第4話 忘れていた胸の痛み

 俺は暗い天井を眺めていた。隣りの布団には小六の三郎、そのむこうには中二の陽太が仰向けに寝ている。三郎の足、陽太の手が布団から出ていた。このしばれなのに。俺は二人の手足を布団の中に入れてやった。十二年間、三郎と自分の間に寝ていた妻の美保の姿はない。彼女は一ヶ月前から奥の和室でじいちゃん達と寝ている。

 俺ができること、何かなぁ。

 横に美保がいたら、そうつぶやいただろう。

 そうねぇ、と美保は言い、天井を眺める。俺は思いついたことを話し、美保が相槌をうつ。どちらが先かはわからないが、いつの間にか眠りに落ちている。

 俺は目を閉じた。明日も除雪がある。少しでも眠っておかなければ。


「胸が痛い? 恋わずらいでないの?」

 俺と同い年の円(まどか)健太郎が細い顔に満面の笑みをうかべている。七輪の上で丸く焼けているホルモンを箸で二つ、三つ器用に取って口へ入れた。一歳上の近江谷晃一(おうみやこういち)は胸ポケットから煙草の箱をとり出した。長い指がセロファンの包みを破る。

「晃一、煙草止めてたんでねえの?」

 健太郎が座布団の横からガラスの灰皿をとった。晃一は煙草を一本抜いて火を点ける。

「こどもの前では吸わないんだろ?」

 俺は自分のグラスにビールを足し、晃一の顔を見た。

「勝、そんなこわい顔すんなや。家や店では吸ってないって」

 晃一は文具と雑貨を扱う店の店主だ。卵やパン、鉛筆からライターまで、たいていのものが置いてあり、コンビニがない幌内の人は晃一の店へちょくちょく顔をだす。晃一は身体がでかく、なんでもでき、面倒見がよくて面白い。昔から目立つ存在だった。晃一、健太郎、俺の家は近くて学校が終わればつるんで悪さをした。思いつくのは晃一、熱くなるのは俺、一番背が低かった健太郎は逃げ足も一番速かった。

「よし、勝の恋愛に乾杯すっべ?」

 健太郎がグラスを持ち上げた。

「はんかくさいこと言うなや」

 俺の言葉を流した健太郎は一人で乾杯と叫び、一気に杯を空けた。

「後藤先生はなまらめんこいもんなぁ。勝は昔からわかりやすいって。美保ちゃんに惚れていたときに毎晩、往復百キロを走っていたのを思いだすよ」

 数ヶ月前からの胸の痛みを初めて人に話した。鋭い痛みではく、針の先が刺さるような痛みがある。身体の力を抜いて深く呼吸すれば一分もかからず消えていく。なんでもない、気にすることないべ。そう自分に言い聞かせていたが、一週間に一度、三日に一度、最近は一日に一度は感じるようになっていた。

「そういうんじゃなくて、俺は由紀先生に期待しているんだって。外からの風を幌内に運んでくれると思うんだよ。統合で煮詰まってるっしょ」

「ゆうき先生って呼んでんのかい? どんな仲なの」

 健太郎は焼けた肉を俺の小皿にのせ、横から俺の腕や腹をさわっている。

「がっちりした筋肉。腹まわりもまだまだ固いし。いけるいける。それに比べて俺の膨らんだ下っ腹はどうよ。お前まだ筋トレ続けてんの?」

 ああ、とうなずき、弾力のある肉を噛んだ。炭火の香りと肉の油。いつもならビールで流しこんでいるタイミングだったが、なんとなく噛む回数を増やした。

「いやいや、早目に北野の病院へ行ったほうがいいかもな。勝は人間ドックも受けたことないっしょ。ほら、うちらの代の孝介、札幌にいた。知ってるべ」

 晃一の声のトーンが低くなった。

「去年の春先亡くなった? 朝起きたらベッドで冷たくなっていたって聞いたけど。こどが三人いて下の子はまだ二歳だって」

 健太郎が答え、晃一はうなずいて煙を横に吐いた。

「数ヶ月前から頭が痛いって度々言っていたんだと。周囲は病院行けってすすめていたらしいんだが、時間ができたらって後回しにしていたらあんなことになって。四十らへんが厄年っていうだろ」

「勝は自分だけは病気しないと思っているからなぁ。そういうやつに限ってぽっくりいくって」

 細面の健太郎が言い、

「お前はさ、どっちの味方なんだよ」

 と返す。まあ、健太郎は話題があれば何でもいいんだ。

「勝さぁ」

 晃一は煙草の灰を灰皿に落とし、口に持っていきかけたが灰皿に押しつけて消した。

「なんね?」

「統合反対をさけぶのはもういいんでないかい? 何を言っても意味がないなら統合された後のことを考えたほうがいいんでねえの」

 俺は皿に箸を置いた。割り箸なのに、かちっと音がした。

「晃一だって、この前までなんとかしたいって言っていたっしょ。雪合戦や雪像も相手がいるから燃えるって」

「今でも統合はしないほうがいいとは思ってる。けど、無理なことを主張し続けても時間の無駄だ。今の北野市長だって合併の後に再選されたわけだしな」

「だからって。俺は、和瀬に頼もうと考えてた。昨日の十時のニュース特集で四国のほうのなんとか町のことやっててさ。三年前に村と町が合併したらしいんだけど元に戻そうと運動しているんだと。青年会が中心になって署名を集めて議会に提出したり、村や町の特色を打ち出そうと祭りをやったり。見た?」

「寝てたさぁ。早く寝ないと身体に響くっしょ。だから胸が痛むんでないの?」

 俺と同じように深夜から除雪へ行く健太郎が言った。晃一はにこりともせずに俺の顔を正面から見ていた。

「あそことは規模が違う。あっちは全体で一万いってないだろ。こっちは市民が五万以上いるし、面積だって十倍は大きい。あんなふうに町民が一体になって盛り上がれない」

「だからだろ。幌内の小学校が統合するってことは盛り上がれなくなるってことさぁ」

「わかっているんだって。ここで俺と勝がいくら討論しても結局は統合はされちまうんだから、反対しても仕方ないっていう話をしてるんだよ。もっと楽しいことに時間を使ったほうが有意義だろ」

 晃一は胸ポケットから箱を取りだして机に箱の底をぶつけた。煙草の頭が数本出たが箱の底もつぶれている。

「あきらめるってことかい?」

「まあなぁ。無理なことをやってもなぁ。でも運動会や学芸会で我が子の活躍の場が減るのは寂しいしなぁ。教育委員会の連中が言っていることは胡散臭いし。こどものためって言いつつ、結局、教育予算を減らしたいんでないの、とかさぁ」

 健太郎の口調は軽い。俺は口に入れられるだけ肉を放り込んで噛んだ。晃一が統合させるわけでもないのに無性に腹がたった。

「和瀬を使うってどうすんの?」 

 健太郎が俺のグラスにビールを注いだ。

「和瀬は地域の紙面を担当しているんだって。北野市の行事やスポーツが載っているとこ。だから和瀬に反対の記事を大々的に書いてもらって、反対の気運を高めたい」

「それより加藤のかみさんをどうにかしたほうがいいんでないかい? PTA仲間なんだし」

「絶対に無理だわ。あのかみさんがどんだけ強いか、健太郎だって知ってるっしょ」

「勝の筋肉でなんとかならんかな」

「ばかでねえかい」

「いやあ、説明会のときのかりかりした様子。あれは欲求不満だべ。加藤のだんなは昔から草食系だべ。弱々しくってさぁ、よくいじめたもんなぁ。今でこそ公務員になって澄ましているけども」

 俺は新しい煙草に火を点けている晃一を見た。焼肉屋を出るまで、晃一は統合の話に一切口を出さなかった。


 前は床も壁も木だった。幌内小学校に来るたびにそう思う。改築されたのは五年前だ。新校舎落成式で俺はPTA会長として初めてスピーチをした。在校生、卒業生、学校職員、役場の職員、地域のほとんどの人が来て体育館に溢れんばかりだった。北野市からきた職員以外、全員が知り合いだ。自分のことを赤ん坊のときから知っている人がそこら中にいた。何度も推敲した原稿はスーツの内ポケットに入っていた。新体育館の舞台に上がり、新調された校旗にむかって頭を下げた。濃い紫の地に鮮やかな赤のアッケシソウが五本なびいている校旗。それをまじまじと見たのがいけなかった。アッケシソウ、別名サンゴ草。オホーツク海に面した塩分濃度が高い能取湖のほとりを赤く染める草だ。今では絶滅の危険が高い種に指定されているアッケシソウを端からどんどん穫っていき、花束のようにくくって観光客に売りつけた。五年生か六年生のとき。もちろんばれてなまら怒られ、体育館を何往復も雑巾がけした。俺一人で。晃一と健太郎は逃げきった。アッケシ草の校旗で一気に記憶が押し寄せ、俺は立ち尽くしてしまった。なぜ舞台に立っているのかわからなかった。館内のざわめきで現実に戻ってきたものの、原稿を出さずに二言三言話して舞台を降りた。お前、真赤なゴリラみたいになっていたと健太郎が笑いながら言った。シャツの脇から背中にかけてびっしょり濡れていたのを覚えている。

 新校舎に、あれから三日に一度は来ている。それでも木の校舎のイメージが強い。やはり幼い頃の記憶は侮れない。

 職員室の扉を開けたら、家のように温かい空気が流れてきた。

「井出さん、いつもお世話になっています。どうぞ入ってください」

 教頭が席を立ち、頭を下げた。幌内小始まって以来の女性の管理職である彼女は俺より10センチは背が高い。そのせいなのか、昔から女の先生が苦手だったせいか、この教頭といるとどうも落ちつかない。

 俺は電気の点いていない校長室をのぞいた。来るときに校長の白のクラウンが教員住宅に停まっていなかったから不在なのはわかっていた。

「校長さん、北野?」

 教頭はうなずき、お茶いれましょうね、と窓際にあるガス台の前に立った。かまわんで、と言おうとしたら、職員室のドアが勢よく開けられた。事務をやっているみどりだ。ふっくらとした顔には赤ん坊のときの面影がまだ残っている。

「井出さん、また来たの?」

 みどりは言い、私がお茶をいれますよ、と教頭を肩で軽く押した。俺は教頭に促されて校長の椅子に座った。

「みどりちゃんはさぁ、いつも元気だべ」

「元気過ぎて、こっちの給食は美味しいし、帰ってきてかなり太っちゃった」

「なんもなんも。それくらい肉ついていたほうが健康的でいいさぁ」

「そう言ってくれるのは井出さんだけだよ」

 みどりは寿司屋にあるような縁の厚い湯呑を俺の前に置いた。熱い玄米茶をすする。

「うまい。みどりちゃんが入れてくれるお茶は最高だ」

「でしょう? 本当に人生ってわからないよねぇ。まさか幌内小学校で私が勝にいのためにお茶をいれるようになるとは」

「まあな。で、校長さんはなんの集まり?」

 湯呑を持ち、俺は顔だけ教頭へむけた。

「臨時の校長会です。またもめるんじゃないでしょうか」

「ああ、川沿小の校長さんは統合に猛反対しているっしょ」

「あそこは幌内よりも地域がうる、ええと、地域の団結力が強いから」

 教頭は言葉を早めた。PTA会長の前で、いくら外のことだとはいってもあそこはうるさい地域ですとは言えないわな。

「本来だったら、校長は卒業生とふれあう時期なんですが」

「ふれあう?」

「校長の得意な科目の授業をしたり、総合学習や道徳で話をしたり、一人一人と面談したり。卒業生が百人もいる都会の学校ではできない、大人と大人に一歩近づくこどもとの大事なふれあいなんですよ。もちろん統合は大きな問題なんですが」

「なるほどな。今の時代の校長さんってのはそったらことをしてんのか」 

「今日はどうなさったんですか?」

「いや、ちょっと。六年に用事があって。たいしたことじゃないんだけど、いいんだよな? いつ来ても。昔みたいに参観日しか学校は開いてませんっていうんじゃないんだよな?」

「ええ、いつでもこども達や学校の様子を見にきてもらって構いません。受付してこれさえつけてもらえば」

 教頭は机の一番上の引き出しを開け、名札を取りだした。PTA会長・井出勝・いでかつし、と一年生でも読めるようにふりがなまでふってある。俺は名札を首から下げた。こういうのがどうも苦手なんだよ、と心でつぶやく。


