02-八月二十八日(日)

「──あー……!」

 書籍を元の場所へ戻し、伸びをする。

 肩を押さえながら右腕を回すと、凝りが自覚できた。

 どちらにせよ、切り上げどきだ。

「さて、どうするかな……」

 八尺が音を上げるのを待つか、それともこちらから迎えに行こうか。

 そんなことを考えていたとき、一冊の新書が目に留まった。

「タイムマシンは作れますか──、か」

 背表紙に、飾り気のないゴシック体でそう記されている。あとは、アメリカ人と思しき著者名と、翻訳者名。そして出版社の名前。

 周囲を見渡す。

 このあたりは宇宙科学関連の棚だったと思うけれど。

 人差し指で新書を抜き取り、ぱらぱらと開く。

「──……?」


 ひらり、と。


 ページのあいだから、一枚の紙切れが落ちた。

 慌てて破いたノートを無理に二つ折りにしたような紙だった。

 足繁く図書館に通っていると、時折、こういったものを目にすることがある。

 しおり代わりに挟まれたものや、本の内容のメモ。

 文通の痕跡を見かけたことすらあった。

 恐らく、この紙切れも、そういった手合いのものだろう。

「どれ」

 だからと言って、興味をそそられないわけではない。

 紙切れを拾い上げ、無造作に開く。



 くたじまみなとさんへ



「──は?」

 思わぬ文字列に、手にした新書を取り落としそうになった。

 くたじまみなと。

 紛うことなき俺の名前である。

 何故?

 これは、手紙なのか?

 だとすれば、どうして俺宛ての手紙が、こんなところに挟まっている?


 ──ぞくり。


 背後から視線を感じたような気がして、振り返る。

 当然ながら、そこには書棚しかない。

 いや、待て。

 宛名は〈くたじまみなと〉だ。

 比較的珍しくはあるが、二人といない名ではない。

 そして、重要なのが、ひらがなで記されているという点だ。

 もしかすると〈九丹島くたじまミナト〉ではないのかもしれない。

 以前調べたことがあるのだが、鹿児島県には〈久多島〉という無人島があるそうだ。

〈くたじま〉という姓ならば、一般的にはそちらの漢字が当てはまるのではないだろうか。

 そうだろう。

 そうに違いない。

 今にも震え出しそうな指先を無視し、読み進める。



 くたじまみなとさんへ


 このままでは死にます!

 死ぬんです!

 としょかんのげんかんに、

 車がつっこんだんです!


 とわでらはっしゃくさんが、

 きみどり色のとしょかんのカードわすれます

 それをいっしょにさがしてください!

 死なないでください!

 おねがいです!


 しんじ て



「なん──……だよ、これ……」

 くらり。

 視界が歪む。

 気味が悪かった。

 手紙を、いますぐくしゃくしゃに丸めて、外へ投げ捨ててしまいたかった。

 そうしなかったのは、そうすべきでない要素があまりに多すぎたからだ。


 くたじまみなと


 とわでらはっしゃく


 一般的とは言えない、二人分の名前。

 その記述は、この手紙が、間違いなく俺に宛てられたものだということを意味している。

「このままだと、俺が──死ぬ?」

 馬鹿らしい。

 そんなはずがない。

 まだ確定していない未来を、誰が決めたというのだ。

 神か?

 あるいは、たかだか一学生の命を狙う殺し屋がいるとでも?

