03-八月二十九日(月)

 翌朝、すこし早めに目を覚ました俺は、玄関で白目を剥いていたオヤジを部屋へと運び入れたあと、身支度を整えて家を出た。

 眠そうに目元をくしくし擦るあんこの手を引いて地下鉄に乗り、札幌駅で下車、北連絡通路を歩いて待ち合わせの場所へと向かっていると、


 すぱーん!


 目の覚めるような音が鳴り響いた。

「あー、いつものだな」

「ふあぁう……いつもんだねー……」

 スーツや学生服を着込んだ歩行者たちの視線の先にいたのは、見慣れた巨漢だった。

 その腹部に見事な回し蹴りを埋め込んでいた制服姿の女子生徒が、ふとこちらに視線を向けた。

 特徴的な矮躯と、引っ詰め髪のツインテール。

「つっきーはっしゃくんおあよー……」

 あんこの挨拶に、つっきーこと佐藤さとう露草つゆくさが足を踏み鳴らした。

「あんこ! 聞きなさいよ! こいつ昨日図書館にいたって言うのよ!」

 口を滑らせたか。

「くたじま、アンタもいたんですってね! 危ないところだったんでしょ!? まさかあんこに言ってないってゆーんじゃないでしょうね!」

「無事は無事だったんだから、無駄に心配掛けるのも違う気がしてな」

「それでも、そーゆーことは言うもんでしょ! まったく! あんこも、アンタみたいのが幼なじみじゃ大変よね!」

 一方的にまくし立てると、興味を失ったようにあんこへと向き直る。

 H大附属図書館での事故は、朝のニュースで報道されていたらしい。

 露草は、その様子を、身振り手振りを交え幾分か脚色してあんこに伝え始めた。

 腹部を押さえながら青い顔をしている八尺に、そっと声を掛ける。

「今日の威力はどうだった?」

 八尺が、息も絶え絶えに答えた。

「……なんか……もう……クマとか倒せばいいのに……」

 余程のものだったらしい。

「心配したぶん、威力が増してるんだよ」

 愛の重さが蹴りの重さである。

「僕じゃなかったら数メートルは吹っ飛ぶ威力なんですけど……」

 露草は、傍から見れば恐ろしくわかりやすいツンデレである。

 想い人である八尺にだけ挨拶代わりに蹴りが飛ぶ。

 問題なのは、そのわかりやすさに、当の本人と八尺だけが気がついていないことだ。

 相手に伝わらないツンデレって、迷惑以外の何物でもないのだなあ。

「……ふー。よし、復活。アザになってるかもだけど」

「八尺。お前、脱いだらアザだらけなんじゃないか?」

「そうだよ……」

 そんな会話をしながら、学校へと足を向ける。

 俺たちの通う札幌市立神徳高等学校は、札幌駅北口から東へ向かい、歩いて十五分ほどの場所にある。

 中高一貫校で中学校が併設されており、半数以上の生徒はそこから繰り上がる。

 露草だけが繰り上げ組で、俺やあんこ、八尺、お嬢、大吉は、高校からの編入組だ。

 受験の必要がある編入組は、繰り上げ組に比べ、平均的に学力が高い傾向にある。

 ご想像のとおり、露草は成績があまりよろしくない。

 対して、あんこは恐ろしく勉強ができる。

 これを〈驚くべきこと〉と認識しているのは、遺憾ながら俺だけであるらしい。

 しかし、納得がいかなくとも事実は事実。

 いずれ教科合計であんこを上回るのが俺の目標である。

 石狩街道を横切りながら談笑する二人をぼんやりと眺めつつ、俺はそんなつまらないことを考えていた。

 いろいろと対照的な二人ではあるが、過去はどうあれ仲はいい。

「──ほら、あんこ! 言ってやんなさい!」

 先を行くあんこと露草が、唐突に振り返った。

「ミナト?」

「どうした」

「ケガしなくてよかったねー」

「ああ、そうだな」

「アンタたち、ゆるいわねえ……」

 露草がガクッと肩を落とす。

 ゆるいのは、あんこだけだと思うのだが。

 あまり図書館の話題が続くと、あの手紙に言及しなければならなくなるかもしれない。

 俺は、話題を変えることにした。

「なあ露草。そういえば、妹を紹介してくれるって話はどうなったんだ?」

「──はァ!? なんで紹介するって話になってるのよ! するわけないじゃないのよ! アンタなんかに!」

「神徳中学のほうに通ってる読書が好きなおとなしい女の子なんだろ。すぐに会えるし、いかにも俺と気が合いそうじゃないか」

「ダメ! ダメダメダメッ! アンタは信用ならないの!」

「いや──自分で言うのもなんだけど、貞操観念という意味で俺以上に安全な高校生なんてそうはいないぞ」

「……う。そうだけど」

 然るべき事態へ至るときには、必ず拇印と承諾書。

 そしてできれば婚姻届。

 大吉や八尺から前時代的と言われようと、この点ばかりは譲れない。

「でも! でも、よ? ……アンタ、好きな女の子のタイプは?」

「あー……」

 好きな女の子のタイプ。

 いままで聞かれたことがなかったし、考えたこともなかった。

「──…………」

 小首をかしげながら、後ろを歩くあんこを一瞥する。

「……強いて言うなら、背が小さくて胸のない女?」

 なにげなくそう答えた瞬間、しまったと後悔した。

「──こンの、ロリコンッ! だから信用できないって言ってんの!」

 露草の罵倒に心から納得する。

 単純にあんこと正反対のタイプを挙げただけなのだが、この返答の仕方では、ロリコンのそしりを受けても文句は言えない。

「ま、まあ待て! 違う! 俺はロリコンじゃない! その証拠に──」

 その証拠に、なんだ!

 なにを言えばいい!

 脳がかつてない速度で演算を開始する。

 やがて、俺の思考回路が、ある答えを弾きだした。

「その証拠に、露草だって俺のタイプだ!」


 ──…………


 一瞬の静寂。


「だっ──」

 露草が攻撃準備に入る。

 俺は、無意識に、カバンから手を離していた。

 それが地面に触れると同時、

「誰がつるぺたチビ子よ────ッ!」

 ああ、そういう理解ね!

 そうなるよね!

 コンプレックスだもんね!

 露草の細い足が、人体の限界に迫るスピードで俺の腹部へと襲い掛かる。

 対処可能と判断。

 伊達に総計一キロメートルも蹴り転がされてはいない。

 両手を重ね、どっしりと腰を落とし、露草の蹴りを受け止めようとした瞬間、


 ──カクッ、と。


 蹴りの軌道が変化した。

 破裂音にも似た音が街路に響く。

 不自然な体勢からの人間離れした跳躍と共に露草が蹴り上げたのは、八尺の顔の真横、何もないはずの空間だった。

「わ、と!」

 体感で数秒ののち、露草が着地する。

「──永久寺! 大丈夫!?」

「う、うん……」

「……よかった……!」

 露草が、心の底から安堵したような表情を浮かべる。

「……あんこ、何があったんだ?」

「あたしもよくわかんなかったんだけど、車道のほうから石とんできて──」

「石か」

 自動車に轢かれた小石が飛礫となって、その射線の先にたまたま八尺の頭部があった。

 不幸な偶然だが、あり得ないことではない。

 だが、

「……相変わらずの超人っぷりだな」

 いったん定めた蹴りの軌道を変えて、別方向から飛んできた石に対処する。

 そんなこと、普通の人間には到底不可能だ。

「その、佐藤さん……」

 八尺が、軽く膝を曲げて、露草と視線を合わせる。

「ありがとう、助かったよ」

「──……!」


 ドムッ!


「ぐほォ!」

 八尺の脇腹に、露草の蹴りが埋め込まれた。

「あ、あ、アタシは、永久寺なんかを助けたわけじゃないんだからー……ッ!」

 真っ赤な顔をカバンで隠しながら、露草が走り去る。

「……神徳高校の人間大砲。久し振りに重い一撃だったな」

「ほんと、もう、なんなの……世界とか目指せばいいのに……」

「俺たちからは、頑張れとしか言えない」

「……はっしゃくん、湿布いる?」

「東尋坊さんの優しさが身に沁みる……」

 これは二人の問題だ。

 この件に関して、原則二と制約1は、互いに打ち消し合っている。

 無闇に口を突っ込むのは野暮というものだろう。



 教室の扉を開いた途端、重苦しい沈黙が俺たちを出迎えた。

「──…………」

 教室の中央で一組の男女が睨み合っている。

 その視線は互いに剣呑だ。

 男子生徒は、手のひらより大きいくらいのきらびやかな小箱を頭上に掲げている。

 女生徒の手が決して届かない位置にまで。

 そうして、取り返してみろよとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 幼稚だ。

 傍から見れば、背の大きな小学生である。

 女生徒のことは、よく知っている。

 お嬢──狸小路たぬきこうじ綾花あやか

 大吉の主人であり、俺の友人だ。

「……ねえ、九丹島くん」

 廊下側一番前の席の女生徒──桜田ユリが、そっと俺に耳打ちをする。

「なんとかしてよ。九丹島組の不祥事だよ」

「なんだよ九丹島組って。ヤクザかなんかか」

 しかし、放っておくわけにも行くまい。

 俺は、カバンを女生徒の机に置くと、ガシガシと両のこぶしを打ち合わせた。

「──よし!」

「ちょま!」

 八尺に襟首を掴まれた。

「待って、ミナトくん待って! 何をする気なの何を!」

「喧嘩両成敗」

「そりゃ九丹島組とも言われるよ!」

「経緯がわからんのだから、とりあえず腹に一発ずつ決めてだな」

「どうして頭いいのにいつも安直なの!」

 俺と八尺のやり取りが聞こえたのか、男子生徒が左手で腹部を押さえる。

 それが隙となった。

「薄汚い手でそれに触れるな! 下郎ッ!」


 ──パンッ!


