第3話 ときには派手に、彩りを

 軽く、ときどきは強く、母さんは私の頭をたたく。たたくというより、はたくという感じかもしれない。

 いつからたたかれるようになったのか、覚えていない。

 私が悪いことをした。だから、今からたたくよ、という状況でたたかれるのではない。不意打ちのようにそれはくる。

 だから私も、うまく返せない。たたかれたことに気づいていないふりをするか、たたかれた場所の髪の毛をさわって嘘の笑顔をつくるか。

「たたかないで」

 そう言ったこともあった。けれど言葉はふわふわと宙に浮き、消えてしまう。どこにも届かずに。頭にじんわりとした痛みだけを残して。


 理衣子の家は人口四千人の幌内町で一番素敵な家だと思う。『北海道の小さな町に建つお洒落な家』として雑誌にのったこともある。レンガの壁、屋根の上にこんもりとつもった雪、冬でも緑が鮮やかな大きなもみの木。可愛くデコレーションされたショートケーキのようだ。でも、二年前に建て替えたばかりのこの家から、理衣子の家族はあと二ヶ月で出ていってしまう。

「また札幌に戻るんだって。いやだぁ、幌内を離れたくないよぉ」

 誰にも言わないでね、と前置きをしてから理衣子は話し始めた。けれど、翌日には六年一組、十五人全員が知っていた。

「いつ引越をするの?」

 隣りを歩く理衣子の小さな顔を見る。二ヶ月以上溶けていない根雪。薄茶色の国道に比べて、通行量が少ない学校の周りの歩道や車道は真白だ。太陽の光が雪に反射し、フードをかぶっていない理衣子の色白の顔を輝かせている。

「卒業式が終わったらすぐだよ。理衣子、むこうの中学のレベルについていけるかなぁ」

「大丈夫だよ。理衣子は頭がいいし可愛いし」

 きゅっとスノーシューズの音を鳴らして理衣子が立ち止まった。理衣子のスノーシューズは黒とピンクのチェック柄に、同じ色の大きなリボンがついている。私のは飾りのない真赤なシューズ。

「離れても友情は永遠だからね」

 理衣子が抱きついてきて、二人のもこもこのスキーウエアがくっつく。身長は理衣子が前から二番目、私が三番目。体重は教えっこをしていないけれど、私のほうが三キロは重いだろう。でも、理衣子が私の背中まで手をまわせないのは、私の膨らんだ赤のランドセルが邪魔しているからだ。

 理衣子がいなくなったら誰と帰るのだろう。

 私は理衣子のカラフルなリュックを見ながら考えていた。

 

 ヨーロッパの洋館にあるような縦にも横にも広い玄関が開き、理衣子の母親が姿を見せた。

「待たせてごめんなさいね。理衣子ったら、まだ服を選んでいるのよ。中で待っていて」

 はい、と返事をし、雪除けのポーチを歩く。理衣子の母親は玄関を開けたまま待ってくれている。滑らないように足を蹴りださないように。でもなるべく速く、と思っていたのに、滑ってしりもちをついた。あらあら、と母親が手を差しだしている。白く美しく細い手。私の濡れた手袋でさわっていはいけないような気がして、大丈夫です、と自分で立ち上がった。

「今日は由紀先生の家に行くのよね?」

 入って入って、と母親は続け、居間の白いソファーを勧めた。理衣子の父親がカウンターキッチンに立っている。大きな身体、顔を覆うような髭、温かそうな深緑のセーターを着ている。もしかしたら手編みかもしれない。

「今、紅茶をいれているからね」

 深い声で父親は言った。

「雪合戦をがんばったからご褒美だって理衣子は言っていたけれど、先生は迷惑じゃないかしら。初めてなのよね? 由紀先生のお宅は」

「はい」

「去年は堅田先生のお宅によくお邪魔したわよね。堅田先生の赤ちゃん、名前は……」

「マミちゃん、もうすぐ二歳です」

「二歳なんて可愛い盛りね。理衣子は堅田先生に似ないでよかったって言っているわ」

 母親と目をあわせて笑う。

「明莉ちゃんの頬っぺたなんて二歳のときとかわっていないでしょう」

 私の頬に温かい母親の指がふれる。

「最近、少し太ってしまって」

「太ってなんかいないわよ。女の子はこれくらいがちょうどいいわ。理衣子なんてやせ過ぎで、あれで赤ちゃんを産めるのかしら」

 父親が紅茶とクッキーをガラスのテーブルに置いた。ありがとうございます、と言った私の声に重なるように、

「ママ、理衣子のタイツ知らない?」

 二階から声が響いた。

「いつもの引き出しにないの?」

「ないから聞いているんでしょ」

 母親は困った子ねというように眉を寄せ、居間を出て階段を上がっていった。父親が入れかわるように腰をおろした。

「明莉ちゃん、いつも理衣子と仲良くしてくれてありがとう」

 彫りの深い目に見つめられて顔が熱くなる。いえ、こちらこそ、と口の中でもごもごと言葉をつむいだ。

「雪合戦、がんばっていたね。応援していた僕達も熱くなったよ」

 笑顔をつくり、父親の後ろに広がる空間に目をむけた。木目調の冷蔵庫なんて、ここ以外で見たことがない。奥のグランドピアノには楽譜が乗せられている。四歳違いの理衣子の姉は、札幌の音大付属の高校に通っていて一人暮らしをしている。私には四歳差の弟、圭祐(けいすけ)がいて、あいつのなんとかジャー、アニメグッズがうちを雑然と、この家とは正反対の雰囲気にさせている。

「明莉ちゃん、遠慮しないで食べなさい」

 父親の低い声が心地よく響く。父さんはきっと私の友達の名前を一人も知らないだろう。こんなふうに私の友達と話すことなんか絶対にできない。

「美味しい。手作りですよね?」

「有美子は料理が好きだから。今度、一緒に作ってあげてくれないかい? 理衣子達は料理に興味がないようだから」

 もし、私がこの家の娘だったら。学校から帰ってきて母親に、ただいま、と言う。家の中は温かく、すぐに上着を脱ぐことができる。居間で宿題をさっとしてから母親と一緒におやつを作る。クッキーの型を抜いたり、白玉をまるめたり。ううん、和風のおやつはこの家には似合わない。パウンドケーキ、ゼリー、ババロア。

 ママの手作りは美味しいから、私また太っちゃうよ。

 明莉ちゃん、あなたは全然太っていないわよ。そんなことは気にしないで、美味しいものをお腹いっぱい食べなさい。

「ごっめーん、明莉。迷っちゃって」

 勢いよくドアを開けて居間に入ってきた理衣子は黒のショートパンツにショッキングピンクのセーター、厚手のタイツをはいていた。短いクセ毛をムースでいつもよりハネさせ、前髪をイチゴ型がついたピンで留めている。

「これ、なまらかわいいっしょ?」

 ハート型のペンダントを持ち上げ、理衣子はクッキーを手にした。

「理衣子ちゃん、女の子がなまらって使わないの。ほら、食べるなら座って」

「別にいいっしょ」

「ママは明莉ちゃんみたいな落ち着いた服が好きなんだけどな」

 視線が私に集まった。母さんが買った余所行き用の服。白いVネックのセーターに茶と白のチェックのスカート。髪型はいつものおかっぱ頭。

 カシャ、と電子音が聞こえた。父親が長いレンズのついたカメラをこちらにむけている。

「美人さん達、もっと近づいて」

「パパ。撮るなら撮るって言ってよ。顔つくるのに。明莉、行こう?」

「カメラは持ったかい?」

 理衣子は父親にうなずいてから、

「なんまら楽しみじゃない?」

 と誰が見ても可愛いと思うだろう笑顔を私に見せた。


 後藤由紀(ゆうき)先生は四ヶ月前の十月一日に、岡島先生の代替として横浜から来た。先生というよりお姉さんという感じだ。ジャージで学校に来てジャージで帰る先生もいるけれど、先生は体育のときしかジャージは着ない。高学年の女子で流行っているショートパンツもはかない。理衣子に言わせたら都会的で真面目な服装らしい。先生は幌内小学校のすぐ横にある、教員住宅の二階に住んでいる。

 理衣子がチャイムを押した。どたどたと誰かが走ってきてドアが開く。

「お前ら遅くない? みんなはもう食べてるよ」

 三郎だった。スポーツ刈りが伸びた髪、学校に着てくるようなトレーナーにズボンをはいている。

「なんだ、理衣子の格好は。どこのヤンキーだよ」

「むかつく。なに着たっていいっしょ」

 おじゃまします、と私は声を出し、やり合っている二人についていく。玄関の靴箱の上に物はなく、廊下、他の部屋も物が少ない。堅田先生の家と間取りが同じだけれど、もっと広く感じる。

 16畳あるという居間で、六年一組の男女がテーブルを囲んでいた。クラスで一番大人びていて背の高い護と、クラスで一番寡黙、というかほとんど口をきかない亮は輪から離れて窓際に座っていた。

「これはママから」

 理衣子は先生に箱を渡し、取り皿を手にした。箱の中は理衣子の母親が作ったシフォンケーキが入っている。ふわふわで甘さがちょうどいい。町に一軒だけある大村屋菓子店のより断然美味しい。

「先生、今日はありがとうございます。お休みの日にお邪魔してすみません。これ、父と母がよろしく、と」

 ウーロン茶と緑茶のペットボトル、果汁百パーセントのブラッドオレンジジュースの紙パックが入った紙袋を先生に渡した。

「ありがとう。見て、明莉さん。みんなのうちからお赤飯がこんなにたくさん」

 テーブルの上には重箱やタッパーに入った赤飯が並べられていた。大納言で薄いピンク色に染めた甘い餅米の赤飯。他にはザンギと呼ばれている唐揚げが山盛り、これは三郎と達也んちが持ってきたらしい。ポテトサラダ、ロールパンで作ったサンドイッチ。チーズがたっぷりかかったジャガ芋グラタンは酪農をしている護の家特製で、牛乳の差し入れもあるから好きなだけ飲んで、と先生は言った。どれもこれも手作りだ。うちとは違う。

「明莉、早く食べないとザンギがなくなっちゃうよ」

 理衣子の隣りまで皆の間を縫っていく。男子六人は全員来ている。女子でいないのは杏奈グループの三人。今日は北野市まで、どこかの小学校の吹奏楽を聴きにいくと言っていた。先生の家に私達も行きたかったのに、違う日にしてくれたら、とも。

「お赤飯、味比べだねぇ。みんなさあ、ちゃんと先生の好きなもの持ってくるのってえらくない?」

 理衣子へ相槌をうちながら、手前にあったグラタンを小皿に盛った。ジャガ芋と挽肉、ホワイトソースに焼き色がついたチーズ。

「明莉、ザンギも食べなよ」

 理衣子は立ってザンギが入った大皿を取った。

「護達はザンギいる? そこ、あずましくないっしょ。今日の主役は雪合戦で大活躍したあんた達なんだから真中においでよ」

「いいよ、ここで」

 護が答え、亮は左手の箸でザンギを自分用に二つ、護の皿に二つ取った。

「先生、食べ終わったら雪合戦のビデオを見よう。パパが撮ったのを持ってきたから」

 理衣子の言葉に、おぉ見てぇ、とすぐに反応したのは三郎だ。

「ていうか、先生んちのテレビどこ?」

 キッチンからタオルを持ってきた先生が、

「うちにはテレビがないの。どうしても見たい番組があったらパソコンで観るから」

 と理衣子に答えた。

 ええー、テレビがない? と皆から声があがる。

「なまらたまげたぁ。でもかっこいいかも。パソコンがあれば動画は見られるしね」

 理衣子はザンギを一口で頬張り、飲み下す前に、そうそう、と話しだした。私はウーロン茶を取り、紙コップに注いで理衣子に渡した。さんきゅ、と理衣子が笑う。

「先生、雪合戦も終わったし今度は雪像大会に出ようよ」

 皆が理衣子に顔をむけた。理衣子はリュックから紙をだした。

「見た? 今年からスポセン前でやるらしいよ。優勝したら三万円だって」

 幌内町立スポーツセンターの前で雪像大会開催。参加費無料。こどもから大人までOK。五人以上のグループで、とある。

「雪像大会の結果発表は雪祭りの中で行われるの。今年はバレンタインの日だって。先生は彼氏いないから大丈夫だよね?」

 先生、彼氏いないの? 本当? 女子の声にかぶせて、

「由紀先生は近藤先生に狙われているんだよね?」

 理衣子が言い、女子の声が大きくなった。

「理衣子はよくまあ次から次へと。その雪像大会は今年からなの?」

 そうなのさぁ、と理衣子が説明を始めた。


 小さなテーブルにパソコンが置かれ、周りに皆が群がっている。洗い終わった小皿を布巾で拭き、私は最後にキッチンを出た。和室の窓のむこうに見慣れたコの字型の建物が見えた。居間との境の襖は開いている。家具のない畳だけの部屋。堅田先生はこの部屋を寝室にしていた。

 そっと和室に入り、窓の側に立った。

 キャー、護かっこいい。あ、オレだオレ。ここに亮がいるよ。

 皆の声、特に理衣子の声が聞こえてくる。外は曇っていて、いつ雪が降ってもおかしくない薄暗さだ。誰もいない日曜日の学校。真白な世界に小さく、ぽつんと建っている。

 もし、私が先生の家に住んでいたら。夕飯は先生と一緒に、それか代わりばんこで作るのかもしれない。ご飯のあとは二人でソファーに座って本を読む。扉が二つの小さな冷蔵庫からオレンジジュースを出して、横浜から取り寄せたクッキーを食べながら。

 これ、すごくおもしろかったから明莉さんも読んでみて。

 主人公は男? 女?

