第2話 赤いスノーシューズを目印に

 三年前、9歳の冬のこと。

 ぼた雪が次から次へと落ちてくる中を、亮と歩いていた。

 一つが赤ちゃんの手の平くらいあるぼた雪。

 前を歩く亮の黒いフードに積もり、重くなったら滑り落ちていく。

 その、繰り返し。

 おれは青、亮は黒のスノージャケットのフードを深くかぶり、スキー用の手袋をはめ、二人とも赤いスノーシューズを履いていた。おれの母親が去年のクリスマスにおれと亮にくれたやつだ。外側はつるつるの生地で水分を通しにくくなっており、内側はもこもこの毛が温かい。

「亮くんもスノーシューズだけは、赤で目立つのにしてね。護とお揃いならいいかなと思って」

 この辺では男子が青か黒系、女子が赤や黄系だ。だから同じ台詞をおれが言ったのなら、亮は唇を歪め、いらない、と首を振っただろう。

「ありがとう」

 小さな声で言い、亮は赤いスノーシューズを受けとった。亮はおれの母親に弱い。

 どこからの帰りだったのだろう。

 友達の家へ行っていたのか。

 三年前の亮を連れて?

 ないな。

 その頃の亮は学校を休みがちで、家が隣のおれとしかつきあいはなかった。

 ならば、探検していたのだろう。亮を家から出させるのはおれの役目で、散歩とは言わずに探検、調査に行こうと誘えば、スパイ映画が大好きな亮は素直に赤いスノーシューズを履いた。

 国道の道路脇にはこんもりと雪が積まれ、それはまだ茶色ではなかった。

 雪が踏み固められた車道を、スタッドレスタイヤを履いた車がのろのろと通っていく。ぎぃ、ぎぃ、というワイパーの音が聞こえてくるようなスピードだ。

 大型トラックは違う。重さを武器にチェーンかスパイクでがっしりと雪をつかみ、我が物顔で走り去る。

 おれ達は、無言で国道を左折して緩やかな坂を登った。歩道はかろうじて人が一人通れる広さだ。両脇は雪の壁。

 亮が先を歩き、おれはついていく。

 固まっていない雪山に、ぼた雪が積もるときの、かさっかさっという音が聞こえてきていた。

 一瞬で、風が変わった。

 フードに隠れているはずの右頬に風が当たり、顔を上げる。さっきまでは、上から下へ雪は落ちていた。今は右から左へと流れている。

 点ではなく線。しかも太い線となった雪だ。

 雪と水を混ぜたようなものが目に飛びこんできて、反射的に目を細める。

「亮。おい、亮」

 白い世界に薄らと赤が見える。

 そっちに近づきたい。

 一歩、たぶん右足をだした。

 途端に、おれは転がった。

 手をかいたと思う。激しく。クロール、いや、犬かきのように。亮、亮、と叫びながら。

 だが、どう動かしても、厚手の手袋が感じるのは柔らかい雪で、悪いことに右腕は雪山へつっ込んでいた。固かったなら、まだよかった。反動で起き上がることができただろう。けれど、積もったばかりの雪はやわらかく、もがけばもがく程身体が沈んでいく。

 起き上がるなんてとても無理だ。

「亮、助けてくれ。亮」

 道具はないか。左手でポケットを探る。丸っこいものがある。方位磁針。あとは固くて長いピストルだ。玉は入っていない、おもちゃのピストル。

 ああ、紐が出るように改良すればよかった。

 川で溺れた主人公がピストルから紐を出し、木にひっかけて助かるシーンを観たことがある。

 せめて、音が鳴るようにしておけば亮が気づいたかもしれない。

 容赦なく顔や身体に雪が張りつき、重みを増していく。

 もうすぐ家があるんじゃないのか。

 国道を曲がってからどれくらい歩いた? 

 一本、道を間違えたのか。

 まさか、間違えるわけがない。生まれてから何百回と通ってきた道だ。

 なんでもいい。目印を探せ。

 白、白、白。どこを見ても白しかない。

 ダメだ。こうやって人は死ぬのか、まで考えたかどうかはわからないが、9年の人生で初めてはっきりと死を意識した。

「気をつけてね。自然は怖いから。特に雪は」

「わかっているから。大丈夫」

 毎回、軽い気持ちで母親に答えていた。

 雪が怖いとはどういうことなのか。北海道で年に何件か凍死事故があるのは知っていたが、酔っぱらって不注意、雪山で無茶をしたなど、自分とは関係がないと思っていた。

 右手を動かす。

 雪山へ深く入ってしまう。

 左手で反動をつけ、身体を雪の上で転がす。

 埋もれていくだけだ。

 頬が熱い。

 熱が顔中に広がり、くぐもった音が耳に響いている。

 視界がせばまる。

 これはダメだ。

 ごめん、母さん、ばあちゃん。

 ルイ、ルカ、兄ちゃんがいなくても自分のことは自分でやるんだぞ。わがままを言ってばあちゃんを困らせるなよ。

 父さん、ごめん。やっぱりおれは、父さんみたいには。

「何やってるんだ? 修行?」

 亮の声。

 真白の世界に色が見えた。

 赤、赤のスノーシューズ。

 おれは動かせるところを全て動かした。左手、両足、胴体。

 助けてくれ、と言おうしたら、わずかに開いた唇と唇の隙間に雪が滑りこんできた。

 苦しい。

 ダメだ、ダメだ、もうダメだ。

 嫌だ、死にたくない。

 亮、そこにいるんだろう。助けてくれ。

 おれは、まだ、死にたくない。

 後から聞いた話だと、歩道の上で釣り上げられた魚のようにおれはぴちぴち跳ねていたらしい。

 でもそれは、助かったから笑える話になっただけだ。

 その時のおれは、必死にもがき、なんとか形あるものをつかんだ。

 手の平。

 大空から垂らされた細い蜘蛛の糸をつかむように、全力で亮の手にしがみついた。

 おれの頭が雪山から抜け出た反動で、おれより一回り身体が小さい亮がおれに倒れ込んできた。

 そのとき、あいつはなんて言ったと思う? 

 9歳、いや、早生まれだから8歳の男子。普通は動転したり怖がったりするんじゃないのか。

 亮は、おれの胸の上でにやっと笑った。

「護、今夜だけは死なないでくれ」

 映画『女王陛下の007』でのジェームス・ボンドの台詞。ボンドがシリーズを通して唯一結婚するボンドガール、テレサに出会ったときの言葉だった。


 11月に入り、くじで席替えをした。おれは廊下側の一番後ろ、亮は窓際の一番前の席になった。前担任の岡島先生は必ず、おれと亮を前後、もしくは隣りにしてくれたから、教室では口を開かない亮のフォローができた。一ヶ月前に岡島先生の代替として来た後藤由紀先生、通称ゆうき先生は「特別」が好きではないようで、公平なくじが行われた。くじを引く順番でさえ、全員で、といっても六年一組は15人だけれどじゃんけんで決めた。

 おれは教室の隅から、最も離れた場所にいる亮を眺める。ぶかぶかの黒のジャンパー、本人に言わせればラフな、まあ、単にはねている後ろ髪。亮の机の前にある大きな教師用机。亮と先生の机の隙間は5センチもないだろう。先生は乗りだし、亮の机の上のノートやプリント、テストを見る。そこには何も書かれていない。亮はめったに鉛筆を持たない。一年のときからそうだった。四月はどの先生も亮に書かせようと、話をさせようとがんばるが、徐々にそれは無理だということを悟る。

「護くん、なにか良い案はありますか」

 加藤明莉だ。黒板の前に立っておれを見ている。学級会の司会をしている明莉は六年一組の女子の中ではけっこういい。みんながショートパンツ、シャーペン、ジャニーズの下敷きのときにも、品の良いプリーツスカートをはき、2Bの鉛筆を使い、無地の下敷きを使っているのがいい。しかもいい感じに胸や尻に肉がついていることが、おれ達の調査によって確認されている。一つ難点があるとすれば、

「はいはーい、さっきから手を挙げているんだからぼーっとしている護より理衣子を当ててよ、明莉さん」

 声の主、理衣子とすごく仲が良いことだ。

「理衣子さん、校内では護くん、でしょう」

「はーい。明莉さん、わっかりましたぁ」

 他の女子がくすくすと笑う。理衣子は枝のように細くて胸や尻に全く肉がついていない。女子は総じておしゃべりだが、理衣子は女子10人分くらいのうるささだ。口だけではなく、頭の回転も速く、テストの点数はいつも理衣子が一位、おれが二位。

「では先に理衣子さんがどうぞ。護くんもその間に考えておいてください」

 やったぁ、と言いながら理衣子が席を立つ。

「私はさっきも言ったけれど、雪合戦をやりたい人と応援したい人に分かれるのがいいと思います。理由は毎年、練習のときや試合が終わった後にケンカになるからです。私が応援チームに入ったらボンボンや団幕を作ったりして一生懸命がんばります」

 理衣子が話している間に黒板を見る。

 議題は『三ヶ月後の雪合戦をどう戦うか』。

 めあては『今年こそ優勝旗を手にするために、練習計画や作戦を立てる』。

 その横に理衣子の名前が書かれ、『雪合戦に出る人と応援する人に最初から分かれる』という意見があり、他の女子の意見、『朝練は無理。起きられない』『どうせ川沿に負けるから熱くならないでほしい』が続く。

 理衣子への反対意見として三郎や達也が出した『全員一丸となって戦うべき』『去年より練習量を増やす』というのがあった。

 おれは軽く前髪をかきあげた。

「護くんは考えましたか」

 明莉と目をあわせる。せっつくような言葉とは裏腹に、明莉の目はおれに助けて、理衣子と三郎が納得するような意見を出してといっている、ように見える。

 おれは椅子からゆっくりと立ちあがった。

「ぼくは、全員がプレイヤーとして雪合戦に参加したほうがいいと思います。理由は、学校行事は勝つことだけが目的ではないからです。クラス全員で取り組むことによって共通の思い出ができることに意義があると思います」

「応援するのだって思い出はできるけど」

「理衣子さん、発言するときは手を挙げて、指名されてからにしてください」

 はーい、と理衣子はわざとらしい笑顔を明莉に返す。

「しかし、得意不得意は確かに存在するので、それぞれの良さが生きるような作戦を立てることについては、理衣子さんの意見に賛成です。また、練習計画や作戦について学級会で話し合うのだったら原案が必要だと思います」