 あまりに非現実的だ。

 つまらん妄想か何かに決まっている。

「──…………」

 けれど、避けては通れない問題が、ひとつだけあった。


「……何故、俺が、この本を開くとわかったんだ」


 手紙を観察する。

 紙は、黄ばんではいない。

 まっさらで、昨日今日千切られたとしてもおかしくはないように見える。

 筆跡は、極端な丸文字で、〈す〉の字に特に癖があった。

 くるんと回る部分を続けて書かず、〈◯〉と記しているために、本来であれば二画であるはずの字が三画四画に増えている。

 偏見を承知で言うならば、女性──それも年若い学生の書く字に思える。

「──…………」

 手紙それ自体から、これ以上の情報を得るのは難しいだろう。


 ふ、と。

 唐突に影が差した。


「ミナトくーん、もう限界っすー……」

 そこにいたのは、お手上げのポーズをした八尺だった。

「──ッ!」

 手紙をポケットに突っ込んだあと、しまったと後悔する。

 何故隠してしまったのか。

 第三者の意見を求めるべきではなかったか。

 くだらないイタズラだと笑い飛ばしてしまえば、どんなにか楽だったことだろう。

「……予想より早かったな」

 しかし、ポケットの中でくしゃくしゃになっている手紙を取り出し、目の前の大男に見せる気には、どうしてもなれなかった。

 このメッセージは、俺にだけ宛てられたものだ。

 本に挟むという秘密めいた方法が、そう感じさせたのだと思う。

「予想を上回ることが信条の永久寺八尺ですから」

「下回ってるからな」

 そう告げて〈タイムマシンは作れますか?〉を元の場所へと挿し入れる。

 結局、面白いかどうかはよくわからなかった。

「帰るのはいいんだが──」


 とわでらはっしゃくさんが、

 きみどり色のとしょかんのカードわすれます


 ズボンの尻ポケットから一日図書館利用証を取り出す。

「これ、ちゃんと持ってるか?」

「──あ」

「……忘れたのか」

「うん……。あれー、どこやったっけ。ミナトくん知らない?」

「知るか!」

 思案する。

 八尺は、〈きみどり色のとしょかんのカード〉を忘れた。

 手紙の文言は正しかった。

 しかし、手紙の主は、何故それを知っていた?

 八尺本人ですら、俺が指摘するまで気がついていなかったものを。

 予知、という言葉が浮かぶ。

 慌ててかぶりを振った。

 そんなことがあるはずがない。

 起こり得るはずがない。

 けれど──


 それをいっしょにさがしてください!


「──……心当たりは」

「え、一緒に探してくれるの!」

「ああ。それで、心当たりはあるのか?」

「そだなー……。だいたい三階にいたから、落としたとすれば、そのあたりだと思うんだけど」

「三階だな。行くぞ」

「え、ちょ! 待ってよ! なにピリピリしてるの?」

 しまった。

 俺が慌ててどうするのだ。

「……気のせいだよ。大吉を待たせても悪いと思っただけだ。どうせ、どこかで待機してるんだろうし」

「あ、うん。一階で待ってるって……」




 八尺の図書館利用証は、生物学の書棚で見つかった。

 生物図鑑の、女性の裸体が描かれたページに挟んだままだったことを、八尺があっさりと思い出したのだ。

 挟んでどうするつもりだったのかは、よくわからないが。


 ──チンッ


 と、音がして、エレベーターが一階に着く。

 扉が開いた瞬間、見覚えのある頭頂部が俺たちを出迎えた。

「お待ちしておりました、ミナト様。八尺様」

 大吉が、端正な顔を上げる。

「遅くなってごめんねー。僕が利用証なくしちゃってさ。ミナトくんと探してたの」

「それはそれは。見つかりましたか?」

「うん、ほら!」

 八尺が、一日図書館利用証を胸の前に掲げたとき、


 プァ──────……


 と、ラッパのような音が空気を震わせた。

「……? なに、この音。時報のサイレン?」

「いえ、自動車のクラクションでしょう」

「クラクションかー」

「──…………」


 としょかんのげんかんに、

 車がつっこむんです!


 まさか、な。

 無言で利用証を受付に渡すと、入館ゲートを──


 入館ゲートを。


 俺は、見た。

 気づいてしまった。


 今まさに、玄関口の自動ドアをくぐろうとしている小学校低学年くらいの男の子の姿に。


「ミナトく──」


 原則一「人を助けること」


 事の真偽など、頭からすっぽ抜けていた。


 入館ゲートを一息で跳び越え、一歩、二歩、三歩目で男の子を突き飛ばし、そのままの勢いでもつれ、転がる。


 プァ──……ッ!