 うーん、両方かな。読んだら映画版を観ましょう。

 映画になっているお話なの?

 先生が笑顔でうなずく。楽しみ、と私は厚くて重い本を受けとる。

「ちっちゃく見えるな」

 真後ろで護の声がした。

「幌内小って小さい。むこうにいるときは感じないのにな」

 うなずく。けれど振り向けない。護はいつ和室に入ってきたのだろう。

「あのとき判定待ちしてたら、駒津が加藤の真正面から思いっきり当てただろ。三郎も鼻血を出しているし。無性に腹が立ってさ。亮がいなかったら殴りにいっていた」

「護はそんなことしないよ」

 後ろをむいたら近いところに護の顔があって、すぐに視線を戻した。雪合戦最後の試合。激しく雪が降っていて、審判から私達は見えていなかった。私を当てた川沿小の男子に、護が雪玉を当て返してくれた。亮と相手陣地へと走っていく護。緑のゼッケンは舞う雪で見えなくなった。

「そういう感情がさ、自分にもあるってことに驚いた」

 確かに熱くなっている護を見たことがない。いつもクールで、学級会ではまとめの意見を言ってくれる。

「なんで……」

 続きを言えないでいたら、護が私の顔をのぞきこんだ。私は軽く首を横に振った。

「雪合戦、楽しかったな」

「うん。あっという間に終わっちゃった。きっと卒業までも早いんだろうね」

「早いさ。北野の中学は大きいだろうな」

 ため息がまざっているようにも聞こえた。あと二ヶ月。小学校を卒業して北野市の中心部までバスで通う。一クラス四十人、一学年は五クラスか六クラスもある。そこに理衣子はいない。

 人の気配がした。前髪も後ろ髪も長い亮がにやにや笑いながら襖にもたれて立っていた。


 北極星、オリオン座、北斗七星。前に理科で習った見つけやすい星を探しながらスポーツセンターまで歩いていた。なまらしばれる、と隣りで理衣子が繰り返している。私は白のマフラーをしっかりと巻いた。

 夜ご飯を食べて十九時集合。特別な用事がない限り絶対に来るように。温かい格好をして。今日の帰りの会で理衣子が皆へ言った。

 私より一回り大きい雪の固まりの前には先生もいれて女子が五人、男子が五人来ていた。三郎の父親、PTA会長の井出さんは小さなスコップがたくさん入ったバケツを持って先生と話している。

「護は来てくれると思っていたけれど、亮ってばえらくない?」

 理衣子の言葉に、いつもと同じ黒のウエアを着た亮は薄く笑った。

「先生、始めようよ。アフロ犬は持ってきた?」

 ピンク、黄色、水色、黄緑のアフロヘアの犬のぬいぐるみを先生はポケットから出した。先生の家に遊びにいったとき、理衣子が雪像はアフロ犬にしよう、と言った。他になんのアイデアも持っていなかった私達は、というか、雪像大会に参加するとも思っていなかったから、アフロ犬でもいいか、と賛成した。理衣子が画像を印刷してくるから先生が見本を用意してね、立体的なやつがないとわやだからね、と理衣子は言っていた。

「これはゆるくないよ」

 井出さんがアフロ犬を受けとり、後ろ、横からと眺める。アフロ犬は頭部がすごく大きく、胴体と足はおまけ程度にちょこっとついている犬だ。

「井出っちは雪像を作ったことあるの?」

 理衣子が井出さんの手からアフロ犬を取った。めんこい、めんこい、とアフロ犬の頭をなぜている。

「あるもないも札幌の雪祭りには毎年出ていたし、大雪山の雪像大会で優勝したこともあるさぁ」

「理衣子、ライトアップされてんのを見たことあるよ。なまらきれいだった」

「初めは大枠だな」

 井出さんは皆に指示を出し、自らもシャベルで外から彫っていく。

「理衣子ちゃん、このモコモコはどうすんの?」

 井出さんは理衣子の手の中にあるアフロ犬の頭部をさわった。

「雪玉を作るあれでさ、同じ大きさのをたくさん作って半分に割って頭につけていくのはどうかな?」

「待って理衣子、使っていい道具は小さいシャベルだけだよ。ルール違反になるよ」

 理衣子はそっかぁと私を見た。

「でもっさぁ、学校でこっそりやればいいっしょ」

「理衣子、優勝して先生と一緒に温泉へ行きたいんだよね? ちゃんとやったほうがいいよ」

「温泉かぁ。いいなあ。おじさんもついて行っていいかい?」

 やだぁ、と理衣子は言い、でも車を出してくれるならいいかな、と笑った。三郎や他の男子は除雪されている広場を走りまわっている。護と亮は雪像の後ろに隠れ、顔を近づけてひそひそ話をしているし。

「ねえ、せっかく来たんだからやろうよ」

 広場に声をかけると、

「オレらのやる場所は終わったから。次やることができたら呼んで」

 三郎が息をきらせながら言い、鬼ごっこへ戻っていった。

「いつもそうなんだから」

「明莉ちゃん、初めに彫り過ぎると小さい像になってしまうべ。あいつら走らせておけばいさぁ」

 井出さんは口ではそう言いつつも、小さなスコップで大胆にアフロ犬の胴体、四本の足を切り出している。おじさん、なまら上手と理衣子は口を盛んに動かし、手は動かしていない。私は理衣子が印刷してきた、既に雪の上に放っておかれているアフロ犬の紙を集め、頭を円形に整えていった。


「くだらない本を読んでないで、せっかく買ってあげた本を先に読みなさい」

 後ろから頭をたたかれた。私は台所の椅子に座っていた。母さんが帰ってきたことに気づかなかった。

 口だけで笑みのようなものをつくり、虹色の服を着た妖精が描かれた表紙の本を閉じた。母さんが勧める本は、これよりおもしろいのだろう。

 階段を上がって自分の部屋の勉強机にむかった。さっきまで読んでいた妖精の本と『モモ』という本を机の上に並べる。『モモ』の表紙には変な服を着た人間の後ろ姿、亀、たくさんの時計が白黒で描かれている。表紙だけ見たら読みたいと思うのは今まで読んでいた本だ。

 ベッドに横になり『モモ』をぱらぱらとめくった。亀の甲羅に何か描いてある挿絵。『モモ』のページからは特別なインクの匂いがする。誰もさわっていない、新品の本だけが持っている匂い。『果てしない物語』上下巻と合わせて三冊、母さんと父さんからのクリスマスプレゼントだった。

「明莉、ちょっと降りてきてったら」

 いらいらしているときの母さんの声だ。本を閉じて階段を降り、台所へ入った。

「何回も呼んだのよ」

 母さんは二枚のランチョンマットの上にスプーンとフォークを並べていた。黒のパンツスーツを着ている。母さんはよく黒の服を身につける。肩までの直毛の髪型に黒を着ると顔がきつく見えてしまうのに。

「夕飯はカレーだから好きなのを温めて食べて。圭祐はおかわりする前にサラダを食べさせてね」

「お母さんが直接圭祐に言ってよ」

 ばしっと音がして、淡い痛みが後頭部に広がる。軽いほう、だった。私は何事もなかったかのようにテーブルに置いてあるレトルトの箱を手に取った。化学調味料無添加、国産素材のポークカレー、チキンカレー、シーフードカレー。どれも圭祐が食べられるように甘口だ。

「明莉も食べ過ぎないようにスプーンは小さいのを使うのよ。それ以上太ったらみっともないでしょ。それから、一時間に一回は換気して。圭祐のテレビやゲームはやることが終わったあとね。宿題、片付け、お風呂、歯磨き」

 わかっている、と小さく言う。

「寝る前には帰ってくるから。明莉は大丈夫だろうけれど圭祐にもやらせておいてよ」

 はい、と言おうとしたら、はぁとため息のような声が出てしまった。

 早くしろよ、という父さんの声が玄関から聞こえてきた。母さんは台所を出て階段の下に立った。

「圭祐、お母さん達は行くからね。お姉ちゃんの言うことをよく聞くのよ」

 二階から、行ってらっしゃーい、と甘えるような声がした。そのまま出かけるのかと思ったら母さんは振りむき、

「明莉、学校で統合について説明された?」

 と早口で言った。私は首を横に振る。二年後に幌内小、欽水小、川沿小、日吉台小の四校が統合される。北野市の公務員である父と母は担当者として何度か説明会に出席していた。

「話合いをしたら統合しなくなることもあるの?」

 先に乗っているからな、という父さんの声に、今行くから、と母さんが答える。

「ならない。統合は決定事項だから」

 母さんの声が母親のではなく仕事の声になった。したくないことをするときの母さんの固い顔。

「ちゃんと家のことはするから。がんばってね」

 母さんは振り返らずに行ってしまった。

 

 紺のトレーナーに厚手の生地のずぼんという格好でベッドに横になった。やっと読める。それにしてもどうして男子ってひとところに落ち着いていないのだろう。算数のプリント一枚、日記一ページ、国語の教科書の音読。集中すれば三十分もかからない。

 圭祐の場合、まず鉛筆を持つまでに時間がかかる。筆箱に入っている鉛筆は削るのが面倒くさいから使いたくない。消しゴムがない。やっと親指の長さくらいの鉛筆を持ったと思ったら強く書きすぎて芯が折れる。鉛筆削りを持ってきて。かけ算を始めたかと思ったら席を立って国語の教科書を開く。と思ったら、プリントの裏にポケモンの絵を書いている。教室にいるときの三郎を思いだした。心ここにあらず。雪が降っていてもグラウンドに飛びだすのを今か今かと待っている三郎。ということは圭祐も、六年になっても変わらないってこと?