 お嬢が、男子生徒の頬を思いきり平手打ちにした。

 男子生徒の手から小箱が落ちる。

 誰もが地面との衝突を想像した。

 箱が壊れ、中身が飛び出すことを。

 けれど、そうはならなかった。

「──お嬢様、遅くなりました」

 いつの間にか男子生徒の背後から近づいていた大吉が、床すれすれで受け止めたのだ。

「遅刻よ、大吉」

「お叱りは後でいくらでも。ですが、いまは──」

 大吉が、男子生徒を、冷たい眼光で射抜いた。

「この悪漢めを、いかがなさいましょう」

 教室の温度が、数度下がる。

 すくなくともそう感じられた。

「……チッ」

 男子生徒は聞こえよがしに舌打ちをしてみせると、見物人を押しのけてこちらへとやってきた。

 逃げるのだろう。

 そう見せていないだけで。

 男子生徒は、扉をくぐる瞬間、お嬢に向き直り──

「また後でな、ニセお嬢様ッ!」

 そう吐き捨てた。

「──っ」

 お嬢の息を呑む音が聞こえた気がした。

 刹那、

「ふッ」

 幾つもの机を軽々と飛び越え、疾風の速度で、大吉が男子生徒へと肉薄する。

「ひァ!」

 男子生徒が脇目もふらず廊下へと駆け出した。

「──お嬢様を頼みます」

 大吉とすれ違った瞬間、そんな言葉が耳に残された。

「……たく」

 頼まれてしまったものは仕方がない。

 頼まれなくても同じことをしただろうけど。

 騒然とする直前の沈黙に包まれた教室を横切り、お嬢へと歩み寄る。

 お嬢は決して〈ニセお嬢様〉ではない。

 元、お嬢様である。

 狸小路家の歴史がいつ始まったのか、俺は知らない。

 けれど、明治初期に狸小路商店街が興ったころ、既に栄華を誇っていたのは疑いようのない事実だ。

 狸小路商店街の名は、周辺一帯の大地主であった狸小路家にちなんでつけられたのだから。

 その狸小路家が、土地を切り売りしながら昭和を生き長らえ、ついに完全に没落したのが平成──具体的に言うなら俺たちが中学二年生のときだった。

 お嬢は、さまざまなしがらみを乗り越えてここにいる。

 けれど、過去をすべて払拭することはできない。

 偽物のお嬢様。

 その言葉は、お嬢にとっての急所なのだ。

 だからこそ大吉は怒り狂っていたし、お嬢は──

「──…………」

 こんなにも悲しそうな瞳をしている。

 お嬢様を頼みます。

 その言葉は、不良執事からの信頼の証だ。

 まったく、高慢ちきで高飛車でひねくれているくせに、打たれ弱いお嬢様である。

「──狸小路綾花」

 お嬢、ではなく、フルネームで呼ぶ。

「お前は狸小路綾花だ。違うか?」

「わた、くしは──」

 自分と他者を分けるものは、名前だ。

 むろん、それだけではない。

 けれど、要素のひとつであることは間違いない。

 俺とお嬢は、どこか似ている。

 俺は、九丹島という姓に。

 お嬢は、狸小路という姓に。

 それぞれ誇りを持っている。

 だから俺はお嬢に問うのだ。

「お前は、誰だ?」

「わたくしは──」

 お嬢が、いつものふてぶてしい笑みを浮かべた。

「わたくしの名は狸小路綾花! 名門、狸小路家の一粒種ですわ! おーほっほっほ!」

 よし、これでもう大丈夫だ。

 俺は無言でサムズアップをすると、その場できびすを返した。

 代理にしては、よくやっただろう。

「──さてと」

 廊下側一番前の席にカバンを取りに戻る。

 すると、席に座っていた女生徒が、俺にカバンを手渡しながら楽しげに口を開いた。

「よっ、さすが九丹島組組長! ほんの二言三言で立ち直らせちゃうんだもん」

「だから、九丹島組ってなんだ。定着させるなよ、頼むから」

「いやー、そう呼びたくもなるって。学校中の変人が根こそぎぶちこまれた我らが二年三組で、その変人たちを見事にまとめ上げてるんだからさ」

「……変人か?」

「変人も変人、キワモノだよお。お嬢様にイケメン執事、ツンデレ人間大砲に変態巨人、ふつうなのはあんこちゃんくらい? ここまで目立つグループもそうないよ」

 俺に言わせれば、あんこがいちばんアレなのだが。

「そしていよいよトリを務めますのは天下の大奇人にして大変人、九丹島のまとめ役! 鉄腕ミナト! きゃーっ!」

「おい待てちょっと待て大いに待て。まとめ役までは認める。だが! どうして俺まで変人にカテゴライズされなきゃならんのだ! あと鉄腕ってなんだ!」

「いやあなた殴るでしょ。上級生下級生男子女子委細かまわず」

「相応の理由があれば殴るに決まっているだろ」

「ふつうは殴りません」

「そうか……」

 すこし変わっていることくらいは自覚していたが、変人ときたか。

「解せない」

「解そうよ」

 男子生徒は、チャイムが鳴ると共に、大吉に手を引かれて戻ってきた。

 なにをされたのかは知らないが、下を向いて小刻みに震え続けるさまは、クラスメイトに大きな衝撃を与えたようだった。

 しばらくは、お嬢にちょっかいを出す輩も現れないだろう。



「さて! 今日は貴様ら──特に男子! 青き春にまみれて白い液を垂れ流す性、少、年どもに嬉しい知らせがあるぞ!」

 担任教師が、なかよしくん二号を振り回しながらそう告げる。

 いろいろと突っ込みどころはあろうが、この担任教師は二十代後半のうら若き女性であり、なかよしくん二号とは教室に常備されているハリセンのことである。

 一号はつい先日役目を終えて、いまはどこかの空き教室に保管されているらしい。

 そして、教室がしんと静まり返っているのは、担任教師がいつも似たような文言で全校集会やら抜き打ちテストやらをやたら嬉しそうに宣告するからである。

 しかし、今日は様子が違った。

「いいかよく聞け! 学校中の掃き溜めたる我らが二年三組の新しい仲間を紹介する! しかも生物学上の性別は女だ! 若いぞ! しかもだ! わたしほどではないが美少女と言っていい!」

 おおーッ!

 と、男女問わずクラス中がどよめいた。

 おいこの担任いま自分のことを美少女と言ったぞ。

「ふん! どんなやつがくるか楽しみね!」

 隣席の露草が、腕を組みながらそう言った。

「新たなる挑戦者にこぶしが疼くのか」

「アタシをなんだと思ってんのよ! それに、こぶしがうずくのはアンタでしょ!」

「さすがに転入生をいきなり殴ることにはならんだろ」

「可能性は否定しないのね……」

 恐ろしいものを見るような視線を向けられる。

 お前も人のことは言えないだろうに。

「──静かに!」

 すぱーん!

 担任教師がなかよしくん二号で教卓を叩き、ざわついた教室を静めた。

「貴様らは掃き溜めのクズだ! しかあし! 最低限の礼節と常識はわきまえたクズであるとわたしは信じている! 転入生に親切にしてやれないやつらはクズ以下だ! この言葉を、よおく胸に仕舞い込め! よし! そういうわけで転入生カモン!」

 建て付けの悪い教室の扉が、音を立てて開け放たれる。

 新たなクラスメイトの登場に、柄にもなく昂揚する自分を自覚した。

 そして、教室に入ってきたのは──

「──…………」

 本当に、線の細い美少女だった。

 肩まであるくせっ毛が可愛らしかった。

 前の学校のものだろうか、見たことのない制服を着ていた。

 ものもらいにでもなったのだろうか、右目に眼帯をしていた。

 どこで買ったのか知らないが、内側が血のように赤い漆黒のマントをひらめかせていた。

 クラスメイト全員の頭上に疑問符がひらめくのが、見えた気がした。

「おい、貴様らどーしたどーしたあ!」

 担任教師には、この三十数個のハテナが見えないらしい。

「ま、いいや。おい天ヶ瀬あまがせ! 自己紹介、びしいっと決めてやれ!」

「──御意」

 御意!?