「よくわかんないから、オレがわかるように言って」

 教室の中央に座っている三郎が顔だけこちらに動かした。背が低く、猿のような顔と体型の三郎。頭は悪いが運動神経はめっぽう良い。

「だから、今はどのように取り組むかをみんなで確認したら、雪合戦実行委員を作り、少人数で練習計画や作戦を考えたほうがいいってこと。その後で賛否をみんなに聞いて意見をもらわないと、一から話していたらいくら時間があっても足りない」

 三郎やその他の男子、女子がうなずいている。先生も口元に微笑みを浮かべながらおれを見て、いや、見つめている。

 亮が一秒より短く視線をよこし、にやっと笑った。亮が考えていることはわかっている。

 いい子ちゃんの護くん、ご苦労様、だ。


 野球は9人でやるもの。だが、幌内小学校の六年男子は6人しかいない。一人は亮だから実質5人。現在、幌内小野球チームのレギュラーは六年男子5人、六年女子2人、五年男子2人、補欠が13人。けれどレギュラーはよく入れ替わる。

「お前達は一日一日成長している。昨日打てなくても今日は打てる。昨日捕れなくても今日はグラブに入る。自分を信じていつでも全力を出せ」

 監督は三郎の父親である井出さん。高校のときに甲子園直前までいったチームの控えのキャッチャー、だったらしい。本人の前では絶対に言えない渾名はゴリラーマン。井出さんの指導を一言で表すと熱い。挨拶、ランニング、体操、キャッチボール、シートノックと先頭で行い、誰よりも声を出す。三郎がそれに続く。井出さんは熱いけれど怒ったり殴ったりはしない。褒めて褒めて特に女子には生きているだけで価値があるばりに褒める。

「OKOK。グラブに当たったっしょ。目さえがっちり開けておけば次は絶対にグラブに入ってるから」

 こんな感じ。直情的に怒るのはキャプテンの三郎だ。

「なにやってんだよ。もう、やめちまえ」

 三郎はキャッチャーをやることが多いのに、皆を伸び伸びさせたり、ピーッチャーであるおれに気をつかったりとかが、全くできない。けれど、三郎は他人に厳しい以上に自分にも厳しいことを皆が理解している。だから、三郎の言うことを適当に聞き流している。はいはい、と表向きは言いながら。

「もうすぐ、できなくなんな」

 グラウンドにとんぼをかけていたら三郎が横に並んだ。二つの板が同時に動き、土を平らにしていく。

「これからが本番の道大会だろ」

「親父さぁ、二年ぶりに道までいけたからやばいぜ。オレ、毎日プロ野球のビデオを見せられてる。こういうときの球種はな、ここで交替だ、これが采配ミス、ってさ。食べているときも風呂も、時間さえあれば野球の話」

 グラウンドの端までとんぼを引っぱり、おれが内側、三郎が外側で半回転する。

「由紀先生が宿題にうるさくなくて良かったな」

「まじさぁ。岡ちゃんのときよりドッチの回数は減ったけど、話がわかる先生でよかった。オレのどこに勉強する時間があるのか教えてくれって」

 グラウンドのでこぼこが見えづらくなっている。日増しに陽が落ちるのが早くなってきていた。他のメンバーは既に片付けを終え、朝礼台に置いてあるランドセルをしょっている。キャプテンである三郎と副キャプテンのおれが一番最後まで片付けをする。これは井出さんの方針だ。

「三郎、ペースあげよう」

 二人でとんぼを前後に動かしながら進んでいく。

「オレさぁ、野球が好きなんだよ」

「わかってる」

 おれは笑みを浮かべた。三郎はまっすぐで裏表がない。亮と足して二で割ると小学六年生としてちょうどいいんじゃないか。

「護、中学へ行ってもバッテリー組もうな」

 おれの吸った息は浅かった。とんぼの動きが止まってしまった。が、すぐに押した。

 前へ。

 三郎のとんぼの横へ。

「そうだな」

 つぶやくような声しか出なかった。三郎に聞こえただろうか。

 中学に入ったらどうするかはまだ決めていない。理衣子は親の転勤で札幌の中学に通うことが決まっている。皆と離れるのは嫌だと毎日のように言っているが、好奇心旺盛な理衣子に札幌は似合っている。おれは皆と同じ公立の中学に進む。中学の野球部は今までとは違う。部活は毎日、土日は遠征。冬期は専用の体育館で練習があるらしい。三郎が言うように時間は限られている。今までやってきたからという理由だけで野球を選んでいいのだろうか。

 三郎と同じタイミングでとんぼを右手に立てて持ち、誰もいないグラウンドに頭を下げた。

「護、乗ってけ」

 井出さんは、バットやグラブがきっちり詰められた一メートル四方のかごを軽々とトラックの荷台に乗せた。井出さんの横に三郎、おれは助手席に乗る。うちまでは歩いて30分、車だと一度、国道に出るけれど5分もかからない。三郎の家は逆方向なのに井出さんは余程急いでいない限り、練習後に送ってくれる。ついでにジャガ芋や人参、玉葱をたくさんくれる。

「護、肩冷やすなよ」

 はい、と返事をする。直接言われたことはないけれど、井出さんは三郎とおれのバッテリーがこの先も続くことを期待している。

「護の父さん、学校についてなんか言ってたか?」

「学校? なんも言ってないです。最近ゆっくり話してないけど」

「なんかあんの? 父ちゃん」

「まあな、いろいろあんだよ」

 井出さんは大きなハンドルを両手でまわして国道に出た。

「お前らはさぁ、幌内小学校が好きだろ」

 三郎は、うん、おれは、はい、と答えた。 

「おれも今まで通りの幌内小がいいんだけどなぁ」

 井出さんはもう一度ハンドルをまわし、細い道を登った。高い視点から暗い道を眺めるといつもより心細く感じる。亮の家には電気が点いていなかった。


 井出さんのトラックのテールランプが見えなくなるまで家の前に立っていた。この辺に外灯はない。うちから漏れている明かりが頼りだ。

 門から玄関まで五つある飛び石の上を一つ一つ確認するかのように進み、引戸の玄関に手をかけた。

「ルイのせいで、まかしちゃったんだからね」

「違うよ、ルカがかっちゃいたからだろ」

「かっちゃいてないし」

 勢よく引戸を開ける。5歳児二人が同時に顔を上げ、お兄ちゃん聞いてよ、と言う。顔はそっくりだけれど髪を二つに結っているのがルカ、短髪がルイだ。二人の横、おれがいつも座る席に亮がいて、テーブルの上を布巾で拭いている。ばあちゃんは台所で、どちらかがこぼした味噌汁を注ぎ直しているのだろう。

「亮、ごめん」

 亮は口元で笑った。

「なんでお前らは亮に拭かしてんだよ。自分がこぼしたんなら自分で拭け」

 だってルイが、ルカが、と二人は騒ぐ。

 荷物を玄関に置き、サンキュ、と亮から布巾を受けとった。テーブルの上にはばあちゃんが作った煮物とお浸しが大皿に盛られている。

「遅いんだ?」

 ああ、と亮が答える。五年前から亮の父親の帰る時間が読めないとき、亮はうちで夕飯を食べるようになった。

「お兄ちゃん、帰ったらまず手を洗わないといけないんだよ。うがいもだよ。自分の荷物は自分の部屋へ」

 おせっかいのルカだ。おれは味噌汁を吸って茶色くなった布巾をルカの顔に投げてやろうかと思った。女は産まれたときから女だからという母親の言葉を思いだす。やんなきゃいけないんだぁ、やらないと言いつけるからね。ルカが頻繁に言う台詞を男のルイはほとんど言わない。

「ルカ、ルイ。お味噌汁をこぼしてごめんなさいをばあちゃんに言ったのか? それから亮くんに拭いてくれてありがとう、だろ」

 ルカは、ごめんなさい、ありがとう、と軽く言い、笑顔をつくる。さすが女子だ。

 ルイはルカへの文句を言い続けている。

「ほら、ルイ」

 ルイは目を伏せ、

「ばあちゃん、ごめんなさい」

 と言った。台所にいるばあちゃんには絶対に聞き取れない声の大きさだ。

「亮には?」

 ルイの目から涙が溢れた。

「ルイってばすぐ泣く」

「ルカ、余計なこと言うなよ」

 おれを睨み、ルカは持ったばかりの箸を茶碗に置いた。

「いいから」

 亮がルイの頭を前から後ろへなぜる。ルカの口から言葉は出ない。

「兄ちゃんが肉でも焼いてやろうか?」

 ため息とともに言ったら、二人はぱっとおれに顔をむけて大きくうなずいた。


 台所の電灯が、流しの前で生姜を擦る亮の顔を白く見せている。亮の顎にまたニキビができている。おれにはないニキビ。運動不足、睡眠不足、栄養不足。いろいろ原因は考えられる。

 充分に育った鮭一匹を横たえてもまだ余る広い流しと作業台の上に、まな板を出してキャベツを切る。大鍋、行平鍋、鉄のフライパンが三口コンロの上に置いてある。その横には一升炊きの炊飯器。天井すれすれの背の高い食器棚には使われていない皿がたんまりと重ねられ、去年買ったばかりの両開きの冷蔵庫があり、奥の古い冷蔵庫はブーンという音を立てている。冬の北海道では食品が腐らないように、ではなく、凍らないようにというのが主な目的で冷蔵庫は使われる。それにしても五人家族で二台の冷蔵庫はいらない。中身を整理すれば一台で充分だ。けれど誰がそれをするのか。ばあちゃんはもったいないと言って決して捨てない。人を雇わずに鳥羽(とば)酪農ファームを経営している父親と母親は夕飯時に帰って来られないくらいの忙しさなんだから冷蔵庫の整理をする余裕はない。ルイとルカにできるわけがない。おれか、ともう一度ため息をつき、居間でおれが肉を焼くのを待っている双子を眺める。