 車が戻ってきた音がした。枕元のデジタルの時計を見る。九時五分。圭祐が階段を降りていく。

「お母さん、ぼく、サラダも全部食べたよ」

 野菜よりもドレッシングを食べていたし、トマトは私の皿に移していたけれど。

「歯も磨いたし、お風呂も入ったし、宿題もぜーんぶ終わらせたんだから」

 歯磨き三秒、お風呂は三分、宿題は一時間近くかかったね。早くやりなよ、と言い続けた私は喉が痛い。

「がんばったから、ご褒美ちょうだい」

「えらかったわね。今度のお休みにお買い物に行こうか」

 母さんの声。圭祐の頭をなぜているかもしれない。私は開いたページに目を落とした。

 圭祐が先に、後ろから母さんが階段を上がってくる。圭祐の部屋に入り、おやすみと母さんが声をかけた。私は本を閉じて勉強机の上に置き、布団にもぐって目を閉じた。

「もう寝なさい。九時半よ」

 母さんはドアを開け、入り口の横にあるスイッチを押してすぐにドアを閉めた。真っ暗だ。奥の部屋で母さんがタンスの引き出しを開け閉めしている音がする。私が着ているのと似たようなスエットの上下を持ち、これからお風呂に入るのだろう。

 母さんが私の部屋の前を通り過ぎた。けれど階段を降りていく音が聞こえない。ドアが開けられた。細く、母さんの顔がやっと見えるぐらいの光が入ってきている。

「今日はありがとう。たいへんだった?」

 仰向けで目をつぶったまま、そうでもない、と言った。不機嫌そうな声になってしまったかもしれない。

「お母さん、おやすみなさい」

 今度はできるだけ明るい声をだした。

「おやすみなさい」

 ドアが閉まり、少ししてからまたドアが開いた。

「どうしたの?」

 私は上半身を起こした。

「明莉は今のままの幌内小学校がいい? 小さくて、一クラス二十人もいない田舎の学校」

 え、とつぶやく。

「刺激も競争もなくて、関係が固定化されて嫌よねぇ」

 大きい学校がいいという答えを母さんは期待している。

「一度いじめられたら六年間それが続くでしょう」

 そういう面もあるけれど。でも、みんな成長するし。一人をいじめ続けたりなんかしない。私のときもそうだった。

「なんであの人達は変化を拒むのかしら。感情論ではなくて建設的に考えてほしい」

 母さんはもう一度おやすみと言ってからドアを閉めた。

 肩まで布団の中に入った。母さんが私にあんなことを言うなんて。きっと、よっぽど不満がたまっているのだろう。三郎や達也の家が中心になって統合に反対していると理衣子から聞いた。三郎の父親である井出さん。熱血でウザいときもあるけれどチビゴリラみたいで憎めないよね、と理衣子は言う。

 もし、井出さんのこどもだったら。私は今より運動が得意だったかもしれない。三郎や三郎の二人のお兄さんはリレーの選手だし、幌内小学校の野球チームに所属していて中心選手として活躍していた。背は高くないけれど、がっちりしている井出さんと毎日キャッチボールをするのかもしれない。

 宿題? あったらものいつでもできるべ。外へ行くぞ。

 うん、行く。

 明莉はいくつになっても素直で可愛いな。

 井出さんは温かい手で私の頭をなぜる。

 私、来年中学生だよ。 

 いいんだよ。いつまでもこどもで。


 誰も手を挙げない。私は黒板の前に立ち、窓際に座っている先生を見た。先生は困ったわねという顔をしてから、皆の方へ視線をむける。

 今日の学級会の議題は『卒業式をいかに盛り上げるか』だった。去年と同じ曲ではなくて自分達が選んだ歌を歌う、呼びかけの言葉を自分達で考える、など、たくさんの意見が出た。時間が余ったので、他にクラスで話し合いたいことはありませんか、とお約束の言葉を私は言った。いつもなら、ありませーんと皆が言い、ドッチボールやろうぜ、ということになる。

 教室の中央に座っている理衣子が手を挙げた。笑っていない、挑戦的な理衣子の目。昨日のことがよぎり、私は名前を呼ぶのを躊躇してしまった。


 昨日の日曜日はよく晴れていた。徐々にアフロ犬の形に近づいてきた雪像の周りにいるのは私と理衣子、三郎と達也のみで、大人は先生と井出さんだった。

「先生、なんだかさぁ。大仏のブツブツ頭みたい」

 理衣子はアフロ犬のアフロの部分をピンクの手袋でさわっている。

「言われてみれば螺髪のように見えるかもしれない」

 先生は大また三歩、後ろにさがった。私はぼこぼこしたアフロ犬の頭の雪をはらった。先生から借りた緑の作業用手袋は厚手で、長時間使っても冷たさがしみてこない。私がふだん使っている手袋と違って温かいままだ。

「ブツブツ頭のことをらほつって言うんだ。さすが先生。ああでも、これはアフロ犬じゃなくて大仏犬だよ。めんこくなーい」

 私もそう思っていた。

「明莉が一つずつ、つけていこうって言ったっしょ。理衣子は雪玉つくるので形をそろえようって言ったのに」

「だって道具は使っちゃいけないってルールに」

「そうだけどさぁ。モコモコの大きさがこうも違うとみったくないっしょ」 

 私もアフロ犬から一歩さがった。

「最初からやるか」

 きっぱりと言ったのは井出さんだった。

「最初からって?」

 理衣子が問い返す。

「まぁ、あれだな。モコモコの大きさを揃えるってことだな」

「井出っちがモコモコって言うと変。似合わなーい」

 井出さんは苦笑いしている。でも、嬉しそうだ。理衣子が大人に対してこういう口の利き方をしても嫌みに聞こえない。

「モコモコは全部で百個はあるっしょ。理衣子、他のところを偵察してこようっと」

 理衣子は行ってしまった。井出さんと先生は横に並び、アフロ犬の小さな人形と作りかけの雪像を見比べている。三郎と達也はアフロ犬の周りで、それこそ犬のようにじゃれている。

「一つのモコモコを大きくしてモコモコの密度を濃くしよう」

 井出さんが言った。

「ごめんなさい」

「なんもさぁ。謝ることないっしょ。明莉ちゃんのせいじゃないべ」

「そうそう、アフロ犬にしたいと言ったのは理衣子なんだし。やろうやろう」

 先生の笑みにうなずき、緑の手袋で下からやわらかい雪をすくって大仏犬の頭につけた。


 理衣子はどのことを言うのだろう。アフロ犬のこと? 大仏頭だって? 道具を使ってはいけないルールについて皆から意見を聞くのだろうか。

「はいはーい。理衣子しか手をあげていないんだから早く当ててよ、明莉さん」

 私は唾をのみ込んだ。

「理衣子、どうぞ」

 理衣子は椅子を机の下に入れて背筋を伸ばした。

「雪像を作りに来ない人がいるのはずるいと思います」

 皆の動きが止まった。来ない人がいる、という言い方をしているけれど、それは杏奈達だと全員が知っていた。

「どうしたら来るようになるか、意見を出したほうがいいと思います。理由は、雪像つくりは六年一組の最後の思い出つくりだからです」

 理衣子が座る。私は黒板に『雪像作り』と書き、皆の方をむいた。

「意見がある人はお願いします」

 誰も手を挙げない。杏奈は理衣子の二つ後ろの席に座っている。頭の中央の分け目に沿うように前髪を二つのピンで留めている杏奈。そばかすのある顔を左手で支え、だるそうにしている。

 むっとしているのだろうな。そもそも先生の家に行けなかった日から杏奈達はへそを曲げている。自分達だけ先生の家で楽しい思いをして、勝手に雪像つくりに出るって決めて、と。

 理衣子は胸の前で腕を組み、黒板を見ている。白のショートパンツから伸びた細い足を机の横に放り出している。学級会でこんなことを言ったら陰でなんて言われるか。理衣子はわかっているのに気にしていない。

 廊下側の一番後ろに座っている護の表情を確認する。護は難しそうな顔をしている。まだ護にも良いアイデアはない、ということだ。

「意見はありませんか」

 無駄だとわかっているのに。この時間が早くすぎないかなと思えば思う程、時間は流れるのが遅くなる。座っている皆もそう感じていて、それは司会である私のせいのような気がする。

 沈黙を破り、はーいと手を挙げたのはまたも理衣子だった。

「理衣子、どうぞ」 

 理衣子は椅子を机の下にしまわずに立った。

「司会の明莉さんも意見を言ってくださーい」

 にこにこ笑いながら着席し、足を組む。

 理衣子。私と理衣子の仲が良いのは皆が知っている。私の意見は理衣子よりになるのがわかっている。でも、私は学級会の司会、中立の立場だ。いったい何を言えばいいのか。

 後ろの掲示板に貼ってある習字で書かれた『卒業』の字。目がいくのは線が太くて力強い護の字だ。その上にはクラス目標のようになっている、由紀先生が毛筆で描いた『やる気』『元気』『根気』『勇気』、四枚の画用紙が貼ってある。

「理衣子さぁ、雪合戦のときは自分は応援するほうがいい。練習はしたくないって言っていたべ。やりたくないやつは来なくていいっしょ」

 三郎が座ったまま発言した。

「雪合戦とは違うもん。雪像はお楽しみ行事。勝ち負けで熱くなんないし。せっかくやるならみんなでやりたいと思っただけ」

 理衣子も座ったまま返した。

「せっかくって、お前がやろうやろうと決めただけだべ」

 三郎の斜め後ろに座っている達也だ。

「ちっがうの。そもそも杏奈達が先生の家に行けなかったからか何だか知らないけれど、いっつも不満顔でいるからみったくないなと思ってさ」

 陰で言うくらいだったら本人の前で言え、言えないんだったら陰でも言うなとタンカを切った理衣子。あれは理衣子が転校してきた五年の初めだった。

「したっけ、女子の喧嘩にオレ達をつきあわすなよ」

「そうそう、ドッチボールの時間がなくなるじゃんか」

「あんた達だって先生の家で死ぬ程ザンギや赤飯、ママが作ったケーキを食べたじゃない。先生のそばでニヤニヤしていたくせに」

 三郎の顔が赤くなる。言い返したいけれど言葉が出てこないのだろう。

 はい、とやわらかい声がした。先生が手を挙げている。

「先生、どうぞ」

 先生は回転する椅子をまわし、私の横に立った。

「学校が終わったら自由にしていいと私は思います。けれど、みんなでやりたいっていう理衣子の気持ちもわかるし、雪像作るのはおもしろいから、一度は来てみるといいかもよ。まだ来たことない人は手を挙げてみて」

 杏奈、美緒、ほのか、恵の四人が顔を見あわせ、顔の横くらいまで手を挙げた。先生は誰かを責めるような表情をしてなかった。本にあった、慈愛に満ちた目というのはこうい感じかな、と思った。

「待っているね」

 先生は笑顔で言い、私にお疲れさまと声をかけた。私は一番前の自分の席に戻った。

「残りの時間は一人一枚、卒業ポスターを作ってもらいます」

「卒業ポスターって何?」

「えぇー、体育館に行きてえよー」

 理衣子と三郎がすぐに反応する。

「みんなは二ヶ月で幌内小学校を卒業してしまうでしょ。給食を近くで食べる人とか、集団下校のメンバーとか、みんなのことを知っている下級生もいると思うけれど、よく知らないっていう人も多いと思うの。だから」

 先生は両手を横に伸ばし、紙を広げた。

「これに自分のポスターを描いて、一階の廊下に飾りたいなって」

「出た、由紀先生お得意のわけわからないやつ」

 先生はにっこり笑い、模造紙を半分に切ったものを配り係に渡した。

「見本を書いてきたから参考にしてね」

 先生はポスターを黒板に磁石でとめた。左側は写真を貼るところが四角にくぎられていて、その横のスペースに『後藤由紀』と太字で書かれ、上にひらがなで『ごとうゆうき』と書いてあった。好きなこと(教科、食べ物、音楽、本、言葉、スポーツ)、将来の夢、幌内小学校のみんなに一言、とある。

「先生、九マスビンゴと同じじゃない? 先生はどんだけ好きなことを書かせるのさぁ」

 理衣子のつぶやきを聞いて先生がふっと笑った。

「あのね、好きなことは人間関係を深めるってわかったの。ここだけの話をしてもいい? 堅田先生に言っちゃだめだよ」

 なになに? と理衣子が身を乗りだす。

「堅田先生と仲良くなりたいと思ったのね。みんなの五年生のときの担任の先生っしょ。しかも先生の下の部屋だし。でも堅田先生は基本そっけなくて、相談しても話してくれないし」

「見た目は暗いし?」

 理衣子の言葉に皆が笑う。

「これはだめだと思ったある日、堅田先生の家に帆立の開け方を習いに行ったら、テレビの横に映画のDVDがずらっと並んでいたのさぁ」

「先生、北海道弁がまざっているよ。しかもイントネーションが微妙に違うっしょ」

 皆の笑い声が大きくなる。

「娘さんのマミちゃんの世話を焼いたり、奥さんにだいちゃんと呼ばれている堅田先生を見て、なまら近く感じてさぁ」

「なまら、は先生に似合わないって」

「堅田先生も映画好きってわかって、あとトトロの歌をマミちゃんと歌っているのを聞いて、私の中で急に堅田先生を近く感じて話しやすくなったのね。同じように、みんなが好きなことをポスターに書いたら、それを読んだ下級生や他の先生方も、みんなのことを近く感じてくれると思うの」

「そしたら私達にどんないい事があんの?」

 先生がにっこり微笑んだ。九マスビンゴをしているときの先生はこんなに自信満々じゃなかった気がする。もっと理衣子の軽口に手を焼いていた。たった四ヶ月で先生は変わった。