 六年生の教室は校舎の二階、職員室の真上にある。階段を昇りながら、自分らの頃は平屋で教室から教室まではすぐだった、走って三秒だった、と思った。階段の踊り場で足を止める。こう、昔のことを思いだすのは歳をとった証拠なのかもしれない。統合に反対なのも母校の変化がただ嫌なだけなのか。加藤の奥さんが言うように偏った考えなのか。

 大きな窓の外では一欠片が大きいぼた雪が、ほと、ほと、と落ちている。さして風はないが明日の朝は除雪が必要になるだろう。

「今さら晃一が手を引くなんてさぁ。昔からだめだと思ったらすぐに逃げるんだよ」

「近江谷さんの言っているほうが正しいのかも。これから反対派を盛り上げても、みんなの負担が増えるし」

 昨晩、食後の茶を飲みながら美保は言った。

「そんなことないべ。お前はここの出じゃないからわかんないだろうけど、他の小学校と一緒になったら意味ないんだって」

 強い口調になったのは美保の言うことが半分は当たっていたからかもしれない。現に統合問題が校長と六年生の、今しかできないふれあいの時間を奪っている、らしい。

 えー、と叫ぶこどもの声が聞こえてきた。俺は階段を駆け上がって六年の教室前の廊下に立ち、身体を隠して中をのぞいた。今時の教室は前と後ろのドア、廊下と接する壁にも大きな窓があり、外から見やすいようになっている。ドアや壁、隣りの教室との壁さえもないオープン教室なるものも増えているらしい。

「オレ、あれイヤなんだよ。みったくないっしょ」

 声変わりしきっていない三郎の声だ。静かになり、先生が話している。

「すげえ注目されるし」

 またしても三郎の声。しかも不満そうだ。

「三郎、もうすぐ中学行くんだからさぁ。今のうちに人前で話すと赤くなるクセは直しておいたほうがいいっしょ」

 高い声は理衣子だろう。

「なんだよ、お前は黙ってろよ」

「三郎、なにおだってんだ」

 俺は勢いよく扉を開けた。

「女の子にむかってお前とか、黙ってろとはなんだ。しかもここは学校だぞ。ちゃんと敬語を使え。先生、生意気なこと言ったらひっぱたいてやって。いや、たたくのはいくない。きつく叱ってやって」

 六年一組十五人と由紀先生が俺を見ていた。

「父ちゃん? なしたの?」

 三郎は惚けたような顔をしている。

「ねえ、井出っちって、しょっちゅう学校に来るけれどいつ働いてんの?」

 理衣子、と諌めるような女子の声がした。

「この前ね、奇跡のりんごっていう映画を観たよ。自然栽培で農薬や化学肥料を使わないでりんごを作る話。井出っちのとこ、農薬はどうしてんの?」

「理衣子、その話はまたあとでいいかな。井出さん、何かありましたか?」

 由紀先生は俺から一メートルも離れていないところにいた。心臓がわずかに震えた、ような気がする。

「えーと、あのぅ、いや、あとでいいです」

 先生は茶色がかった髪をはらい、

「もうすぐ休み時間ですから座って見ていってください」

 と教師用の椅子を扉の前に置いてくれた。

「では卒業式で発表する自分の夢を書いてみてね。あんまり長いと全部は言えないかもしれないけれど、できるだけみんなが言いたいことを尊重するから」

「先生、理衣子の夢は無限にあるんだけど。何個まで?」

「今はたくさん書いてもいいよ」

 先生は苦笑いを浮かべている。俺は腕組みをした。さらに足も組み、教室を見渡す。三郎が手を振ってきた。書け、と顎で促す。妙に姿勢がいいのは護か。あいつの頭の良さをちょっとは三郎や達也にもわけてくんないかな。鉛筆も持たずに窓の外を眺めているのは和瀬んとこの坊主、亮だ。髪が長い。前髪なんか目にかかっているじゃないか。バリカンでさっぱり切ってやりたい。それにしても女子の服装の派手なこと。ピンクにオレンジに黄色。俺は眉間に皺をよせた。昔はこうじゃなかった。水色や紫、編み目が入ったタイツなんかはいている女子は一人もいなかった。いやいや、今も清純な子はいる。おかっぱ頭に紺のスカート、白いセーターの加藤明莉が。俺は一人、うなずいた。こうでないと。しっかし最もかわいい女子が、今や完全な敵である加藤んとこの娘とは。

 月に一度開かれるPTA役員の定例会。忙しい人は来なくていいからと言っているにもかかわらず、書記をやっている加藤の奥さんは役場を抜け出して毎回出席する。確かに、おかっぱを伸ばしたような真っすぐの髪は親子で似ている。娘みたいにニコニコしてれば母親のほうだって少しはとっつきやすくなるのに。

「無駄な時間を過ごしたくありませんから」

 それが彼女の口癖だ。

「役員会で話し合う内容を会長が箇条書きにしてきてください。時間を決めてやりましょう」

 四月に行われた第一回目の役員会だった。

「時代やニーズに合うようにPTA活動も変化すべきだと思います。各クラスのPTA活動、運動会など各種行事への協力など、去年もやっていたから今年度も行うというのは止めましょう。やる必要があるなら役員や保護者の負担が少なくなる形にしたいです」

「まあ、確かにPTA主催のクラスレクはみんなが楽しみにしているわけじゃないけども、平日の参観に来れない親が日曜日に集まって、わいわいやって、自分の子の様子や担任の先生、友達がどんな感じかを間近にみるのは大事だと思うよ」

 俺が言ったら彼女は鼻で笑った。

「それは井出さんの考えでしょう。みなさんはどう思っているかわからないじゃないですか。主観だけで判断しないでください」

「主観?」

「PTA活動なんか無くなってしまえばいいと思っている人もいますから」

 結局、クラスレクは必ず行わなくてもよい、各学年の学級会で決定するということになった。今までやってきたからと、今年はどの学年もクラスレクを行った。が、同じ論理で、一度でもクラスレクをやらなくなったら、そのまま消えてしまう可能性もある。

 加藤の奥さん、か。統合の説明会で前に立つ彼女の顔を、白くて無表情な顔を俺は思い浮かべた。無駄をなくして効率よくがよっぽど好きなんだろうな。加藤らの主張通りに統合したら、幌内以外の三校は無くなる。行事が減り、その分、教室での勉強に時間を使えるという面では効率がよくなるかもしれない。だが、学校の規模が大きくなったら、こどもと教師、保護者と教師、こどもと地域の人達の距離が開き、人と人との関係が薄くなるんじゃないか。

 加藤の奥さんを小さくしてふっくらさせた女の子、明莉が人差し指と中指で鉛筆をはさみ、後ろをコツコツと机にあてている。顔を上げてこちらを見た。目があい、彼女はにこっと笑う。ゆっくり口を動かしている。書、け、な、い、と言っているようだ。俺は笑顔をつくって小刻みにうなずき、教室の時計に目をむけた。あと5分で授業が終わる。

 井出さんは、勝一くんのことをたたきますか?

 井出さんは、私の話を聞いてくれますか?

 雪祭りの前日、明莉は涙がこぼれないように必至で耐えていた。思いだすだけで切なくなる。家族にも自分の気持ちを伝えることからやってみようよ。由紀先生はそうアドバイスしていた。

 加藤の奥さんの冷ややかな目。彼女は母親として、あんな素直でかわいい女の子をたたくのだろうか。明莉も、あの母親と心を通じさせるのは、わや、だろうな。

 

 冬の井出家の晩飯が十八時より遅くなることはない。俺が除雪のために深夜零時から午前二時の間に家を出るからだ。カレーだカレーと言いながら、三郎は一升炊きの炊飯器から飯をよそっている。

「はい、父ちゃん」

 大人用茶碗で三杯分はゆうにある白い飯が大皿の上で湯気をたてている。

「ありがと。いや、少し減らして」

「父ちゃん、どっか具合悪いの? カレーだよ?」

「喰えそうだったらおかわりするから」

 俺はボウルに入っているサラダを自分の皿に取った。

「けっこう雪降ってるけども、兄ちゃんは帰って来られるかな」

「なんも。バスなら余裕だわ」

「母ちゃんはこんな?」

「いいんじゃないか」

 三郎は最後に自分の白飯を山のようによそった。

「お前、それはいくらなんでも多いんでないかい?」

「学校がパンの日だと腹が減ってしょうがないんだよ」

「昔は毎日パンだったんだぞ」

 三郎と美保の分の葉っぱとブロッコリー、トマトを皿に乗せる。

「牛乳もまずかったんだろ。授業でやった。オレ、今でよかったぁ」

 三郎が座ったタイミングで美保が戻ってきた。黒髪は後ろにまとめられ、耳の前に後れ毛が数本垂れている。お待たせ、と言いながら、コンロでスパイスの匂いを漂わせていた大鍋をテーブルの中央に置いた。

「じいちゃんばあちゃんはどんな?」

 俺は自分の皿を鍋の近くによせた。

「じいちゃんはいつもより食べていたかな。ばあちゃんはカレーに手を出さなかった」

 美保は言い、俺のは米の横に、三郎のは米の上からルゥをかけた。

「三郎、冷蔵庫からドレッシングと福神漬けを取ってくれる? 手前に入っているから」

 わっかりましたたぁ、と三郎が席を立った。

「父ちゃん、ビールは?」

「いらない」

「出かけるの?」

 お玉を持ったまま、美保は顔を上げた。

「飲み会じゃないから」

 一瞬だけ俺と目をあわせ、美保は三郎の五分の一もない自分の白飯にルゥをかけた。

「またやせたんじゃないか」

「そんなことない」

 美保は早口で言い、いただきますと手を合わせた。俺の方を見ない。表情が固い。俺はまた余計なことを言ったのかもしれない。

 カレーは飲み物。目の前に座る三郎はまさにその通りの食べ方だ。よく噛めと言っても無駄なのはわかっているがつい言ってしまう。一体、この身体のどこに入っていくのだろう。美保や俺に似て三郎も背が低い。だが力はある。三郎は幌内小の野球チーム、キングスの中心選手として活躍し、長打率は北野市内で一番高かった。少年野球チームの監督として我が子を教える。それも今年で終わってしまった。

「父ちゃん、今日は何の用だったの?」    

 三郎は水をごくごく飲み、スプーンを置いて箸を持った。一息ついてサラダを食べるらしい。

「まあ、亮にちょっとな」

「父ちゃんが亮に用事? そうだ、護は中学で野球をやらないかもしれない」

「本人が言ったのかい?」

「言ってないけども、たぶん。母ちゃん、ドレッシングとって。あのさ、卒業式で呼びかけってするんだけどさ。ぼく達は今卒業します、って言うやつ。母ちゃんもした?」

「したわよ。小学校の卒業式ではみんなするのよ。母さん、きっと泣いちゃうな。三郎がぴしっと立っているだけで」 

 ドレッシングをかけながら三郎は頬を赤く染めた。末っ子ということもあるのか、三郎は三人兄弟の中で一番シャイだ。

「卒業式で父ちゃん、また話すの?」

「これで最後だ。教頭さんに言われたよ。PTA会長が泣かないでくださいねって」

 美保にむけて言うと彼女は笑顔になった。大人が七人座れるテーブルに今は三人しか座っていない。旭川の寮に入っている長男の勝一が小学生だった頃は全員で夜飯を食べていた。いや、違うか。俺はルゥにからんだ蒟蒻をスプーンで取った。それは冬だけで、雪が終わると自分や美保は遅くまで畑にいて、じいちゃんばあちゃんがこどもの面倒をみてくれていた。二世帯住宅となった今は、玄関のむこうの和室で二人は飯を食べる。時間も、食べるスピードも違うからと別々に食べるようになった。