 大吉以外の口から初めて聞いたぞ!

 俺が密かな感動を覚えていると、天ヶ瀬と呼ばれた転入生が、黒板に名前を書き始めた。

「……?」

 よく見ると、それは漢字ではなかった。

 英語でもなかった。

 アルファベットによく似た、しかしもっと複雑な文字だった。

 誰にも読むことのできない言語で自分の名を書き終えた転入生は、すっとクラス全員を振り返った。

「天から落ちた綺羅星──天ヶ瀬 星羅せいらの名を受け顕世を生きている者、とでも名乗ろうか。私は、ともに悪魔学をこころざす同志を求めている。私はこの学校に、悪魔学研究会という巣を張ろう。力を求めている者。魂を売ってでも叶えたい願いを持つ者。悪魔を崇拝している者。運命を感じた者。そういった選ばれし者は、我が巣の門戸を叩きたまえ。それ以外の俗人に興味はないよ。──こんなところかな」

 シニカルな笑みを浮かべ、肩をすくめる。

 ひとつ、わかったことがあった。

 視界に入った瞬間から感じていた悪寒の正体が。

「──中二病だ」

「はえ?」

 露草は知らないらしい。

 しかし、周囲のクラスメイトが数人、俺のほうを見て頷いた。

 間違いない、こいつは中二病だ。

 しかもかなり重度だ。

 将来、ふと我に返ったときに自殺しかねんレベルのそれだ。

「なかなかミステリアスなやつね!」

「ええっ!?」

 露草の言葉に、思わず驚愕の声を上げた。

「なによ。なんか文句あるの?」

「いや、文句はないが……」

 そう感じる人もいるのか。

 皆が皆、一様に引いているわけでもないらしい。

 担任教師もガハハと笑っているが、これは単に何事もどうでもいいという豪快を履き違えたような性格のためで、参考にはならない。

「──…………」

 ふと、天ヶ瀬と目が合った気がした。

 微笑みと呼ぶには邪気に満ちすぎた笑みを浮かべて。

「あ、こっち見て笑ったわ! やっぱパンピーとアタシのオーラは一目瞭然ってことね!」

 と、露草がごきげんで言ったので、こちらを見ていたのは間違いない。

 目が合ったのは気のせいかもしれないけれど。

「──と、いうわけで仲良くしろよ! おい永久寺! 空き教室から机と椅子ワンセット! 置く場所は、いまなら選べる得々プランだ! お前の好きにしろ! 自分の席の隣に置いて転入生とうはキタコレでも構わんぞ! 返事は!」

「は、はい……」

「はいよろこんでー、だ!」

「はいよろこんで!」

 八尺は、体格が体格なものだから、よく教師から力仕事を頼まれる。

 実際に、腕力や膂力は常人とは一線を画しているので、適材適所と言えば言える。

 担任教師と八尺が並んで教室を出たあと、露草が震えながら口を開いた。

「な、なによ永久寺のやつ! デレデレしちゃって!」

 あの会話からそういう結論を導き出すのか。

 相変わらず興味深い思考回路をしている。

「悪いこと言わんから、そう短絡的に考えないでやってくれ。雑用を頼まれた上にお前に蹴られるんじゃ、いくらなんでも八尺が浮かばれない」

「じゃあどうしろって言うのよ!」

「あいつが、天ヶ瀬の席を、クラスメイトの座席を押しのけてまで自分の隣に置いたら、下心アリと見なしていい。だが、天ヶ瀬と相談の上でそうでない場所に置いたのなら、いつもどおりトンデモ教師が妄言を言っただけだ」

 ネット畑の八尺が中二病について知らないはずがないし、知っているならその痛さ、厄介さ、面倒くささに関しても熟知しているはずだ。

 いくら美少女とは言え、自分の席の近くに配置するとは思えない。

「……むー、わかったわよ。つ、アタシだって、べつに好きで永久寺のこと蹴っ飛ばしてるわけじゃないし──って、好きっていうのは永久寺のことが好きとかそういう意味じゃないんだから! 勘違いしないでよね!」

「はいはい」

 八尺ならば〈ツンデレ乙〉とか言うのだろうが、言ったら言ったで蹴られるんだろうな。



 相談の上、天ヶ瀬の席は窓際最後列に決まったようだった。

 半端に空いたスペースなどなかったので、順当と言える。

 当の天ヶ瀬は、席に着くやいなや、カバンから禍々しい装丁の古書を取り出して肩肘をつきながら読み始めてしまった。

 誰もが天ヶ瀬の存在を意識しながら、誰も彼女に話し掛けることはなかった。

 微妙な緊張感を保ったまま時間は流れ、やがて──



 放課後になって、俺は、珍しく図書室を訪れていた。

 俺が学校の図書室を利用しないのには、相応の理由がある。

 まずひとつ。図書室が中学校舎のほうにしかなく、高校生には入りにくい雰囲気があること。

 こちらの理由は、空気を読まない俺からすればさほど大きくはない。

 もうひとつのほうが重要で、蔵書が少ないことには目をつぶるにしても、ラインナップが明らかに中学生向けなのだ。

 中学校舎にあるのだし、それが悪いとは言わないのだが、俺の足を遠のかせる原因としては十分すぎた。

 中学生向けであるにも関わらず、当の中学生たちにすらあまり人気がないのか、人がいなくて静かな点は好ましいけれど。

「──やはりないか」

 俺は、科学関連の書棚に向かいながら、そう呟いた。

 探している本のタイトルは、〈タイムマシンは作れますか?〉。

 H大附属図書館で、例の手紙が挟まっていた本である。

 本の内容と手紙とに、なにかしらの関連性があるのではないか──そう考え、手当たり次第に探しているのだが、これがなかなか見つからない。

 H大附属図書館は再開の目処が立っていないと言うし。

「まあ、期待はしてなかったけどな」

 あまりメジャーな本であるとも思えない。

 司書教諭と図書委員の趣味で構成される図書室の蔵書に、そんなものが入り込む可能性は低いと言えるだろう。

 やはり、中央図書館を探すべきだろうか。

 出費を覚悟するのなら、紀伊國屋などの品揃えのいい本屋で探すという手もある。

 最終手段として、Amazonもあるし。

 そんなことをぼんやりと考えながら、閑散とした図書室を出ようとしたときだった。

「──あ、あのう!」

 反射的に振り返る。

 そこには、カウンターから身を乗り出す図書委員らしき少女がいた。

 その視線は明らかに俺へと向けられており、呼び止められたのだと確信する。

 少女が、カウンターを大回りして俺の前に──

「ひゃあう!」

 俺に、真正面からぶつかった。

「す、すみませんです! ごめんなさいです!」

「いや、構わんが……」

 体重が軽いのだろう、あまり衝撃もなかった。

 少女は深々と下げていた頭を上げると、胸の前で手を重ね、上目遣いで尋ねた。

「あのう、なにか本をお探しなんですか?」

 どこもかしこも小作りで、人形のような少女だった。

 さほど長くもない髪を左側頭部でまとめており、サイズの合わない眼鏡をずり落ちたまま掛けている。

 愛らしいポシェットを肩から提げていて、それが見かけの幼さを更に際立たせていた。

「──…………」

 どことなく見覚えがあるような。

 まあ、中学高校の違いはあれど、同じ学校に通っているのだ。

 すれ違ったことくらいはあるのだろう。

 それにしても、高校の制服を着た俺に自ら声を掛けるとは、なかなか肝の座った少女だ。

 ただでさえ少ない利用者のなかで、更に少ない高校生だから、よほど珍しかったと見える。

「ああ──そうだな。タイムマシンとか、タイムトラベルとか、そういった内容の本を探していたんだが……」

「はい! 一緒にお探しします、です!」

「いや、ちょっと待て」

 書棚へ向かおうとした少女の肩を掴む。

「ひやあ!」

「あ、すまん。触れるつもりはなかったんだが」

「あわ、ひえ! 大丈夫ですので!」

 あわとひえ?