「今できる、最高の無茶をする」

 亮は言い、擦られた生姜が入ったシルバーのボールを差しだした。

「無茶って。これにお前の指の皮とか入っていないだろうな」

 醤油と酒を適当にボウルに入れ、長い菜箸でかき混ぜる。

「ボンドはいいよなぁ。チビがこぼした味噌汁を拭かなくていいし」

 おれが言ったら、

「いつもいい子ちゃんでいなくていいし?」

 亮がにやっと笑いながら続けた。

 おれは冷蔵庫から出しておいた豚肉をボールに一枚ずつ開いて入れていく。

「ボンドだってエムに対しては本音が言えていないときもある、よな?」

「護のほうがクールかもな。ボンドはけっこう顔に出てる」

「まじで? ボンドより?」

「フライパンに火、いれとく?」

 おう、と応える。

 おれがクール? さっき布巾をルカに投げつけようとしたけれど。学級会のときだって皆が納得する意見を言うのは面倒だと思ったけれど。

「護、煙が立ってる」

 おれはコンロの下からごま油を出してフライパンに注ぎ、馴染ませてから肉だけを放り込んだ。油がはね、フライパンのハンドルを持ったまま半身になる。

「玉葱でも炒めればよかったな」

「即断即決即行動。肉だけであってるっしょ」

 亮は大皿に千切りキャベツを盛った。


 旭川市のグラウンドで今年初めての雪虫が飛んでいた。身体全体が綿にくるまれているような、羽のある小さなアブラムシは飛ぶというより風に流されている。

 雪虫が舞うと初雪が降る。

 幼い頃、おれ達は競うように雪虫を見つけては雪だ雪だとはしゃいでいた。

 小学校軟式野球の道大会が旭川市で行われた。おれ達は二回戦、ダブルヘッダーの二試合目で負けた。

 スコアは1対2。

 最後のバッターになった三郎は一塁にヘッドスライディングをした。アウトと塁審が叫んでも身体を起こさない。

 三番バッターのおれは三郎の前にライトフライでアウトになり、ベンチから三郎を見ていた。

 一塁ベースに手をかけたまま、三郎は泣いている。

 おれが最後のバッターだったら三郎のようにヘッドスライディングをしただろうか。

 きっとしていない。全力で駆け抜けただろうが、おれはそこまで入れない。

 横で身を乗りだしていた井出さんがユニフォームの袖で顔を拭い、何度もうなずいている。

「みんな、行こう」

 おれは声を出し、メンバーと本塁前に並んだ。

 相手チームにむかって礼をし、回れ右をしてベンチ前まで走り、再び整列する。

 五、六年生の親や親戚が立って拍手をしている。

 おれの両親はいない。

 井出さんファミリーは『必勝・幌内キングス』という垂れ幕を持っている。井出さんの奥さんの目も赤くなっている。

「ありがとうございました」

 ユニフォームを真黒にした三郎が涙を流しながら叫び、全員で繰り返した。

 拍手が響く。

「父兄の皆さん、地域の皆さん。キングズがここまでこれたのはこども達の努力と皆さんの支援があったからです。どこまで野球の楽しさを伝えられたかわかりませんが、俺は監督として幸せでした」

 井出さんのあまりの声のでかさに、次の試合に出る登別ブラックベアーズのメンバー、審判、近くにいる人達は皆、こちらに注目している。

「小学生として野球ができるのは今だけだぞ。ブラックベアーズのみんなも精一杯、戦うんだ。俺はみんなを応援しているから」

 鼻につんときていたのが抜け、おれは笑ってしまった。井出さんは野球やこどもが心から好きなんだ。

 頭をあげると舞っているのは雪虫ではなく、本物の雪だった。


 予想通りだ。ピンクのスキーウエアを着た理衣子を筆頭に女子が三人、教室へ戻っていく。亮は我関せずという顔をして朝礼台によっかかっている。由紀先生は四年の担任の近藤先生に頭を下げている。

「オレらだけでやろうぜ」

 三郎がソフトボールを両手で揉み、

「女子って面倒くせえ」

 三郎と同じくらい身体を動かすことが好きな達也はボールをおれへ投げた。


 昨日、帰りの会で先生が言った。

「明日から朝練だね。先生も参加するからみんなでがんばろう」

 窓の外は粉雪がわずかに散っていた。グラウンドは週末に降ったどか雪が30センチ以上積もり、いつでも雪合戦ができる状態だ。

 雪合戦と一口に言っても、二チームに別れて単に雪玉を投げ合うわけではない。1988年に国際ルールが制定され、翌年には国際大会が北海道の昭和新山で行われている、ちゃんとしたスポーツだ。

 真白な、辺り一面の雪。そこにドッチボールをするときのようなコートがあるのを想像してほしい。

 自分の陣地と敵の陣地をわけているのがセンターライン、陣地の端がエンドライン。エンドラインの中央には一本のフラッグ(旗)が立つ。敵が投げてくる雪玉に当たらずに、敵のフラッグを取れば勝ちだ。

 シェルター(壁)が各陣地に二つずつ、センターライン上に一つあり、味方に球を捕球したり、相手の球をよけたりするのに使われる。

 雪玉に当たったらコートの外へ出なければいけない。

 時間内にフラッグを取れなかったときはコートに残っている人数の多いチームが勝ち。全員当てられたら負け。

 最初に持つ雪玉の数も決まっており、たこ焼きを作るときに使う鉄板のような形状の雪玉製造機もある。

「先生、全然テンション上がんないよ。なんか理衣子に夢をちょうだい」

「夢ねえ。なら、がんばったら全員にアイスを奢るよ」

 えーっという否定の声。

「なまらしばれてんだよ。なんでアイスなの。嫌がらせ?」

 理衣子の斜め前に座る明莉が後ろをむき、言い過ぎ、と口を動かしている。

「優勝したら、算数の授業を一時間、ドッチボールに替えようか」

 やったぁ、それがいい、と反応したのは三郎と達也のコンビだ。

「喜ぶのは三郎達だけっしょ。それに優勝するのなんて絶対無理だし。川沿には何年も勝ったことがないんだから。去年だって二セット連続で取られたし」

 先生は苦笑いしながら教室を見渡した。

 目があう。

 思いだした、というように先生は微笑んだ。

「みんなで楽しくできたら、楽しくっていうか、学級会で護くんが言っていたように、六年一組として良い思い出ができたら、うちに遊びに来てもいいよ」

「まじで? 約束だよ?」

 先生は理衣子に笑顔を見せている。

 おれは、窓際の一番前に座る亮に視線を送った。ここからだと見えないけれど、机の下で利き腕の左の拳を握っているに違いない。ガッツポーズ。今年の亮は練習にも試合にもちゃんと参加するだろう。


 昨日の帰りの会に降っていた粉雪が今朝になっても舞っていた。粉雪だからってばかにできない。降り続けばそれなりに積もる。スキーで滑るには最高のさらさら雪だけれど、人間が走るのにはむかない状態だ。

 7時20分におれらがグラウンドに着いたとき、由紀先生は女子達と話していた。先生は上下白のスキーウエアを着ていた。背中に大きく金色のライオンが刺繍され、胸元にも同じライオンが輝いている。毛で編まれたベージュのニットキャップは先生の耳を隠し、よくスキー場にいる、滑るよりもお洒落が大事という雰囲気の観光客のようだ。

「全員揃ったから始めようよ。三郎、護くん、今日はどうする? 雪玉を作るのは無理だよね。護くん、聞いている?」

 慌てて明莉へ視線をむけた。練習をリードする雪合戦実行委員はおれ、三郎、明莉、理衣子の四人だ。

「基礎練習をしよう。雪の上を走ったり。うーん、あとは、走ったりしようぜ」

 そう言った三郎に達也が続き、男子、野球チームの女子が追いかける。おれは残りの女子と亮へ声をかけ、遅いペースで走り始めた。表面の雪はほとんど水分を含まず、スノーシューズでつかむことはできない。今まで積もった雪は凍っており、走るというよりもシューズを滑らす感じで前に進む。半周まわると近藤先生が教員アパートから走ってきた。

「お前ら、えらいぞ。下半身を鍛えるのが雪合戦の基本だよな」

 近藤先生の眼鏡は吐く息で曇っている。眼鏡の下に手袋をしていない指を入れて曇りを取り、先生は三郎の前を走りだした。近藤先生は幌内の雪合戦チームの青年部に入っているらしい。

「打倒、川沿。おい、お前ら、声出すと温かくなるぞ。ダトウ、カワゾエ」

「ダトウ、カワゾエ」

 三郎が近藤先生の声のあとに繰り返す。

「ダトウ、カワゾエ」

「別に、川沿に勝つためにやってるわけじゃないし」

 理衣子がおれの後ろでつぶやく。

 そうだな、と思いつつ、ダトウ、カワゾエとおれは三郎達に合わせて声を出す。

「一周で充分あったまったから、身になる練習をしよう」

 三周走って戻ってきたおれ達に朝礼台前で待っていた理衣子が言った。近藤先生の横に由紀先生が並び、二人は楽しそうに四周目を走っている。

「一周だけで下半身が鍛えられるかよ。あと二周は走ってこいよ」

 三郎の顔を覆うように白い息が広がる。かなり身体が温まっている証拠だ。

「面倒くさい。下半身なんてそう簡単に鍛えられないって。精神論みたいなのは止めてよ」

「なんだよ、精神論って」

 理衣子がばかにするような目を三郎にむける。

「みんなが楽しめるような練習内容を考えるって言ったっしょ。だから全員で参加することに決めたんじゃん」

「倉庫にソフトボールがあるから、あれを投げたりキャッチの練習をしよう。試合のときの前半チームと後半チームに分かれて」

 おれは三郎の肩を軽くたたいた。

「コーンとボールを運ぼう」

 三郎が大声で皆に指示を出す。

「体育倉庫は開いている?」

 明莉が言ったとき、先生達が四周目を終えて笑いながら戻ってきた。なんとなく全員がそっちを見る。

「雪の上を走るのって楽しいね。どんどん身体も温まるし。みんなも、もっと走ろうよ」

 笑顔の由紀先生はその場でジョグをしている。

 天然系、と亮の声が後ろから聞こえた。

 