「近くにいる人と仲良くなる、興味を持ったり持たれたりするって大事なことだと思う。人間は一人では生きていけないし」

「まあねえ。雪像も一人では作れないしね」

「では書きましょう。最初からペンでもいいし、下書きしてからでもいいし」

 私は寄木細工の筆箱を開き、緑の2Bの鉛筆を持った。先生のを真似て加藤明莉、かとうあかりと書く。好きな教科。なんだろう。国語? 算数? 男子のほとんどは体育と書くだろう。理衣子は算数か音楽、杏奈は図工かな。どれも嫌いじゃないけれど。

「先生、それ全部を書かなくていいっしょ?」

 三郎が言った。

「書けるのからでいいよ。ここにのっていない、三郎だったら好きなプロ野球の球団、選手、キャッチャーだから好きな球種ってあるの? そういうのを書いてもいいし」

「絵は?」

「いいよ、もちろん。杏奈さんは絵が上手だから下級生が喜ぶかもしれないね」

 杏奈の描く絵。高校生が読むような漫画の登場人物。杏奈のように切れ長の目をした男の人。人に冷たいけれど実は優しいというような。

 私は白い部分が目立つ、自分のポスターを眺めた。好きな食べ物、ケーキやクッキーかな。好きな音楽、スポーツは特にない。好きな本。『モモ』が思い浮かんだ。でも好きなのかはまだわからない。

「明莉さん、九マスビンゴのときに映画が好きだと書いていなかった?」

 先生が私の机の横に屈んだ。

「映画は好きだけれど、この映画が好きっていうほど観ていないし」

 先生は続きを促すように私を見ている。

「映画館が好きなのかもしれない」

「わかる。大きなスクリーンがあって、暗くなって、他に何も考えなくてよくて。それを書くといいかもよ。そうだ、大事なことを言うのを忘れていた」

 先生はその場に立った。

「書いている途中にごめん。みんな、一度こっちをむいてくれる?」 

「先生、下級生が読むんだったら、名前以外の漢字もふり仮名つけたほうがいいよね。あと、あんまり字が小さいと見づらいよね」

「理衣子ってえらい。ちゃんと読む人のことを考えていて」

 先生は自分のポスターに赤ペンで『ふりがな』『字の大きさ』と付け足した。

「あとね、どうして好きなのか、どこが好きなのかを書いておくといいかも。理由って興味があるよね」

「先生、そういう大事なことは最初に言ってよ」

「ごめんね、理衣子。今、思いついたの」

 もう、と言いながらも理衣子はさらさらと書いている。私は鉛筆に力を入れないようにしながら、映画館で映画を観るのが好きです、理由は、と書いた。好きといっても三回しか映画館に行ったことがない。最初に観たのは『ナルニア国物語』。ライオンのアスランが素敵だった。強く、優しく、賢い森の王。第一作を観たあと、ナルニア国物語全七巻セットを母さんは買ってくれた。明莉くらいの頃に母さんも好きだったのよ、と。母さんは映画の『ナルニア国物語』は気に入らなかったようで、第二作、三作は観ていない。他に観たのは大人むけの映画。食の安全、アメリカの銃の話。母さんはそっちを観ていいから私はハリーポッターが観たいと言った。母さんは、さらっと私の頭をたたいた。一人で映画を観るなんて早過ぎる、と。

 大きなポスターの紙に、理由は『ナルニア国物語』がおもしろかったから、と書いた。くにものがたり、とふりがなをつけてから顔を上げた。皆、真剣に書いている。窓際の一番前に座っている亮も鉛筆を動かしている。めずらしい。亮が好きなもの。護? まさか。みんなが見るポスターに、護が好きです、とは書かないだろう。護といつもやっているスパイごっこが好きだと書いているのだろうか。亮のポスターを見るのが楽しみと思いつつ、黒板にある先生のポスターに目をむけた。私、他に好きなこと、あるだろうか。

 

 ピアノの蓋を乾いたタオルで拭く。埃が積もっている。理衣子の家のグランドピアノとは違う普通のピアノ。四年生まで習っていたけれど、私があまり練習しないのと、母さんが送り迎えをする時間をとれなくなって辞めてしまった。

「圭祐、ポケモンの人形を全部自分の部屋に持っていって。友達が来るから」

 ピアノの椅子の下に、頭から木が生えている緑の人形が転がっていた。

「それ、ヤナップだよ。くさざるポケモン。進化したらヤナッキー」

「ヤナップでも何でもいいから。その暗記能力を勉強に使えばいいのに」

 ソファーに寝転んでDSをしている圭祐に人形を投げる。

「あと、このセンス悪いカード。いろんなところに散らばっているけれど」

 ピアノやソファーの下、テレビの周りに散らばっている黒いカードを集めたら10枚以上になった。

「バトスピ? 別にセンス悪くないし」

「なんでこんなに持ってるの?」

「父さんが買ってくれるし、友達もくれるし。おお、レアカード発見。こんなところにあったのか」

 圭祐は身体を起こして私が集めたカードを一枚ずつ見ている。

「お願いだからそれ持って自分の部屋へ行って」

「お姉ちゃんが自分の部屋に行けばいいっしょ。誰が来んの? 三郎くんだったら一緒にバトスピしたいなぁ」

「三郎が来たのなんて大昔だよ。それに三郎はもう変なカードとかやらないよ」

 誰も読んでいない、きれいに折り畳まれたままの新聞を台所の新聞入れに置き、洗濯物を奥の和室に放り込んだ。

「人が好きな物に変なのとか言ったらいけないんだよ」

 圭祐の顔を見る。

「誰がそんなことを言っていたの?」

「お母さん」

「いつ?」

「忘れた」

「お願いだから自分の部屋へ行って。理衣子が大事な、誰にも聞かれたくない話をしに来るんだから」

 圭祐は目を細めた。言い返してこない。

「わかった。あとで宿題を手伝ってあげるから。あとはおやつ? 私の分もあげるから。理衣子がいる間は降りてこないでよ」

 いえーい、とポケモンの人形とカードを抱えて圭祐は居間を出た。鳩時計に目をやる。約束の時間まであと10分。お湯をわかして掃除機をかけよう。

 10分過ぎても15分過ぎてもチャイムの音はしなかった。カーペットに座り、ソファーに寄っかかる。床暖房が身体を温めてくれる。曇り空だった。誰も手入れしない庭は真白で雪が降る前よりきれいに見えた。私が理衣子の家に遊びに行くことはあっても理衣子がうちに来ることはめったにない。ママにも聞かれたくない、理衣子のなまら大事な話って何だろう。 

 誰にも聞かれたくない、大事な話。

 四年生のちょうど今時期、バレンタインデーの前だった。当時は髪が長かった杏奈が私にそう言った。理衣子が転校してくるまで女子八人は三、三、二でなんとなく分かれていて、杏奈、ほのか、私の三人は保育園のときから同じグループだった。うちに遊びに来た杏奈は私の正面に座っていた。テレビはもっと小さかったし、保育園児だった圭祐は十八時過ぎまでは帰ってこなかった。

「明莉ちゃんって三郎くんと仲が良いよね。三郎くんのことが好きなの?」

 は? か、え? と杏奈に訊き返した。好きって? と言ったかもしれない。

「杏奈、本命チョコを三郎くんにあげようと思っているの。明莉ちゃんはどう思う?」

「何が?」

「うまくいくかな?」

「うまくいくって?」

 杏奈には年の離れたお姉さんとお兄さんがいる。見ているテレビ番組も読んでいる漫画も私達とは、特に私とは異なっていた。彼女はませていた。 

「三郎のどこがいいの?」

 たぶん、私はそう言った。

「運動ができるでしょ。明るいしおもしろいし」

 でも勉強はできないよ。口に出したか、出さなかったか。

「気づいたら三郎くんを見ているの。好きってことだと思う」

 杏奈は照れたように笑った。

「明莉ちゃん以外に話していないから。絶対に誰にも言わないでね」

 十歳の杏奈は三郎にチョコをあげなかった。杏奈が三郎を好きだという噂が立ってしまったから。杏奈との約束を守り、私は誰にも言わなかったのに。

 四年一組の教室に入る。一瞬、話し声が止む。誰も私におはようと言わない。目をあわさない。グループになって活動するときや休み時間に誰も私を誘わない。これがいじめだ、と思った。机の中に紙の切れ端が入っていることもあった。ブス。デブ。キモい。色とりどりのペンを使っていた。違う言葉が書いてあったら楽しいメモに見えたかもしれない。膝丈の黒いスカートに白のシャツを着ている、おかっぱの女子の絵がいつも描かれていた。鼻はブタの鼻だった。紙は捨てたけれど、その絵は今でも頭に残っている。

 救いは給食の時間だった。幌内小学校は全学年、全職員がランチルームで給食を食べる。いろんな学年の人、先生が混ざる。クラスで食べるのだったら、しかも好きな人とだったら、私は一人で給食を食べることになっていただろう。

 先生、親にも言わなかった。私は学校が嫌いではなかったから。下手に騒いでおおごとになってしまったら、学校へ行きづらくなると思った。

 五年生になり、理衣子が転校してきた。

「理衣子、陰でこそこそ言うのは大嫌い。言いたいことがあれば本人に言えばいい。本人に言えないなら陰でも言わない。堅やん、そういう五年一組の決まりをつくろう」

 第一回目の学級会の最後に理衣子が言った。何の事を言っているのか、女子にはわかっていた。札幌から転校してきた、頭のいい、お洒落で可愛い理衣子。理衣子が私によってきて、いつの間にか何をするのも二人で一緒になった。短い夏休みが始まる頃には、杏奈や他の女子も私と普通に接するようになっていた。

 チャイムが鳴った。ピンクのフードをかぶり、頬を赤くした理衣子が玄関に立っていた。

「これママから。焼きたてだって。ママの抹茶シフォン、好きっしょ?」

 理衣子はケーキの箱を差し出し、立ったままスノーシューズを脱いだ。

「理衣子ちゃん、こんにちわ。僕もケーキ食べたい」

 階段の上から圭祐がのぞいている。

「持っていくから圭祐は部屋にいてったら」

 はーい、と圭祐はお得意の甘えた声をだした。

「理衣子、ティーバッグしかないけれど紅茶をいれる? 百パーセントのりんごジュースもあるよ。あと、どろっとした夕張メロンジュースも」

 台所から訊くとりんごーと声が返ってきた。

「はぁ、落ち着く。明莉の家って落ち着くよね」

 理衣子はさっきまで私がいた場所に座っていた。

「私は理衣子の家のほうが百倍も落ち着くけれど」

 二人分のジュースとケーキを乗せたお盆をカーペットの上に置く。

「うちのママ、うるさくない? パパもすぐに話に入ってくるし」

「理衣子んちのほうがいいよ。うらやましい。いつも手作りのおやつがあるし、話を聞いてくれるし」

 理衣子はジュースが入ったグラスに口をつけた。ストローをさすのを忘れたと思ったけれど今さら持ってきても遅い。というか、そもそもうちにストローはないかもしれない。

「理衣子さ、護が好きなんだよね」

 喉から変な音、魚の骨が引っかかって取ろうとしたときに似た音が出た。タイミングがいきなりすぎる。

「雪合戦のとき、なまらかっこよかったっしょ?」

 まぁ、と小さく返事をする。

「うちにわざわざ来るくらいだから、護も理衣子のことをけっこう好きだと思うんだよね。だから、バレンタインで告ろうと思ってるの」

 へぇ、とケーキをフォークで切った。理衣子はケーキを食べて、うまぐね? とわざとなまって言った。

「どうして理衣子って北海道弁を使うの?」

「したっけぇ、かわいいっしょ。理衣子はこれが好きなの。明莉こそ、なんで使わないの?」

 うーん、と口の中で言う。

「北海道弁はどうでもいいけどさぁ。護のこと、協力してね。護を呼び出したり、亮を来させないようにブロックしたり」

 二回、三回噛むとふんわりくずれていくシフォンケーキを飲みこんでから、わかった、と言った。

「明莉は三郎にあげるの?」

 あげないよ、と即答する。 

「なんで? 三郎、待っているっしょ。明莉からのチョコ」

「友チョコならあげるかもしれないけれど」

「好きじゃないんだ」

 ジュースを飲んでいる理衣子の顔を見つめる。好きって何? 告ってどうするの? そう言おうとしたとき理衣子が居間のドアにむけて手を振った。ドア枠の間のガラスに圭祐がぴったりと顔をつけていた。