「あ、と──ならいい。さほど広くもない図書室だから、ありそうな棚はもう探してしまったんだよ。なので、もし手間じゃなければ、貸出中の本のなかにそれらしいのがないか調べてほしい」

「はい! 了解です!」

 図書委員の鑑のような子だ。

 少女はカウンターのなかへ戻ると、さほど厚くない図書カードの束を取り出した。

 それをぱらぱらと確認していくと、一分と経たずに結果が出た。

「……すいません。それっぽいタイトルの本はないみたい、です」

「そうか。手間を掛けさせたな」

「あのう! 無断持ち出しとかのなかに、もしかしたら!」

「気持ちはありがたいが、そこまでしなくていい。ないものはないんだろう。素直に別の図書館や本屋を巡ることにするよ」

「すみません……」

「世話になったな。それじゃ」

 軽く手を上げて、その場を後にする。

「──あのう!」

 呼び止められて、顔だけを向けた。

「佐藤うずら、です! 普通な佐藤に、ひらがなのうずらで、佐藤うずら!」

 何故か自己紹介をされた。

 よくわからないが、礼には礼でもって返すべきだ。

「九丹島ミナトだ。漢字は面倒だから、音で覚えてくれ」

「はい、くたじまさん! また図書室に来てください、です!」

「ああ。用事ができたら、そうする」

 いまのところ予定はないが、それは言わぬが花である。



 図書室を出て、校舎同士を連絡する渡り廊下を歩いていたとき、ふと気がついた。

「佐藤──うずら?」

 立ち止まる。

 苗字が佐藤で、神徳中学に通っていて、読書が好きなおとなしい女の子。

 おとなしいかどうかは評価が分かれるかもしれないが、

「──もしかして、露草の妹?」

 佐藤姓は多いが、ここまで当てはまっているとなると可能性は高い。

 いまにして思えば、中学生にしてさえ身長が低かったし、遺伝と考えると納得も行く。

 もしそうなら、名乗ったのはまずいな。

 うずらが露草に俺のことを話したら、最悪蹴り殺されるかもしれない。

 なにしろ妹に興味を示しただけであの過剰反応だ。

 シスコンなのだろう。

 あの馬鹿、あれでいて普段はしっかりと手加減しているからな。

 本気を出せばコンクリート塀をぶち割ると聞いたのだが、信じたくない。

 かつてその蹴りを入院するまで食らった身としては、思い出すだに背筋が凍る。

 信じたくはない。

 信じたくはないが、本当なのだろうなあ……。

「うう……」

 図書室に行っただけで、どうして死刑囚のような気分にならねばならんのだ。


「──ここを開けなさいッ! 事情があるならちゃんと聞くから!」


 廊下に男性教師の怒鳴り声が響いた。

 続いて、どんどんと扉を叩く音。

 なにかトラブルでもあったのだろうか。

 そう思いながら廊下を曲がろうとしたとき、誰かとぶつかりそうになった。

「おっ──と、すいません」

 反射的に謝る。

 一歩下がり、相手の顔を見ると、

「ああ、先生か」

 それは、二年三組の担任教師だった。

 最初は驚きの表情を浮かべていた担任教師が、その顔を徐々に邪悪な笑みへと変えていく。

 案の定、嫌な予感がする。

「おい九丹島。貴様、すいませんと言ったな」

「……言いましたが」

「それは、自分の非を認めたということだ」

「はあ」

「わたしは認めない。先に謝ったほうに非がある。だからお前は罪を償わねばならん」

「ここはアメリカじゃないんですが」

「というわけで──」

 担任教師が唐突に俺の腕を掴み、尋常じゃない力で引きずり始めた。

「ちょ、トンデモ教師! どこへ連れて行く気だ!」

 その疑問はすぐに氷解した。

 廊下の先に人だかりがある。教師と生徒を取り混ぜて、ざっと十人ほど。空き教室のなかにいるらしき何者かへと、口々に呼びかけている。

 俺は、そのなかにぽいっと放り込まれ──

「あとはこの二年三組九丹島ミナトがなんとかします! じゃ!」

 担任教師はそう言い残し、ダッシュでその場を後にした。

「──あのトンデモ教師、俺を人身御供にしやがった!」

 しかもクラスと名前を告げて逃げられないようにする徹底ぶりだ。

 ついに教師を殴る日が来たのだろうか。

 俺がこぶしを固めてそっと復讐を誓っていると、

「ああ、君があの……」

 見覚えのない男性教師が眉をひそめた。

 悪評が届いているらしい。

 対して、生徒の反応は真逆だった。

「九丹島さんって、不良から中学生を助けて英雄にされてるんだよね?」

「ススキノでヤクザ殴り飛ばしたってほんと!?」

「あたしは凶悪な人間兵器を手足のように使って領地を広げてるって……」

 どんなイメージだ。

「あ、あの!」

 ひとりの男子生徒が進み出る。

「あの、俺……写真部で。デジカメじゃなくて、フィルムなんだ。その、みんなデジタルなんだけど、俺だけ、あの、フィルムの感じが好きで。だから、暗幕がないと困るっていうか、その……」

 後頭部を掻きながら、朴訥な口調でそう言った。


 原則一「人を助けること」


「──ああ、わかった」

 俺は、男子生徒の肩を軽く叩き、告げた。

「俺がなんとかする」

「待ちなさい! 勝手に話を進めるんじゃない!」

 男性教師が、扉の前に立ちふさがるように両手を広げた。

「ここは私がなんとかするから、皆は解散しなさい!」

 生徒たちからブーイングが上がる。

 なるほど、この高圧的な態度では、教室内の犯人が出て来られないわけだ。

 勢いに乗るように、俺は言った。

「先生。かなりの時間、ここで怒鳴り続けているようですね」

「どうしてそう思う」

「声が枯れかけています。たぶん、他に方法がないから。もしあれば、枯れるまで怒鳴り続ける必要はありませんからね」

「──…………」

「もし俺が、手っ取り早い解決策を提示できると言ったら?」

 生徒たちがどよめく。

 これは、よくない。

 これから話す内容は、教室内の犯人に聞かせたくないのだ。

「……一応、聞かせてもらう」

「ええ、もちろん。ですが、ひとつ条件があります」

「条件? 教師に対してそういった態度は感心しないな」

「ああ、申し訳ない。言い方が悪かった。先生に対して取り引きを持ちかけているのではなく、必須条件ということです」

「必須条件……」

「ええ。俺の行動に、口を出さないでください。これが条件です」

「ハ──……」

 男性教師の顔が、怒りに赤く染め上げられる。

「──ふざけるなッ! 教師を馬鹿にするつもりか!」

「はい、それです」

 俺は、男性教師の顔を指さした。

「犯人がどうして出てこないか、わかりますか? 先生の大声に怯えているからですよ」

「──……ッ」

 男性教師が悔しげに絶句する。

「俺は、犯人を説得し、教室の外へと連れ出すことができます。すくなくともそのための手段を持っているし、実行できる。だから、それを待っていてくれませんか。そこから先は先生の仕事ですから」

「──…………」

 痛いほどの沈黙が、廊下に帳を下ろした。

「……方法は」

 男性教師が口を開く。

「はい?」

「その方法は。それがわからないと、話にならない」

 むすっとした表情のまま、こちらから視線を外してそう言った。

 俺は男性教師を手招き、耳打ちをした。



「へうー……」

 教室内は、カーテンの代わりに張られた暗幕のせいで薄暗く、そして拷問のように暑かった。

 唯一の光源は、教室の中心に立てられた一本のロウソクである。

 そのロウソクを中心として、歪んだ魔法陣がフリーハンドで描かれていた。

「──…………」

 棚に安置されていたなかよしくん一号(ハリセン)を掴み、扉に向かって体育座りをしている人影に、気配を消して近づいていく。

「どないしょー……ほんに、えらいことになってもた……」

 大阪弁?

 まあいい。

 俺は、なかよしくん一号を一本足で振りかぶり──


 すぱーん!


 人影のドタマに一撃をくれた。

「おい大阪弁。自首しろ。一切の反論は受け付けん」

「あ、あにすんね──ッ! それに大阪弁ちゃう! 神戸弁や!」

 後頭部を押さえながら人影が振り向く。

 その顔に、見覚えがあった。

 特徴的なくせっ毛。

 右目の眼帯。

 俺は一瞬、混乱した。

「──天ヶ瀬、か?」

 天ヶ瀬星羅。

 二年三組の中二病転入生、その人だった。

「え──あ、ああッ!」

 俺の顔を指さしながら、天ヶ瀬が数歩後じさる。

 クラスメイトであることを思い出したのだろう。

 ちょこちょことした足取りで、教卓の上に畳んであったマントを取ると、

「は、はよせな!」

 と小声で呟きながら、もたもたと装着した。

 そして、俺の知る天ヶ瀬の姿になると、右手でマントをばっと開き、

「──ようこそ、我が巣たる悪魔学研究会へ。君が選ばれし者か、哀れな子羊か、無慈悲なる審判を下そうじゃないか」

「いや、さすがに無理があるだろ」

「う、うっさい!」

 天ヶ瀬は赤い顔でそう言い放つと、アレイスター・クロウリーの六芒星をかたどったペンダントを口元に近づけた。

「アロケル、私だ。どうやらこの男は秘密を知りすぎたようだ。……ふん、君はそうやって、いつも私の命を狙うのだな。あのとき味わった生命のしずくの味がそんなにも忘れられないのかい。……いや、消すのはまずい。いくら契約者とは言え、いまは一介の学生に身をやつしているのだから──」