「おかわり」

「嘘だろ? サラダは」

 思わず声が出た。三郎の皿にはドレッシングの油しか残っていなかった。

「サラダも、ちゃんと食べてえらいな」

「まじ腹減ってんだって」

 美保は嬉しそうな顔で三郎の皿を受けとり、炊飯器の蓋を開けた。俺はルゥにからんだ厚揚げを食べながら、美保の皿を見た。美保の皿に肉やジャガ芋はない。

「更年期。女性ホルモンが減っているって。薬も飲むけれど食生活も見直したほうがいいって指導を受けたの」

 一ヶ月前、俺と三郎の間の布団に横になっていた美保が言った。タオルが敷かれた枕の上に柑橘系の香りがする黒髪が広がっていた。

「ここんとこ、ごめんね。いらいらしていたし。体調も悪くて迷惑かけて」

 俺は目をつぶっていた。なんも、と口の中でもごもごとつぶやいた。三郎と陽太は一定の間隔で寝息をたてていた。

「ねえ、かっちゃん」

 美保が俺の方へ身体をむけた。かっちゃんと呼ばれたのはいつ以来だろう。記憶にない。

「落ちつくまでじいちゃん達の部屋で寝たいの。明日から」

 仰向けに寝ていた俺は身動きができなかった。明日から。言葉がまわる。別々の部屋で寝る。明日から。落ちつくまでって、それはいつだ。

「こども達にはじいちゃんとばあちゃんが心配だからって話すつもり。それからね、病院の先生が言っていたけれど男性の更年期もあるんだって。今までにはない身体の異常を感じたり些細なことでいらいらしたり。かっちゃんも、なんかあったら病院へ行ってね」

 出会ってから二十年間、一度も聞いたことのない美保の固い声だった。自分の年齢を思い浮かべながら、俺は薄目で暗い天井を見ていた。胸が小さく痛んだ気がした。

「ごめんね」

 ささやくような声だった。暗闇の中、隣りにいる美保が確実に遠ざかっていく。俺は手を伸ばし、美保の右手をつかもうとした。

 今は、どうしてもだめなの。

 数ヶ月前、美保の身体にふれようとしたときの言葉が蘇った。

「かっちゃん、ごめんね」

 なんも、とは言えなかった。いつかは元通りに布団を並べられる日が来るのだろうか。

 俺は美保に背をむけることもできず、眠ったふりをした。


「明日は除雪入るっしょ。大丈夫?」

 長靴を履いていたら美保が玄関まで送りにきた。不満そうとも、心配そうともとれる目をしている。

「すぐに帰ってくるから」

「三郎はあなたとお風呂に入って、寝る前に一緒に筋トレするのを楽しみにしているのよ」

「わかってる」

「近江谷さんや円さん達と? また統合のこと?」

 首を振り、ぼた雪が切れ間なく落ちる外の世界へ出た。黒のワゴン車のエンジンをかけ、ブラシで積もった雪をはらう。家から漏れる光に照らされ、氷が白い模様のようについた車は新車のようにも見えた。お前だってもう十五年選手なのにな。交差点で急にエンジンがかからなくなったり、窓の開閉ができなくなったり、いろいろあったけれど今でも十分走る。

 あいつらが小さい頃は他の野球のメンバーもぎゅうぎゅうに乗せてよくキャンプへ行った。無料露天風呂に入って、誰か一人、そう、護を忘れてキャンプ場へ帰ったこともあった。慌てて戻ったら護のやつはすました顔で風呂につかり、地元のおっちゃん達と話していた。こいつは大物になるかもしれない。そう思ったのを覚えている。キャンプの夕飯はいつもカレーだった。美保はこども達に自由に作らせていた。水分の多いしゃばしゃばのカレー、芋や人参が固いカレー。覚えているのは失敗したのばかりだ。こども達に混じって大笑いしながら食べた。もっと煮詰めたら旨くなるかもと二時間近く煮込んだこともあった。まだ? まだ? 興奮したこども達の顔、声。

 ブラシを手にゆっくりと車の周りを一周し、運転席に乗り込んだ。エンジンの振動で身体が揺れる。数秒、その揺れに身体をまかせ、俺はハンドル横のシフトレバーに手をかけた。昔のことばかり思い出す。睡眠不足か。疲れているのかもしれない。それとも三郎の卒業を前に感傷的になっているのか。ねえ、父ちゃん。感傷的って何? 三郎は目をぱっちりと開いて尋ねるだろう。父親と風呂に入りたがるのなんて今だけなのに、自分はこうして家をあけている。

 時間の無駄。

 晃一も加藤の奥さんと同じことを言った。俺は頭を軽く振り、アクセルを踏んだ。


 玄関のドアを開けた亮は身体をひき、俺が中に入りやすくしてくれた。

「さっき、これから帰るって電話が」

 室内では着ないような、しゃかしゃかと音がするウインドブレーカーを亮は身につけている。

「寒くないかい?」

 居間が暗い。俺はドア横に設置されているガスストーブのボタンを押した。大型液晶テレビだけが光を発していた。ピストルを構えた外国の男が女性を背にかばい、こちらを向いて止まっている。テレビの逆サイド、台所を背にするように置かれたソファーには厚手の毛布が丸まり、スナック菓子の空き箱が転がっていた。

「ボンド?」

 俺が訊くと亮はにやっと笑い、ソファーに座って毛布を足にかけ、リモコンを手にする。俺はガスストーブの前に座ってあぐらをかいた。ピストル音が響き、盾にしたテーブルの裏に男女は隠れる。

「映画なんか、とんと観てないなぁ。そうだ、由紀先生も007シリーズが好きだって言ってなかったかい?」

「みたいっすね」

 亮は画面を見ている。

「よかったな。共通の趣味があって」

「はあ」

 興味のなさそうな返事だった。別に担任と共通の趣味がなくてもいいか。いや、ただの担任じゃない。由紀先生だぞ。あったほうが楽しいだろう。俺も時間のあるときに最新作でも借りて観てから先生に話しかけるか。いやいや、そんな時間はないか。息子と一緒に風呂にも入っていないのに。俺は立ち上がり、尻をさすった。フローリングの床からしばれが伝わってきた。

「亮、床暖くらい入れろよ。どこよスイッチ」

 ああ、と亮はテレビを止め、のけぞるように台所との境の壁に手を伸ばして備え付けのスイッチを押した。

「さんきゅ」

 亮はソファに座り直してリモコンを手にしたが動きを止めて俺を見た。

「珈琲、飲みます?」

 ああ、と今度は俺がうなずいた。

 亮は瓶から豆をすくい、珈琲メーカーに入れた。豆を挽く音が響く。フィルターを折る亮の息が白く曇っているのが、ガスストーブの前に立っている俺からでも見えた。

「普段からもっと部屋の温度を上げたほうがいいんでないかい? 電気は点けんの?」

 答えずに、亮はペットボトルの蓋を開けてコーヒーメーカーに水を注いだ。

 きれいにしている。居間、台所。ゴミは菓子の箱が一つだけ。カウンター、台所の作業台と何も乗っていない。

「亮は珈琲、飲めんの?」

 顔を上げずに亮はうなずいた。

「三郎はさぁ、どんだけ砂糖と牛乳を入れてやっても苦いって珈琲や紅茶は飲まないんだよな。あいつは冬でも冷たい牛乳か水。たまに珈琲やビールを無理に飲ませると、みったくない顔になるって」

 亮はガラスの器に溜まっていく珈琲を見ている。台所にいる亮と俺との間は三メートルくらい離れていた。

「なあ、亮は一人で寂しくないんかい?」

 つい言ってしまった。反応はない。亮の姿が遠くなる。亮の母親は亮が一年生の冬に交通事故で死んだ。亮達がここに越してきて一年もたっていなかった。カーブではみだしたトラックと正面衝突。すぐそこの下り坂の国道のカーブだ。亮の父親は新聞記者として北野支社に勤務している。幌内に親戚は残っていないから完全な二人きりの父子家庭だ。寂しいにきまっているじゃないか。

「雪合戦のときは活躍していたなぁ。フラッグを取ったときは気持ちよかっただろ。雪像つくりも毎回来ていたし、学校は楽しいかい?」

 亮は褐色の液体をカップに注ぎながら口元で笑った。

「幌内小はさぁ、今のまんまがいいよな? 他の学校と一緒になったらあずましくないべ」

「続き見てもいいっすか?」

 亮は低いガラスのテーブルに二つカップを置いてソファに座った。俺はテーブルの近くの床にあぐらをかいて珈琲に口をつけた。

「うまい。しみ入るよ」

 ほんの少し揺らす感じで頭を下げ、亮はリモコンのボタンを押した。前髪の間から亮の額にあるにきびのような吹き出物が二つ、三つ見えた。肌が荒れているんじゃないか。ちゃんと食べてんのか。俺は言葉を飲みこんだ。これ以上、余計なことは言わないほうがいい。野菜や果物を持ってくればよかった。美保に和瀬の家へ行くと話していたら何か持たせてくれただろうに。俺はカップを持ち、珈琲の苦さを味わうように少しずつ飲んだ。


 布団の上で寝返りをうった。足元にあった湯たんぽが転がり、その上に片足を乗せ、もう片方の足ではさんだ。豆電球もついていない暗闇だったが三郎と陽太の顔が薄らと見える。

 珈琲が落ちるのを見ていた亮。今頃、亮は自分の部屋のベッドで寝ているのだろうか。ソファに肘をつき、毛布をかぶって007を観ているかもしれない。

 弁当を二つ持って和瀬が帰宅したのは二十時過ぎだった。キッチンテーブルで和瀬と向かい合わせに座っていた俺はこっちで一緒に食べないかと亮に声をかけた。

「これ、最後まで観たいから」

 亮はテレビを箸でさし、ボンドの活躍とともに弁当を食べていた。

「統合の話でしょう」

 和瀬は俺の一つ下、晃一の二つ下だ。小学生の頃から背が高く、運動ができそうなふくらはぎ、足首をしていた。だが俺や健太郎が誘っても陸上や野球、スケートなどの行事に和瀬は参加しなかった。教室で一人、本を読んでいるのを見た覚えもある。今の亮とそっくりな雰囲気だった。

「記事にはしたいと思っています。反対運動があることも。ただ勝さんが納得するような内容になるかはわかりませんが」

 和瀬は俺の正面に座り、しっかりと目をあわせてきた。

「なんとかならんかな」

「なんとか、とは?」

「もっとこう、みんなが反対したくなるような、反対側が盛り上がるような記事にならんかな」

 和瀬は答えない。俺は木のテーブルの上で手を組んだ。ここにビールか焼酎、アルコールがあれば間がもつのに。

「お前、個人の意見としてはどうなんだ?」

 和瀬はふっと鼻から息をだした。

「今さら僕が賛成反対を言ってもはじまらないでしょう」

「まあ、そうなんだけど。でもさぁ、なんとかならんかなと思うべさ」

 俺は低い音量が流れるテレビ画面、弁当を手にしている亮の背中を見た。

「亮だって雪合戦の前に護と川沿まで歩いて偵察に行ったっていうっしょ。統合されちゃったら、そういう、なんていうのかな。熱い想いをどこにぶつければいいのさ。おれはどうしても納得いかないんだよ。一度統合してしまったらもう元には戻れないし」

 和瀬も亮の方へ顔をむけ、

「あれは偵察というよりスパイ遊びですよ」

 と小さく笑った。

「井出さん、統合は悪い面ばかりではないですよ。それにこどもはその場に応じて面白いことを見つけますし。反対一辺倒では平行線のままで話合いは終わってしまうんじゃないですか」

 俺が帰るまで和瀬は自分の弁当をビニール袋から出さなかった。

 枕に頭をのせて暗い天井を眺める。和瀬の言う通りなんだろう。欽水や川沿を敵として燃えるのが好きな俺や晃一みたいなタイプもいるし、和瀬や亮みたいに個人で楽しみを見つけるタイプもいる。俺だって統合が悪い面ばかりとは思っていない。教育委員会が提示している資料にも多くのメリットが書かれている。けれど、俺が反対している一番の理由はそういう目に見えるものとは違う。目に見えない、けれど見過ごしてはいけないものなんだ。

 俺は目をつぶった。考えがまとまっていない。こんなんでうまくいくわけがない。誰かに話を聞いてもらえれば。横に美保がいたら。

 あと数時間したら除雪に行かなければいけない。

 三十年前に欽水や川沿と戦った自分、三人の息子達、この前の雪合戦で相手の旗を取った亮や護の顔が浮かび、うまく寝つけなかった。


 揺れている。心地よい揺れだ。それにしても暑いな。暖房を効かせ過ぎだろう。

「井出さん、井出さん」

 そろそろ起きる時間だろうか。

「井出、勝さん。五番窓口へお願いします」

 身体が縦に震え、俺は目を開けた。

「井出勝さん、いらっしゃいませんか」

「はいはい」

 手を上げて立ち上がり、白抜き数字で5と書かれた番号の下へむかった。

 除雪から帰ってきたら美保が保険証とワゴン車のキーを渡してきた。予約したから行ってきて、と。美保に胸の痛みの話はしていない。ということは美保の目には体調がよくない、いらいらしている更年期の夫として自分は映っていたのだろうか。美保があの夜に固い声で言っていたように。

