あんこも目の前の現実を受け入れられていない様子だったが、露草よりはましだ。

「な、なんか、熱くなってきた。へそのとこ、なんか、濡れて気持ちわるい……」

 それは血だ。

 八尺のワイシャツは、前も後ろも盛大に赤く染まっていた。

 それを見て、思う。

 思ってしまった。

 これは。

 これは、致命傷じゃないのか?

 矢は見るからに心臓を貫通している。

 この状態から、一命を取り留めることなんてできるのか?


 原則一「人を助けること」


 ──ガンッ


 俺は自分の側頭部を思いきり殴った。

 考えるな。

 機械になるな。

 まだ早い。

 まだ手を尽くしてはいない。

「自分にできる最善を──」

 そう呟きながらスマートフォンを取り出し、


▼ Continued...

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