 延々と独り言が続く。

 なんと痛々しい。

 しかし、知っている単語があったので、つい口を出してしまった。

「……アロケルか。ソロモン七十二の悪魔のなかでも、またマイナーなものを」

「知っとるん!?」

 唐突に手を掴まれた。

「へあ!」

 と思ったら、妙な声を上げて放された。

 無意識だったらしい。

「ふ、ふむ! 君は悪魔学に通じているようだね」

「通じてねえよ。概要と、それぞれの悪魔の簡単な特徴くらいだ」

 以前調べたことがあったのだ。

「エクセレント!」

 天ヶ瀬はそう言って、指を鳴ら──なかった。

 かすれた音だけが耳に届く。

 だが、そんなことは気にもならない様子で、

「私の同志たるに十分な資質だよ! 名前を聞いておこうか!」

「……九丹島ミナト、だ。九つに薬の丹、アイランドの島。ミナトはカタカナ」

 すこし迷ったが、自己紹介くらいはしても構うまい。

 クラスメイトなのだし。

「ふむ? それでは、くたんじまになるのではないかな」

「くたじまだ。そう読むんだから仕方あるまい」

「了解した、同志くたんじまよ。共にこの悪魔学研究会を盛り立てていこうじゃないか!」

「了解してねえし同志じゃねえし悪魔学研究会に入れんじゃねえ」

「おや、我が巣たる悪魔学研究会に──って、そや! どないして入ってきたん!?」

 素が出てるぞ。

「扉じゃないんだから、答えはひとつだろ」

「扉じゃないんやったら──窓!? じょ、冗談を言ってはいけないよ、同志くたんじま。ここは二階だ。契約者たる私でも、右目の力を使わなければ不可能だよ」

 なんだよ右目の力って。

「簡単な話だ。この下には、平屋建ての武道場がある」

「ッ! 屋根かい!」

 危険であることに変わりはないが、平均程度の運動神経を持っている者ならば、さほど苦もなく飛び移ることができる。

 窓が開いているのならなおさらだ。

 さすがに、教師の許可を取るには、数分の時間を要したが。

「さて、と──」

 俺は天ヶ瀬の腕を取ると、逃げられないようにしっかりと固めた。

「なんだい、同志くたんじま。私のような美少女と腕を組みたいという君の獣のごとき欲望はわかるけれど、もう少し共に困難を乗り越えてからでも遅くはないよ」

「心配するな。犯人を確保しただけだ」

「犯人!?」

 天ヶ瀬が暴れ出すが、その程度で解けるような、やわな組み方はしていない。

 侵入経路は脱出経路になりうるから、離すわけにもいかない。

「かんにんしてーっ! 理由、理由があんねって! おねがい聞いて!」

「外の先生に言え。俺の仕事はここまでだ」

 天ヶ瀬を引きずり、扉へと向かう。

「そ、そや! タイムマシン! 同志くたんじまはタイムマシンに興味あんねやろ!?」

 その言葉に、俺の足が止まる。

「──何故、それを?」

 自分でも、これほど冷たい声が出るものかと感心する。

 俺が〈タイムマシン〉という単語に触れたのは、直近で二回。

 H大附属図書館と、ついさきほど図書室でのことである。

 俺が図書室へ行っていた時間帯、天ヶ瀬はこの空き教室に立てこもっていた。

 となれば、天ヶ瀬は昨日、H大附属図書館にいた──その可能性がある。

「へ、へう! ……こほん。それは教えられないよ、同志くたんじま。契約の秘儀に触れることは、君の生命を削ることになる。得たばかりの同志にそんな危険を冒させるわけにはいかない。あんなこと、私だけで十分──いや、いまのは聞かなかったことにしてくれ」

 俺は、妄言を続ける天ヶ瀬を解放すると、ポケットから例の手紙を取り出した。

 手紙を天ヶ瀬の眼前に突きつける。

「この手紙について、知っていることを話せ」

 天ヶ瀬は、恐る恐る手紙を受け取ると、そっと開いた。

「えと、〈くたじまみなとさんへ〉……また読みにくい字だね」

 その左目が、文章を追うにつれ、

「──ふふっ」

 ぎらぎらと狂気的な光を宿しつつあるように、俺には思えた。

 天ヶ瀬が勢いよく顔を上げる。

「面白いッ! これは実に面白い手紙だよ同志くたんじま! これは昨日、H大附属図書館に暴走自動車が突っ込む、その前に君の手に渡ったものだ! そうだね!?」

「あ、ああ。そうだが……」

 あまりの食いつきのよさに、すこしたじろぐ。

「いささか情報が足りないな。同志くたんじまよ、当時の状況をできる限り詳しく説明してもらえるかい? ハリィハリィ!」

 天ヶ瀬の変貌に戸惑ったが、第三者からの意見は貴重である。

 俺は、一連の流れを、記憶にある限り詳細に語り始めた。



「なるほっ、どー……」

 あごに指を当てながら、天ヶ瀬が思考に没している。

「未来予知と推定される手紙が、タイムマシンの本に挟まっていた。これは実に象徴的だとは思わないかい?」

「そうだな。そこは確かに、気になっていた」

「しかし、これが意図的なものであると見なすのは、いささか早計だ。こういった偶然の一致は起こりうる。カール・グスタフ・ユングいわく、シンクロニシティ──共時性──あるいは、ミーニングフル・コインシデンス」

「つまり、単なる偶然だと?」

「いや、意味ある偶然さ。科学、化学、物理、数学──そういった研究の場で、着想の元となりうる偶然セレンディピティ。逸話には事欠かないが、ここでは省こう。ともあれ、タイムマシンという単語はこうして私に繋がり、ひとつの仮説を打ち立てるに至ったわけだね」

 天ヶ瀬の口舌を聞きながら、俺は戸惑いを深めていた。

 中二病の転入生が、実は関西出身だった。

 それはいい。

 しかし、この短い会話に込められた知性は、とても高校生とは思えない。

「──仮説、とは?」

「そうだな。まずは、タイムマシンについての講釈をしておこうか。同志くたんじまはタイムマシンが実現可能だと思うかい?」

「思わない」

 即答した。

「それは恐らく、某猫型ロボットのタイムマシンのように、過去へ未来へ自由自在に行って帰ってこれる便利なものを想定しているからさ。ひどく厳密な意味でならば、未来へのタイムトラベルは容易だよ。非慣性系──すなわち飛行機や電車に乗ればいい。ウラシマ効果によりごくわずかに未来へ行けるだろう。原子時計でようやく測れる程度だけれどね」

「ウラシマ効果? それはたしか、双子のパラドクスで──」

「ああ、同志くたんじまは理系も行けるんだったね。今度量子力学について語り合おうじゃないか。それはそれとして、ウラシマ効果だね。同志くたんじまが言っているのは、特殊相対性理論を元にしたものだろう。双子の兄が光速に近い速度の宇宙船に乗り、やがて地球へ帰ってくると、弟と数十歳も年齢が離れていた。しかし兄の視点に立てば、地球こそが光速で移動していたとも言える。これが双子のパラドクスだ。けれど、一般相対性理論ではパラドクスは起こらない。何故なら、双子のどちらが光速で運動したかという相対的な尺度ではなく、重力場や加速、減速といった絶対的な要因によって時間の遅れが起こるからだ。その代わり、遅れる時間がごくわずかとなって、宇宙飛行士が帰ってくるとそこは猿の支配する惑星だった──なんてことも起こらないのだけれど」

「なるほど。では、過去へ行くタイムマシンはどうだ?」

「技術的に不可能、理論上は可能──といったところかな。実は、あくまで思考実験にすぎないけれど、遡行タイムマシンのモデルは既に考え出されているんだ」

「そう、なのか?」

「まずキップ・ソーン型。これが一番メジャーかな? ふたつのブラックホールの特異点同士が繋がったものを考えてみてほしい。このブラックホールは遠く離れていて、片方に飛び込むと、もう片方から出てくる。この通路をアインシュタイン・ローゼン橋、またはワームホールと呼ぶ。このワームホールの穴の片方を光速に近い速度で運動させると、時間が遅れるんだ。これを利用したタイムマシンだね。問題点は、ブラックホールを利用しているため、通ると超重力で宇宙船が潰れてしまうこと。これは負の質量を持つエキゾチック物質を使うことで解決できるとされている。まあ、ホーキング博士はキップ・ソーン型タイムマシンを否定してるけれどね。次に、超光速粒子タキオンを利用したもの。そもそも超光速で運動することができれば簡単に過去へ行けるので、タキオンで宇宙船を作ってしまおうという単純な発想だね。しかしタキオンは架空の粒子で、観測されてもいないし、不安定な物質とされているから、宇宙船を作るのはいささか難しい。次にティプラーの円柱。地球の周囲の空間は、地球の回転に引きずられている、って話を聞いたことがあるかい? これを、そのまんま空間の引きずりと──」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! さすがについて行けん!」