「そうじゃないっしょぉ」

 近藤先生の大きな声がしたとき、おれは亮とキャッチボールをしていた。

 ソフトボールを濡らしたくないから、雪の上に落とさないように投げ合いをする。最初は短い距離で。慣れてきたら少しずつ二人の距離を広げて。

 三郎が前半チームのコーチをし、亮や理衣子がいる後半チームのコーチは近藤先生に頼んだ。

「さわんないで。セクハラじゃない?」

「したっけ、もっと逆サイドの足を前に出すんだって」

 近藤先生が理衣子の左足をつかんで前に出させた。

 さらさら雪に足をとられ、バランスをくずした理衣子が尻餅をつく。

 大丈夫? と他の女子がかけよる。

 理衣子は両手を顔につける。

 ああ、理衣子のいつもの早泣きだ。

「女の涙は自由自在だよな。ただ練習が嫌なだけだろ」

 亮はおれの真横にいた。

「そう言えば、ルカもすぐに泣くな」

「ボンドガールは強く賢く美しくだよな?」

 理衣子は大義そうに立ち上がり、取り巻き女子三人を連れて児童玄関へ歩いていく。

 近藤先生が途方に暮れたように去っていく女子を見ている。

 やっと事態に気づいた由紀先生は理衣子達のところへ行って話をし、近藤先生の前へ戻ってきた。頬が上気して赤くなっている。

「由紀は二代目の美佳をこえたな。雪が似合い過ぎる」

 由紀先生は胸に刺繍された金色に光るライオンのように輝いている。おれの目は美しい由紀先生を映していたが、おれの耳には雪合戦実行委員会でキーキー言うであろう理衣子の甲高い声が響いていた。


 冷えた空気の雪合戦実行委員の打ち合わせをなんとか終え、亮の家へ寄った。

 亮は部屋を真暗にして大画面の薄型テレビで007を見ていた。

 『女王陛下の007』。1969年公開、亮が最も好きな作品だ。

 おれは荷物を置くのも湿ったウエアを脱ぐのも忘れて画面に見入る。ボンドが死んだテレサの頬を撫でている。悲劇的なラストシーンだ。

 エンドロールが流れだしてからリュックを下ろして居間の電気を点けた。

 亮は大人三人がゆうに座れるソファに横になり、じゃがりこを煙草のように口にくわえながら画面を眺めている。暖房は、床暖だけだ。

 おれは足元にあった折り目がついたままの新聞を手に取り、カウンターキッチンにある新聞入れに置いた。流しには水が入ったマグカップが三つ置かれている。他に食器や調理器具は出されていない。きれいにしているというより、使われていない台所だ。

 亮が、『女王陛下の007』が好きなのはハッピーエンドではないからだろうか。ソファに寝ている亮の背中をカウンターから見つめる。

 亮が一年生の冬、亮の母親は交通事故で死んだ。カーブで滑ったトラックと正面衝突。1000ccの乗用車は原型がわからないくらいぐちゃぐちゃだったらしい。家族でこっちに越してきて、この家を立て直して一年も経っていなかった。それから、亮と父親はずっと二人暮らしだ。

「寒い。ガスいれないか?」

 おれはソファの横のガスストーブの前に立った。返事がない。

「聞いてる?」

 亮がゆっくりと顔をこちらに動かした。長い前髪で目はよく見えないけれど、お前、いたのかというような表情をしている。

「やばいよ、護。どれ見てもボンドガールが由紀に見える」

 は? 口が半開きになる。

「雪の中の由紀、最高だよな」

 亮、とおれはストーブの入のボタンを押す。

「そんなことを考えながら観ていたのか?」

 亮の足をどけながらソファに座る。

 亮は座り直し、両手をあげて上半身を伸ばした。

「他に何を考えて観るんだよ」

 おれはテーブルの上にあったじゃがりこのカップを手に取って一本かじった。 

 ストーブが動きだし、ウイーンという音が響く。

 おれの頬を亮が凝視している。

 おれはじゃがりこをもう一本食べる。テレビの横の、背の低い黒のキャビネットには高そうなティーセットやグラスが飾ってある。うちの食器棚に比べて隙間が多い。こういうのが世間でいわれている、見せる収納ってやつなんだろう。テレビを挟んで逆側のキャビネットにはDVDと文庫サイズの小説が並んでいが、どちらも『007シリーズ』のみ。亮の父親の趣味はいたってシンプルだ。

「なんかお前、疲れてない?」

「疲れるよ。三郎と理衣子の話し合いにつきあってみろって。由紀先生がいなかったら地獄だよ」

 亮はおれを見たまま、にやにやと笑っている。こいつに話しても無駄だ。きっと由紀先生がいればそこが天国だと思っているに違いない。おれはじゃがりこを次々に口に放り込む。


「由紀は新しいボンドガールだから。おれのものでもお前のものでもない。守るべき人、な」

 由紀先生が幌内小学校に着任した十月一日の帰り道、亮は言った。

 学校の裏手から伸びる農道に人の姿はなく、車も通らない。通るのはキツネ、リス、ネズミ、どこかの家から逃亡を図った牛や猫、犬くらい。ああ、道産子、足が短くて力の強い北海道の馬も通る。道には春から夏にかけては雑草もまばらに生えるが、北海道の短い秋の間は土が露出している。

「あれだろ。今日着ていた黄色のミニスカートがきめてだろ」

 おれの言葉に亮はうなずき、3秒後に首を振った。

「違う。大事なのはスカートより足だ。ふくらはぎと足首」

「それと水着姿?」

「ついビキニを想像するよな」

 007の第一作に出てくるボンドガール、ハニーライダーの白いビキニ姿。隣りでにやにや笑っている亮も、海から上がってきたセクシーなハニーライダーを思い浮かべているのだろう。

「なあ、護。由紀は都会の匂いがするよな。目だけだったら美佳のほうがいいけど、彼女は遠いところにいるから」

 もちろん、おれは由紀先生が三代目のボンドガールで異存はない。

 初代ボンドガールは名前こそ出なかったがおれの母親だった。一、二年生の頃は学校から帰ってきたら、おれと亮は二人で彼女、自分の母親だけれど、木々の隙間や牛舎の陰から見守っていた。

 二代目は同じ地区に住む三つ年上の林美佳。長く真直ぐな黒髪、くっきりとした二重が日本人ボンドガールの一人、浜美枝に似ていると言い出したのは亮だった。集団登校、集団下校のとき、おれ達は彼女の後ろに陣取った。必ずおれが右、亮が左だった。彼女と接近できる行事があるときには、おれが誘わなくても亮は学校に来ていた。中三の彼女は今、隣りの市までバス通学をしている。接点は少ない。

「学校にいるときの由紀は仮の姿だ。なれなれしくすんなよ」

 由紀先生が来てから一週間が過ぎた帰り道での亮の発言だ。

「だからって、先生が話しかけても答えないのはどうなんだよ。先生、困っているし」

「いいんだよ。いつか、わかる日が来る」

 6年目に入ったおれ達の関係。このモードの亮には何を言っても無駄だ。

 おれは転がっていた拳くらいの石を蹴った。

 やや猫背の亮がほっほっという感じで小走りをし、石をさらに前へ蹴る。

 同じクラス達也と短距離走一位の座を常に争っているおれは、颯爽と亮を追い抜き、さらに石を蹴った。


 運動会が終わり、おれと亮の007好きは先生に伝わった。だが、三代目ボンドガールとして陰ながら守っていることは明かせない。

「雪合戦の練習は体育でもやってるし、あんなもんだろ」

 亮はリモコンでテレビの電源を消した。

 おれは大きくため息をつく。ショーン・コネリーのように眉間に皺を寄せてみる。

「お前さ、そんなに川沿に勝ちたい?」

「いや、そうことじゃなくて、もっと盛り上がりたいんだよ。雪合戦大会に出るのは今年で最後だし」

 亮はじゃがりこの箱を奪い、三本しか残ってねぇと言っている。

 理衣子が途中で帰った朝練から一人、また一人と人数が減り、試合まで残り一ヶ月を切ったのに、今は多くて七、八人、いつも同じメンバーだ。しかもインフルエンザの流行が重なり、今朝は男子三人に由紀先生と近藤先生だけだった。亮は一度も休まずに参加している。人数が減る度に亮はひそかに喜んでいる。由紀先生と接近できるチャンスが増えるからだ。

「えらいね、いつも来て」

「雪合戦、好きなの?」

「よけるの、うまいね」

 自分の名前は好きではないから呼ばないでくれ。亮が作文用紙にそう書いてから、先生は亮の名前をなるべく呼ばないようにしている。

 亮は、自分に声をかけているのをわかっているくせに先生の言葉に反応しない。時おり、首を縦や横に振るだけだ。あれじゃあ、先生を避(さ)けているとしか思われない。亮はいいかもしれないが、先生はきっと気にしている。

 ああ、ソファにだらっと横になって、ゆうき、ゆうきと言っている亮を先生に見せたい。ボールペンに小型カメラでも仕掛けて。

 作りたい。

 材料は何が必要だろう。動画は無理でも静止画なら作れるんじゃないか。時間があるときに、っていつだ? 冷蔵庫の片付けもできないのに。

「泣き虫理衣子ちゃんはどんな?」

「もうすぐ冬休みだからさ。三郎は休みの間も練習しようと言っているんだけど、理衣子はお正月だし東京へ遊びに行くから嫌だって。面倒くさい面倒くさいって全然やる気がないんだよ。理衣子は本番さえがんばれば先生の家に遊びに行けると思ってるし」

 ふいに亮がおれにぴったりとくっつき、肩に腕をまわした。耳に亮の息があたる。

「ちょっ、こそばいんだけど」

「護、スパイに行こうぜ」

 真横に、口を歪めるように笑っている亮の顔があった。


 ばあちゃんとルイ、ルカが寝た気配がする。五年まではおれも和室に布団を敷いて寝ていたが、六年になるときにどうしても自分の部屋が欲しい、ベッドが欲しいと強くアピールし、六畳の洋間を手に入れた。初めての個室。家具はベッドだけ、それも三郎の兄ちゃんが使っていたやつだし、よくある学習机はなくて宿題は台所のテーブルでやっているけれどそんなのはどうでもいい。自分だけの空間。そこに入ってドアを閉じれば一人になれる。ルイ、ルカが起きている時間は一緒にいなければいけなかったが、それでも自分の部屋があるという事実が大きい。

 おれは密やかにベッドから身体を起こした。音がしないようにドアを開閉し、電気を点けずに居間を通って台所まで行く。流しの上の小さな白熱灯の紐を引張る。一度では点かない。何度か引張り、ようやく白い光が流し周辺を照らした。