 

 夕飯のときに口論が始まった。台所に一番近いところに母さんが座り、隣りが私、母さんの正面が父さんで、私の正面が圭祐だ。

「あなたはいいわよ。こっちにいないから直接苦情を聞かなくていいし。男同士のつきあいだって少ないし。私は違う。井出さんや円(まどか)さんとも、うまくやっていきたいの」

「その言い方はなんだよ。僕だって青年会のつきあいがあるし、今回のことは僕のせいじゃないだろう。上が決めたことなんだから」

 茶碗についているご飯粒を箸でつまみ、玉葱とワカメの味噌汁を飲んだ。ぬるくなっていて玉葱の甘みばかり感じる。

「青年会なんてほとんど参加していないじゃない。女の世界はもっと付き合いが濃いの。すぐ外されるんだから。ねえ、明莉」

 椀から顔をあげる。まさか自分に話がくるとは思っていなかった。 

「田舎で外されるってどういうことかわかる?」

 母さんは私の答えを待たずに話し始めた。圭祐は涼しい顔でハンバーグを食べている。パックを温めるだけのハンバーグ。これ一つでスーパーのが四つくらい買える値段の、安全で美味しいハンバーグ。

「くだらないな」

 父さんの顔を目だけで見た。そんなことを言ったら母さんの怒りに火を注ぐだけなのに。

「あなたがこっちに住みたいって言ったんじゃないの。私は市街に住みたかったのに」

 母さんの声が高くなっていく。

 ねえ、食事中にケンカしないで。そう言ったのはいつだったろう。圭祐が三歳くらいのときかもしれない。

 これはケンカじゃなくて口論なの。母さんは言った。

 今だったら、口論でも嫌なの、と付け足せるかもしれない。その瞬間にはたかれるかもしれないけれど。

 最後の一口、きのことハンバーグを口に入れた。席を立ってしまいたい。けれど加藤家のルールでは、いただきます、ごちそうさまは四人で一緒にすること、と決まっている。

「明莉も大きな学校に行きたかったって」

「そんなこと」

 一言も言っていない。母さんは父さんを見ていた。私の意見は求められていない。

「今さら昔の話を持ち出しても仕方ないだろう。建設的に話し合いましょうって、お前がよく言う台詞じゃないか」

 父さんと母さんが違う職業だったらよかったのに。理衣子んちみたいに母さんが専業主婦だったらご飯のときに口論を聞かなくてすむ。

 明莉ちゃん、今日は学校で何があったの?  

 学級会でさ。まさか理衣子が私に話をふるとは思わなかった。

 理衣子ちゃん、相変わらずね。でも、さばさばしている子が友達で良かったじゃない。

 そうなの。私、理衣子のそういうところが好きなんだよね。それでね、先生が今度は卒業ポスターだって。何を書こうか迷っているんだ。

「ごっちそうさまぁ」

 圭祐が席を立った。母さんが四人の皿を見る。どの皿も空になっていた。ごちそうさま、と私も席を立った。皿を重ね、電気が点いていない台所のシンクへ置く。

「お母さん、行ってくるから」

「なに? 明莉、聞こえない」

 母さんはこちらに顔をむけた。

「雪像作りに行ってくるから」

「こんなに降ってるのに。誰も来ないわよ」

「あと三日だから。理衣子と約束しちゃったし。学級委員だし」

 声がどんどん小さくなる。母さんから何か言われる前に廊下へ出た。


 大きなぼた雪が次から次へと落ちてくる。雪の上に新しい雪が10センチは積もっている。母さんが言う通り、この雪では誰も来ないかもしれない。フードを深くかぶる。雪が張り付いてぼんやりとしか光っていない外灯を頼りに一歩ずつ進んだ。

 アフロ犬の周りには誰もいなかった。隣りの隣り、理衣子の情報ではピカチュウを作っている雪像に大人が二人いた。逆側の端、道産子という北海道の馬を作っているグループには大人二人とこども二人がいた。文具屋の近江谷さんだ。下の女の子は圭祐と同い年だったはず。こどものはしゃぐ声が聞こえる。家族四人で作っているのだろうか。うちだって四人家族なのに。

 ポケットから緑の作業用手袋を出して赤い手袋と替えた。アフロ犬は鼻のところが尖り、犬っぽい顔になっていた。後ろへまわると小さな尻尾までついている。あとは頭だけだ。屈んでやわらかい雪を両手ですくい、モコモコが少ない頭頂部へつける。

 昨日から理衣子はインフルエンザで学校を休んでいた。二ヶ月前にインフルエンザが流行したときにはならなかったのに、今になってかかるなんて悔しいと言っているわ。理衣子の母親は微笑んでいた。母親がつけていた白いマスクには花の柄が入っていた。マスクまでお洒落とは、と思いながら、私は学校で配られたプリントを渡した。

 アフロ犬のモコモコをこすり、形を整え、もう一度屈む。理衣子はいつ元気になるのだろう。明日はまだ学校に来られないから約束はキャンセルだろうか。三日後の雪祭りは、バレンタインデーは。

 新しくつけた雪が元のでこぼことなじむようにこする。たぶん、護は理衣子からチョコを受けとる。護は好きな人がいるのだろうか。おれも理衣子が好きだ、とは言わない予感がする。そしたら理衣子は尋ねるだろう。護は、誰が好きなの? 

 緑の手袋についた雪を軽く払い、後ろにさがってアフロ犬を眺める。たいして変わっていない。今、何時だろう。スポーツセンターの外壁にある丸時計は雪が邪魔して見えない。時計を持ってくればよかった。ピカチュウを作っている二人が言葉を交わし、笑っている。

 帰ろうか。帰って、お風呂に入ってベッドで眠る。母さんに何か言われるかもしれない。宿題もやったし、私のやるべき仕事、お米研ぎ、洗濯物たたみもちゃんとやった。タオルのむきも揃えたし、何も言われない。大丈夫。

 呼吸をするたびに白い息が広がり、アフロ犬が見えづらくなる。アフロ犬の反対側にまわり、膝を曲げた。

「あっかりちゃんじゃねえべか」

 屈んだまま顔を上げると、先生が買ったアフロ犬を手にした三郎と井出さんが立っていた。

「こったら雪の中でも来ているなんてえらいねぇ」

 井出さんはフードの上から私の頭をなぜた。三郎は人形をアフロ犬の尖った鼻の上に置き、前足の横にしゃがんだ。

「やるべやるべ」

 井出さんはアフロ犬の頭部に積もった雪を集め、モコモコの形を整えていく。しゃがんだり、立ったりする井出さん。アフロ犬の前足の間を滑らかにしていく三郎。大きなアフロ犬の鼻に乗った、小さなアフロ犬。

 かわいい、と笑ったら涙がこぼれそうになった。緑の手袋。これで顔を押さえたら顔が汚れてしまうかもしれない。大きなぼた雪は降り続いている。だから、二人には私の顔は見えない。涙はそのままにしておこう。

「明莉ちゃん、どうだべ? 犬の頭、良くなったっしょ」

「そんなすぐ良くならないっしょ」

 三郎が答えた。私はゆっくりと大回りしてアフロ犬の正面に立った。雪像が滲んで見える。

「三郎、こういうのはな、突然出来上がるんだって。お前は知らないだろ」

「父ちゃんに言われても説得力ねえなぁ」

「ばかこくでねえ。父ちゃんはな、雪像作りについては幌内一という自負がある。三郎がいて、三郎に父ちゃんがいて、六年一組はラッキーさぁ」

「自負ってなんね」

「自負って言うのはだなぁ。うーん、明莉ちゃん、こいつに説明してやって」     

 私はくすくすと笑った。そうしたら涙は消えてくれた。

「自負ですか? 難しいですね」

「そうだ、三郎。自負は自負よぉ」

「父ちゃんもわからないんじゃないか」

 ちょっと待てよ、と井出さんは言い、下から雪をすくってモコモコの上にかけた。私はそれを集めて形づくる。

「父ちゃんはさぁ、幌内は北野一、いんや、北海道一いい町だと自負しているぞ。こういうふうに使うんだ。自負、は」 

 三郎の声はなかった。自負について考えているのかもしれない。私はまた泣きそうになっていた。緑の手袋の中、自分の手に意識を集中させる。ここに父さんや母さんがいればいいのに。市役所の人達も。雪像を、どれだけ時間をかけて作っても結局は溶けて無くなってしまう物を一緒に作れば何かが変わるかもしれない。三郎と井出さんのように、母さんと話をしながらアフロ犬を作りたい。

 井出さんがもう一度、雪をどっさりとアフロ犬の頭にかけた。モコモコに雪を張りつけていると、建物の方から黒のウエアと青のウエアを着た二人組が歩いてくるのが見えた。背は同じくらい。青の人は赤いスノーシューズを履いている。

「お前ら、ちゃーんと行事に参加してえらいなぁ」

 こんばんは、と護だけが井出さんに頭を下げた。

「雪合戦のとき、川沿まで歩いて偵察に行ったのを思いだすさぁ」

「父ちゃん、またその話かよ」

「また、とはなんだ。いいか。勉強なんかしたくなったらいつでもできる。けどな、友達と遊んだり、ばかをやったりするのは今しかできないんだぞ」

 はいはいと三郎がうなずき、スパイ活動なんですけど、と私の後ろで亮がつぶやいた。

「使う?」

 護がバケツからシャベルを出した。ありがとう、と受けとる。スコップで雪をすくい、一つのモコモコを仕上げる。

「明莉ちゃんを見てみろぉ。なまらめんこいべ。それはいつも一生懸命だからさぁ」

 三人の男子が同時に私へ顔をむけた。慌てて屈み、スコップで雪をすくう。

「井出さん、もう完成じゃないですか?」

 護の声。そうだなあと井出さんが私の後ろを通り、アフロ犬の正面に立った。

「だいぶ良くなったんだけどなぁ」

 私も一歩、アフロ犬から離れ、横から大きなアフロ犬と小さなアフロ犬を比べた。大きな頭と胴体、全体のバランスは完璧だ。

「おお、井出。大仏犬はどうさぁ」

 眼鏡をかけた大柄の近江谷さんだ。これが本物か、と小さなアフロ犬を手に取る。

「六年生はクラスで参加しているんだろ?」

 井出さんがうなずく。

「担任の美人先生は来てないのかい?」

「由紀先生、インフルエンザで学校もお休みしているんです」

 近江谷さんが私を見た。

「なんだ、紅一点は加藤さんとこの明莉ちゃんか。一人?」

「そうです」

「こんな雪の中でもちゃんと地域の行事に参加してえらいねぇ。明莉ちゃんは親に似ないでよかったなぁ」

 近江谷、と井出さんがこづく。

「冗談だよ、冗談。うちのライバルはどうもここの犬みたいだからな。今のところ五分五分、いや、造形美としてはうちが優れているな」

「造形美ってなんね」

 三郎が尋ねる。近江谷さんは肩より小さい三郎の頭をぽんぽんとたたき、自分の雪像へ戻っていった。

「近江谷はいい奴なんだけど口が悪くてさぁ。ごめんな」

 いいえ、と雪像のアフロ犬を見た。

「明莉ちゃんが来てくれておじさんは嬉しいんだぁ。近江谷も紅一点と言っていたけれど、女子がいると男子のがんばりが違うからなぁ」

 井出さんは人形のアフロ犬を手の上で動かしている。

「井出さん、紅一点の紅っていう字、オレンジに近いイメージですよね」

「そうかもなぁ」

「あの、頭に色をつけませんか。アフロ犬に見えないのは色がないからかも。アフロ犬はカラフルにしてこそ、アフロ犬に見えると思うんですけど」

「そうしようぜ。面白そう」

 アフロ犬の尻尾を直していた三郎が反応した。

「胴体や顔は白のままで、頭だけ薄く色をつけたらいけるかも」

 護が井出さんに言った。 

「一人でがんばっていた明莉ちゃんの意見だからなぁ。いいかもな。先生にも相談してみよう。その場合、何で色づけするかなぁ」

 そうだ、色づけする前に理衣子にも絶対に言わないと。


 金曜日。六年一組の欠席者は先生、理衣子、亮の三人だった。明後日がバレンタインデー、雪祭り当日でもある。帰りの会が終わり、由紀先生の代わりにきていた教頭先生に理衣子のプリントを届けるように頼まれた。プリントをコピーするために教頭先生と一緒に職員室へむかう。