 俺も理系には明るいほうだが、これだけの情報を一度には咀嚼できない。

「惰弱だね、同志くたんじま」

「それで結構だ。たしかに興味深い話ではあるが、これがどうして未来予知に繋がる」

 ばん、と机を叩く。

 結論の見えない講釈は、人を苛立たせる。

「たしかに、そろそろ頃合かな。同志くたんじまよ、もう一度尋ねよう。君は、タイムマシンが実現可能だと、思うかい?」

「…………」

 すこし、考える。

 思い出す。

 天ヶ瀬はタイムマシンを、理論上可能だと言った。

 いくつかの遡行タイムマシンモデルにも触れた。

 しかし、そのどれもが荒唐無稽なものであるように思われた。

「──思わない。タイムマシンは実現不可能だ」

 天ヶ瀬は満足そうに頷いた。

「今度は即答しなかったね。そのわずかな逡巡こそが、私が欲しかったものさ」

「どういうことだ?」

「同志くたんじまは、なにが不可能でなにが可能かを知った。単純に、タイムマシンのすべてを切って捨てることをしなくなった。タイムマシンについて、概要を理解したというわけだ。なら実現不可能な話はもう終わり。次の話は、決まっている」

 天ヶ瀬は、とっておきの悪巧みを教えるような表情で、言った。

「──今度は、実現可能なタイムトラベルについて、というわけさ」

「実現可能……、だって?」

 俺は、天ヶ瀬の話術に引き込まれていた。

 教室の外に教師たちを待たせていることなど、すっかり意識から抜け落ちていた。

 ただ、天ヶ瀬の語る膨大な知識が導き出す答えを見極めたいとだけ思っていた。

「そもそも、未来予知、というものはなんだろうね。夢で未来の光景を見た。気づくと書いた覚えのない文章が紙にあり、それが未来をぴたりぴたりと言い当てた。などなど。こういった予言者のすべてがオカルト、あるいはインチキとされ、科学者に認められないのはどうしてだと思う? 同志くたんじま」

「科学では扱えないから──だろうか。原理不明、実験不可能、再現も不可能。これで研究できるほうが、どうかしてる」

「そうだね。そうなんだ。でも、発想の転換をしてみればいい。未来予知は科学では扱えない。なら、同じ現象を引き起こし、かつ科学で扱える、別の原因を考えるんだ」

「同じ現象を引き起こす、別の原因?」

「そうさ。未来予知は──」

 天ヶ瀬が、大きくマントをひるがえす。

「未来予知とは、過去へのタイムトラベルだ!」

 くらり、と。

 目眩がしたような気がして、足元を確かめた。

「……過去へのタイムトラベル? 結局タイムマシンの話に戻るのか?」

「タイムマシンは、同志くたんじまが言ったように実現不可能だよ。しかしタイムトラベルはその限りじゃない。ここは先人にならって、タイムリープと呼ぶべきかな。簡単に言うなら、意識だけのタイムトラベルのことなんだが──いや、今回とは少々意味合いが違いすぎるね。タイムリープは遡行に限らないし、また過去の改変も行えない。ここは区別する意味で──そうだな。意識だけで時間を遡行し、過去を上書きして改竄する。タイムリライトとでも呼称しようか」

 過去を上書きし、改竄する──タイムリライト。

 俺が暴走自動車に轢き殺されるのを目撃した手紙の主が、タイムリライトを行って過去へと立ち戻り、〈タイムマシンは作れますか?〉に手紙を仕込んで俺の死を改竄した。

 馬鹿らしい、とは言えなかった。

 そもそも、未来予知でも、過去改竄でも、つじつまは合ってしまうのだから。

 天ヶ瀬は、手紙のある一点を指差した。

「私の仮説を裏付ける証拠は、手紙のなかにある。手紙の差出人は、自分の正体を既に自白しているのさ。〈車がつっこんだんです!〉とね。何故過去形で書かれたのか、聡明なる同志くたんじまなら既に理解しているね?」

「未来の出来事を、過去に経験していたから──か」

「よくできました!」

 天ヶ瀬はそう言うと、満面の笑みを浮かべて見せた。

「──タイムリライトは、科学的に可能なのか?」

「可能さ。それどころか、私たちが意識できていないだけで、タイムリライトは当たり前のように起こっているのかもしれない。私たちの脳は、一の次を二だと感じている。けれど本当は、一の次は四八七なのかもしれない。意識が作り出した時間の矢が、都合のいいようにナンバリングしているだけなのかもしれない。このナンバリングしている脳の部位をレーザーで焼き切り、あらゆる時間のあらゆる可能性を酔歩するようになった──なんて小説があったね」

 誰しもが一度は経験したことのある思考実験だ。

「もちろん、もっと同志くたんじま向けの解釈もあるよ。時間の矢は、エントロピーが増大する方向を向くという解釈がある。同志くたんじまには説明するまでもないと思うが、エントロピーの増大とは、熱いコーヒーに冷たいミルクを混ぜると、ちょうどいい温度のカフェオレができるといったような、ごく当たり前の現象だ。カフェオレを放っておいても、熱いコーヒーと冷たいミルクには分かれない。不可逆なんだ。でも──」

 天ヶ瀬はにやりと口角を上げた。

「本当に、不可逆かな?」

「不可逆──じゃ、ないのか?」

 エントロピーは決して減少しない。それが常識じゃなかったのか?

「エントロピーは、〈ほとんど確実に〉増大するんだよ。我々の観測範囲は、宇宙全体に比して、数学的に無視できるほどに狭い。だから宇宙全体で一斉にカフェオレを作れば、どこかでコーヒーとミルクに分かれるかもしれない。時間が〈ほとんど確実に〉未来へと進むのなら、ごくわずかな可能性にすぎないけれど、過去へと戻れるかもしれない。それを操ることができれば、タイムリライトは科学的に可能と言える」

 ふう、と。

 天ヶ瀬は、すべての説明を終えたとばかりに大きく息を吐くと、机に腰掛けた。

「──これが、私の仮説だよ。手紙の差出人は予言者でなくタイムリライター。なんらかの方法で、意図的にタイムリライトを行うことができるのさ」

「ちょっと待て。そのなんらかの方法ってのはなんなんだ」

「タイムリライト、ひいてはタイムリープを技術として確立したという話は聞かないから、答えはひとつだね」

 人差し指を立て、天ヶ瀬は言った。

「悪魔と契約したのさ!」

 張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。

「なーにが科学的に実現可能だ! 結局オカルトじゃねえか!」

 こんな結論を聞くために長広舌を聞いてきたのかと思うと、自分が情けない。

 俺は痛むこめかみを軽く揉むと、ふたたび天ヶ瀬の腕を取った。

「なんだい同志くたんじま。私の弁舌に惚れ込んでしまったのはわかるけれど、そういった肉体的接触は三回ほどデートを重ねてからでも遅くはないよ」

「るさい、犯人。俺はもう帰りたいんだ」

「だから犯人呼ばわりはやめておくれよ! 私は騙されただけなんだ!」

「騙されたあ?」

「うむ。話せば長くなるんだが──」

「長話は聞き飽きた」

 天ヶ瀬を引きずる。

「へあ! 短くします! 短くします!」

「…………」

 まあ、ここまで遅くなったのだ。

 言い訳くらい聞いてやっても変わらんだろう。

「そ、そもこの教室は、私が悪魔学研究会会長として申請し、正式に貸し与えられた場所なんだ。同好会として認められるには中学高校問わず三名以上が必要なのだが、ほとんどの場合、申請時点で人数の問題はクリアしているものらしい。だからそのあたりがひどくおざなりで、早めに三人ぶんの希望用紙を提出することを条件に、驚くほどあっさりと部室を手に入れることができたというわけさ」

「まあ、うちの学校は少子化うんぬんで空き教室多いし、そうでなくても全体的にゆるいしな。話に矛盾はないが──そもそも、悪魔学研究会なんてふざけた名前で申請通ったのか?」

「ふざけた名前とは随分じゃないか。しかし、悪魔学研究会という真なる名が秘匿されるべきもの、という同志くたんじまの意見はまさに正論だね。なので申請用紙には、歴史研究会と書いておいた」

「……いや、いいけどさあ」

 悪魔学もいちおう歴史の範疇ではあるから、まったくの嘘ではない。

「悪魔学に通じる同志くたんじまなら同意してくれるに違いないが、私がまず欲したのは暗幕だった。夏の太陽が差し込む、明るく爽やかな悪魔学研究会──なんて、認められるものか」