 明日は早朝七時に家を出ることにした。川沿小まで片道二時間。おれは今夜のうちにおにぎりを作ろうと思い、両開きの冷蔵庫を開けた。焼いた切り身の鮭を濃い醤油と酒の液に漬けた通称『ヅケ』が入った透明なタッパーを取りだす。卵置きのところに置いてある胡麻に目がいき、ほぐした鮭と胡麻をご飯に混ぜてしまえば楽ににぎれると考えた。流しの下からボウルを出し、ほんのり温かいご飯をうつした。

 突然、低いモーター音がし、びくっと身体が震えた。古いほうの冷蔵庫だ。だから早くこれをなんとかしなければと思いながら鮭と胡麻をしゃもじで混ぜた。食器棚の下の扉から真四角のタッパーを取り出し、作業台に置く。ご飯粒がくっついたら面倒だからタッパーにラップを敷く。手に水を垂らし、一つ、二つと握っていく。やばい。どうしておれってこうも先、先のことが考えられるんだ。しかもこの手際の良さ。亮は今頃007を観ているか、小説を読んでいるか、風呂に入っているか、寝ているだろう。百パーセント、明日の食料については考えていない。スパイならもっと計画的にならないと。

「護、何してんの?」

 握っていた手に力が入った。真後ろにいるのは母親だ。

「疲れたぁ。もしかして私たちの分?」

 おれは振り返らずに、そう、と言った。

「嬉しいな。先にお風呂へ入ってこようね」

 母親が和室へ行った気配がした。おれも亮のことを云々言えない。母親が帰ってきたのに気づかなかった。固く握ったおにぎりをタッパーに入れ、手のぬめりを取るために水を流す。平らな皿を出し、自分達ようにあと二個、父母用に六個握るか、と計算する。

「護、明日さぁ」

「ええっ」

「なにびくびくしてんの」

 スエットの上下を持った母親が台所の椅子に座った。うちの家族は、夜ご飯は居間のちゃぶ台で食べる。台所は朝や昼など、銘々が食べるときに使う場所となっている。

「別に。ルイ達を起こしたら面倒だから静かにしてるだけ」

 続きを握る。何も悪いことはしていない。

「護はえらいし優しいよ。誰に似たんだろう」

 母親は一つに結わいていた髪をほどき、両手で髪をすいた。毎日休みなく、こんな時間まで働いている父や母のほうがえらいと思う。

「父さんは?」

「もう帰ってくる。お産が近くて。ナナは初産だから」

「言ってたね」

 ナナというのは牛の名前で、乳の色が黄色から白に変わったから今日か明日にでも産まれるとばあちゃんが話していた。

 おにぎりはあと三つ。話が途切れると古い冷蔵庫のモーター音が聞こえてくる。会話がないと気詰まりだ。つい余計なことを話したくなってしまう。

「明日って何? さっき言いかけた」

「そうそう、明日の夜に小学校で集まりがあるんだけど、うちらは行けないから護に行ってきてほしいの。学校のことだって」

「学校?」

 振りむき、母親と目をあわせた。母親は頬杖をついたまま、ため息とごめんねを一緒に吐きだした。 

「いいけど」

 夜なら空いている。

「護は料理が好き?」

「なんで?」

「なんか楽しそうだから。護は昔から何かを作るのが好きだったものね」

 にこにこと笑う母親の目にはおれへの愛情がこもっている。

「将来、無理に継がなくていいからね。護は好きなことをやっていいから」

 おれは白熱灯の方へ向き直り、残り二つとなったおにぎりを握った。目の前には白熱灯の紐がぶらんと垂れさがっている。手を動かしながら息を吹いて紐を揺らす。好きなこと、自分がこの先やりたいこと。それは何だろう。

 

 なんか夢を見たけれど忘れた。長い長い一日の始まりにおれがしたのは、六時四十五分に鳴った枕元の目覚まし時計を一秒で消すことだった。ルイとルカを絶対に起こしたくない。着替え、トイレを済まし、水筒に熱いほうじ茶を入れる。スパイとほうじ茶は似合わないけれど、そんなことを言いだしたらおにぎりだってボンドは食べないだろう。

「亮と遊びに行ってくる。夕方には帰るから」

 居間でテレビを見ているばあちゃんに小声で伝えた。

「しんばれが強くなるから、あったかくなぁ」

 ばおちゃんはそんなようなことを言っていた。

 外はいつものように白い世界だ。太陽はなく、ふわふわと雪虫のような雪が舞っている。

 護、とささやき声がした。立ち止まり、目だけを素早く左右に動かす。亮がうちの石垣から顔をのぞかせた。口元がほころびかけたが、すぐに引き締め、忍者のように赤いスノーシューズを滑らせた。いや、黒のジャンパーのフードをすっぽりとかぶり、黒のパンツと黒のスノーシューズを履いた亮のほうが忍者に見える。亮は国道とは反対の方角をあごで指し、歩き始めた。リュックまで黒い。

「川沿小へ到着予定は九時半。目的は川沿と欽水の練習試合をスパイ、でいいのな?」

 亮はうなずき、おれの少し前を進む。

「なんか持ってきた?」

「タオル、カイロ、替えの手袋と靴下。あと、あれな」

 淡々と話す亮は、すっかりスパイモードに入っている。

「食料は?」

「菓子。護の好きなじゃがりこ」

「休憩はいつする?」

「一時間後だな」

 おれ達は同時にうなずき、早朝に除雪車がならした車道を歩いた。乗用車が近づいてくる音がしたら左へよける。運転しているのはだいたい顔見知りだ。話しかけられるくらい近い人ではないことを祈る。

「30分で二台か」

 亮が左腕に巻かれたごついGショックを見た。

「さっきの、佐々木さんとこのじいちゃん?」

 だったな、と亮は言い、歩くペースを速めた。

「時間、遅れてる?」

「いや、いいペースだけど雪が強くなってる」

 亮の言葉に、おれは白い空を見上げた。確かに粉雪とは呼べない大きさの雪が落ちてきている。気温も下がっているのかもしれない。身体が温まっているから気がつかなかった。

「腹、減ったな」

「ズケのおにぎり持ってきた。ほうじ茶も」

「ボンドも日本に来たら当然おにぎりだよな。誇るべきジャパニーズファーストフード」

 亮が言い、おれはイエスと返した。

 休憩場所は近隣の農家が夏に野菜の無人販売をする平屋の建物だ。青の瓦屋根に五十センチ以上の雪が積もっている。冬期はほとんど使われていないが、時々集会などで人は来ているのだろう。玄関先まで除雪されていた。

 七時五十分。鍵のついていない引戸を開けて上がり框に腰を下ろし、土間に足を投げ出した。木製の雨戸が閉められていて中は暗い。外よりも冷えた空気が漂っている。亮は手袋を外し、リュックから手の平サイズのカイロを出しておれにくれた。おにぎりを返す。片手でカイロを握りながら、もう片方の手でおにぎりを食べる。1・2リットル入る水筒は亮との間に出しておいた。玄関の引戸を10センチくらい開け、外を見ながらおにぎりを二つずつ食べてほうじ茶を飲んだ。

「今日、夜に学校で集まりがあるんだって。うち、ナナのお産でさ。おれが行くんだけどお前のうちは?」

「学校が統合される話だろ。護が行くんならおれも行こうかな。親父に乗せてもらえばいいよ」

 おれは亮の横顔を見ながら、トウゴウ、と言った。

「うちと川沿、欽水、日吉台の四校が合併する。それか幌内が本校で、どっかが幌内分校になる。幌内小の名前も変わるかもな。北野第五小、とか」

「まじで?」

「二年後の話らしいよ」

「親父さんから?」

「そんなとこ」

 煙草を持っていたら煙をふかしそうな顔を亮はしていた。

「おにぎりはあと何個あんの?」

「四つ」

「ふうん」

 亮の下唇のすぐ下に新しいニキビがあった。体調について尋ねるべきだったのかもしれない。けれど学校が統合されるという話におれは引っかかっていた。

「井出さん達が嫌がるだろ。他校とは犬猿の中なのに」

 亮はふっと鼻から息を出し、

「米英とソ連みたいに?」

 と言った。おれ達の中では、ロシアは未だにソ連だ。007のおかげで外国の位置や政治にも詳しくなった。拳銃、ボンドカー、スパイグッズ。ボンドガール以外にも007には男をとりこにする物が満載だ。

「行こうか」

 亮の言葉を合図に腰を上げた。冷えた手袋をし、片手にカイロを持つ。外へ出たら雪は降り続いていたが、さっきより明るくなっていた。八時過ぎ。太陽は雲があっても存在を示すんだと思いながら歩きだした。

 どれくらい進んだのだろう。休憩所と川沿小の中間地点までには到達していなかった。前触れなく亮が足を止めた。どうした、とおれが言った途端に、亮はしゃがんで歩道の方にむかって吐いた。雪山に薄黄色い染みがつく。

「大丈夫かよ」

 近づこうとすると亮は左手をこちらへ伸ばした。来るな、ということだ。おれは手袋を脱ぎ、リュックから水筒とタオルを出してカップにほうじ茶を注いだ。

「まだ吐き気あるか? あるなら出しきったほうがいいし、ないならこれでうがいしろよ」

 反応がない。きっかり三秒後に、亮はもう一度吐いた。匂いは全くしなかった。雪が吸いとってくれたのかもしれない。おれは雪山にかかった、海苔の黒と鮭の赤が混じった亮の胃液を観察していた。いや、待て。もしかしておれが作ったおにぎりが腐っていたのか。おれは今のところなんともないが亮の食べたズケが? ごめん、と言うべきなのか。

 亮はカップを受けとり、ほうじ茶でうがいをしている。フードが外れ、亮の青白い顔が露になった。額にも幾つかニキビができている。亮のニキビと食生活は直結している。きっと昨晩はカップラーメンかスナック菓子だったのだろう。スパイに行くのなら無理にでもうちで夕飯をとらせればよかった。

 銃口が目の前にあった。青い顔をした亮が左手を伸ばしてピストルを構えている。

「なんか混ぜただろう、お前」

 言葉が出ない。ため息のように大きく息を吐いたら白い塊が広がり、一度でこんなに息が出されているのかと思った。言いたいことは山程ある。具合が悪いなら言えよ。無理しておにぎりを食べることはなかったのに。体調管理もスパイの仕事の一つだろう。