 俺は嫌そうな顔をしていたのだろう。何かあったら遅いから、と彼女は続けた。最近よくする、すまなそうな、でも、頑な目をしていた。

 とりあえず寝たいんだ。昨晩統合のことを考えてよく眠れなかったから。俺は言葉を飲み込み、北野市で一番大きい総合病院へむかった。古くてひびが入った、元は白だったであろう外壁を目にしたら余計に具合が悪くなるような気がした。医者と面談し、血圧やらいろんな値を測定されて採血、胸部レントゲンなど二時間、あちらこちらと病院内を歩きまわった。結果は後日、再度ここに来て話を聞かなければいけないらしい。

 会計を済ませて出口へむかうと、黒髪の女性が自動ドアから入ってきた。挨拶しないのもおかしい。俺が声をかけたら彼女は立ち止まった。

「どうかなさったんですか? ご家族が?」

「いや、なんも。ちょっと自分の検診に。どっこも悪くなんかないんだけどもうちのが行け行けって言うからさぁ。ほら、四十過ぎが男の厄年っしょ。いやいや、いつの間にか年取ってるからなぁ」

 彼女は唇の端を持ちあげ、少し笑った。

「加藤さんこそ勤務時間中でねえの?」

 ええ、まあ、というような返事をして彼女は頭を下げ、受付へむかった。いつもよりつんけんしているような感じがなかった。学校の外で会ったせいだろうか。  


「んで、なによ。俺達が働いている間、加藤の嫁と病院でべたべたしてたってわけ」

 健太郎は嬉しそうに笑っている。

「どこをどうしたらそういう話になんのさ」

「今日はもちろん勝のおごりっしょ。ああ、だから焼き肉じゃないわけね」

 健太郎はルイベと呼ばれる半分凍った鮭の刺身に塩をふった。

「農家の財布の中身はよく知っているっしょ。肉ばっかり食べ過ぎるなって医者に言われたからっさぁ」

「なんともなかったんだべ」

「結果は来週」

「不治の病だったりして」

「はんかくさいな。そうやって人を茶化しながら一生を終えるんだ、健太郎は」

「それでいいべ」

「健太郎の言う通りだべ。どうせ死ぬんなら好きなことやって死んだほうがずっと楽しいっしょ。面倒なことはそれで金もらっているやつらに任せてさぁ」

 晃一が言い、健太郎とグラスを合わせて焼酎のお湯割りを飲み干した。俺は苦笑いを浮かべ、ルイベに箸を伸ばした。能取湖と国道の間にある、小さなスナックの一室にいた。大人が四人もいたら身動き取れなくなる狭い和室に、使い込まれた焦茶色の机、ぺちゃんこになった座布団が置かれている。白い蛍光灯がついているのに部屋は薄暗い。

「肉はダメで酒はいいのかい?」

 焼酎の瓶に手を伸ばしたら晃一が瓶を押さえた。

「そしたら誰が俺達さ、送って行くんだ?」

 タクシー呼べば、と言おうとしたら晃一は湯呑を渡してきた。俺は黙ってぬるくなったほうじ茶を飲んだ。

「加藤の嫁は心療内科に通っているらしいよ。客で来た近所のおばちゃん連中が言ってた」

 晃一は透明なグラスに半分焼酎を注ぎ、湯を足す。ふやけた梅干しがグラスの中でくらげのように広がった。

「まじで? 晃一先輩、おれの分もお願い」

 先輩に酒を作らせんなよ、と晃一が笑う。

「そんなことまで伝わんの?」

「あの病院で働いている看護士が幌内にも何人かいるっしょ。すぐよすぐ。勝の結果も本人より先に情報がくるかもな」

「いっつもびしっときめている加藤の嫁がねぇ。やっぱり宮仕えっちゅうのはなにかと大変なんだねぇ。その点、おれ達は幸せだよ。好きにやっていいんだから」

「給料が違うけどね」

 晃一は襖を開け、梅干しちょうだい、あとザンギかなんか、と叫んだ。

 会議室の蛍光灯に照らされた加藤の奥さんの顔。確かにいつも顔色が悪い、というか不機嫌な顔をしているからさらに青白く見える。こんな意味のない話合いは一刻も早く終わってくれと思っているのが伝わってくる。でも、心療内科に通っているのか。心療内科、心の病。統合は地域に根ざした問題だ。彼女も複雑な思いを抱えているのかもしれない。それか、美保の言う更年期か。

「更年期って嫌な言葉だな」 

 俺は言い、残り少なくなった薄いルイベをはがすように一切れ取った。

「実際そんな年齢なんだからうまくつきあうしかないんでねえの?」

 健太郎の口調はあくまで軽い。

「そうだけどさ」

「それより和瀬作戦はいまいちだったんだべ?」

「和瀬は中立だってさ。冷静になれっていうようなことを言われたよ」

 突然、襖が開いた。紺の前掛けをした親父が顔をだし、無言で梅干しが乗った皿を晃一に渡してすぐに襖を閉めた。晃一は梅干しを指でつまんでグラスに落とした。

「統合の話はいいから明るい話をするべ。今度ホワイトデーがあるっしょ」

 ホワイトデー? 俺と健太郎は声を揃えて繰り返した。

「バレンタインのお返しさぁ。雪祭りで勝、加藤んとこの娘にチョコもらったって喜んでいたっしょ」

「ああ」

「雪像としての出来はうちの道産子のほうがよかったけども、お前とこのカラフルな大仏犬は人気あったな。みんな、あれの前で写真撮ってたべ。三月の町便りの表紙も大仏犬だったし」

「あれアフロ犬だって。加藤の娘の明莉ちゃんが色つけようって言ったのさ。あの子は休まずに毎晩来てがんばっていたっしょ」

「知ってるよ」

 晃一はふやけた梅干しをつついている。

「優勝したのは仲良し近江谷ファミリーだから文句はないべ」

 健太郎が口をはさむ。

「賞金で旭川の温泉旅館に一泊してお前らが羨むような夜を過ごしたしな」

 晃一がジャンパーのポケットから煙草の箱を出してにやっと笑った。

「なんの話だったべか」

 ホワイトデー、と俺はわざとそっけなく言った。家族で温泉なんてここ何年もいっていない。

「そうそう、ホワイトデー。こどもはクッキーや飴なんかの菓子でいいけど、大人は男性から女性に花を送ろうってラジオで言っていたのさぁ」 

「それって花屋の陰謀でねえの。バレンタインだって日本の製菓会社が仕組んだことだべ。外国では男女の別なくプレゼントする日だって」

「健太郎は好きにしろや。陰謀でもなんでも愛する妻が喜べばいいんでないかい? 俺はさぁ、今年は花を贈ろうと思っている」

 はっきりと音にならない口笛を健太郎が吹き、晃一はなんでもないことのように煙草に火をつけた。

「勝もさぁ、他人のためにがんばるより自分の家族を大事にしたほうがいいんでねえの。もうお前んとこは全員が小学校卒業なんだから」

 晃一が煙草をふかすのを視界に入れないように俺は小皿に手を伸ばした。指で梅干しをつまみ、口に入れる。

「なんこれ。なまら酸っぱくない?」

 口から梅干しを取りだし、ほうじ茶の残りを飲んだ。二人は笑っている。

「健太郎、親父に白飯を頼んでくれよ。酸っぱさが消えない」

「酸っぱいのは身体にいいって言うしな。病院に行くっちゅうことは美保ちゃんにも心配かけてんだべ。勝の分も一緒に花、注文しといてやろうか?」

 俺は眉間に皺をよせ、口をすぼめたままうなずいた。俺のも俺のも、と健太郎が騒いでいた。


 太陽の光が雪に反射してフロントガラスから射し込んでくる。俺はエンジンをかけっぱなしにして車を正門の前に停めた。車から降りて門の横についているインターフォンを押し、井出だけど、と言う。おはようございます、とみどりの明るい声が聞こえた後、かちっと門のロックが外された。門を開け、車を中に入れて、門を閉める。再びかちっとロックされた。

「昔はこんなんじゃ」

 声に出し、のろのろと車を進めて空いているところに止めた。駐車場は隅まで雪がはねられ、あと五台は停められるようにスペースが空けてある。学校の敷地の中までは除雪車は入らない。きっと技術員の林さんが毎朝しっかり雪かきをしているのだろう。山と積まれた雪には表面に炭がまかれ、溶けやすくしてあった。六十は軽く過ぎているのにえらいことだ。校内だって隅々まで清掃が行き届いている。林さんのような技術員が各校にいる。最も学校のことを考えているのは彼らかもしれない。統合されたら三人がクビになる。それも加藤の奥さんに言わせたら無駄を省くってことになるんだろうか。

「勝にい、病院に通っているんだって。どっか悪いの?」

 俺が職員室の扉を開けたタイミングで、みどりは校長の机に寿司屋風の湯呑を置いた。校長、教頭の姿が見えない。

「いやいや、ただの定期検診さぁ。なんも悪くないども」

「そうだよね。勝にいだったら病気のほうが逃げていくよね」

 みどりは銀色の丸い盆を胸に抱えてにこにこと笑っている。俺は苦笑いを返し、立ったまま熱い茶を飲んだ。

「校長さんはいないの? 車はあったけども」

「校内をまわっているよ。教頭先生は授業中」

 湯呑を机に置き、俺は誰もいない校長室に入った。校長の椅子の上にずらっと並んだ歴代校長の写真を眺める。何代か前までは白黒だ。何人いるだろう。最近の校長は二年か、長くても三年で移動になる。十年前くらいに教育委員会で決められてそうなった。二、三年で学校や地域のことが分かるかとPTA会長でもなんでもなかった、ただの保護者代表として俺は教育長に文句を言いにいった。当時は幌内町の教育委員会、教育長だったから顔なじみだった。こちらの言い分は通らなかったが、できる限り地域で同じ人を管理職としてまわすようにすると約束してくれた。あの頃はまだよかった。今は北野市の教育委員会、教育長だ。こっちは小さい町の小さい学校のPTA会長に過ぎない。教育長に何度か会ったことはあるけれど顔も覚えていない。

「みどりちゃん、今の教育長と話したことあるかい?」

「挨拶しか、したことないですよー」

 校長室に声が返ってきた。そうだ、統合されたら事務員だって一人でいい。こどもの人数が増え、全員の顔は覚えられなくなるだろう。来客も多くなり、つながりがわからなくなる。人と人との関係が薄まるとはそういうことだ。

 校長室を出ると、さっきまではいなかった由紀先生が職員室の奥の席に座っていた。こちらに背をむけている。テストかプリントの丸つけをしているのだろう。先生は右手で赤ペンを動かしながら左手で髪をかきあげた。身体のラインにぴったりとあった柔らかそうな白いセーターを着ている。

「井出さん、おかわりいれます?」

 みどりの声で由紀先生が顔を上げた。こんにちは、と先生が微笑む。一瞬、自分の胸が強く打ったような気がした。

「教頭先生が六年一組の音楽をみてくださっているんです。卒業式前だから盛りあがってて」

 先生は赤ペンに蓋をし、椅子をまわして身体をむけた。

「こっそりこども達の様子を見ることもできますが」

「卒業式の歌?」

「今は『ビリーブ』を練習しています。知っていますか?」

「いや、知らんけども」

「友達と支え合うという歌詞のすごく良い曲で、こども達が歌いたいって選んだんです。ビリーブを歌っているときの三郎くん、いい顔しているんですよ」

「三ちゃんは昔から歌が上手だもんね。見にいってあげれば? 今時、親が学校に来て喜ぶ六年男子っていないよ。貴重な存在」

 盆をガス台の横に置き、みどりは俺の横に立った。

「由紀さん、横浜の子だったらウザいって嫌がるよね? 気がついたらいつも学校にいる親って」

「ええ、確かに」

「私はいいと思うよ。今時ウザいくらいこどもに熱い人って少ないし。だいたいの親はこどもが嫌がることはしないように距離を開けてるから」

「お父さんが勉強するより家の手伝いしろって言うから、と三郎くんは言っていました。三郎くんは素直に育っていると思いますよ」

「だからといってバカじゃないでしょ。三ちゃんは」

 いや、バカっしょと言おうとしたら、

「三郎くんはやればできると思います。今は勉強にはやる気がないだけで」

 先生は言い、椅子から立った。

「井出さん、小さい頃に詰め込まれると伸びないって教育界では有名な話なんです。計算を速く正確に解く力や本人が必要と思わないことまで暗記する能力と、疑問をもって考える力は相容れないものなんですよ。だから高学年や中学生、高校生になったときに、計算はできるけれど応用問題や文章問題が苦手という子が増えるんです。詰め込まれたら、学ぶこと自体が嫌いになってしまうという弊害もあります」