「そのノリはわからんでもない」

「そこで私は先生に尋ねたんだ。暗幕を貸してもらえませんか? と」

「ほう」

「先生は言った。そのへんの適当な部室からパクっちゃえばいいんじゃねえ? と」

「……なるほど」

 一気にすべての謎が解けた気がする。

「そういうものかと思った私は、その言葉に従った。結果がこれだ! 騙されたんだ!」

「すこしは疑問に思えという俺の意見はさて置き、確認しよう。その教師って──」

「二年三組! 名前は覚えてないが、私たちの担任だよ!」

「やっぱりか、あのトンデモ教師……」

 道理で慌てて逃げ出すはずだ。

 天ヶ瀬の言い分は全面的に信用して構うまい。

 トンデモ教師の普段の言動と行動とがそれを裏付けている。

 それにしても、飛んで火にいる夏の虫とはこのことだ。

 復讐の機会がこんなに早く巡ってくるとは思いもしなかった。

「──ククッ」

 思わず悪役じみた笑いが漏れる。

「いいだろう、天ヶ瀬! 俺が仲介に入り、貴様の罪を可能な限り軽くしてやる!」

 その代わり、担任教師に関しては可能な限り誇張してやるがな。

 俺の言葉を聞いた瞬間、

「……へあー」

 天ヶ瀬が妙な声を上げて机から滑り落ちた。

「おい、大丈夫か」

「よかはぁったー……神戸から引っ越してきて、ずうっと気ぃ張っとって……」

「気を張った結果が中二病かよ」

「中二病ちゃう! 悪魔はほんまに好きなの! それに、神戸弁なんて使っとったらみんな馬鹿にするやろ? 北海道は標準語みたいなもんて聞いてたし……」

「標準語? 北海道は北海道弁だぞ」

「どこがや! 札幌に来てから方言っぽい話し方のひと、ひとりも見とらんよ!」

「いや、ゴミを投げる……とか、なまら……とか」

「イントネーションは一緒やろ」

「まあ、そうかもしれない」

 札幌の若者に限れば、標準語と大差はないだろう。

「ともかく、誰も馬鹿になんてしないと思うがな。現に俺だってしていないだろ」

「そら同志くたんじまが同志やからやん。でもよかったー。トラブルはあったけど同志くたんじまがなんとかしてくれるみたいだし、悪魔学研究会も会員二名。順調やー」

 そう言って微笑んだ天ヶ瀬は、可憐だった。

 元から美少女ではあったが、気のゆるんだ今の顔には、ほんわりとした魅力がある。

 しかし、聞き逃せないものは聞き逃せない。

「待て。俺は悪魔学研究会に入った覚えはない」

「ええっ!?」

 心底驚いたという表情で、天ヶ瀬が立ち上がる。

「ど、同志くたんじまは、悪魔好きやろ?」

「普通だな」

 知識は無作為に取り込むほうだ。そのなかに、たまたま悪魔の知識があっただけである。

「だって同志くたんじま、入ってくれるって──」

「言ってない」

「言うて──ない。言うてなかったわ!」

「だろ?」

「はいらへん?」

「入らない」

「へうー……同志くたんじまなんて同志くたんじまやない! くたんじまや!」

 くたんじまでもないのだが。

「くう! アロケル、私だ。話の流れは理解しているね。同志──いや、今はただのくたんじまかな。彼をどうやって悪魔学研究会に引き入れるかなのだが……ああ、ああ、そうだな。彼は悪魔学研究会になくてはならぬ人材だ。私の右目──君と契約した証である、この万魔眼ばんまがんの力を使うこともやむを得ないか──」

 番場蛮みたいな名前だな。

 天ヶ瀬は、ペンダントに向けてひととおり独り言をつぶやくと、

「そ、そや! 賭けしょ! 賭け!」

 などと言い出した。

「賭け?」

「そう、賭け。実はなー、あの手紙について、言うてないことがあんね。これはえらいでー、びっくりすんで。おどろくでー」

「仲介に入ってやるんだから、その対価として教えろよ」

「あまいあまい、アメちゃんやな! さっきの仮説のおかんじょ、まだもろてへんもん。やから、仲介でとんとん。あんだけ頭使ったん、ほんま久しぶりやったんよ?」

「まあ、確かに興味深くはあったな」

 結論としてはひどいものだったが、過去改竄については一考の余地がある。

「やろ! だから、これは賭け。私が手紙について、どんな知識を隠しとんのか、それをおおまかにでも見抜ければ、同志──やなかった、くたんじまの勝ちや。もちろん、この知識の詳細部分は、推測なんかでどうにかできるもんやないから安心し。くたんじまのノドから手が出ることうけあいやで! その代わり、そうやな……三日! 三日で見抜けんかったら──」

「俺が悪魔学研究会に入る、と。そういうことだな」

「さすが察しがええな!」

「解答権は?」

「もちろん一回や」

 実のところ、俺は、この天ヶ瀬星羅という人物にひどく興味を惹かれていた。

 痛々しい中二病女。問題行動を起こす神戸弁の少女。そして、深い知識を持つ才媛。たった一日でこれだけ多彩に印象が変わる人物に興味を抱かないはずがない。

 悪魔学研究会に関しても、口では嫌がってみせながら、悪い気はしていなかった。もうすこし付き合いが深くなるようなら、所属しても構わないとさえ思っていたのだ。

 しかし──

「賭けとなると、俺は全力で勝ちに行くぞ?」

 勝負事には全身全霊を尽くすのが、俺のポリシーだ。

「かまへん。たとえ負けてもくたんじまのこと諦めるつもりないし」

「勝負の前から負けたときの話とは、たいした自信だな」

「うっさい!」

 俺はこぶしを握り締め、天ヶ瀬の前に突き出した。

「それじゃあ、勝負だ」

 天ヶ瀬はにやりと笑みを浮かべ、

「勝負や!」

 その小さな握りこぶしを、俺のこぶしにこつんと当てた。



 スマホで時間を確認すると、天ヶ瀬と会話していたのは二十分程度のことだったようだ。

 そのあいだ廊下でやきもきと気を揉んでいた関係者たちは、マント姿の天ヶ瀬を見た途端、「あー……」と深く頷いた。

 これは説得に時間が掛かるはずだ、と、勝手に納得してくれたらしい。

 男性教師には、天ヶ瀬が今日転入したばかりであること、この教室が正式に申請して貸し与えられたものであること、そして、暗幕の件はあのトンデモ教師がすべての元凶であることをしっかりと伝え、ついでに普段の言動や過去に起こした問題などを思いつく限りつらつらと述べておいた。