 先程より遥かに大きなクラクションが鳴り響き、




 ──轟音。




 図書館が、揺れた。


 西日にきらめく無数のガラスは見惚れるほど美しく、


 すぐに無骨な鉄塊に遮られる。


 玄関口の階段で跳ねた自動車は、ホールを支えるコンクリートの柱なかばに突き刺さり、


 ぐわんぐわんと響く鼓膜の奥を除けば、世界は無音に満ちた。


「──う、あ……、わああああ──……!」

 しばし放心していた男の子が、痛みと驚きとに泣き叫ぶ。

かける……!」

 男の子を抱き起こした母親らしき女性が、焦点の合わない瞳で、コンクリートの柱に立て掛けられた状態の自動車を見つめていた。

 非現実的な光景だ。

 理解が追いつかないのも無理からぬことだろう。

「わあ! わああッ! ミナトくん! ミナトくんッ!」

 駆け寄ってきた八尺が、俺の両肩を掴み、滅茶苦茶に揺り動かす。

「落ち着いてください、八尺様! 見たところ、どなたも怪我はしていないようです。運転手の状態まではわかりませんが」

 八尺に激しく揺さぶられながら、右のポケットに手を入れる。

 手紙を取り出す気にはなれなかった。

 認めたくはない。

 だが、認めるしかない。


 この手紙は、本物だ。




 誰かが呼んだのか、警察と救急はすぐに来た。

 運転手の男性と助手席の女性は、脳震盪及び全身の打ち身という、事故の規模からすれば奇跡に近いほどの軽傷だったらしい。

 泥酔していたらしく、動機も恐らくそれだろうとのことだ。

 深酒ゆえの暴走行為というものは、いつの世もなくならない。

 なお、俺が助けた男の子を含め、ホールにいた人間に怪我はなかった。

 割れたガラスが当たって服がほつれた、どうしてくれると騒ぐ老人がいた程度で、それはむしろ被害が少なかったことの表れだろう。

 しかし、事故現場の光景は凄絶だった。

 なにしろ、コンクリート柱の高さ二メートルほどのところに藍色のスポーツカーの鼻先が突き刺さり、地面と直角二等辺三角形を成していたのだから。

 玄関前の階段がジャンプ台の役目を果たし、前輪が大きく浮き上がった状態で玄関ホールに突っ込んだものらしい。

 もし俺が間に合っていなければ、あの男の子は、何が起こったのかを理解する間もなく即死していたことだろう。




「──本当に、ありがとうございました。なんとお礼をすればいいか」

「気にしないでください。怪我がなかったのなら、それだけで十分です」

 頭を軽く撫でてやると、男の子がにぱっと笑みを浮かべた。

「ありがとー!」

「車には気をつけてな」

「うん!」

 今回に限っては、気をつけてどうにかなるような事態でもないけれど。

「あの、お名前と連絡先を──」

「ほんと、いいですから!」

 改めて礼に伺いたいと言う母親から逃げるように離れ、友人二人と合流する。

「……礼を言われるのは、いつになっても慣れんな」

「ミナトくん、人助けはするのに、お礼言われるのは苦手だよね」

「感謝されるために人を助けてるわけじゃない」

「そんなことだから、助け逃げだなんだと揶揄されるのですよ」

「むう……」

 九丹島ミナトは、人を助けるようにできている。

 原則一を忠実に遂行しているに過ぎない。

「ミナト様。ひとつ、お尋ねしたいことがあるのですが」

「なんだ、大吉」

「あの少年と、ミナト様。どちらか一人が命を落とさねば、もう片方が助からない状況に陥った場合、ミナト様はどう行動いたしますか?」

 考えるまでもない。

「あの子を助けるに決まっているだろ」

「……では、あの少年ではなく、先程騒いでいた御老人が相手だったとすれば?」

「爺さんを助ける。当然だ」

「──…………」

 大吉が、八尺の方を向いて、小さく首を横に振る。

 なんだよ。

「ミナトくん、ほんとぶれないよね……」

「困ったものです」

 釈然としない。

「あ、そうだ。僕からも質問!」

「なんだよ」

「そもそも、どうして車が突っ込んでくるってわかったの? クラクションの音はしてたけど……」

「……あー」

 事ここに至れば、隠す理由はない。

 右ポケットからくしゃくしゃの手紙を取り出し、八尺に手渡す。

「なに、この紙切れ」

「読んでみればわかる」

「えーと、可愛い字だね。くたじまみなとさんへ──」

 読み進めるうちに、八尺と大吉の表情が徐々に強張っていく。

「……ミナト様、この手紙は」

「さっき、たまたま手に取った本のあいだに挟まってたんだ。四百万冊とも言われるH大附属図書館の蔵書の一冊に、俺宛ての手紙がな」

「え、え、ちょっと待って。理解が追いつかないんだけど……」

「大丈夫だ。俺だって、よくわかってない」

「たった一通の手紙に、あり得ざることがふたつも起きているのですね」

 さすが大吉だ。理解が早い。

「ひとつ。何故、俺がその本を開くことを、あらかじめ察知できたのか。俺がその本を手に取ったのは、本当にたまたまだ。決め打ちするには分母が多すぎる」

「ふたつ、手紙の内容。手紙の主は、図書館のエントランスに暴走車が飛び込むことを知っていたとしか思えません。事実、ミナト様は命を落としかけました。手紙がなければ、どうなっていたことか……」