「でも親って早く字を覚えさせたり、計算させようとしない? 勝にいはしないけど」

「幼い頃に知識を与え過ぎてしまうとわかってる、知っているって、話を聞かないこどもになってしまうんです。知っているというのも、ただ知識として知っているのと、自分で得たものとでは全然違います。学ぶ喜びは自分で考えるから味わえるものなんです。もちろん教師の教え方も大事ですが。それもこれも目先の点数や学習時間ばかり気にして、こども達にどんな力をつけたいか、どんな人間に成長してほしいかを大人が考えていないのが問題だと思います」

「由紀さんがこんなに興奮して話すのって初めてっしょ。都会の学校と比べて、いろいろ感じるところがあるんだ?」

 そうなんです、と先生は買い物カゴのような入れ物からクリアファイルを取った。

「これ、井出さんに渡そうとずっと持っていました。諸外国の適正クラス人数と学校規模についての調査結果です。今の幌内小学校は教育成果を出すのに適した環境なんですよ」

「どういうこと?」

 先生から渡された白い紙には表やグラフが印刷されている。

「統合問題に役立てばと思いまして」

「本当にかい? わざわざありがとう。先生が考えてくれていたっていうのがなまら嬉しいさぁ。今夜は眠れないなぁ。先生、握手してもらっていいかい?」

「勝にいが言うとはんかくさーい。いやらしいっていうか」

 先生は微笑みながら手をだしてくれた。俺は両手ですべすべした先生の手を包んだ。自分の手のほうが温かく、ふいに涙が出そうになった。統合に反対してもいいんだ。一人でも応援してくれる人がいるんだから。

「ほら、いつまで若いエキスを吸いとってるの。離して離して」

 みどりが間に立った。先生はくすくすと笑っている。

「井出さん、音楽の授業はあと10分で終わりますが一緒に行きましょうか?」

「なんもいいさぁ。卒業式の楽しみにとっとくから」

「勝にい、本番では涙、涙でゆっくり歌なんか聴けないんじゃない。最後の小学校の卒業式だし」

「みどりちゃん、あんまりからかわんでよ。会議室で待っているって教頭さんに伝えといて」

 はーい、とみどりが言った。先生の笑顔を胸に刻み込んでから俺は職員室を後にした。 


 長机とパイプ椅子が並んだ会議室には、統合の説明会のときよりも冷えた空気が流れていた。最後の役員会は、輪番でやるPTA役員の来期への引き継ぎが主な内容だ。俺の後の会長は晃一と決まっているから何の心配もない。五年前に前会長から渡されたファイルをそっくりそのまま晃一に渡そうと決めていた。加藤の奥さんは書記と副会長の仕事内容をまとめた紙とUSBを用意してきていた。

「これがあれば書記も副会長も一人ずつでいいと思います」

 今は各学年代表一名と先生方の代表一名が会長、副会長二人、書記二人、会計二人を兼ねる。絶対に七人いる必要もないが各学年の代表が一人ずついるというのはなにかと便利だ。

「それは次年度のメンバーに任せるべ」

 俺の言葉にコの字型に座っている他の役員はほっとしたような顔になった。誰も自分のときに余計な変更をしたくない。

「そうやって後回しにするから改善されないんだと思います」

 加藤の奥さんが冷静に言った。

「急いで今、変えなくてもいいべ」

「だから来年度のPTA総会にかけられるように原案を作りましょう、と提案しているんです」

「今はさぁ、統合の問題で不安に思っている親が多いんだから大きくPTAを変えるべきではないと思うよ」 

 俺から最も離れた席に座る彼女は鼻で笑った。

「今になってあなた方が反対するから、もめているんじゃないですか」

 顔が熱くなったのを自覚した。今になってとはなんだよ、と喉まで出かかった。他の役員の女性達を見る。副会長の後ろには花束があった。俺に渡すであろう花束だ。

「みんなだってそんな簡単に統合されたら困るよな? 一度統合されてしまったら、二度と元の幌内小は戻ってこないんだから」

 俺はつくり笑いを浮かべて言った。誰かが同意の声をあげてくれると思っていたが、会議室にいた五人の女性は誰も俺と視線をあわせなかった。加藤の奥さんがボールペンの後ろをコツコツと机にあてている音が響く。彼女の娘と同じ、いらいらしているときの癖だ。俺は自分の顔が赤くなっているのを自覚しながら立ち上がった。

「みなさん、一年間お疲れさんでした。大きな問題もなくこども達の成長を見守ることができて本当によかったと思う。来週末に卒業式と謝恩会があるけども、今年度の役員会はこれで終わりです。会長として足りないところも多かったけれどいろいろと協力してもらって助かりました。ありがとうございました」

 拍手をもらった。副会長から大きな花束を渡された。加藤の奥さんは無表情だ。この花束代もPTA会費から出ている。彼女に言わせたら無駄な金なのかもしれない。

 俺が副会長と話している間に加藤の奥さんは会議室を出ていった。他の役員は座って歓談している。俺は一分も無駄にできないといっているような彼女の背中を追いかけた。

「加藤さん」

 青白い顔を、俺は笑顔で見返した。

「まあ、だから、その、いろいろありがとな」

「え?」

「いやさぁ、意見を言ってもらうのはいいことだと思ってさぁ。クラスレクのときもそうだし、なあなあでやっていたら見えなかったわ。クラスレクの意味とか役員の人数とか」

「そうですか」

 彼女は職員玄関の靴箱に手を伸ばした。

「あのさぁ、雪像作り、明莉ちゃんはよくがんばっていたっしょ。一回くらい一緒に来たらよかったのに。他の親も来ていたから。統合のことで地域の場に顔を出しづらいのはわかるどもそれとこれとは別だし」

「井出さんのところは女の子がいないからわからないと思いますが、あのくらいの年だと親が一緒にいないほうが楽しいんですよ。いつまでも干渉されたら親離れできませんから」

 大雪の日に一人、アフロ犬の頭を作っていた女の子。涙を目にいっぱいにためて話を聞いてくれますか、と言っていた。

「親離れかぁ。本人はどう思っているか聞いてみた?」

 彼女は俺の正面にむき直った。

「井出さんこそ、子離れする時期なんじゃないですか。統合のことも、こどものためといつもおっしゃいますが、どちらがいいか、こどもに聞いたんですか」

「なるほど。意見を聞くっていいよな。そうだよ。明莉ちゃんにいろいろと聞いてみてやってくんないかなぁ。もっとお母さんと話したいんじゃないかなぁ。加藤さんもこの前、病院で会ったけども疲れがたまっているんだべ。ここらでゆっくり休んで」

「井出さん。あなたの、自分の考えが正しい、他は間違っているという押しつけがましい態度に反感を持っている人は幌内に大勢いるんですよ。私、よく相談されますから。それに人の家庭の教育方針に口を出さないで下さい。迷惑です」

 仕事に戻るので失礼します、と彼女は去っていった。外は太陽の光と雪の反射が合わさってトンネルの出口のように明るかった。薄暗く感じる廊下で、俺は姿勢のいい彼女の後ろ姿を見ていた。自分のことをよく思っていない連中がいるのは知っていた。けれど、じかでああいうふうに言われると、どうもな。

 会議室に戻るために暗い廊下をゆっくり進む。天井から紙がぶら下がっている。さっきは気づかなかった。足を止めて文字を読む。卒業ポスターと書いてある。

『卒業する六年生を知ってください。こんなことが好きです。考えています。』

 先頭は三郎のだ。あいつ、野球のことばかり書いている。理衣子は細かい字でびっしりだ。明莉がアフロ犬と映っている写真、よく撮れている。護のしっかりとした字。工作、ものづくり、映画、酪農の仕事。野球のことを一言も書いていない。そういえば三郎がそんなようなことを言っていた。いつも真面目に練習していた護が野球を続けない? 本当に? もう一度読んでみよう。いや、いいんだ。護が好きなことを、楽しいと思うことをすればいいんだから。次のポスターを目で追ったが、文字が頭に入ってこなかった。中学でも三郎とバッテリーを組んでほしかった。そうなるもんだと思っていた。仲間と身体を動かす楽しさを感じよう。失敗してもいつも全力を出していれば必ず成長するから。そう伝えてきた。

 押しつけがましい態度。迷惑です。

 会議室の中から明るい話し声が聞こえてきた。扉を開けるのが億劫で、俺は冷えた廊下に立ってポスターを眺めていた。

 

 身体が大きく震え、飛び上がった足にハンドルがぶつかった。生温い風が頬に当たる。窓ガラスにはなじみの顔がへばりついていた。

「三郎、どうして」

「父ちゃんこそ、なんでここで寝てんの?」

 エンジンを切り、ドアを開けて外に出る。両腕を伸ばして冷えた空気を吸い込んだ。温度差に一瞬で汗が引いていく。

「いやいや、ようく寝てしまったさぁ。お前ら学校終わったのかい?」

「ずっといたんだ。三郎の父ちゃんはホントに学校好きだな」

 達也が言い、こづかれた三郎が照れたように笑った。昔の健太郎と自分のようだ。

「用事を忘れていてさ。ちょっと待ってたら家まで乗せてくよ」

 二人は顔を見合わせ、

「いい。あとでな、父ちゃん」

 言い終わらないうちに、正門のほうへ二人は駆け出した。

「滑んなよ」

 俺の言葉は全く耳に入っていないだろう。快晴の空に白い雪道。犬は喜び庭かけまわり、だ。俺は小さな紙袋を持ち、職員玄関から入って階段を昇った。さようなら、とこども達に声をかけられ、さよならと返す。あれはどこどこの何番目の子、と反射的に頭に浮かんだ。

 誰かいる。俺は足を止めた。階段を昇りきったところにある柱。寄り添うように男子が立っている。長髪、見覚えのある黒いジャンパー。

 亮が柱から顔を出し、教室の方をのぞいている。俺は亮の真後ろに立ち、同じように顔を出した。

「なにやってんの?」

 亮は人差し指を口に当て、さっきと同じポーズに戻った。五年生、六年生の教室の前の廊下には誰もいない。

 突然、音楽が流れ出した。どこかで聞いたことがあるメロディ。たん、たたん、たたー、たたん。

「いいーひ、たびだーち」

 ふり返った亮は眉間に皺をよせている。俺は人差し指を自分の口に当て、亮にうなずいて見せた。

「下校の時間です。校内に残っている児童の皆さんは速やかに下校してください」

 マイクを通した女子児童の声が響き、再び音楽が流れたとき、六年生の教室の前扉が開いた。背の高い男子、青いウエアを着た護が出てきた。

 さよなら、と亮は早口で言い、階段を駆け下りていった。俺は首を捻りながら柱の後ろから出た。

「今帰りかい?」

「そ、そうです」

「明莉ちゃんはまだ教室にいるかい?」

「あ、はい。い、いると思いますけど」

「どしたの? おどおどして」

「いえ。先に失礼します」

 護は頭を下げて帰っていった。俺は頭をかきながら開いている扉から中へ入った。教室の真中で理衣子が机につっぷし、その横に明莉が屈んでいる。明莉と目があい、どしたの、と声は出さずに口を動かした。明莉は理衣子の背中を上から下へとなぜ、ま、も、る、と大きく口を動かした。まもる? と繰り返す。理衣子が顔を上げた。