「雪像作りは順調に進んでいる?」

「ほぼ完成です」

「楽しみね。雪祭りは町中の人が集まるから。六年生は何を作っているの?」

「アフロ犬です」

「アフロ犬?」

「頭が大きくて、毛がカラフルなアフロになっている犬です」

 教頭先生は出席簿のファイルや六年の教科書を胸に抱きながら微笑んだ。

「川口さんがアイデアを出したんでしょう。川口、理衣子さん」

 はい、と笑顔で答える。階段を降り、児童玄関の前を通り過ぎる。杏奈達が靴を履き替えていた。声をかけようか。でも私が誘ったら逆に来づらくなるかもしれない。教頭先生は先に行ってしまった。

 皆で思い出作り。みったくない顔しているからさ。

 理衣子は自分達だけが楽しめばいいとは思っていない。皆で、六年一組15人全員でやりたいと思っている。

「杏菜、今日も明日も雪像を作っているから一度は来て」


 早口になってしまった。杏菜達は私を見ている。

「絶対、一度は来てね」

 返事は聞かずに早歩きをして教頭先生に追いついた。心臓が強く打っている。来てくれるだろうか。突然あんなふうに言って変に思われたかもしれない。

「……よく思いつくわよね、川口さん」

 え? と教頭先生を見上げた。

「川口さんはアイデアマン、アイデアウーマンよね」

「そうですね」

 理衣子は人のことを気にしない。人からどう思われるかも。自分のしたいことがたくさんあるから。

「将来はどんな職業に就くのかしらね」

「本人は記者かカメラマンになりたいって言っています。今のところ」

「加藤さんは?」

「私、ですか」

「加藤さんはどんなことをやりたいの?」

 自分の上履きに視線を落とした。大人によく訊かれる質問だ。そのたびに、特にないんです、考え中です、と答えてきた。

「まだ十二歳だもの。はっきりとは決まってないわよね。私もそうだった。ケーキが好きだったからケーキ屋さんになるって大人むけには言っていたけれど。今はパティシエって言うのよね?」

 教頭先生が職員室の横開きのドアを開けた。

「好きなことをたくさん見つけておくといいわよ。自分は何をしているときが楽しいのか。雪像作りは楽しいでしょう」

「はい」

 でも、と心で続ける。

「待っていてね。今、持ってくるから」

 教頭先生は自分の机の箱を点検し、印刷室に入っていった。

 でも、一人だったら雪像つくりはしない。一人だったら楽しいとは思っていない。

「お願いね」 

 教頭先生からプリントを受けとり、ランドセルにしまった。

「加藤さんは誰かにチョコをあげるの?」

「いえ、あの、よければ亮くんのプリントも届けましょうか。私、雪像のことで亮くんに話があるので」

 すばやく言った。半分嘘で半分本当だった。

「加藤さんの家から遠いでしょう。鳥羽さんに頼もうと思っていたのよ」

「大丈夫です。亮くんはインフルエンザではないんですよね?」

 ええ、と教頭先生は微笑み、じゃあお願いするわね、と亮のプリントも渡された。

「あの、でも、亮くんが好きとかではないですから」

 教頭先生は笑みを大きくし、若いっていいわね、とやわらかく言った。


 正門を出て、いつも帰る方とは反対に進む。昨晩から降り続いたぼた雪は積雪30センチを越え、道の両側に除雪されて高い山になっている。雪像と同じ大きさのアフロ犬が何体もできそうな感じだ。

「金曜日、亮んち行こう」

 理衣子が私の机の横に屈んでそう言ったのは月曜日、インフルエンザにかかる前だった。

「護についてリサーチ。いきなり告ってふられたらイヤだし。護のことは亮が一番知っているっしょ」

 なるほど、と私はつぶやいた。

「それに亮んちって行ったことがないから行ってみたくない? 夜になんないとおじさんは帰ってこないみたいだし」

 父親と二人暮らしの亮の家。

「ぎりぎりがいいよね? 亮から護に情報がいくことも考えられるし」

「そこまで考えているんだ」

 理衣子は満足そうに笑った。

「楽しいっしょ? もちろん明莉も一緒に行ってくれるよね?」 

 それで、私は今、一人で亮の家を目指している。楽しいっしょ? 楽しいというか、ドキドキする。亮と話してなんらかの情報を得られれば理衣子は喜ぶだろう。明莉ってばすごい。理衣子は抱きついてくるかもしれない。喜ぶときも悲しむときも理衣子は人一倍感動するから。

 WASEと筆記体で書いてある表札が掲げられた塀に近づくと、いきなりライトで照らされた。昼間だから眩しくないけれど驚く。なにか悪いことをしているような気になる。

 表札の下にあるチャイムを鳴らした。反応がない。もう一度チャイムを鳴らして玄関、外に面した窓を見る。人の気配はない。亮のことだから居留守を使っている可能性もある。私は玄関へ続く道を進み、木製のドアをノックした。

「亮、いる? 私、加藤明莉だけれど」

 いないのかもしれない。寝ていて気づかないという可能性もある。亮の家から理衣子の家まで歩いて三十分、雪道だったら四十分はかかる。小さくため息をつき、もう一度ノックしようと手袋の中で手を丸めたとき、ドアが私の手に近づいてきた。

「どした?」

 五センチくらいの隙間から亮が顔をのぞかせた。元々ハネている髪がさらに乱れ、長い前髪が目を隠している。やっぱり寝ていたところを起こしたのかもしれない。

「欠席の人ようのプリントを持ってきた」

 ランドセルを開けていたら、

「わざわざお前が?」

 と亮は言った。変なの、というようなニュアンスがこめられているように思えて、急いでプリントを出した。サンキュ、と亮は受けとり、ドアを閉めようとした。

「亮、あのさ」

 前髪の奥の目を見つめる。

「どした?」

 一度目のそれよりも、声に優しさが混ざっているような気がした。

「ちょっと話があって。具合はどう?」

 亮は口の端を上げ、

「なんも。ズルだから」

 と言った。

「ここだと話しづらいから」

 入れてほしい、とまで言葉にできなかった。亮は前髪のむこうから私を見ている。

 何秒くらい沈黙の時間があっただろうか。入れば、と亮は玄関を少しだけ、10センチくらい開けてくれた。私はランドセルが引っかからないように右手に提げ、蟹のような横歩きで亮の家に入った。


 理衣子がショートパンツ以外をはいているのを久しぶりに見た。足首まですっぽりと包む長袖のネグリジェ。

「ママ、呼ぶまで来ないでよ。絶対だからね」

 理衣子は部屋のドアから叫んだ。

「元気そう、理衣子」

「全然、元気なのに、一度インフルエンザっていう診断を受けると決められた日数は登校しちゃいけないの」 

 全然、元気という言い方は、理衣子そのものという感じがする。

「話の続きをしてよ。亮に何て言ったの?」

「護は好きな人がいるの? 護の好みはどんな女の子かな? って訊いたの。理衣子の名前は出さずに」

「それでそれで」

 ベッドに座っている理衣子が迫ってくる。

「亮はにやにや笑って答えなかった。亮の家の居間は理衣子の家と真逆で、シンプルな黒い家具が多かった気がする」

「亮んちはいいから。まさかそれであきらめて帰ってきたの? 他には?」

 理衣子と目をあわせる。

「じゃがりこ食べる? って言われたからいらないって言った。ああ、護はじゃがりこ好きだよって亮は言っていた」

「なにそれー。はんかくさくない?」

 理衣子は温められた牛乳が入ったカップを持ち、ごくごくと飲んだ。

「意味ないっしょ」

「そうだよね、だから食いさがった」

「まじで?」

「亮が好きなタイプは? って訊いてみた」

 理衣子が笑った。牛乳を吹き出すような勢いで。

「なんで亮のタイプを訊くのさぁ」

「だってぇ、護のだけ訊くのはおかしいし、もしかしたら二人のタイプは似ているかもしれないでしょ」

「なるほど。そういうこと」

 チョコでコーティングされたハートのクッキーに理衣子は手を伸ばした。

「理衣子のお母さん、理衣子は食べちゃだめよって言っていなかった?」

 いいのいいの、食べたいときが食べるときだから、と理衣子は一つ、二つと口に入れる。牛乳を飲んで、それで? と顔を上げた。

「昔の映画を見せられた。由紀先生が好きだって言っていた007。同じ007のDVDが大きなテレビの横にばーって並んでいたよ。海からあがってきた女性、その人が護の好みらしいんだけれどビキニだった」

「ビキニ?」

「白いビキニですごい胸があって、水着にベルトみたいなのもついていた」

「なにそれぇ。絶対に亮の趣味っしょ」

 理衣子は笑い、飲んで食べて、とトレーを私の方へ動かした。私はティーカップをつまみ、ぬるくなっている紅茶を半分くらいまで飲んだ。

「なまら胸かぁ。理衣子も明莉もそこで勝負はできないねぇ」

 理衣子が両手で自分の胸をさわり、私の胸を見た。

「明莉のほうがまし?」

「ましって。別に私、護をどうこう思っていないし。それに今日の感じだと胸好きは亮だと思うよ」

 そうかも、と二人で笑う。クッキーを手に取り、いる? と理衣子に尋ねた。理衣子は小さく首を振り、唇をすぼめて息を吸った。

「明莉も護のことが好きだと思っていた。先生んちでも二人で話していたし、学級会で困ると護の方を見ているし」

 クッキーが口に入る寸前だった。知っていたんだ。理衣子の黒目がちな瞳は笑っていない。

 それは違うよ。たまたまだよ。

 そう言うこともできる。でも理衣子は嘘をつく人は嫌いだ。本人に直接言えないんだったら陰でもこそこそ言うな。それが理衣子だ。

 私はクッキーを皿に戻した。

「好きってよくわからない」

「護のことどう思っているの?」

 理衣子は私の言葉にかぶせるように言った。

 雪合戦のときの護。私を当てた男子に雪玉を当て返してくれた。雪が舞う中、遠ざかる緑色のゼッケン。

「かっこいいと思うときもある」

「それだけ?」

 理衣子を見ないでうなずく。

「気づくと目で追っている。もっと話したい。一緒にいたい、とかは」

「理衣子はそう思っているの?」

 理衣子は口を閉じたまま微笑んでいた。

「だから告白するんだよ」

 幼い子に話すときのような口調だった。

「じゃあ、違う。私がそう思うのは理衣子だから」

 えぇっ、と理衣子が目を見開き、次の瞬間大きく笑った。部屋の雰囲気が一気に明るくなった。

「そうくるとは思わなかった。明莉さぁ、ファンタジー系ばかりじゃなくて、もっと恋愛の本も読んだほうがいいと思うよ」

 私は紅茶をゆっくりと飲んだ。今の受け答えでよかったんだ。心が軽くなっていく。

「明莉みたいな人が大人になったら恋愛にはまるんだよ」

「どういうこと?」

「じゃあ、亮にしておけば。そしたら四人で遊びに行けるっしょ」

「そんな簡単にはいかないよ」

「まあ、そうだよね」

 理衣子が最後に一つ残ったクッキーを皿の上で半分に割った。左手のを私に差しだし、右手のは口に放り込んだ。

「あっ、今ハートを半分にしちゃった。なまら不吉だ」

「これも理衣子が食べちゃえばお腹の中で混ざるんじゃない」

 そっか、と理衣子は私の手から直接クッキーを食べた。理衣子の冷たい唇がほんの少し手にふれた。

「理衣子も明莉が好きだよ」

 言葉と同時にネグリジェの理衣子が飛びこんできた。重いよ、倒れる、やめてぇ。二人で笑い続けた。


 土曜日の早朝、風が木を揺らす音が聞こえてきた。ベッドの上で耳に意識を集める。うなるような音。カーテンを開けなくても吹雪いてることがわかった。アフロ犬は大丈夫かな。壊れたりはしないと思うけれど最後の仕上げをしないと。明日が本番なんだから。

 そうだ、と目を開いた。

 明日。吹雪いていたら雪祭りは中止かもしれない。そしたらアフロ犬は、理衣子の告白はどうなるのだろう。

 上半身を起こすと冷たい空気が布団の中に入ってきた。枕の横には『モモ』があった。かわいい見た目ではない、でも、モモは特別な女の子だった。ああ、誰かにおもしろかったことを伝えたい。クラスに『モモ』を読んだことがある人はいるだろうか。亮は? 口元がほころぶ。亮の家には007の本しかなかった。