「つまり──」

 八尺が、恐る恐る口を開く。

「予知能力者が、ミナトくんにこの手紙を書いた……?」

「──…………」

「──……」

 俺と大吉が、揃って押し黙る。

「あ、その……、僕、見当違いのこと言っちゃった?」

 狼狽しながら、八尺がしゅんと背中を丸めた。

「いえ」

「どう考えても、その結論に至るよなあ……」

「よかった、合ってた」

「合ってるかどうかは、まだわからんだろ。もしかすると、手紙の主と運転手は共犯で、予知を成立させるため犯行に及んだのかもしれない」

「……なんのために?」

「そこなんだよなあ」

 手紙の内容は、俺たちしか知らない。

 俺をからかうためだけの行動だとすれば、支払ったコストがあまりに甚大だ。

 そして、仮にこの当て推量が正しかったとしても、手紙を仕込んだ方法については何ひとつとして解決していないのだ。

 その点、〈手紙の主は予知能力者である〉という仮説には、矛盾がなく、すべてに筋が通っている。

 予知能力の実在に目をつぶれば、だが。

「──よし、やめよう。考えて答えが出るたぐいの問題じゃない」

 お手上げのポーズをしながら、H大南門を通り抜ける。

 まっすぐ行けば、ヨドバシカメラの裏手に出る道だ。

「ミナト様の場合、超常現象の存在を認めたくないだけでは?」

「う」

 実際、それもある。

 俺は、愚直に積み上げることしかできない人間だ。

 積み上げた常識を突き崩されることが、何より苦手なのである。

「たぶんだけど、そのうち会えるよ。向こうは僕たちのこと知ってるみたいだし、そのときにでも尋ねればいいんじゃないかな」

「そうかもな」

 実にのんきな言葉だが、同意である。

「それより、このこと女子組になんて言おう……」

「あー」

 俺の所属する友人グループは、男三名、女三名の計六名で構成されている。

 前者を男子組、後者を女子組と呼んで、性別ごとに別行動を取ることも多い。

「大吉はどう思う?」

「説明するとなれば、ミナト様が危険に晒されたことにも触れざるを得ません。無駄に心配をかけることはせず、黙って様子見するのがよろしいかと」

 実に的確だ。

「では、そうしよう」

「わかったー」

 説明は、必要に迫られてからで構うまい。

「あ、そだ。マック寄らない?」

 八尺が、ヨドバシカメラ裏手の出入口に視線を向けながら、そう言った。

「いや、今日は夕食当番だからな。まっすぐ帰ろうと思う」

 しかも、食材の備蓄が切れているので、近所のスーパーへ行って買い足さねばならない。

 あまり時間的な余裕はなかった。

「えー! とらとかメロンとからしんばんとか寄ってこうよー」

「寄らん」

 家と反対方向だし。

「そもそも俺は、オタク文化に興味がない。学術書のほうが肌に合ってるよ」

「でも漫画読むじゃん」

「読むぞ」

「僕、けっこう貸してるよね」

「借りてるな」

「じゃあ、立派なオタだ!」

「なんでやねん」

「ふふ、オタ御用達の美少女漫画しか貸してないからさ!」

「なんだと……」

 童顔の少女たちの衣服が、やたらめったら脱げると思ったら!