 亮はにやっと笑って銃をおろし、水筒のカップをこっちに差しだした。

「水分をもっとくれ。変なもん入れんなよ」

「お前さぁ」

 笑ってしまい、言いたいことは白い息と共に消えていった。

「続行できんの?」


 こいつは正真正銘のバカではないだろうか。おれは、フードを深くかぶった亮の真後ろを歩いていた。四足のスノーシューズが立てる、柔らかいものを押しつぶすような音が、バカすぎる、こいつ、バカすぎる、こいつ、というふうに聞こえる。出発したときより雪は強くなっていたが亮のペースは落ちなかった。こんな天候で練習試合が行われるのか。うちの学校ではインフルエンザが流行っているのに川沿小や欽水小は大丈夫なのか。そもそも練習試合があるという情報はどれくらい確かなんだ。いろんな疑問が浮かんだが、亮の猫背気味の背中を見ていたら川沿小でスパイすることよりも、川沿小に無事に着くことが目的のように思えてきた。

 実際、亮の考えていることはよくわからない。一、二年の頃は学校に来てはいたが、半分は保健室で過ごしていた。三年になって亮は学校を休むことを覚えた。熱がある、腹や頭が痛い。理由をつけて休んでいた。頻度も計算済みだったのだろう。親も先生も許してくれる、ぎりぎりのところ。おれ以外の人とあまり話をしなくなったのも、小説を読めるようになり、さらにスパイの世界にはまっていったのもその頃だった。建て替えされたばかりの新しい家で、一人ソファに横になり、あのときの亮は何を考えていたのだろう。

 車道の幅が広くなり電柱が増えた。見覚えのある景色だ。雪でところどころ字が隠れているが川沿小学校入り口という青い看板があった。ここを右に曲がって坂を登れば目的地だ。

 それにしても静かだ。近辺に人がいる気配がしない。おれ達は口を開かず、除雪されている坂を登り始めた。毎日、川沿小の人はこの坂を登っているのか。足腰が強いはずだ、と少しはスパイらしいことを考え始めたときだった。

「隠れろ。バスが来る」

 亮が叫んだ。

 隠れる? どこに? 

 亮は真横に飛んだ。亮、それで隠れたつもりなのか。雪山に黒い人が倒れているようにしか見えないぞ。

 おれは一歩、また一歩と亮に近づいた。除雪されていない、しかも新雪が積もった雪の上を歩くのは至難の技だ。足が雪にめりこみ、膝まで、太ももまで雪が深くなるともう足を上げることはできない。うつ伏せに倒れている亮に一応かけられるだけの雪をかけた。おれは身体を縮めたが完全には姿を隠すことはできない。坂の下から小型バスが上がってくる。バスの横腹には黒い字で欽水小学校と書かれていた。


 兄ちゃん、護兄ちゃん。

 呼ばれている。白い世界を歩いていた。上から下まで黒い亮が側にいない。360度、白い。白しかない。

「お兄ちゃん、起きて」

「兄ちゃんったら、亮くんのお父さんが来ているよ」

 眼を開けるとルイ、ルカの顔があった。自分のベッドで寝ていた。ドアから居間の光が入ってきている。玄関に亮の父親が立っているのが見えた。慌てて身体を起こし、ベッドから足を下ろした。重い。足も腕もいつもの倍以上の重さだ。おれは足に体重を乗せ、右足、左足と意識して動かした。まるで他人の身体のようだ。

「護、吹雪いてるからちゃんと着たほうがいいぞ」

 眼鏡をかけた亮の父親、和瀬さんが言った。おれは軽く頭を下げ、ガスストーブの上にかけておいた青のスキーウエアを羽織った。あんなに濡れていたのにすっかり乾き、温かい。

「亮はどうですか?」

 身体を持ち上げて大型四輪駆動車、ランドクルーザーの助手席に座る。エンジンはかけっぱなしにされていた。

「こわいこわい言って寝ている」

 亮と同じような黒のジャンパーを着た和瀬さんが車をバックさせた。普通の乗用車だったら滑ってしまいそうな強いアクセルの踏み方だ。

「どんなあんばいですか? 朝、吐いたんですよ」

 ハンドルをまわして後方を見ながら和瀬さんはにやっと笑った。亮そっくりの笑い方だ。

「なんもさぁ。寝てれば大丈夫だろ。朝から楽しんだんだろ」

 細面の和瀬さんの横顔がメーターの発している仄かな光りに照らされていた。


 川沿小の下の坂から這い出した雪まみれのおれ達を、バスで通りすぎた欽水小の先生が呼びにきた。野球や陸上大会、スケート大会など、おれの顔は売れているのだろう。すっかり幌内小の鳥羽護だとばれていた。

 ちょうどよかった、欽水小の人数が足りないから出てくれと言われ、おれは四試合、約二時間、欽水小のメンバーとして川沿小と戦った。

 欽水小のエースは堺。三郎に似ていた。背が低くてすばしっこい。前に行きたい、サポートしてくれ、雪玉が欲しい。わかりやすかった。堺はおれがチームに入って強くなったことを単純に喜んでいた。練習試合だから本気を出さない、勝っても負けてもいいとは絶対に思わない、常に全力を出すタイプ。

 堺と正反対なのが川沿小のエース、駒津。おれよりも背が高く細い身体をしていて、大人びた顔つきといい、中学生のように見えた。第一試合でセンターラインに整列したときに、駒津は賢そうな目を細めておれの全身をくまなく見ていた。

 川沿のバックス(守り手、雪玉をフォワードに供給する)が川沿の陣地に攻めている堺を狙える場面があった。おれはセンターラインの壁から堺をフォローしていた。駒津はバックスの男子に声をかけ、わざと堺にフラッグを取らせた。喜ぶ堺を横目に、駒津は控えのメンバーの耳元に口を寄せた。堺の動き方をメモさせていたのだろう。

 審判は両校の先生が一人ずつエンドラインについていた。雪が降り続き、視界は悪かった。センターラインで雪玉が当てられた場合は自己申告することになった。

 バックスをしていたおれは確かに駒津の足に雪玉を当てた。駒津は一瞬おれと目をあわせ、二人の審判を見た。直後、駒津がおれにむかって雪玉を投げた。続くように駒津の両側にいた仲間が一斉に雪玉を投げてきた。全身が雪で真白になり、おれはコートの外に出た。駒津は笑いながらおれの前を通り過ぎた。

 もう一つ。川沿は完全な分業制だった。駒津と駒津を守る両脇の男子は常に同じやつ。その三人がどの作戦でも前線へ行く。三人のうち誰かがやられたら次に前に出る女子も決まっている。バックスで敵を当てにいく男子、玉を補給する女子。交替はなく、いつも同じメンバーだった。

 確かにそのほうが強くなる。野球でいうと、レギュラー9人は固定され、打順も守備も変更せずに一人一人が役目を果たす。一塁に出たら次のバッターは確実にバントをする、敵の強打者が得点チャンスでバッターボックスに立ったら必ず敬遠する、そんな感じだ。

 井出さんは違った。練習試合を含め、おれ達はいろんなポジションをやらせてもらったし、一番バッターになったこともあれば九番バッターになったこともある。

「そりゃあ、やるからには勝ちたい。けどな、お前らは小学生だべ。野球だけやってるわけでも野球で飯喰ってるわけでもない。俺はさぁ、みんなと身体を動かすことが楽しいと思ってもらいたいのさぁ。実際、昨日できなかったことが今日はできたってさぁ、楽しいだろ」

 一緒に片付けしながら、トラックを運転しながら、井出さんは語っていた。

 結局、欽水小は川沿小に一度も勝てなかった。

 おれが戦っている間、亮はストーブが点いている、もちろん雪も風も入らない、職員室のソファーで横になっていた。おれは訊かれなかったが、亮は職員室にいた女性の先生に、どうしてここまで歩いて来たのかを尋ねられたかもしれない。どう答えたか、何も答えなかったか、おれは知らない。

 昼過ぎに欽水小のバスで家の前まで送ってもらい、おれ達は無言で別れた。風呂に入り、おにぎりの残りとばあちゃんが作った玉葱のたっぷり入った甘い味噌汁を腹に流しこみ、ベッドに横になった。

 おれを笑う駒津の細い目が頭に浮かんだ。その横に長い前髪をした亮が立ち、駒津と同じような、にやついた顔でおれを見ていた。待て、亮。お前はなんのために川沿小まで歩いたんだ。指をさそうとしたら腕が持ち上がらず、暗闇に引きずり込まれた。


 名簿の自分の名前に丸を付ける。五、六年は全員に丸がついている。職員室の横の会議室は人が溢れていた。ほぼ男性で女性は少ない。ホワイトボード近くに座っている由紀先生の赤のセーターが目立っている。ボードの前に長机が二つ横に並び、明莉の父親、母親、知らない顔が四人スーツで座っていた。たぶん役所の人だろう。その前にコの字型で二周分、机と椅子が並び、ざっと見たところ五十人以上の人が難しい顔をしている。暖房が効き、人の熱気でむっとしているのにみんなジャンパーを脱がずに着たままだ。和瀬さんとおれは入り口近くに立っていた。

「つめるから座ったらいいっしょ。護んとこは忙しいの?」

 達也の父親だった。顎がとがっているところが達也と似ている。昔は相当、足が速かったらしい。おれはうなずき、パイプ椅子に座って資料を読んだ。

「あずましくないんでないかい?」

 おれがここにいるのはあんまり良くないんじゃないか、という意味だ。

「護は将来、幌内を背負って立つ男なんだから」

 和瀬さんは笑っている。おれは顔が熱くなるのを感じた。きっと亮があることないことを和瀬さんに言っているのだろう。

「頼もしいな」

 達也の父親が言い、二人の間でおれの話は終わった。

 十九時ちょうどに役所側から説明が始まり、10分もしないうちに終わった。明莉の母親が司会役で、一緒に座っている人は市の教育委員会の人達だった。今夜の集まりは何かを決めるものではなく、あくまで説明会、参加者の疑問に答えるというものだと明莉の母親が言い、パイプ椅子に座った。その言葉で会議室の空気が変わった。おれの対面にいた井出さんが席を立つ。 