 天ヶ瀬の処遇については、この場では判断しかねるが、騒動を起こしたことは確かであるため、反省文は避けられないとのことだ。

「情状酌量の余地はあるから、停学などの重い処罰は下らないはずだよ」

 男性教師は、苦笑しながらそう言った。

 暗幕を奪われた部活動の生徒たちは、多くが気のいい連中で、「返ってくるなら細かいことはいいよ」と笑っていた。

 写真部の男子生徒も安堵の笑みを浮かべ、朴訥な口調で礼を言った。

 それに対して天ヶ瀬がふんぞり返りながら、

「面倒をかけたね。寛大な心で許すといい」

 などとたわけたことを言ったので、とりあえず頭を鷲掴みにして下げさせておいた。



「ったく、えらい目に遭ったな……」

 トンデモ教師への復讐を果たしても、疲れが取れるわけではない。

 そもそもこの学校は、偏差値のわりに問題が起こりすぎるのだ。

 しかも、俺の周辺で。

 そして高確率で俺を巻き込む。

 おかげで勇名悪名問わず轟かせることとなり、それが原因でまたトラブルが起きるのだ。

 見事な悪循環である。

 芸能人ではないのだから、名前が売れてもいいことなんてない。

 少数の味方。

 多数の傍観者。

 そして、把握できない数の敵を作るだけだ。

 二年三組の扉を開く。

 夕暮れは教室を美しく染め上げ、教室にあったふたつの影の色を濃くしていた。

「──誰、だ?」

 腕で西日を遮りながら、問う。

「遅かったですわね、ミナト」

 口調ですぐにわかった。

「お嬢──と、大吉か。用事でもあったのか?」

 二人に近づいていく。

「お嬢様。ミナト様。私は退席いたしますゆえ、しばしご歓談ください」

「あ、おい──」

 大吉が一礼し、教室を出ていった。

「どうしたんだ、あいつ」

 よくわからない。

 俺はお嬢へと向き直った。

 お嬢は自分の席に座り、ひとつの箱を両手で包み込むようにしていた。

「それ、今朝の──」

 男子生徒といさかいになっていた、見事な装飾の施された小箱だった。

「宝石箱、ですわ」

 そう言って、お嬢が顔を上げる。

「──……っ」

 その瞳に、なんの感情が乗っているのか、わからなかった。

 諦観に似ている。

 けれど、哀しげではない。

 愉悦に似ている。

 けれど、その口元は愁いを帯びている。

 一言では表すことのできない、深い、深い感情をたたえて、お嬢の瞳は俺を映していた。

「これは、かあさまが私に遺してくれた、私だけの宝石箱。この中身をミナトに見せたくて、持ってきたんですのよ」

「俺に……?」

「ええ。誰にでもない、あなたに」

 お嬢はそう言うと、俺ならなくしてしまいそうな小さな鍵を取り出し、宝石箱の鍵穴にそっと挿し込んだ。

 ──カチッ

 耳をそばだてていなければ聞こえないような音を立て、蓋が開く。

 そのなかにあったのは──

「……すげえ」

 西日を受けて艶やかにきらめく、大粒の宝石たちだった。

 これでは、触れられるのさえ嫌がるわけだ。

 どの程度の価値があるものなのか、一見した程度ではわからない。

 けれど、一財産であることは容易に想像できた。

 お嬢は宝石箱に指を入れると、ひときわ淡い涙型の宝石を手に取った。

「これは、アクアマリン。わたくしの六歳の誕生日に、宝石箱と一緒にもらったものですわ。わたくしの誕生月は三月ですから、それに合わせてくれたのでしょうね」

 お嬢は、ひとつずつ宝石を取り出しながら、その来歴を話していった。

 楽しい話ではない。

 ただ、思い出を語っているだけ。

 それでも俺は口を挟めなかった。

 何故お嬢がこんなことを話しているのか、漠然とではあるが理解し始めていたから。

 没落した狸小路家に、本来こんな資産があるはずはないのだ。

 豪邸を追われ、アパートに移り住み、慎ましやかな生活を送っている──そんな家庭に、これだけの宝石はそぐわない。

 真っ先に売り払われるはずのものだ。

 けれど、そうしなかった。

 それが一人娘の私物だったから。

 娘にとって、かけがえのない家族との思い出だったから。

 母親の、形見でもあったから。

 その思い出を、こうして話している。

 自慢では決してない。

 高慢で、高飛車で、ひねくれているお嬢だが、今にも泣きそうな──けれど泣くまいと決めた表情で、自慢などするものか。

 だから、わかった。

 もう限界が来たのだ。

 この宝石たちを、思い出を、売り払わなければならないときが。

「──これが、最後」

 じゃら、と。

 宝石同士がぶつかる重厚な音を立て、箱から取り出されたものは、純金製の鎖に色とりどりの宝石があしらわれた派手なネックレスだった。

「かあさまが結婚式のときにつけていたネックレスですわ。かあさまが亡くなる前日、震える手でわたくしにつけてくれたんですの。とても似合うわ、って。綾花の結婚式を見られなくて、ごめんって。……ふふっ、二回目だと、さすがに涙は出ませんわね」

「二回目?」

「ええ。昨日、あんこさんにも見せましたから。永遠のライバルの前で泣いてしまうんですから、我ながら無様ですわね。それでも、ミナトの前で泣くよりましかしら」

 お嬢はそう言って、笑顔を作ってみせた。

「──露草さんも、八尺さんも、大切なおともだちですわ。けれど、ミナトとあんこさんは、わたくしにとって特別なんです。だから、宝物を見せたかった。……失う前に」

 特別──か。

 俺とあんこ、お嬢と大吉は、同じ中学出身だ。

 だから、没落前のお嬢の姿も、没落したときの周囲の反応も、すべて知っている。

「あのときわたくしは、かあさまを失い、家を失い、なにもかも失って、それでも権威にすがって、周囲に当たり散らしていましたわ。お金目当てにそばにいた連中もわたくしの元を離れて、それを引き止めるために必死だった。そして、孤立を深めていきました」

「中学のころは、大吉も、まだ学年が上だったからな。お嬢のそばにいられないって嘆いてたのを覚えてる」

 大吉は俺たちよりひとつ年上だ。

 それが高校浪人をして同学年になってまでお嬢に仕えているのは、きっと中学のころの苦い経験ゆえだろう。

「──あのころは、お嬢とも大吉とも、まだ友達じゃなかったんだよなあ」

「ですわ! 友達じゃないどころか、ろくな思い出がありませんわよ! いじめられてボロボロのわたくしのところにやってきたと思ったら、いきなり張り手かまして〈お前が悪い〉って、どういうことですの! 思い出すだに腹が立ちますわ!」

「あー。あのときはまだ、いじめてるほうが正論言ってたからな。いくら不幸な身の上だからって、人を傷つけていい道理はあるまい。そいつらの目的は単に報復だったから、俺が派手にぶっ叩いたら、溜飲下げて、からまなくなっただろ」

「そうですけどー……」

 それに、中学時代と言えば、九丹島ミナトが人間としてのパーソナリティを得てから、まだ三年ほどしか経っていないころだ。

 現在に比べ、圧倒的に経験が足りていなかったことは否めない。

「現場を大吉に見られて、死ぬほどボコボコにされたんだ。勘弁してくれ」

「……いつだってミナトは優しくないですわ。優しいところなんて見たことない。甘やかしてなんかくれない。でも──平等、ですわね。平等で、いつもわたくしを対等に見てくれる。その平等さに、わたくしは救われたんですわ」

「──…………」

 平等、か。


 制約3「平等でなければならない」


「鹿子木さん、覚えてますかしら?」

「かのこぎ? ……ああ、あいつか。覚えてる。忘れられん」

「三年生になって、大吉がいなくなって、いじめが本格的にひどくなって──そのグループのリーダーでしたわ。今でも、思い出すだけで震えが止まらない……。あんこさんがいなければ、どうなっていたかわからない……」

 女子のいじめは陰湿だと言うからな。

 詳しくは知らないし、知りたいとも思わないけれど。

「俺が同じクラスだったら、もうすこし早くどうにかしたかもしれないな」

「……十分ですわ。ミナトは、わたくしを助けてくれたんですから」

「特別に肩入れするつもりなんてなかったさ。そもそも同級生が砂食わされてる現場に居合わせて、傍観できるやつらがおかしいんだよ」

「それでも、止めに入ってくれたのはミナトだけでしたわ。止めに入ったというかなんというか、わたくしもまさか、女子が顔面をグーで殴られて吹っ飛ぶ光景を見ることになるとは思いませんでしたけれど……」

 お嬢は、呆れたような表情で溜め息をついてみせた。

「あー……しかも本気で行ったから、頬骨折れたんだよな。俺も薬指にヒビ入ったけど。おまけに停学二週間。明けて登校してきたら、全校中の女子から蛇蝎のごとく嫌われてました──なんてオチまでつきやがった」

 しかし、得がたい友人をふたりも得た。

 気恥ずかしいので言わないけれど。

「美女ふたりがそばにいたのですから、平気だったでしょうに」

「美女かはさておき、特に困りはしなかったけどさ」

 あんこ以外の女友達なんて元からいなかったのだから、むしろ増えたとさえ言える。

「いけずですわね」

 お嬢は口に手を当て、上品に笑った。

「さて、と。そろそろ日もだいぶ傾きましたわね。──大吉!」

 お嬢が大吉の名を呼び、両手を打ち鳴らした。

「控えております」

 廊下で待機していたのであろう大吉が、建て付けの悪い扉を開く。

「これで心残りはありませんわ。この宝石たちを、売却いたしましょう!」

 お嬢はすがすがしい表情を浮かべてそう言った。

 吹っ切ったのだ。

 強い。

 お嬢は俺たちのなかで、たぶん誰よりも強い。

 打たれ弱いとか、実はけっこう泣き虫であるとか、そんなことは関係ない。

 絶望もする。

 失敗もする。

 弱みも見せる。

 けれど、それはお嬢の強さになんの翳りも与えられない。

 お嬢の強さは、倒れない強さではない。

 倒れても、立ち上がる強さだから。

「──おこころのままに」

 大吉が、丁寧な手つきで宝石を片付けようとする。


 その瞬間だった。


「ッ!」

 大吉が、唐突に、俺とお嬢の手を強く引いた。

「大吉、なにを──」

 理由は、すぐにわかった。


 耳をつんざく破砕音。


 割れたガラスの破片が、夕日を浴びて、宝石のようにきらめいた。


 足元に転がってきたものを見て、理解する。

 野球のボール。

 それが、ガラスを突き抜けて、教室へと飛び込んできたのだ。

「お嬢、大吉、大丈夫か」

「は、はい……」

「支障ありません。主にみだりに触れたことを、どうかお許しください」

「それはべつにいいのですけど……」

 見れば、大吉は、お嬢を抱き竦めるようにかばっている。

 ガラスの破片が背中に降り注ぎ、それがきらきらと輝いていた。

「……ありがとう、大吉。上着を脱いで破片を払ったほうがいい」

「了解致しました」

 野球部のボールを拾い上げる。

「……?」

 何故か、近くにタオルも落ちていた。

 一言文句を言ってやろうと、窓際へ歩み寄る。

「おい、お前ら! すこしは気をつけ、て──」

 グラウンドには、野球部の姿はなかった。

 代わりに、

「……あれ、もしかし


▼ Continued...

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