「なんで井出っちがいんの? わけわかんない」

 涙混じりの声だった。

「いやぁ、明後日の日曜日がホワイトデーっしょ? だから明莉ちゃんにクッキーを持ってきたのに渡すの忘れて戻ってきたってわけさぁ」

 入り口に立ったまま、手に持っていた紙袋をかざした。二人に近寄ってはいけない雰囲気だった。

「ずるい、明莉にだけ? 理衣子だって普段から井出っちのお世話をしているのに」

「いやいや、明莉ちゃんにはチョコをもらったから」

「美味しかったですか? あれ、お母さんと初めて一緒に作ったの」

 笑顔の明莉に力強くうなずいた。

「美味しかったよぉ。そうか、お母さんと作ったのか。お母さんはおれにあげるって知っていたのかな?」

「言ったほうがよかったですか?」

「いやいや、いや。うーん、どっちにしてもゆるくないなあ。それより理衣子ちゃんはどしたの?」

 二人の動きが止まり、理衣子は再び両手で顔を覆った。

「護が帰っていったけれど。もしかして理衣子ちゃんは護にチョコをあげて、今日はホワイトデーだから」

 理衣子が再び机につっぷし、俺は言葉を止めた。それで泣いているということは。また自分は余計なことを。

「ふられたわけじゃないんだから、泣かなくてもいいでしょ」

 明莉が理衣子の髪をなぜた。

「よかったぁ。ふられたわけじゃないんだ」

 俺は息を吐いて二人に近づいた。

「よくないもん。理衣子のことは嫌いじゃないけれど特定の誰かとつきあう気はないってふられたと同じでしょ。 ねえ、井出っちもそう思うっしょ?」

「そんなことないっしょ」

「そんなことある。だって理衣子が、じゃあ由紀先生だったらつきあうの? って訊いたら、護、固まっていたもん」

「由紀先生?」

 明莉がうなずいた。

「護と亮は007の見過ぎでどうも大人の女性が好きみたいなの」

「ねえ、井出っち。理衣子と由紀先生だったらどっちがいい?」

「そりゃあ、ゆう。いきなり、ゆうわれてもわからんども理衣子ちゃんはめんこいよ」

「なまら?」

「なまらめんこい」

 俺は間髪置かずに言いきった。

「理衣子も明莉のクッキーを半分もらってもいい?」

「いいよぉ。たくさん入っているから二人で食べな」

 理衣子は紙袋を受けとり、シールを外して中を見た。

「かわいい。明莉、見て。瓶にナッツとミニクッキーが入っている。奥さんが選んだっしょ」

 明莉はどれがいい、理衣子はこれ、とはしゃいでいる。今泣いたカラスが、と心でつぶやいたとき、理衣子は真面目な顔で俺を見つめた。

「井出っち、奥さんと由紀先生だったらどっちがなまらめんこい?」

 理衣子ってば、と明莉が呆れたようにつぶやいた。

「やっぱり理衣子は納得いかない。アンケートとる。先生と理衣子はどっちがめんこい? って。理由も書いてもらう」

「理衣子、六年男子は六人しかいないんだよ?」

「女子にも聞くもん。大人にも。堅やんは理衣子って書いてくれるはず。井出っちも。それで二票獲得だし」

 言葉が出なかった。汗が背中をつたっていった。


 冷えた車内で色とりどりの花だけが生気を放っていた。PTAの役員会の空気、加藤の奥さんが言った言葉をどうしても思いだしてしまう。俺は花束を持ち、鼻に近づけた。思ったよりも香りはなかった。助手席には由紀先生からもらったクリアファイルが置いてある。俺は花束を抱えて車のドアを閉めた。晃一に用意してもらっているのと二つ花束を持って帰ってもな。こっちのは先生にあげよう。唯一、自分を応援してくれる人に。三郎が世話になってもいるんだし。

 夕陽が射し込む職員玄関を通る。今日だけで三度目だ。職員室前の廊下には卒業ポスターが吊り下げられている。男女がそれを見上げて話をしていた。男のほうがポスターを指さし、女が楽しそうに笑う。一枚ずつ二人で見ていっている。男は女より頭一つ分くらい背が高い。由紀先生と、隣りにいるのはジャージ姿の近藤先生だ。

「またそんなことを言って」

 由紀先生が近藤先生の肩を軽くたたいた。カップルにしか見えない。気づかれないうちに帰ろうとしたとき、

「井出さん、どうなさったんですか?」

 由紀先生に見つかった。昔から見つかりたくないと思ったときは必ず見つかってしまう。百パーセント。法則化してもいいくらいだ。

「忘れ物ですか?」

 由紀先生が歩いてくる。俺は力なく首を振った。

「この花束、PTAの役員会でもらったんだけれども」

「一年間、ではなくて五年間もお疲れさまでした」

「ああ、そうなんだけれど、いつも世話になっているみどりちゃんと、あと技術員の林さんに渡したいなと思ってさ」

 由紀先生の顔がやわらいだ。

「お二人とも体育館で作業していますから呼んできましょうか? それとも私から渡しておきますか?」

「仕事の邪魔したくないから、渡しといてもらっていい?」

 俺は花束を両手で持ち直してから先生に預けた。

「きれいですね。みどりさん、喜ぶんじゃないかな」

 お願いします、と言ってから玄関へむかった。そこに三郎と美保の姿があった。

「なしたの? 二人で」

「父ちゃん、全然帰ってこないからさぁ。さっき車で寝てたって言ったら、母ちゃんが心配して様子を見にきたんだよ」

「ごめんごめん」

 美保は会釈をしている。由紀先生にだろう。俺が長靴を履いている間に、美保は玄関を出ていった。さよならー、と三郎は大声で叫び、俺のあとをついてくる。10分も経っていないのに、太陽は沈み、夕方が終わろうとしていた。

「ごめんな、余計な時間を取らせて。いろいろあってさ」

「なんも。私、先に帰ってばあちゃん達のご飯をしておくから三郎と帰ってきて。ワゴンで行くね」

 美保は半身でそう言い、ワゴン車の運転席に乗ってエンジンをかけた。

「俺、ちょっと行くとこあるから、もしかしたら」

 言い終わらないうちに黒のワゴン車は走りだした。俺を振り切るように、避けるように、ワゴン車は見えなくなった。雪に残ったタイヤの跡の上を三郎がスケートのように滑っている。

「そんな歩き方してたら転ぶぞ」

 三郎はトラックの横まで滑り歩きをして、助手席の把手をつかんだ。

「父ちゃん、なんで由紀先生に花束あげてたの?」 

 三郎の屈託のない黒目を見て俺は気がついた。もしかしたら美保は誤解しているのかもしれない。


 俺は勢よく上半身を起こした。けたたましい音が冷えた空気をきりさく。身体をひねって四角いデジタルの目覚まし時計をとり、背面にあるスイッチを下げた。三郎も陽太も身動き一つしない。

 そっと和室の襖を閉め、居間のカーテンを開けた。そのまま暗闇を見つめる。目が慣れて北東の方角から吹雪いている細い雪の姿を認めた。頭に淀みを感じる。深い眠りに入った瞬間に目覚ましの音が響いた感じだ。昨晩、と考えをめぐらした途端に淀みは痛みをもった。

 ガスストーブの後ろにかけてあるスキーウエアを着て、上から黒のベンチコートを羽織った。玄関の靴箱の上にある鍵の束を掴んで長靴に足を入れる。いつも鍵と一緒に置いている携帯がない。傷だらけの塗装がはげている黒の携帯。玄関には見当たらなかった。長靴を脱いで探すのも面倒だ。俺は音がしないように静かにドアを閉めた。

 軽トラックの運転席側のドアを開け、窓を覆っていた雪を落とした。キーを回したらきゅるきゅると音がし、しばらくしてからエンジンがかかって車体が振動した。白い息を吐きながら手を伸ばし、暖房のスイッチを強にする。足マットからT字の除雪ブラシを取り、外からフロントガラスの雪と氷を大雑把にこそげ落とした。ガラスがクリアになっていくのと同時に頭も目覚めてくる。昨晩、なんかアイデアを思いつきかけたんだ。統合。目を赤くした理衣子の顔。アンケート。俺はいつもより力を込めてガラスをこすった。

 助手席側のドアを開けてブラシを投げ込む。玄関へ戻ってスノープッシャーと呼ばれる、スコップよりも広範囲に雪を押せる道具で道路までの雪をかきだした。一度、二度、三度目で違和感を感じ、押し切ったところで動きを止めた。心臓がある部分がわずかに痛む。深く息を吐いたら白い息が身体の横幅よりも大きく広がった。

 エンジンをかけっぱなしにしていたトラックに乗り、窓の氷が下から溶けていくのを見ていた。黄色に光るデジタル時計が01:15と表示している。ギアをバックに入れ、じわじわとアクセルを踏んだ。

 この道を一日に五往復以上する。雪が降ると裏道は通れなくなるから、どこへ行くにもここの国道を通っていくことになる。緩やかな坂道を下り、右に大きくカーブしていく。前、後ろ、対向車はない。定期的なワイパーの音とスタッドレスタイヤが雪をかんで進む音が聞こえる。

 速い。減速が足りない。

 意識に上がったときには前輪がロックされ、右に滑り出していた。

「ブレーキは踏むな。逆ハン」

 親父の低い声が響いた。

 遅い。間に合わない。

 スローモーションのようだった。ハンドルを左に合わせる自分の反応をもう一人の自分が上から見ていた。滑ったことに気づくのも、それへの反応もいつもの三倍はかかっている。

 真っ暗な空と道路の先の闇が混ざり合った瞬間、車は路肩にぶつかった。そのまま勢いよく歩道へ乗り上げ、落下していく。

 ごうごうと響いているのはなんの音だろう。

 ああ、胸が痛い。

 完全な暗闇が意識と身体を包んでいった。


 俺は体育館の舞台の上に立っていた。かなり短い黄色のスカートをはいた由紀先生が台で指揮棒を振っている。先生の後ろにはスーツの男性がパイプ椅子にずらりと座っていた。両方の壁には赤と白の幕が張られている。

「吹きまく風、舞う雪よ、流れも土も、凍みている」

 幌内小学校校歌だ。隣から元気な声がした。みどりだ。彼女の横では背の高い教頭が大きく口を開けている。逆側には理衣子、その横は明莉。前も後ろも女子だらけだ。女子の中に自分一人だけが男子だ。

「強くたくましく、幌内の名のもとに」 

 指揮をする先生のすぐ後ろで煙草をふかしているのは晃一だ。横のジャージは健太郎か。おい、晃一。学校で煙草を吸うなよ。しかもこっちは校歌を歌っているのに。

 音が止まる。

「井出さん、歌っていないのはあなただけです。時間を無駄にしないでください」

 先生がいた指揮台に加藤の奥さんが立っている。おかっぱが伸びたような真黒な髪、黒のパンツスーツ。一緒に歌っていた女子全員の目が、いや、体育館にいる全員の目が自分にむけられている。晃一と健太郎が立ち上がり、両手に持っている物をしきりに振っている。細長い、ピンク色の、サンゴのような。唾を飲みこんだ。だっからアッケシソウは取ったらいけないんだって。お前ら見つかったら、ダメだと思ったら、我先にと逃げるくせに。

「かっちゃん、ごめんね」

 両手に赤ちゃんを抱くようにアッケシソウを抱えた美保が目の前に立っていた。アッケシソウの束を押しつけてくる。首を振った。これは夢だ。美保の二重の目に涙がたまっていく。胸が痛い。身体がほてってくる。夢だ、これは。早く起きろ。

「いーけないんだ、いけないんだ。なーかした、泣かした。先生に、言ってやろう」

 小さな晃一と健太郎が駆けだした。待ってくれ。由紀先生には言わないでくれ。二人を追って一歩踏み出す。だがそこに床はなく、俺は舞台から転落した。


 身体が大きく揺れた。弱い振動は続いている。眠気を促す心地よい揺らぎだ。それにしても暑い。汗ばんでいる。いくらなんでも暖房の効かせ過ぎだろう。

 起きなければ。眠っている場合じゃなかったはずだ。

 なんでだ? 病院で胸の結果を聞くんだっけか。

 なら、もう少し寝てもいいか。後で聞けばいい。身体の芯が眠りたい、このままでいたいと言っている。

 頭が前にがくんと振れたとき、胸に鋭い痛みが走った。まぶたを力まかせに持ちあげる。熱風が顔に直接吹きつけていた。

 フロントガラスに広がる暗闇、白い世界。雪が舞っているせいか、黒よりも若干、白が勝っている。ワイパーがフロントグラスに落ちる雪を弾く。狂いのない動きだ。

 何してる。ここはどこだ。02:24と目に入った。2と4、不吉な数字だ。俺はシートベルトを外そうと右手を斜めに伸ばした。

 痛い。きつく目を閉じる。引き攣れるような胸の痛み。目を閉じた途端、温かい暗闇が眠りの世界に誘ってくる。ちょうどよい振動がそれを加速する。とりあえず少し眠ろう。それから考えよう。考える。何を?