「ミナト様。今なら、年に二度開催されるお祭りで販売された血と汗と粘液の結晶が委託されておりますよ」

「そうそう! 今年のお祭りもアツかったらしいよ! いろいろ!」

「待て、待ってくれ」

 二人から距離を置き、深呼吸する。

「八尺はいい。八尺は、もとより立派なオタクだ。だが──」

 大吉に人差し指を突きつける。

「大吉! 何故オタク文化に精通している!」

 大吉とは中学時代からの付き合いだ。

 そんな様子を微塵も見せなかったが故に、オタクだったら何気にショックである。

「いえ、私は違います。ですが、お嬢様が少々興味をお持ちの御様子でしたので、取り急ぎ八尺様に指南を仰いでおりましたところで」

「そうか……」

 大吉のイメージが崩れなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。

 だが、チェック柄のネルシャツにバンダナ、指抜きグローブを装着し、街中を練り歩く大吉の姿を想像してしまい、なんとも言えない気分に陥るのだった。

「あ、狸小路たぬきこうじさんってこっちの人なんだ!」

 パン、と両手を打ち鳴らし、八尺が満面の笑みを浮かべる。

 あれは温和に見せかけたハイエナの顔だ。

「おい執事、お嬢の秘密漏れてるぞ。いいのか」

「構わないでしょう。放っておいても自分で口を滑らせて一騒動起こした挙句開き直るのです。こちらで漏らしておけば、あとは開き直るだけで済みますので」

 見事な忠義心である。




 札幌駅で二人と別れ、定期を使って地下鉄南北線に乗車する。

 十分ほど揺られて北二十四条駅で下車し、地下道を歩いて地上に出ると、太陽は既に周囲のビルに隠れてしまっていた。

 北二十四条駅周辺は歓楽街である。

 早くも顔を出し始めた客引きから逃げるように東へ進むと、閑静な住宅街が姿を現す。

 そのなかでも一際目立つ、二棟並んだ高級マンションが、俺の目的地である。

「……はァ」

 この光景を見るたび溜め息が出る。

 高級マンションはあくまで目印であって、目的地自体ではない。

 そもそもこのマンション、よく見ると〈北二十四条プレイス〉と〈ジェントル北二十四条〉という看板がそれぞれについており、二棟建てではなく別々のものだとわかる。

 そのあいだに、つつましく挟まれている木造二階建てこそが我が家だ。

 ほぼ同時期に竣工した二棟のマンションとこまごまとした諍いはあったと聞くが、すくなくとも七年以上前のことなので、よくは知らない。

 不幸中の幸いとして、南側が塞がれていないので、日当たりはいい。洗濯物もよく乾く。

 ただ、異様に圧迫感があるだけで。

「ただいまー」

 玄関に靴を揃えて置き、薄暗い廊下を抜けて階段を駆け上がる。

 家事用の財布が自室に置きっぱなしなのだ。

 オヤジが肉体労働を嫌がるので、買い物は俺に一任されている。

 ちなみに母親はいない。

 俺が病院で寝ているあいだに離婚したらしい。

 そんなわけで九丹島家は、俺、オヤジ、ジジイの気ままな三人暮らしだ。

 ジジイはいま、ちょっと旅行へ行っているのだが。

「ただいま、っと」

 ふすまを開けた瞬間──

「きゃあああ────ッ!」

 耳をつんざく甲高い悲鳴が家中に響いた。

 なまめかしい肌色が視界を染める。

 それは、ブラジャーに手を掛けた半裸の少女に見えた。

「うおおおおおおおおあんこちゃん今行くぞおおおおお────ッ!」

 階下からオヤジの叫び声。足音。

 俺は、爪先でスパーンとふすまを閉じ、鍵代わりに使っている突っ張り棒を置いて、オヤジが部屋に入ってこれないようにした。

 そして、半裸の少女──東尋坊とうじんぼうあんこに問う。

「何のつもりだ」

「ミナトのえっち」

「な、ん、の、つ、も、り、だ」

「えと……」

 あんこが俺から目を逸らす。

「弱みにぎろうとおもって……」

「有罪」

 フックの素振りをしながら、あんこに近づいていく。

「ちょっとまってまってまってごめんなさいごめんなさい、ごめ、できごころだったんですすいませんすいません、あ、ほらほらミナト見ておっぱ──」

「ふッ!」

 ブラジャーを外そうとしたあんこの腹部に、手加減した俺のこぶしがめり込んだ。



「どうして殴られたか、わかるか?」