「なにかい? おれ達が意見を言っても決定は決定だってことか」

 明莉の母親は教育委員の中で一番年上に見える男性と言葉を交わし、その場に立った。

「お手元にある資料に書いてある通りです」

 三郎が恥ずかしいときに顔が赤くなるように、がっちりした井出さんの顔が紅潮していく。

「こったらもの、なんの意味もあるか」

 井出さんは資料を長机に投げつけた。明莉の母親対三郎の父親。なんだか六年一組の学級会のようだと思いながら、おれは椅子の背もたれに身体を預けて同じ列の端に座っている由紀先生を眺めた。先生は資料を読んでいるふりをしながら、二人の対決をちらちらと見ている。先生は幌内に来てまだ三ヶ月も経っていない。井出さんや他の人の気持ちは理解できないだろう。実際、おれだってよくはわからない。

「なあ、加藤さん。あんたらだってわかるだろ。三年前に市町村統合されていいことあったかい? 利便向上、効率化、他にもいろんな耳障りがいいことを言っていたっけな。したども住民とお役所が遠くなっただけじゃないか。こうなったらいいんじゃないか、こんなことで困っている。近くの役場へ行く。ここは管轄じゃない、ここへ行け。言われたから仕方なしになんとか時間作って隣町の役場へ行く。意見だけは伺っておきましょう、次は予算がどうのこうの言われて結局うやむやになる。前は違ったっしょ。役場はみんな知っている人。ちっちゃな派閥はあったけど、隅から隅まで町のことを役場の人は把握していた。話がもっと簡単だった。行事のときにはみんなが一緒にやった。一体感っていうのかな。全部がひっくるまって町の愛着につながるんでないかい? そういう気持ちを作っていくのが、住民の気持ちに応えるのが、あんた達の仕事なんでないかい?」

 井出さんの口調は徐々に落ち着き、低学年を諭す先生のようになっていた。明莉の母親と父親は壁や窓の方へ顔ををむけている。井出さんと視線をあわさない。教育委員の人達は意識が遠くにあるような顔をしている。

 一体感か。欽水小の六年、五年はおれに雪玉をまわしてくれたし、自由にやらせてくれた。おれがミスしても責めなかった。川沿小からセットを奪ったときは一緒に喜んだ。けれど一体感は生まれなかった。当たり前だ。一日で生まれるはずがない。

「他の地域の人が嫌なわけでねぇ。むしろ、いてくれて有り難いと思っている。むこうはむこう、幌内は幌内なんだよ。それを自分の子らにも感じさせてあげたいんだ」

 川沿小のエース、駒津の細い目。卑怯なあいつに笑われたとき、こいつには負けたくないと思った。

「統合されて学校が大きくなって良いことがあるのはわかってる。けど、小さいほうがいいってこともあるんだよ。おれらはそっちを大事にしたいって」

 和瀬さんはメモ帳にペンを走らせていた。崩された字。おれには読めない。暗号といってもいいくらいだ。ぜひその暗号を亮に教えてほしい。

 井出さんは話し続けている。もし駒津と堺がうちの学校にいたら相当強くなる。雪合戦、陸上、野球、スケート。でも、そしたらどこと戦うんだ。北野の小学校と? そしたら出るメンバーはいつも決まってくる。理衣子や亮は絶対に出ない。三郎だったら、いいじゃん、やる気があるやつ、強いやつだけでやろうぜと言うだろう。おれはあのときの学級会でなんて言った? 

「学校行事は勝つことだけが目的ではない。クラス全員で取り組むことで共通の思い出ができる」


 二十時半きっかりに明莉の母親の挨拶で説明会は終わった。最初に言っていた通り、何かが決まることも話し合われることもなかった。椅子と机はそのままでいいです、と教頭先生が声をかけ、次々と人が出ていく。皆の頬は赤い。部屋の温度が高かったせいだけではないのだろう。

「護くん、大人と一緒にいても違和感がなかった」

 由紀先生が玄関でおれと和瀬さんを呼び止めた。おれは、ええ、とも、まあ、ともつかない相槌を打った。先生は和瀬さんに話しかけた。

「護、欽水チームで川沿と試合したんだって? しかも歩いて川沿まで行ったらしいな」

 井出さんだった。

「どこから聞いたんですか?」

「いろいろつながりがあんだよ。護はいつもえらいよな。三郎にもお前の根性を見習わせんと」

 笑いながら井出さんはおれの肩をたたいた。

 助手席に座ったときには、駐車場に残っている車は数台になっていた。和瀬さんがエンジンをかけてライトを点ける。玄関に明莉の両親、二人よりも背が高い教頭先生の姿が見えた。先に外に出ていた教育委員の人達に頭を下げている。

「一直線は嫌いじゃないんだけど、それじゃあ、なかなかうまくいかない」

 和瀬さんがハンドルをまわした。

「護はいつもみんなの意見をまとめてるんだろ」

「いや、まあ」

「学校も大きくなればいいってもんでもない。けど」

 国道にむけて坂道を下りていく。車のライトに照らされ、幾台もの車が雪を踏み固めた跡が見えた。

「けど、なんですか?」

 和瀬さんはおれを見て口の端を上げた。

「一長一短。どうなっても良いことがあれば悪いこともあるさ。わかるだろ?」

 小さくうなずいた。和瀬さんがメモ帳に書いていた暗号みたいな字を思い出し、でも和瀬さんは統合には反対なんだろうな、と思った。

 こうして、おれの長い一日は終わった。


 視界はクリアだ。いたるところで太陽の光が雪に反射し、朝の冷えた空気が鋭い。

 センターライン上で三郎とすれ違った。互いに雪玉を投げあうことはせずに前へ進む。ルールではセンターラインを越えて相手陣地に入れるのは三人までだ。三郎の後ろから達也と亮が左右に分かれて続いた。作戦Aだ。

 幌内小学校の校庭に用意された急拵えのシェルターは本番のに比べて小さかったり大きかったり、いびつな形をしている。おれは一人で相手陣地へ入った。手持ちの玉は一つ。相手バックス四人は全員女子だ。敵じゃない。おれはフラッグを取りに一直線に走った。玉はおれに届かないか、きても足元だから余裕でかわせた。青いフラッグをつかみ、

「取った」

 と大声で叫ぶ。全員の動きが止まり、持ち場からセンターラインに集まった。

「もっと早く玉をよこせよ」

 三郎が吐きすてるように言った。動きを確認するだけの練習なのに負けて熱くなっている。

「なによ、その言い方」

 理衣子は青のヘルメットを脱いだ。

「理衣子達だって敵が来たから当てていたんだよ。さぼっているわけじゃないのに」

「だっからさぁ、分担しろって言っただろ。玉を送るやつと敵を狙うやつと」

「してるって。じゃあ三郎がバックスをやってみなよ」

 理衣子は持っていた雪玉を三郎に渡した。

「三郎にはできないと思うけど」

「なんでだよ」

「後ろで支えるなんて三郎にできるわけがないっしょ。いつでも一番に目立ちたいんだから」

 三郎の顔が赤くなっていく。

「前へ行くってことは敵から狙われるってことさぁ。すっ転んで泣くやつに務まるかっつーの」

 達也が三郎の側に加わった。由紀先生はコートの外で口を出したそうな近藤先生を止めている。おれは三人の間に立った。

「三郎、男子がフォワードで女子がバックスって良くないよ。今だっておれ、楽々と抜けれたし」

「だから練習が必要なんだろ。なのにこいつら適当にやるから」

 三郎が顎で理衣子達を指した。

「こいつらってあんたらに呼ばれたくないし」

「このままだとやばいのわかんだろ。護だって負けたくないだろ、川沿や欽水に」

 青いヘルメットを着けたままの三郎は理衣子を無視しておれを見た。川沿のエース、駒津の細い目を思いだす。二セット取られて川沿の勝ちが決まったあとにあの目で見られたら。

「川沿には負けたくない」

「護もそんな? あんた達でやんなよ。くっだらない。たかが雪合戦なのに」

 理衣子がヘルメットをおれに投げた。他の女子もヘルメットを脱いでいる。

「待てよ、理衣子。おれが言いたいのはそういうことじゃなくて」

「じゃあ、どういうこと? 勝ち負けが大事なら強い人だけでやったらいいっしょ。こうなるのが嫌だったから理衣子は応援だけしたいって最初に言ったのに。覚えている? 護がみんなで思い出どうこう言ったんだよ」

「だから」

「護、オレ達だけでやろうぜ」

「ばかみたい。勝っても負けてもどうなるわけでもないのに熱くなっちゃって」

 捨て台詞のように言い、理衣子は転がっていた雪玉を蹴った。雪玉は簡単に割れ、ただの雪になってしまった。明莉以外の女子が児童玄関に吸い込まれていく。

「今回はうまくまとまりませんでしたねぇ」

 青のヘルメットを深くかぶった亮が耳元で囁いた。

「うるせぇよ」

「おっ、いい子ちゃんがめずらしい」

「おれ、帰るわ。なんかまじで疲れた」

 赤のヘルメットを脱ぎ、理衣子に渡されたのと二つを亮に押しつけた。

「だいたい勝手過ぎんだよ。少しはさぁ」

 ヘルメットが朝陽を受けてきらめいているのと対照的に、亮は間の抜けた顔をしていた。

「帰ればいいけどさぁ。どこ帰んの?」

 家。こんな時間に帰ったら親やばあちゃんが心配する。教室は絶対に嫌だし。

「おれんち行こうぜ。護とさぼんのは今世紀最初で最後かも」

 三つのヘルメットを雪の上に転がし、亮は嬉しそうに笑った。


 翌日は祝日だった。除雪車の音で目が覚めた。死んだじいちゃんがなんかの記念に貰ってきたデジタルの目覚まし時計は0505、ゴーゴーか。まだ眠れる。目をつぶる。居間で誰かが動いている。父さんかもしれない。母さんよりも動きが派手だし、ばあちゃんだったらなんていうか、もっと気配が薄い。台所の方へ行き、居間へ戻ってくる。温かいものでも飲みながら、テレビで天気予報を見ているのだろうか。母さんは都会の小樽市出身だけれど父さんは幌内育ちで、もちろん幌内小学校卒業だ。町や母校が変わっていくことをどう思っているのだろう。おれと似ていない、眉が太い父さんの顔が暗闇に浮かぶ。動じていないんだろう。父さんはいつもそうだ。やるべきことを一つ一つこなしていく。井出さんのように熱くなっているのを見たことがない。