「そういえば、お前はスカートが似合うって前に護が言っていた。みんながショートパンツなのにスカート、みんなとは違うシンプルなおかっぱも似合うって」

 理衣子には言わなかった亮の言葉。

「本当に護はそんなことを言っていたの?」

 ソファーの上で横になっていた亮は身体を起こし、私を見た。

「参考までに日本のボンドガールも見る? 護の好みはこっちかもな」

 それはいいから、とは言えない雰囲気だった。

 階段の窓から外を見たら父さんの車はなかった。そこに車があったこともわからないくらい駐車場は雪と風でならされている。土曜日はたいてい仕事だけれど、こんな日まで朝早くから行かなくてはいけないんだ。こんな日だからこそ、なのかな。

 居間に置かれているパソコンを開くと天気予報の画面だった。今日の夕方には雪は止み、明日は晴れマークがついている。

 母さんと圭祐はまだ起きてこない。居間のソファーに座り、背もたれに身体を預けて白い庭を眺め、時々、時計に目をむけた。もう一度『モモ』をぱらぱらとめくる。上の階で人が動いた気配がした。本を閉じる。二階の奥の部屋のドアが開き、母さんが階段を降りてくる。あと3秒、2秒、1秒。母さんは居間に入る前に洗面所へ行ってしまった。

 あのね、『モモ』を読んだの。そう言いたいのを堪えてソファーに座り直した。母さんは洗面所から廊下、シンクの横のドアからキッチンへ。やかんに水を入れている音がする。待ちきれずに『モモ』を持って居間とキッチンの間の戸を開けた。

「お母さん、おはよう。昨日の夜に『モモ』を読み終わったの。すっごくおもしろかった。今までで一番興奮した」

 母さんはパジャマにガウンを羽織り、コンロの上のやかんを見ていた。右側の髪が少しだけハネている。ゆっくりと顔をこちらにむけ、おはよう、と言った。

「この本、買ってくれてありがとう。もっともっとお話が続けばいいのにと思った。でもあまりにどきどきして、もうだめ、とも思った」

「母さんもそう思ったわ」

 母さんはほんの少し微笑んだ。私が好きな種類の笑みだった。

「楽しいお話が終わるのは寂しいわよね。ゆっくり読めばいいのに、どうしても続きを読みたくなって、早く読んでしまう」

「そうなの。でも、もう一度読む。今度はゆっくり」

 母さんはうなずいてから、すすけた赤のやかんに視線を戻した。横顔は嬉しそうにも悲しそうにも見えなかった。どんな感情も浮かんでいない、いつもの朝の顔。

「小学生に戻りたいな」

 沸騰していく音に重ねて、母さんは言った。

「母さん」

 疲れているの? 今日も仕事があるの? 声にはできなかった。『モモ』の今風ではない表紙を指でさわる。

 母さん、道路掃除夫のベッポもモモに言っていたよ。目の前のことだけをやるんだって。これとこれとこれをやらなきゃいけないって思ったらつらくなるから。

「母さん、小学生も面倒くさいことはたくさんあるよ。宿題とか女子のつきあいとか」

「そうね」

「女子のつきあいは大人でも続くんでしょ。母さんも、もう一度『モモ』を読んでみて。今読んでもきっと楽しめるよ。本当の世界にモモみたいな子がいてくれたらいいのにね。どんなふうに話を聞いてくれるんだろう。あの円形劇場。私もあそこでモモ達と遊びたい。お母さんも」

 母さんは私から目を離し、やかんを、コンロの火を見つめていた。でも母さんの目には何も映っていないし、私の声は届いていないような気がした。

「母さん」

「ここを出たいの。しばらくの間」

 瞬きを何度かした。母さんの姿が一瞬だけ消えて、また映る。言葉の意味がよくわからない。

「おばあちゃんに来てもらうから。明莉と圭祐は学校を休めないでしょう」

 沸騰した音が響き、母さんは火を消した。 

「珈琲をいれるけれど明莉は?」

 首を振る。そんなことより。

「ごめんね、いつも」

 いつから? いつまで? 母さんはどこに住むの? 北野市に? 

 母さんはビンの蓋を開けて黒い粉をカップに入れた。湯を注ぎ、引き出しからスプーンを取ってかき混ぜる。

 何も尋ねないで。母さんは全身で言っている。私が何か言えば母さんを困らせる。悲しませる。

 廊下へ続くドアが開き、お母さぁんと言いながらパジャマの圭祐が入ってきた。母さんの腰にへばりつく。母さんは圭祐の背中に手をまわした。

「まだ眠いんでしょう。寝ていればいいのに」

「お母さんと寝たい。今日はお休みなんだからいいでしょ」

「圭祐、やめなよ。あんたはもう二年生なんだから。赤ちゃんじゃないんだから」

 母さんが私に目をむける。圭祐は母さんにくっついたまま顔を上げない。

 母さんの目。感情がない。私のことを可愛いとも、うるさいとも思っていない目。

「圭祐、母さんは疲れているんだから。離れなってば」

 機械のようだった。母さんが、じゃなくて、私が。声の出るただの機械。

 珈琲に口をつけることなく、母さんは圭祐と階段を昇っていった。キッチンに残った白いカップ。湯気はすぐに見えなくなってしまった。


 冷たい。どこから雪が入ってくるのだろう。スノーシューズとずぼんの裾の隙間だろうか。それとも吹きつける風が服の縫い目から雪を押しこむのだろうか。

 衣服気候。家庭科で習った。身体と服、服と服の間で外とは違う気候ができる。服の繊維の違いによっても異なる気候が生まれる。そんなことを今まで考えたことがなかった。外から見て可愛いか、似合うか。服の役割はそれだけじゃなかった。私を守ってくれる、私と服だけの特別な空間。

 やっぱりもっと着てくるべきだったのかもしれない。でも階段を昇りたくなかった。母さんと圭祐がいる部屋に近づきたくなかった。学校がある日だったらよかったのに。外が曇って暗くても、教室や職員室はいつも明るくて温かい。授業が始まる。今まで知らなかった新しい世界。先生が問題を出したりヒントをくれたりする。理衣子が盛り上げる。三郎がわかんねえ、と言う。私は考える。自分で正解に近づくこともあれば、理衣子や護、その他の人が私とは異なる考えを披露してくれることもある。影響、刺激。少し違う。啓発、だったろうか。どの科目でもそういう授業が好き。音楽はいつもそうかもしれない。みんなの声、楽器の音が響きあって高めあう。学校には給食の時間もある。調理員の山崎さんと森さんが私達のために毎日作ってくれている。カレーやシチューのルゥを手作りすることができるって給食を食べるまでは知らなかった。

 けれど今日は学校には誰もいない。

 だからアフロ犬のところへ行こう。そこしか私が行けるところはない。

 雪が舞っている。時折、雪は模様のようにもなる。様々な大きさの円。崩れて線になり、また円になって。

 歩道がよく見えない。でも、大丈夫。一本道だから迷うことはない。足を動かせば着く。足を止めてはいけない。泣いてもいけない。母さんのことは考えないにしよう。母さんだって私のことは考えていないのだから。一番に仕事、二番に圭祐。それだけで母さんはいっぱいなんだから。

 薄く凍った水が頬に張りつく。雪まじりの風がそれをわからないようにしてくれる。だからまだ歩ける。もう少し足を動かせばアフロ犬のところへ着く。


 誰もいないと思っていたのに二人いた。大人だ。ライオンの絵が描かれた白のスキーウエア。黒のロングダウンコートは三郎のお兄さんが昔に着ていた。足を速める。本当は期待していた。誰かいてほしいと思っていた。

 先に気づいたのは井出さんだった。

「明莉ちゃん、歩いてきたのかい?」

 いつもの温かい声だ。

「先生、インフルエンザは」

 マスクをした先生の目が微笑んだ。

「犬が心配だったんだべ。なんもさぁ。細かいところは今日の夜に仕上げをしようって話していたとこ。それにしても明莉ちゃんはえらいなぁ。三郎なんか、ストーブの前から動かんけど」

 井出さんが話すと周りの温度が上がっていく気がする。

「でもさぁ、こんな吹雪の日に一人で外に出たら危ないよぉ。知っている道でも遭難することがあるんだから。ちゃんと家の人に言ってきたかい?」

 首を振る。どうしたの、という目で先生が私の顔を見る。

「いくないな。電話すっか。オレからだとあれだから先生からしてあげて」

 先生が手袋を外し、ポケットに手を入れた。

「今は、ちょっと」

 私の言葉で先生は動きを止めた。

「いろいろあって。よくわからなくて飛び出してきたから」

 井出さんは先生の表情を確認してから私に視線を戻した。

「おれんち来るかい? いや、三郎達がいるからあずましくないな。あとは」

「うちに来る?」

 マスクを下ろした先生が言った。

「いいんですか?」

「ほら、こどもが遠慮しないの。行くべ行くべ」

 井出さんは私の肩を抱いて駐車場の方へ歩きだした。三郎のように井出さんの顔がほんのりと赤い。先生の家へ行けることになって井出さんは嬉しいんだ。わかりやすい。わかりやすくて頬が緩む。どうしてだか目元が熱くなる。

 井出さんの肩越しに振りむくと、マスクをしている先生も苦笑いをしていた。


 ホットジンジャーというものを初めて飲んだ。

「生姜と黒砂糖で作ったシロップをお湯で割るだけなの。すごく温まるから」

 先生の母親がシロップを手作りして横浜から送ってくれたらしい。北海道で初めて冬を越す先生のために。

「後味にぴりっと辛いのがたまらんな」

 ソファに座った井出さんは一気に飲み干し、口を開けてはあはあと舌を出している。理衣子がチビゴリラと言っていたのを思いだし、また笑ってしまう。笑うと目が潤んでしまうのに。

 先生は私の家に電話をかけた。替わるかどうか事前に訊かれたけれど断った。携帯を耳に当てている先生の声を聞いていたら、母さんは私がいないことに気づいていなかったようだ。それでも帰ったら怒られる。今度こそ強く叩かれるかもしれない。

「明莉ちゃんは母ちゃんに怒られたのかい? 喧嘩した? 悪いことしたのがばれた?」

 井出さんの問いに首を振った。

「じゃあ、なしたの?」

 先生は尋ねない。インフルエンザは治ったとお医者さんに言われたから、と私の隣りに座った。

「温まるでしょう?」

 私は両手で温かいカップを持ったまま、うなずいた。

「井出さん」

 口が勝手に動いた。

「なした?」

「あの、井出さんは三郎を叩いたことがある?」

 ええっ、と井田さんは大声を出した。

「あるような、ないような。いや、記憶にはないがあると思うよ。三郎はそうでもなかったけれど一番上はよく叩いた」

「勝一(しょういち)くん?」

「そうだなぁ。上の子にはさ、多くを求めちゃうんだろうなぁ。自分の助手じゃないけどパートナーみたいに期待してるんだよ。でも叩くのはいくない。おれはそう思う」

 井出さんはコップを持ち、中に何も入っていないのを見てからテーブルに置いた。

「勝一が小六のとき、下級生を殴ってけがさせたことがあってさぁ。おれはさ、自分のせいだと思ったよ。はんかくさい話だけども、そんときにやっと気づいた」

「井出さん、もし私が井出さんちのこどもだったとして、私が悪いことしたら叩く?」

「おれは何があっても女性には手を出さないから」

「そういうことじゃなくて……」

「明莉ちゃんは母ちゃんに叩かれたたのかい?」  

 答えられなかった。先生がマスクを下ろす。

「明莉さんは自分の気持ちを伝えたの?」

「自分の気持ち、ですか?」

「親でも、誰でも、明莉さん以外の人は明莉さんが思っていることの、ほんの少ししかわからない。それか自分の都合の良いようにしかとらない。明莉さんのことが好きかどうかとは関係なく。だから大事なことは言葉にして伝えないと」

「さすが先生。いいこと言うなあ。その通りだわぁ」

「私も最近になってわかった。一人暮らしをして親と離れたのが大きかったのかもしれない。今までは早く離れたいと思っていたのに、一人になったら親の有り難みがわかった。電話で伝えたら両親ともすごく喜んでいたの」