 あんこに服を着せ、事情を問いただす。

 もちろん正座で差し向かいだ。

 ちなみにオヤジはあんこが半裸だったと聞いてひどく興奮していたが、衣擦れの音が終わったあたりで満足したのか、いつの間にか部屋の前から立ち去っていた。

「あたしの魅力がたりなかった?」

 小首をかしげて言うあんこに、頭が痛くなる。

「……お前は、俺が、お前の部屋で、パンツ穿き替えてたらどう思う」

「やったー、って思う」

「思ってどうする」

「写真とる」

 頭痛がひどくなった気がした。

「どうして! お前は! 事あるごとに! 俺の弱みを握ろうとするんだ!」

 リズミカルに畳を叩き、あんこの顔を睨め上げた。

 東尋坊あんこは俺の幼馴染だ。

 友人のなかでは一番付き合いが長いし、中学に入ってからいままでずっと同じ学校の同じクラスという腐れ縁でもある。

 ちなみに、我が家の正面から見て左隣、北二十四条プレイス十二階に住んでいるため、家族のように気軽に遊びに来てはオヤジが生JKに興奮する。

 オヤジの目の毒なので制服姿で来るなとは言ってあるのだが、あまり効果はないようだ。

 日曜日のためか、さすがに今日は私服のようだが。

 これほどまでに親しい間柄にも関わらず、俺はいまだにこいつがわからない。

「……そもそも、弱みを握ってなにをしたいんだ」

「えー」

「答えなさい」

「ミナトのえっちー」

「フックのキレが悪かったかな」

「えっちじゃないです!」

「答えなさい」

「──…………」

「──……」

「ひみつ!」

 万事この調子ではぐらかされる。

「──……はあ」

 正座を崩し、立ち上がる。

 こうしていても仕方あるまい。

「あんこ、買い物手伝え。米を買いたいんだ」

 いつもならジジイが手伝ってくれるのだが、いないものはいない。

「えー……」

「ぶーたれるなよ。罪を償え」

「だって、もうおなか殴られたし」

「……じゃあ、なんか食いたいものは?」

「え!」

 あんこの瞳が輝く。

「作ってやる。食いたいものは?」

「はい!」

 あんこが立ち上がり、思いきり片手を挙げる。

「シーフードドリア!」

「じゃあ、それが対価な。おばさんに連絡しておけよ」

「はーい」

 いそいそとポケットからスマホを取り出し、ぽちぽちと操作して耳に当てた。

「──あ、おかーさん?」

 あんこの横顔を眺める。

 顔の造作は整っているほうだろう。

 つやのある長髪も、ろくに手入れしていないように見えるのに、さらさらと美しくまとまっている。

 中身はともかく長身痩躯で胸も大きいため、男子からの人気も上々のようだ。

「──…………」

 何故、あんこはこのような奇行に走るのだろう。

 恋愛絡みであればわかりやすいのだが、そういうわけでもないらしい。

 本当にわけがわからない。

「おーし、おっけーだって。いこ!」

 スマホを仕舞い、あんこがにぱっと笑ってみせた。

 顔立ちは年相応のはずなのに、笑顔だけがどうしてか幼く見える。

「ああ──いや、ちょっと待て」

 家事用の財布を探すのを、すっかり忘れていた俺だった。



 二〇〇度に予熱したオーブンを開き、三皿のドリアを奥まで入れる。

 このまま十分ほど焼けば完成だ。

「あいつ、遅いな」

 キッチンミトンを脱ぎながら呟く。

 俺の背後で落ち着きなくうろうろしていたあんこに、オヤジへの伝言を頼んでから、既に五分は経過している。

 伝言の内容は「もうすこしで夕飯だから仕事を切り上げろ」だ。

 いくらオヤジとは言え大人は大人なのだから、焼けるまで待てないとはさすがに言うまい。

 そんなことを考えていたとき、玄関へと続く廊下の途中にあるオヤジの部屋のふすまが開いた。

「いま焼き始めたから、あと十分な」

 出てきた影にそう告げて、応接間のソファに腰を下ろす。

 テレビでもつけようとリモコンに手を伸ばしたとき、両膝を抱いてしゃがみ込んだあんこと目が合った。

「にひー」

 満面の笑み。

 嫌な予感がした。

「あたし、ミナトのママになるよ!」

「……は?」

「オヤジさんと結婚したら、ママになれるんだって!」

「──…………」

 ああ、そうか。

 なるほど。

 オヤジを殺せばいいんだな。