 タイヤがロックされた。そうだ、国道のカーブで滑ったんだ。路肩にぶつかって落ちた。車ごと俺も落ちたんだ。胸も痛んでいる。眠っている場合じゃない。確かめなければ。今どういう状況なのか。

 再び、意識してまぶたを持ち上げた。揺れと熱気。エンジンはずっとかかりっぱなしだった。

 電話、と右ポケットに手を入れた。うめき声が出る。肋骨が折れているのかもしれない。ポケットを探った手の平には、いつ使ったかわからないティッシュと輪ゴム、飴かなんかのビニール袋の切れ端が乗っていた。軽く舌打ちをした音が車内に大きく響く。自分の状況を思い知らされた感じがして、振り払うように二度舌打ちをした。

 右脚をゆっくりと伸ばし、曲げる。大丈夫だ。

 左脚、と意識をむけたら腰が痛んだ。右のほうに重心をかけつつ、左脚をじわじわと伸ばす。脚そのものには痛みはない。が、左腰も強く打ったらしい。俺は四度目の舌打ちをした。脚だったら引きずってでも歩けたのに。

 まずは痛みを知って慣れるしかない。どこまでやったら痛くて、どこまでだったらいけるのか。座ったまま、おそるおそる重心を左側に移していく。

 痛めたのは胸と左の腰。無理をしてはいけない。肋骨がよくないほうに折れていたら。腰を悪くしたら一生歩けなくなるという可能性もある。そしたら仕事はどうする。こども達と遊ぶことも、もちろん野球もできなくなる。

「ばかだなぁ、三郎。怖いと思うから怖いんだ。ただの木だし葉っぱだろ。お化けなんかじゃない。お前が想像するから怖くなるだけだ」

 キャンプの夜。一人でトイレに行けない三郎に言った。それでもついていってやったけども。

 口元がゆるんだ。三郎と同じだな。悪いことを想像しても仕方ない。

 息を吸って吐く。だんだんと深く。胸に痛みは感じるがそこまでではない。

 大丈夫、ひどいことにはなっていない。きっと大丈夫だ。

 左の尻に体重をのせた。声を抑え、痛みを少しでも感じないようにする。

 動くな。じっとしてろ。除雪センターに行かなかったら家に連絡がいくだろう。家にいないことがわかったら探してくれる。国道のカーブは滑るポイントだ。一年に何回か車がスピンするし、数年に一度は事故も起こる。和瀬んとこもそうだった。和瀬の奥さん、亮の母親。

 ああ、死んでいたかもしれなかった。あのとき対向車が来ていたら。落ち方が悪かったら。

「だから言ったじゃない。無理しすぎだって」

 美保が見つめている。わずかに眉を下げて唇をかんでいる。昨夜、晃一が用意してくれた花束を渡したら微笑んでいた。嬉しそうに、半分、戸惑ったように。由紀先生に渡した花束のことは聞かれなかったから言わなかった。化粧気はなかったが、赤いバラと白のかすみ草の花束は美保によく似合っていた。父ちゃん、すげえ、と三郎が言い、陽太は冷やかすように笑っていた。

 期待して花束を渡したわけではなかった。けれど、心のどこかでやっぱり期待していたんだろう。夕飯、風呂のあと、美保はいつものようにじいちゃん達の部屋へいってしまった。俺は全く寝つけなかった。加藤の奥さんに言われたことも引っかかっていたのかもしれない。誰かから反感を持たれるのは仕方がない。だが、家族とは楽しく過ごしたい。三郎や陽太も、もうすぐ家を出ていってしまう。だからこそ美保からは想われたい。大事にされたい。

 水で割った焼酎を何杯かあおった。除雪があるとわかっていたのに。もうどうでもよかった。

 そうだ。どうでもいい。このまま眠っても、死んでも、誰もたいして困らない。温かい空気が、ほどよい振動が気持ちいい。目を閉じてじっとしていよう。動かなければ痛みも感じないで済む。暗闇が濃くなっていく。このまま、このまま深い眠りに。

 三郎がキャッチャーミットと球を持っている。ミットが手になじむように、球が入りやすくなるように一人で捕球を繰り返している。

「父ちゃんってさぁ、すげえキャッチャーだったんだよねぇ。父ちゃん、どうやったら肩って強くなる? 父ちゃん、父ちゃんってば」

 右肩がびくんと動いた拍子に胸と腰に痛みが走り、まぶたが開いた。

 このままじゃいけない。

 右脚を動かして、そろそろと身体の向きを変えていく。左腰にはなるべく負担がかからないように。新鮮な空気が吸いたい。このままここにいたら眠ってしまう。悪いものに捕まってしまう。

 ドアを開けた。待っていたかのように零度以下の空気がなだれこんできて露出している肌、顔や首、手の平に刺さった。

 座ったまま見上げると、国道があった。大型トラックが走ってくる。十メートルは下にいるのに轟音が響いた。カーブを終えてトラックは坂道を登っていった。

 俺は長く息を吐いた。白いかたまりが車の後方へとゆるく流れていった。

 あと少しで死ぬところだった。最後の瞬間は今までの人生を走馬灯のように思いだすっていうけどアッケシソウの変な夢しか見なかった。そうか、死んだわけじゃないからか。

 雪の上に右脚を下ろす。話がしたい。煙草でもいい。なんでもいいから実際に生きている証みたいなのがほしい。右脚に引張られて腰に痛みが走り、左脚も下ろす。息が浅くなり、胸が痛む。

 ばか、下手に動くな。あったかい車の中で座って待ってろ。声が聞こえる。目を閉じて助けを待っていろ。身体は眠りたいと言っているだろ。

 針のような空気を吸い、白い息を吐く。もう一度。 

 悪い想像はたくさんだ。俺は右手を車体につき、できるだけゆっくりと息を吐いた。自分の白い息を追うようにトラックの側面、タイヤ、リヤと見ていく。体重がかかると腰が痛む。身体の状態とは異なり、車はどこも傷ついていない。お前、えらいな。そう思いながら、半周まわって左のフロントフェンダーまで来て足を止めた。

 あそこから落ちたんだ。その前に路肩にもぶつかった。傷ついていないわけがない。左右ヘッドランプ、フロントバンパーは見る影もなかった。俺は目をつぶった。つぶれた車と今の自分が重なった気がした。今さら反対しても時間の無駄なのに、他にやるべきことがあったはずなのに。結局どうしようもなくて酒を飲んで事故っている。

 かっちゃん、大丈夫。全部うまくいくよ。

 美保に、そう言ってもらいたかった。胸の痛みも、夫婦の関係も、統合も。一日の終わりに布団を並べて眠りたい。それだけでいい。一生、それだけでいい。

 俺はランプがあった場所をさわった。オレンジの破片が雪に落ちた。

 だから言ったじゃない。よく考えないで行動するから。幼い頃は母親が、今は美保が口にする言葉だ。俺はなんも変わっていない。

「お前達は一日一日成長している。昨日打てなくても、今日は打てる。昨日捕れなくても、今日はグラブに入る。自分を信じて、いつでも全力を出せ」

 そう、こども達に言ってきたのにな。白い息が鼻と口からこぼれた。笑っていた。胸の痛みを感じながらも、それを無視するように笑った。

 成長してはいないけれども、全力は出してきた。だから、悔いはない。三郎は小学校を卒業する。でも、幌内小キングスは残る。他にもたくさんのこども達が幌内にはいる。どんなふうに育ってほしいのか。この小さな町で。今あきらめたら、全力を出しきらなかったらきっと悔いが残る。

 俺ができること、まだあるよな。

 フロントの状態を目に焼きつけ、運転席側から車内へ戻った。眠気は残っていたがやるべきことはわかっていた。キーをまわしてエンジンを切る。さあ、どこから国道へ這い上がろうか。

 

 気が滅入るのは、この匂い、消毒の匂いのせいかもしれない。いや、夜間診療の照明が暗いせいか。それとも窓に映る色が白と黒だけだからか。

 俺は固い長椅子の背もたれによっかかった。ここに来て加藤の奥さんと会ってから一週間も経っていない。あのときの検査結果も一緒に聞けるのだろうか。

 美保のむこう隣りに座っていた、じいちゃんくらいの年齢の男性が前を通ろうとする。慌てて足を引いた。急な動きに身体のあちこちが痛む。美保の視線を感じ、なるべく痛みが顔に出ないように堪える。


 健太郎の奥さんから美保へと連絡がいき、美保が迎えにきたときに時計を見たら四時を過ぎていた。

「ごめん。心配かけてごめん」

 美保はワゴン車の運転席側に立っていた。俺は腰に手を当ててゆっくりと歩き、助手席に座った。

「迷惑かけてごめん」

 しゃがれたような声しか出せなかった。美保はぼんやりと首を振った。

「救急車、呼べばよかったのに」

「大丈夫さぁ。痛みも」

「今すぐ病院へ行くから。三郎達はばあちゃんにお願いした」

 美保は俺の言葉をさえぎった。

「落ちたときより痛みもやわらいできたし、スピードも出ていなかったし」

「嘘。スピードが出ていなくて滑るわけがないっしょ」

 車のエンジンはかけたままだった。美保はヘッドライトが照らす雪道を見ていた。

「前から胸が痛むなんてことも知らなかった。どうして私に言ってくれなかったの?」

 俺はあやうく舌打ちするところだった。

 一刻も早く病院に行って。後から頭痛とか吐き気とか出てくるって。しかも勝さん、前々から胸も痛むんでしょ。 

 健太郎の奥さんが美保に話していた。健太郎も余計な話を奥さんにしやがって。きっとあることないこと言ったに違いない。

 

 検査が終わり、俺達は診察室の前で再び名前を呼ばれるのを待っていた。

「私が悪かったのに、さっきはかっちゃんを責めてごめんね」

 俺は長椅子の前にある背の低い本棚を見た。上の段に雑誌が、中段、下段には古い漫画が置いてある。上下もあっていないし、横になったまま重なっているのもある。

「私が話せないような雰囲気を作ったんだよね」

 無性に本を揃えたい欲求にかられた。端から端までぴしっと並んだらどんなにすっきりするだろう。

「夜中に家の電話が鳴ったとき、悪いことが起こったとわかった。かっちゃんが死んじゃったらどうしよう。そしたら誰かに手伝ってもらって畑やって、三人が学校終わるまでなんとかやってって、そこまで考えた」

 涙声だった。美保の手は彼女の膝の上にあった。由紀先生の白い手とは違う。共に農機具を使ってきた手だ。さわってもいいのだろうか。前だったら躊躇なくそうしていた。

「なんもないって」

 前っていつだ。隣りの布団で寝ていた頃。三郎が生まれる前。出会った頃。

「じゃあ、なんでこんなに結果が出るのが遅いの。悪いこと言われるからじゃないの」

 美保は黒い鞄からハンドタオルを出して目に当てた。美保は何年も前からこの鞄を使っている。ファスナーが削れて白くなってきている。景品で当たって俺が美保にプレゼントした鞄。

「大丈夫だって。病院終わったらさ、トンカツ喰いたいな。飯とキャベツがおかわり自由なとこが近くにあったよな?」

 美保は目をタオルで押さえたままうなずいた。

「かっちゃん、昔からカツが好きだよね」

「おう、死ぬ前に何喰いたいって聞かれたら、迷わずトンカツって答えるね」

「死ぬ前って」

 美保がまたしゃくりあげた。自分の失言のばかさ加減に笑ってしまい、俺は左手で美保の肩を抱いた。美保の身体に力が入ったように思えた。

「俺さ、すぐ余計なこと言って。今回のことも。本当バカでごめんな」

 美保は小さく首を振った。ばあちゃんくらいの年齢の女性が俺達をじろじろと見ている。きっと美保のほうが病気のように見えるだろう。

 俺は鼻から息を吸い、目を閉じた。胸に痛みを感じた。実際、死んでいたらここにはいなかった。だからこそ伝えなければ。家族にもきちんと自分の気持ちを伝えるべきだと、先生も言っていたじゃないか。

「俺、死んだかと思ったとき、一番にお前の顔を思いだした。待ってるからさ。時期がきたら同じ部屋で布団を並べて寝たい。死ぬまで」

 沈黙がおり、時間が流れるとともに美保の身体から力が抜けていった。

「かっちゃん」

「悪い話はなしにしてくれよ」

 美保は小さく微笑んでいた。

「豚ロースたくさん買ってうちで揚げよう。陽太と三郎もトンカツ大好きだから」

「そうだな」

 二人の息子が争うようにカツを食べ、それを嬉しそうに見つめる美保の顔が浮かんだ。


 涙というやつは一度まぶたに溜まったらなかなかひいてくれない。職員室にいるときも、体育館の脇に設けられた来賓の席に座ったときも、俺はなるべく顔を上げなかった。身体はもういいんですか、と何度も訊かれたが、うなずくことしかできなかった。