「離れてわかるなんとやら、ってな」

「特に家族は近すぎて言わないままですませちゃうことが多いから」

「おれもこども達に、おれの気持ちを伝えるか。いやぁ、照れるなぁ。無理かもしれんなぁ」

「あの、井出さん」

「なんだべ?」

 ちょっと黙っていてください、と言おうとしたら涙が溢れそうになった。コップを置いて両手で目を押さえる。

 母さん、もっと話がしたいの。今じゃないとだめなの。大好きな理衣子だっていなくなっちゃうのに。中学生になったらまたいじめられるかもしれないのに。そうだよ、母さん。私、女子全員から無視されたことだってあるんだよ。言えなかったの。だって、そしたらまた学校の悪口を言うでしょ。学校は好きなの。だから、もっと私の話を聞いて。ただ聞いてほしいの。

 先生が背中をなぜてくれていた。身体の中で想いがぐるぐるまわって口を開けないと倒れてしまいそうだった。

「井出さん、もし母さんがだめだったら私の話を聞いてくれますか? 先生はみんなの先生だから。私だけの話を聞くってわけにもいかないから」

 後半は鼻をすすったり、しゃっくりみたいなのが出たりしてうまく言葉にならなかった。

「おれでよかったらいつでもウエルカムだけども。一応、明莉ちゃんの父ちゃんにも話してあげてな」

 うなずき、残っていたホットジンジャーを飲んだ。喉が少しひりっとしたけれど、そこから温かさが広がっていくようにも思えた。


 六年一組は由紀先生の周りに集まっていた。杏奈達もいて、十五人全員、互いの顔が見えるところにいる。

 昨日は井出さんの予想通り、午後になってから雪は止んだ。最後の雪像つくりに一人、また一人とアフロ犬の周りに集まり、初めて杏奈達も顔を見せた。元気になった理衣子は五日ぶりに対面したアフロ犬を見るなり、めんこくなってぇ、もう大仏とは言わせないよね、と騒いだ。初めに大仏と言ったのは理衣子だけどと思いつつ、私は絵の具セットのバケツに緑の絵の具と水を入れて筆で混ぜていた。

 今朝は目覚めたときから晴れていた。白い光のきらめきが、今日は特別な日だと告げていた。

「やっぱり私がにらんだ通り、ピカチュウと近江谷さんの道産子との戦いね」

 理衣子が大人の女性のような口ぶりで言った。八体の完成した雪像、その後ろの舞台の上に視線をむける。

「犬、対、ネズミと馬か」

 後ろに立っていた護が言い、横にいる亮が吹きだした。なにそれぇ、と理衣子も明るい声をあげる。市長挨拶のあと、市役所の男性職員から八体の雪像が紹介された。投票は市長、町内会長など、大人二十人で行われたらしい。

「第三位」

 ごくっと唾を飲みこむ。ここでは呼ばれたくないと思ったとき、

「欽水PTAチームの雪鬼です」

 と司会の男性が言った。鬼ねぇ、と理衣子がつぶやく。私は前に立っている井出さんの顔を見た。


 昨晩、絵の具をつけた太筆でいざモコモコを塗ろうとしたときだった。

「明莉ちゃん、俺もさぁ、色をつけるのは賛成なんだども、吉と出るか凶と出るかはわからんよぉ」

 めずらしく井出さんは困ったような顔をしていた。

「ルールの紙には書いていなかったけども、本来、雪像に色をつけるのは、うーん、なんていうべか、邪道というか」

「父ちゃん、邪道って何さぁ」

 三郎は黄色を塗ろうとしていた。

「まあ、雪像の形だけで勝負するのが基本というか、王道というか」

「なんだよ、父ちゃん。もっと早く言ってくれよ。先生は?」

 家にある厚手の服を全て着ましたという感じに着膨れした先生は、アフロ犬から少し離れたところに座っていた。

「先生は作った人の好きなようにしていいって言ってたさぁ」

「井出さん、色を塗ったら賞をもらえなくなる可能性があるってことですか?」

 私が尋ねると井出さんは数回うなずき、まあ、わからんけどな、と弱々しい声で言った。私はアフロ犬の反対側できゃっきゃ言いながらピンクの絵の具を作っている理衣子を呼び、井出さんに言われたことを伝えた。理衣子は音楽を聞いているときのように首を左右に振った。

「で、明莉はどうしたいの?」

 大きな黒目を私にむける。

「明莉が一番、アフロ犬を育てたんでしょ」

「そんなことないよ。三郎や護だって」

 理衣子は前髪を留めていたイチゴ柄のピンを外し、もう一度つけ直した。

「明莉が決めなよ。たまにはさぁ」

 どっちでもいいという感じの言い方だった。

 真白なアフロ犬と鼻の上に置かれているカラフルな小さいアフロ犬を見つめる。最初に色をつけたいと言ったときの三郎、護の言葉が浮かぶ。


「第二位」

 間が開き、広場が静かになる。太陽の光に反射して雪像がきらきらと光っている。

「幌内ポケモン大好きっ子集まれグループの、ピカチュウ」

 きゃーっという歓声があがった。女性を先頭に保育園生がぞろぞろと舞台にむかう。


「塗るの? 塗らないの? はっきりして」

「理衣子ちゃん、明莉ちゃんは考えているんだべ」

 理衣子の瞳が迫ってくる。明莉の心では答えが決まっているんでしょ、と言っている。

「どうすんの?」

 小さな想い。それはでも、ここにちゃんとある。

「井出さん、色をつけたい。頭だけに。ルール違反にはならないし」

「そうするべぇ」

 井出さんがすぐに賛成してくれた。なんていい人なんだろう。

「温泉に行けなくなったら明莉のせい、ということで」

 理衣子は笑い、

「さあ、分担通りに色づけしよう」

 と皆に声をかけた。それぞれの持ち場へ戻ろうとしたときに護が口を開いた。

「この筆は道具になんないのかな?」

「えー、筆ならいいっしょ。筆がだめならどうすんの? シャベル? そんなこと言ったら絵の具だって道具とみなされるかもしれないし」

 好きな人に対しても理衣子は理衣子だ。

「手で塗ろっか」

 私が言うと、えーっと理衣子は不満げな声をだした。

「でも、筆は明らかに道具だし」

「確かにね」

 理衣子はあきらめたように手袋を外し、

「しゃっこーい、なまらしゃっこいよー」

 ピンクの液体を片手ですくように手に乗せてモコモコに色をつけていく。私も薄い緑の液体に手を浸した。爪の先からつーんと冷たさが抜けてくるようだ。しゃっこい、と言葉が出た。

「なまら、しゃっこい」

「でしょ、明莉。なまらしゃっこいとしか言えないよね?」

 なまらしゃっこい、と理衣子へ笑みを返す。

「ああっ、手を入れる前に写真を撮ればよかった。明莉、は、もうだめか。井出さん、にデジカメ持たせるの不安だし。杏奈、色を塗っている私達をたくさん撮ってくれる?」

 そこそこ、と理衣子は杏奈にデジカメの場所を教えた。

「手、凍るわ。これ」

 理衣子は薄くピンク色に染まった両手を顔の横に広げ、満面の笑みを杏奈へむけた。


「第一位」

 よくあるジャラジャラジャラジャラという効果音はならない。スタンドマイク、男性の口元を見つめる。吐いて、吸って、吐いて。みんなの白い息が湯気のようにあちこちで広がる。広場はその息で温められていく。これでだめだったら私のせいだ。アフロ犬は凛々しく立っている。カラフルな大きな頭。モコモコは何十個作ったことだろう。

「近江谷ファミリーの道産子」

 背の高い近江谷さんが舞台の近くでガッツポーズをした。近江谷さんと似た雰囲気の奥さん、こども達が舞台の上へ登る。

 私の周りにいる人は誰も身動きをしなかった。ため息のように、大きく息を吐く音だけが聞こえてきた。井出さんが振り返り、私を見た。

「ごめんなさい」

「謝んないで。明莉のせいじゃないから。鬼がくるとは理衣子でも予想できなかったよ。雪合戦はうちらが勝ったから雪像は他がとってよかったっしょ。雪像作りは楽しんだならいいんだって。勝ち負けじゃないんだから」

「でも」

「しちょうしょう」

 マイクを通した男性の声が響いた。市長賞、と理解するのに時間がかかった。広場は静かにならない。一位が決まって皆の関心は消えつつある。司会の男性は右手でマイクを持ち直した。

「幌内小学校六年一組、アフロ犬」

 うおーという声がした。井出さん、三郎、達也がいる辺りだった。その声に笑ってしまった。理衣子と顔を合わせる。理衣子が抱きついてきた。きっと理衣子は泣いている。本当の感動やさんだから。

「明莉さん、賞状をもらってきて」

 由紀先生が横にきていた。理衣子がぱっと顔をあげ、理衣子も行く、と言った。もう涙は引いていた。

「先生を先頭に全員で行きましょう。せっかくだから」

 私がそう言ったら、

「じゃあ、カメラはパパに頼んでくる。待っていて。理衣子を置いていかないでよ」

 雪の上を理衣子が滑るように駆けだした。


 卒業まで残り25日。先生が作った日めくり表が私の目の前、黒板の中央に貼られている。実感はわかないけれど、一枚ずつめくっていけば確実に卒業の日は近づく。その日が来てしまったら、もう六年一組にはいられない。

 箱に入っている油性の太い黒ペンを持った。薄い色は読みにくいって理衣子が言っていた。でも。私は黒ペンを箱に戻し、オレンジのペンを手にした。

 雪像つくりの作文が終わった人から卒業ポスターを仕上げる。それも終わったら静かに一人で机でできること、読書、絵を描く、工作、瞑想をする。それが一、二時間目にすることだった。

 理衣子は机の上に写真を広げていた。作文も卒業ポスターもとっくに仕上げて卒業アルバムにむけて写真を選んでいる。雪祭りの会場でチョコを受けとった護は、ホワイトデーのときに返事をする、と言ったらしい。なまら楽しみなんだけど明莉はどうなると思う? 理衣子は毎日訊いてくる。

「明莉さん、下書きはできたんだね。とてもいい写真」

 私の卒業ポスターには人形のアフロ犬を顔の横に持ち、笑っている写真が貼られていた。

「学校の人達にどれだけアフロ犬が好きなのかと思われないかな?」

 先生はくすっと笑った。 

「私も『モモ』や『果てしない物語』は大好きだった。夜、眠らずに読んだよ。主人公が読んでいる本がこの本だとわかるとき、最高に興奮するよね」

 そうそう、ファルコンに、と私が話しだしたら、

「先生、これでいい?」

 男子の声がかかり、休み時間にゆっくり話そうね、と先生は三郎の方へ行った。

 オレンジのペンの蓋を取り、ペンの後ろにつけた。好きな本の下書きをなぞる。『モモ』は桃色とかけてピンクにしようかな。読み終えたばかりの『果てしない物語』は水色が合うかもしれない。

 あの日、皆と最後の雪像作りをし、家へ帰ったのは暗くなってからだった。母さんは怒らなかった。叩かなかった。

 母さん、今は一緒にいてほしい。圭祐だって母さんと離れるのは無理でしょう。私、家のことをもっと手伝うから。

 母さんはパソコンにむかっていた。 

 ねえ、母さん。ここに一緒にいて。お願い。

 私の話を聞いてほしい、なんて言えなかった。それよりも出ていってほしくないという思いが強かった。

 画面から私へ、母さんはゆっくりと顔を動かした。朝よりも目が優しくなっていた。それだけで嬉しくなった。もっと母さんを喜ばせたい、笑顔が見たい。

 明莉がいない間に『モモ』を母さんも少し読んだ。忘れていた場面がたくさんあった。

 母さんはパソコンの画面に視線を戻した。

 灰色の男達は本当にいるかもしれないわね。だから……。

 母さんは言葉を止めた。私はその先を尋ねることができなかった。

 先生、井出さん。今はここまでしかできない。でもいいの。少しずつ、母さんが大丈夫なときに少しずつ話せたら、と思う。

 ねえ、母さん。明日のバレンタインデーにむけてチョコクッキーを作るから、わからないことがあったら聞いてもいい?

 母さんはうなずいた。小さく微笑んでいた。また、私の好きな種類の笑みを見ることができた。それだけで充分だ。

 卒業ポスター。自分の名前は黒のペンではっきりとなぞってある。

 将来の夢。

『今のところなし。でも、好きなことをやっていたい』

 何色で書こうかな。アフロ犬に負けないくらい、カラフルに仕上げよう。

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