「ゥオヤジイイイイイイ──────ッ!」


 気づけば俺は、オヤジの部屋のふすまを蹴破っていた。

「ひイイッ!」

 よほど俺の形相が凄まじかったのか、オヤジがパソコンチェアから滑り落ちる。

「あんこにナニ吹き込みやがったゴルルァ──ッ!」

「み、ミナトちゃん! おち、おちふいへ!」

 完全にろれつの回っていないオヤジを見て、すこしだけ正気に戻る。

「──フゥー……」

 息を整え、オヤジの甚平の衿を掴み上げた。

「ンで、あんこになんて言いやがった」

「い、いや、あのね? 僕もそろそろ再婚してミナトちゃんに母親を──」

「幼馴染が母親とかトラウマになるわあッ!」

「ヒいッ!」

「つーか、預かってる他所様の子供に手を出そうとするなッ!」

「はわいッ!」

「……そもそも、あんなアホの子をだまくらかして良心は痛まないのか」

「い、いやだなあミナトちゃん、騙してなんかないですよ。純愛の末ですよ」

「おい、あんこッ!」

「ひゃい!」

 部屋の前で様子を窺っていたあんこが、変な声を上げた。

「オヤジのことが、恋愛的な意味で好きか?」

「ううん?」

「オヤジとずっと一緒にいたいと思うか??」

「あんまり」

「オヤジに変なところを触られたりは?」

「よけた」

 あんこの返答を確認し、オヤジへと向き直る。

「……そろそろ、肉親は殴らないという誓いを破っても、しょーがないとは思わないか?」

「しょーがなくない! しょーがなくないですう!」

 思いきりこぶしを振り上げる。

「ひいぃ──」

 オヤジがぎゅっと目蓋を閉じ、歯を食いしばった。

「──…………」

 その姿を見た瞬間、俺のなかの何かが急速に熱を失っていくのがわかった。

 ああ、そうだな。

 たとえ今はこんなんでも、オヤジは殴れない。

 衿を離す。

 オヤジが、ヒイヒイ言いながら四つん這いで距離をとった。

「いいか、オヤジ。──次はないぞ」

「ふいまへんでした!」

「あと、さすがに無罪放免とはいかない」

「……へ?」

「エロジジイには口止めされてたんだが、まあいいよな。言っても」

「あのー、ミナトちゃん。なにを──」

「ジジイ、いまどこで何をしてるか、知ってるか?」

「なにって、老人会の旅行でしょうよ」

「違う。老人会は関係ない」

「はあ」

「ジジイは、ジジイの恋人たちと、ハワイに行ったんだ」

「ハワイ!? ていうか、恋人たち!?」

「そうだ。ハーレムだ。しかもジジイは一銭も出してない。旅費から滞在費から遊興費から全額女まかせの無銭旅行だ」

「ででででも、ハーレムたってババアばっかりじゃなー。うらやましくないしー」

「下は二十四、上は四十三だったかな」

「──…………」

「出発の日、ジジイは、四人の女をはべらせて言ったよ。ミナト、お前のオヤジは失敗作だった。たった一人の女すら引き止める魅力もない。だがお前は違う。お前の名は、多くの女が停泊するようにとワシがつけたのだ。ワシのこの背中を見て、人生とはなにかを学ぶがいい──とな。俺は心の底から思ったよ。ああ、これが人生の勝利者の背中なのだ、と」

「…………へ、ふへ」

 俺はオヤジを見下ろして言った。

「人生の敗北者」

「うああああああ────んッ!」

 オヤジが甚平の袖で涙を拭いながら、部屋を駆け出ていく。

「ミナトちゃんのばかあーッ! クソ親父のくそったれえーッ! 介護必要になってもおしめ交換してやらんぞわあああ────ッ!」

 追い掛けて部屋を出ると、オヤジは応接間ではなく玄関で暴れていた。

 奇声を発し、体をくねらせ、頭をバリバリと掻きむしったところでようやく満足したのか、蓬髪を整える気力もなさそうな声音で呟いた。

「──ジュリエッタでエイミーちゃんに慰めてもらってくるう」

 エイミーちゃんとやらは、行きつけのスナックで働いているオヤジのお気に入りの娘らしい。

 金髪碧眼のハーフだというが、むろん会ったことはない。

「金を払うんじゃなくて金を貢いでもらえよ。エロジジイの息子なんだから」

「あーもーッ! あーもーッ! いいじゃんミナトちゃんはエイミーちゃんがどんだけ苦労しててどんだけいい子なのか知らないからさ! 少なくとも色欲魔神の親父と悪鬼羅刹の息子よりずぅ──ッといいさ!」