「六年生、入場」

 教頭の声が響く。四、五年生が笛を吹き始めた。この曲は。いつのことだか、思いだしてごらん。『思い出のアルバム』だ。やめてくれ。スーツの右ポケットから白いハンカチを取りだす。美保が何枚も入れてくれた。鼻水も拭くのよ、使ったのは左に入れて、と。

 涙を拭くと、こども達は校旗や花で飾られた舞台に上がり、横一列に並んでこちら側をむいていた。どういうことだ。舞台にこども達がいるなら卒業証書授与はどこで行われるんだ。改めて体育館を見渡す。舞台と五年生の間に空間があり、台や机が置かれている。五年生の後ろは保護者席で、前列に背の高い晃一の姿が見えた。晃一の斜め後ろに美保やじいちゃん、ばあちゃんがいる。

「幌内小学校、校歌」

 ピアノの音が流れ、前奏の終わりで息を吸った。

「吹きまく風、舞う雪よ」

 舞台の右よりで歌っている理衣子が俺を見て、目を大きく開いた。俺は口を半分閉じた。俺が大声で歌わなくていいんだった。卒業式の主役はこども達だ。それにしてもこの配置は斬新だ。式の間中、卒業生の顔を見ていられる。去年までは違った。五年生の前に卒業生が並び、舞台の上で行われる証書授与のとき以外は卒業生の背中しか見られなかった。横浜から来た由紀先生が発案したのだろう。そんな気がする。新しい風だ。

「卒業証書、授与」

 今まで教頭がいたスタンドマイクの前に由紀先生が立った。校長と証書が入った盆を両手で持ったみどりが俺に背を向けるように立った。

「六年一組、一番、井出、三郎さん」

 由紀先生が呼び、はい、と少年らしい声が体育館に響いた。

「将来、プロ野球選手になり、メジャーリーグでプレイしたいです」

 三郎はまっすぐ舞台から降り、直角に向きをかえて歩みを進めて校長の前に立った。校長が証書の文面を読み上げる。三郎の頬は薄らと赤いが表情は落ち着いている。右、左と手を伸ばして証書を受けとり、頭を下げた。右手に証書を抱え、台から降りる。直角に向きを変えたところが俺の真正面だった。三郎が笑顔を見せる。俺はうなずいた。目を細めるとまた涙の幕がおりてきそうになった。

「二番、加藤、明莉さん」

 はい、とはっきりとした声がして、俺は舞台の上に目をむけた。黒のプリーツスカートに白のハイソックスがよく似合っている。

「これから、自分の好きなことをたくさん見つけたいです」

 証書をもらって俺の正面に立った明莉が微笑んだ。いいんだ。そう簡単にやりたいことが見つからなくても。迷っても。俺なんか今でも迷いまくりだ。明莉と目があい、俺は三郎のときよりも大きくうなずいて見せた。同時に涙がこぼれて慌ててハンカチを出した。

「三番、川口、理衣子さん」

 はーい、と高い声が響く。理衣子は舞台上でにっこりと笑った。間があき、体育館中の視線が集まる。

「将来の夢は写真家、記者、小説家、シンガーソングライター、ビキニが似合う女性にもなりたいです。もっとあるけれど、聞きたい人は直接、理衣子に聞いてください」

 保護者席からくすくすと笑う声が聞こえた。俺も歯を見せて笑った。札幌へ行ってしまうとはもったいない。家があるんだからいつでも幌内へ帰って来いよ。理衣子が背筋を伸ばして歩くのを目で追った。


「晃一、俺さ、住民投票に持っていこうかと考えている」

「住民投票? なんだいきなり」

 レジ横に座って昔ながらの電卓で計算をしていた晃一に、俺は百枚近い紙の束を渡した。なんね、と晃一は一枚目をめくった。

「幌内、川沿、欽水、日吉小学校の四年生以上、全員のアンケート。理衣子ちゃんが護や由紀先生と一緒に各学校をまわって集めてくれた。最後に数値をまとめたのをつけてある」

 晃一は数枚めくり、最後のページで手を止めた。

「やっぱり在校生は統合反対の方が断然多いな。けど、賛成もいることはいるんだ」

「どちらでもないを選べるとみんなそっちに逃げるから賛成か反対かだけにしたって。一人ずつに意見も書かせて、四年生でもいっぱしのことを書いている子がいる。理衣子ちゃんが読んで、これはと思った子のには付箋が貼ってあるから。いやさぁ、おれもこども達の行動力を見習わないといかんべ」

 晃一は付箋がついている子の意見を読んでいた。俺は代金を置くトレーの横に置かれているくじ箱のようなものをさわった。ケシカスくんと描かれている。手を入れて五センチ四方の派手な袋を一つ取った。

「ゆるくないけどな」

 晃一が顔を上げた。

「それ、一つ百五十円だけども買うのかい?」

 いやいや、と袋をくじ箱に戻した。

「昔からこういうのあったよな。消しゴムでバトルみたいな」

「かす集めて練りケシにしたりな。今は商品であるから買っていけばいいさぁ」

「なんでも買わせんなよ」

 俺は笑いながら、アンケートの束を晃一から受けとった。

「ゆるくないのはわかってる。けどさぁ、まずは選ぶことだろ。選ぶために情報を集めて考えてさぁ。住民投票といっても住民アンケートに近くて強い拘束力はないらしいから結果として統合反対の票が多くてもどうにもならないってことも考えられるし。でもさ、流さないのがいいべ」

 真面目な顔で聞いていた晃一が口の端を上げた。

「勝ち負けが好きだよな、勝は」

「そういうわけじゃないけども。敵は加藤や役人じゃなくてさ、考えないで楽なほうへ逃げている人達だってわかったんだよ。トラックごと落ちたとき。もういいや、目をつぶって眠ろう、面倒なことは何も考えたくないって思ったからさぁ」

 晃一は胸ポケットの煙草の箱をさわった。さわっただけで箱は出さずに、耳が痛いな、とつぶやいた。

 数秒、晃一も俺も口を開かなかった。

「落ちたと言えばさぁ」

 晃一が言い、にやっと笑った。

「毎朝、美保ちゃんは勝が除雪へ行く時間に起きて熱い珈琲をいれているんだって?」

 俺は軽く舌打ちした。

「健太郎夫婦はほんっとに口が軽いな」

「行ってらっしゃいのキスもするんだろ」

 するわけないべ、と俺は吹きだすように笑い、頭を下げた。

「晃一、お前がいないとダメなんだよ。協力してくれ。頼む」

 今まで晃一にこうやって頼み事をしたことがあっただろうか。

「一直線なのは変わんないな」

 いや、晃一、俺は変わったんだ。俺はさらに深く頭を下げた。いやいや、基本、変わっていない。が、変わらなければ守れないものもある。

「勝、顔上げろよ。こうしよう。こっからレアのケシカスくんが出たら勝に協力する。普通のだったら俺は統合問題に時間は使わない」

 晃一は箱の中をかき混ぜて俺に引くように差しだした。俺は晃一の真面目な目を見てから箱へ手を入れた。最初にさわったのを取り出し、晃一に渡す。どれがレアか俺にはわからんども、と言おうとしたがやめた。晃一が袋を破ると中から悪魔みたいな形の消しゴムが出てきた。

「あそこから落ちたのに肋骨一本だし、悪運が強いよ、勝は」

 晃一は消しゴムを俺に差し出し、百五十円、と言った。

  

「十五番、和田、亮さん」

 返事がなかった。五年生がさっと顔を上げて亮に注目した。ジャケットを着ているものの、いつもと同じように亮の目は前髪で隠れている。

 亮は動かない。口を開かない。亮の横に証書授与が終わった達也が戻ってきた。

 亮は由紀先生の方へ目を動かした。先生は亮を見て微笑んでいる。ありのままの亮を映している目だ。

「将来は国をまたぐスパイになる予定です」

 珈琲、飲みます? と俺に尋ねたときと同じ、淡々とした口調だった。声が小さすぎて保護者席までは聞こえなかったかもしれない。直角に歩いた三郎とは違い、猫背のまま校長の前まで進む。思いださずにはいられない。運動会で竹馬を放り投げたことを。何十年も受け継がれてきた幌内小学校六年生の伝統競技。俺にとっては晴れの舞台で最長の竹馬を操ることは名誉だった。そのために毎日練習した。乗れなかった同級生も泣きながら練習していた。俺らとは全然違う。そんな彼らがこれからの幌内を、世の中をつくっていく。

 証書を右手に持った亮は俺と目をあわせ、にやっと笑った。俺も同じような笑みを返した。こいつらはどんな大人になるのだろう。


 オレンジジュースを手に持ち、俺は壁際に並べられているパイプ椅子に座った。幌内小では卒業式の日の夜はスポーツセンターの体育館で謝恩会が行われるのが恒例だった。

「胸はまだ痛むのかい?」

 健太郎がビール瓶を持って隣りに座った。

「いや、普通にしてればなんともないさぁ。結局、前からの胸の痛みは原因わからずじまいだし」

「骨折治ったら胸筋も鍛えればいいっしょ」

「健太郎がやれよ」

「それより今年のPTA会長挨拶、なまら迫力あった。五年で貫禄ついたわ。こども達も一生忘れんだろ」

 今年の会長挨拶は舞台の下からだった。在校生、保護者の視線は背中で受ければよかった。

「卒業おめでとう」

 続きは右手に持っている白い紙に書いてあった。けれど、晴れ晴れしい卒業生の顔と、後ろのアッケシソウが描かれた校旗を見たら長い話はいらない気がした。

「お前ら、自由に生きてくれ」

 涙はどこにもなかった。

「ここにいる人はみんな、お前らが好きだから。なまらめんこい、お前らが大好きだから」

 理衣子が手でピースをつくり頬につけて笑って見せた。

「幌内は変わらずにここにあるから。いつでも戻って来い。以上」

 会場は静寂に包まれた。いいぞ、と誰かが声をかけ、拍手をした。晃一か健太郎の声だろうと思いながら、俺は礼をして席に戻った。

「俺なんか卒業生がいるわけでねえのに、卒業生の呼びかけで泣いたよ」

 晃一が左隣に座った。

「来年も後藤先生は幌内だって? うちの子の担任になってくれんかなぁ」

 どっから? と晃一の顔を見ると、

「新PTA会長の情報力」

 と自信満々に言った。

「和瀬は来てないな。いたら俺が直接話そうと思っていたのに」

「住民投票までの動きを連載してくれるってさ。いろんな立場から。もちろん反対派のことも」

「いつの間に?」

「旧PTA会長の行動力」

 へえー、と晃一はジャケットの内ポケットに手を入れた。煙草は、と俺が言うと、晃一は緑のパッケージのガムを取りだした。

「ガン検診の一次でひっかかってダメかと思ったの。そしたら結局なんでもなくてさ」

 晃一は銀色の包みをはがし、板状のガムを口に入れた。いる? と差しだされた箱から、俺は煙草を取るようにガムを引き抜いた。

「怖かったべ」

「悪いほうにしか考えなかったなぁ。楽しいことだけやってさ、酒も煙草も思う存分やってやろうと思ったらうちのが泣いてた」

 病院での美保の潤んだ目を思いだし、俺は小さく息を吐いた。

「まだまだこれからだべ。人生八十年。折り返し地点を過ぎたとこ」

「仕方ない。俺も今日から筋トレするか」

 健太郎はコップに入っていたビールを飲み干し、新しいビールを注いだコップをかかげた。

「幌内小学校の卒業生と新旧PTA会長の新たな一歩に、乾杯」

 健太郎の大声に部屋中の大人とこども達がこちらに顔をむけた。俺は立ち上がり、乾杯、とオレンジジュースが入ったグラスを持ち上げた。

「井出っちのこと、理衣子も好きだよー」

 由紀先生ではなく、先生の隣りにいた理衣子が走ってきた。

「由紀先生は近藤先生となんでもないって。井出っちは病院で奥さんと抱きあっていたんだから関係ないか。理衣子もこの会が終わったら、護に思い出のキスをお願いしようと思ってんの。井出っち、応援してね」

 理衣子があわせてきたグラスが軽やかな音を立てた。        

                 

                         ( 終 )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白い町の、きらめく思い 大城ゆうみ @yusotok

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