「へえ、興味あるな。エロジジイが帰ってきたら、ジュリエッタとやらに連れていってもらおうか。ハーレムが五人に増えるかもしれないけど」

「が、あ──ゥ……」

 オヤジは、ぐにゃぐにゃと力の入らない体で玄関に膝をつき、

「──しょれだけはやめてへえ、ください、おねがいしまう」

 そう言って頭を下げた。

「嫌なら、わかってるな」

「ひい……、あんこちゃんには指一本触れませえん……」

「たしかに聞き届けた。ほら、エイミーちゃんとやらに愚痴でもこぼしてこい」

 外を指差すと、オヤジは、まだ飲んでもいないのに千鳥足で出掛けていった。

「はあ──……」

 深い深い溜め息をつき、玄関の扉を閉める。

 あれだけのことをしでかそうとしておいて、結果的にこちらが悪いような気にさせるのは、オヤジの才能だと思う。

「──よし!」

 気を取り直し、踵を返す。

 オヤジの部屋のふすまに穴が開いてしまったが、そこは自分でなんとかするだろう。

 修理費用を請求されたら、半額までは出すことに決めた。

 応接間へと戻り、あんこの姿を探す。

 声を掛けるまでもなく、キッチンにあるオーブンの前にしゃがみ込んでいた。

「……のんきなもんだ」

 自分がなにをされそうになっていたかなんて、わかっちゃいないのだろう。

 ソファに体を沈み込ませた瞬間、キッチンタイマーが電子音を鳴り響かせた。

 一息つく間もない。

 全身に疲れを感じながら再び立ち上がると、オーブンの開く音がした。

 振り返る。

「おいあんこ、触ん──」

「あつッ!」

「ンの馬鹿ッ!」

 慌ててあんこの元へ駆け寄り、手を取った。

 右手の指先がほんのり赤くなっている。

 あんこを立ち上がらせて、全開にした水道に指先を触れさせた。

「ミトンつけなきゃヤケドするに決まってるだろうが! 俺が全部やるから、お前は座って待っときゃいいんだよ!」

「だって、あたしミナトのママ──」

「はァ!?」

 おい、またわけのわからんことを言い出したぞ。

「俺がなんのためにオヤジをやり込めたと思ってんだ!」

「あの、ミナト、怒ってる?」

「……お前には怒ってない」

 さきほどの一件は、一方的にオヤジが悪い。

 あんこのアホさを利用して、結婚までしようと画策していたのだ。

 しかも、あのクソオヤジのことだから、間違いなく冗談では済まない。

 どこまでも本気だ。

 下心への一途さは、息子の俺がいちばんよく知っている。

「オヤジさんには怒ってたの?」

「ああ、怒ってた」

「ずるい!」

 あんこが唐突に激昂する。

「おい馬鹿! しぶきが飛ぶだろ!」

「だって、オヤジさんは殴んなかったもん! あたしは殴ったのに!」

「肉親は殴らないって決めてるんだよ!」

「あたしミナトのママだもん!」

「だからそれはナシ! オヤジが勝手に言っただけ!」

「──……う」

 一瞬、あんこの挙動が止まる。

 それが合図だった。

「やだあーッ! ミナトのママになるう──ッ!」

 あんこが地団駄を踏んで泣き叫ぶ。

「ほァ!?」

 俺の口から素っ頓狂な声が漏れた。

 おい、ちょっと待て、どうしてこのくらいのことで──

「わかった! わかったから!」

 俺は、暴れるあんこの両手を取り、じっと視線を合わせた。

「母親は無理だ! でも、お前の言うことをなんでもひとつ聞いてやる。いいか、俺にできることなら、なんでもだ! それで納得しろ!」

 正直、なんでこんな約束をしなければならないのか、疑問符が脳裏で踊り狂っている。

 けれど、こうでも言わないことには、あんこは矛を収めそうにない。

「──……ほんと?」

 俺の言葉を聞いた瞬間、あんこがぴたりと動きを止めた。

 濡れた瞳でこちらを射抜く。

「ほんとに、なんでも?」

「あー……」

 よく考えろ、九丹島ミナト。

 本当に、本当に、なんでも構わないのか?

「あっ」

 ひとつ聞けない願いがあった。

「俺のママになりたい、以外で」

「えー!」

 あんこはぶーたれたが、すぐに相好を崩した。

「じゃあ、じゃあ──」

「ちょっと待った!」

 不安に駆られ、あんこを遮る。

 本当にこれでいいのか?

 見落としは──

「俺の姉ちゃんになりたい、も無しで」

「えーっ!」

 あんこの眉が不機嫌そうに歪む。

「ミナト、このままぜんぶダメっていう気じゃ──」

「ない! 九丹島の名に誓って、もう制限は加えない!」

 これ以上は無理だ。

 あとは、あんこの良識にまかせるしか、ない。

 やってしまった感が俺の背筋を冷やす。

 あんこのワガママに慌ててしまった自分を自覚しなければならない。

 あんこはアホだが、子供ではない。

 泣くことはしても、泣き叫ぶことはない。

 俺のこぶしが飛んだあとだって、いつも何事もなかったように笑っていたのだ。

 あんこが無理を言って暴れる姿など、この七年間で初めて見るものだった。

 しかし、一度口にした言葉を覆すことはできない。


 制約1「約束を破ってはならない」

 制約2「嘘をついてはならない」


 このふたつに抵触してしまう。

 俺はひそかに決心した。

 金の掛かる願い事だったら、オヤジに必要経費を全額請求してやる。

「んーと、んーと!」

 あんこが楽しげに悩むたび、俺の気分がどんどん下降していく。

 あんこだから、そこまでひどいことにはならないと思うが、あんこだからこそ、何を言われるかわかったものではない。

「えーっと……、えっと、ね。ミナト?」

「なんだ」

「いま決めなくちゃダメ?」

「いや、いつでも構わんが……」

 あんまり人に相談してほしくないなあ、とは言えない。

「んじゃ、よく考えて決める」

「もう殴るな──とかでいいんじゃないのか? そう願えば、二度と殴らんぞ」

 さりげなく楽な方向に誘導してみる。

「あ、そか!」

 一瞬表情を明るくするが、

「……んー、やっぱ、いい。やっぱ違うもん」

「お前がアホなことしたら、また殴ると思うけど、いいのか?」

「やだけど……」

 俺は、溜め息をついた。

「……まあ、殴られるような真似をしなければいいだけの話だしな。もったいないか」

「うん、もったいない!」

 にひー、と笑う。願い事は持ち越しのようだ。

 なんだか判決を先延ばしにされた囚人のような気分だが、あんこを落ち着かせることには成功した。

「あんこ、ヤケドしたとこ冷やしてろ。俺はドリアの用意するから」

 右手にキッチンミトンをはめて、開きっぱなしになっていたオーブンを覗く。

 チーズの焦げ目も適度で、美味しそうな仕上がりだった。

「オヤジさんのは?」

「どうせ朝まで帰ってこない。二人でつつけばいいだろ」

「そっかー」

「ま、大盛りみたいなもんだ。腹いっぱい食おう」

「おーっ!」

 あんこが大口を開けて喜ぶのを見て、俺は安堵した。

 結局のところ、こいつが笑っていないと、落ち着かないのは俺のほうなのだ。

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