 おれはベッドの上で寝返りを打ち、壁へ身体をむけた。結局、昨日は由紀先生に止められておれ達はさぼることができなかった。

「護くん、帰らないで。今日は護くんの好きな図工の工作もあるし」

 きらきらと光る目がおれを見つめ、紅い唇が動く。先生に正面からそう言われて、それでも帰れるやつがいたら教えてほしい。

「亮さんも今日の国語は読書だから、ね」

 亮が唾を飲み込んだ音をおれは聞いた。

 クラスの雰囲気は最悪だった。授業中は誰も話さないし、休み時間になると男子と女子がそれぞれグループを作ってひそひそ話をする。女子のグループから突然の高笑いが起こる。それは自分が笑われているのではないかという気にさせる。

 身体を転がし、天井の木目を眺めた。明日の朝、皆に話そう。でも、何を? おれは燃えている。今回は川沿小や欽水小、日吉台小に勝ちたいんだ。しかも全員で勝ちたい。どんくさいお前も、的外れのところにしか雪玉を投げられないお前も、もっと練習すれば必ずうまくなるから。一緒にやろう。

 だめだ、だめだ。おれは逆側に寝返りを打った。最初に三郎が皆に話したときと同じだ。熱い思いをぶつけるだけでは引いていってしまう人もいる。どうすればいい。父さんだったらどうする。亮、和瀬さん、いや、ジェームズ・ボンドだったら。

 起きあがり、本棚の上段にある教科書やノートの隙間から一枚の紙を手にとった。『9マスビンゴ』、由紀先生がつくった自己紹介のためのプリントだ。

 護さんも映画が好きなんだね。工作? どんな物を作るのが好きなの? うまくできるとうれしいよね。作っているときも楽しいし。  

 今まで何度も読み返した、赤ペンで書かれた先生からのコメント。ビンゴのときにも、亮は先生が話しかけるのを無視していた。なにを思ったか先生は、美しい顔を手で伸ばして変顔をつくっていた。成り行きを見守っていた皆が笑った。亮はグラウンドに顔をむけていたがにやついていた。

 たかが雪合戦、されど雪合戦。クラスで盛り上がれたら、きっと先生も、皆も笑顔になる。


 外は晴れていた。薄い青色をした空、雪に覆われた木々がくっきりと見える。いらないものを雪がくるみ、空気からなくしてくれたようだ。

 おれはスキー用のゴーグルをかけ、右手にビニール袋を持って歩きだした。時おり、光を反射して雪がきらめき、目を閉じる。左に曲がると学校へ行く道、まっすぐ進むと亮の家の玄関があるT字路で足を止めた。亮には終わったら報告しよう。おれは左へ曲がった。

「護? 学校じゃないから護くんじゃなくていいよね。 どうしたの? まさか理衣子に告りにきた?」

 首を横に振り、ゴーグルを外して首にかけた。理衣子は身体より大きめのトレーナーをだぼっと着て、下はなんと生足にショートパンツだった。

「外だったらしばれるっしょ。入って。親はいるけど理衣子の部屋があるし」

 理衣子の家は一階部分がレンガ風の壁で横に広く、二階部分はその半分の広さでクリーム色の壁だ。庭の大きなもみの木といい、幌内一しゃれた家かもしれない。

 おれが何も言わないのを返事と思ったのか、理衣子は中へ入った。おれはスキーウエアの雪をはたき、お邪魔します、と声をだした。

「護くん、どうしたの?」

 理衣子そっくりの細い身体をした母親が玄関に出てきて、後ろから立派な顎髭を生やした熊みたいな父親が続いた。

「雪合戦のことで理衣子さんと打ち合わせがあって。お休みのところにお邪魔してすみません」

「いいのよ。どうせごろごろしているだけなんだから」

「これ、うちの牛乳です」

「気をつかわなくていいのに。さすが護くんねぇ」

 話している間に理衣子は階段を昇っていく。下から見ると足の細さが際立つ。

「今年の雪合戦は楽しみだな。理衣子は足を引っぱってないかい?」

「パパは余計なことを言わないで。護、早く来て」

 にこにこ笑っている二人に頭を下げ、階段を昇った。

 理衣子は学習机の前の椅子に座った。水玉のカバーがきっちりかかっているベッドに座るわけにもいかず、おれは床にあぐらをかいた。尻が温かい。二階の個室にも床暖を入れているとは。

「で、なに?」

 おれは本棚の背表紙に目を滑らせていた。本よりも雑誌や漫画の文庫本の方が多かった。下の段には日付が入ったアルバムがずらりと並んでいる。

「前の日曜、歩いて川沿まで行ったんでしょ。雪合戦しに。どんだけ好きなの」

「なんでお前まで知ってんの?」

 理衣子は得意そうに笑った。

「もうみんな知っているよ。亮も行ったって本当? あんた達って仲良すぎ。亮が護を頼っているように見せているけれど、実は護が亮を好きなんでしょ」

 おれが亮を好き?

「誰が誰を好きだって。ママも知りたいな」

 スパイのように気配を殺してドアから入ってきた理衣子の母親は、オレンジジュースとクッキーをのせた盆を差しだした。

「もうママはいいから。今いいとこだったのに」

 おい理衣子、一体どんないいとこだった?

「護くんにクッションくらい出さないと。ママが下から持ってこようか?」

「だから、いいって」

「床暖が温かいから大丈夫です」

 そうなのよ、と母親がおれに笑顔をむける。

「床暖っていいわよね。乾燥もしにくいし。でもねぇ、聞いてよ、護くん。せっかくこの家を改築したのに」

「ママ、今すぐ、部屋から出ていって」

 理衣子は母親の肩を押してドアを閉め、ジュースとクッキーをおれに渡した。この親にしてこの子ありと思いながら、おれは冷たいジュースをストローで飲んだ。

「護がうちに来るってことは雪合戦の練習をちゃんとやってほしいってことっしょ」

 ジュースは残っているのにストローがずずっと音を立てた。

「まあ、そうなんだけど」

「明日みんなに頼まないで理衣子んちに来たのは?」

 話が早いから。皆の前で理衣子がへんな意地張っても面倒だし。

「スパイとか裏工作とか大好きだもんね、護は」

 理衣子もジュースを飲み、酸っぱいと言って机に戻した。

「おれは小学校が統合するって話をこの前知ったんだ。欽水のメンバーとして川沿と戦ったり、井出さんの話を聞いたりしているうちに雪合戦で勝ちたいなと思うようになって。ただ勝つんじゃなくて、六年一組みんなで一丸となって勝ちたい」

「一丸って護の言葉? 三郎や達也みたい」

「理衣子がポイントだと思う。理衣子が協力してくれればいけるなって考えた」

 おれは理衣子の黒目を見ながらできるだけ力強く言った。理衣子は唇を閉じたまま、半分、睨むようにおれを見ている。おれは頭の半分で亮がここにいなくてよかったと思っていた。いたらあいつ、絶対に吹き出している。それか茶化している。

「ねぇ、護っていっつも人のために動いているっしょ。本心は?」

「本心ってなんだよ」

「今回は、ほんっとうに護自身がクラス全員で戦いたいって思っているの?」

 真実を知りたい。理衣子の目はそう言っていた。おれは残っているジュースを全て飲んだ。

「おれさ、中学へ行ったら野球はやらないつもりなんだ」

「まじで? なにやんの? 陸上? スケート?」

「家の手伝い。あと」

「手伝い? 護らしいといえば護らしいけど。あと何?」

「あと、なんか作りたいんだよ」

「なんかってスパイ道具?」

「なんでわかるんだよ」

「見てればわかるっしょ」

 理衣子は笑ってグラスをとり、ストローに口をつけずに表面をさわっている。

「だから?」

「だからさ、みんなで熱くなりたいんだ。クラスみんなで。きっと今だけなんだよ。そんなふうにやれんの。中学行ったら前に理衣子が言っていたように応援する人、やる人、関心ない人って分かれる、きっと」

 ストローの中のオレンジ色が理衣子の唇まで上がり、すぐにグラスに戻った。

「私、東京へは行くよ」

「正月はおれ達だって休むよ」

 ふーんと言い、理衣子は足を組んだ。真冬なのに白のショートパンツ。長く伸びた足が目の前で組まれる。じっと見てはいけないもののような気がする。

「すごい量の写真だな」

 おれは一番端にあった、最近の日付のアルバムを手に取った。由紀先生が幌内小に来た日の写真。黄色いミニスカートは鮮烈だった。

「護」

 何? と顔を上げる。

「協力する。でも卒業までに理衣子も護に頼みごとをするから、それは絶対に、何があっても叶えてよ」

 理衣子は手を伸ばしておれの方にあるクッキーを取ろうとした。慌てて皿を理衣子へ差しだした。サンキュ、と理衣子が言う。いや、それ以上身を乗りだされるといろいろこっちも困るんで、と思いながらページをめくった。 


 長い冬休み明けの第三日曜日はいつ降ってもおかしくないような暗い曇り空だった。

 幌内町のスポーツセンターのグラウンドで行われる小学校対抗雪合戦のルールでは、試合に出られるのはフォワード(攻め手)が五人、バックス(守り手)が四人。四校総当たりで二セット先取、一セット五分間、休憩は三分だ。コートは二つ用意され、暖がとれるようにドラム缶に火が焚かれていた。応援に来た人やゲームに出ないこども達が学校別にドラム缶の周りに集まっている。

 幌内六年チームは第一試合で欽水小、第三試合で日吉台小、第六試合で川沿小と戦う。第一試合、おれは黒のヘルメットを着けてフォワード用の赤いゼッケンをかぶった。ゼッケンの数字は7だ。

 前半に出る9人ずつがセンターラインに並ぶ。欽水小のフォワード、青のゼッケン1を着けた堺と目があう。欽水小の一員として川沿小と戦ったあの日から一ヶ月。もっと前の出来事のような気もする。堺は真剣な目でおれを見ていた。

「楽しくー、(笑顔でー)、はりきってー」

 暗雲たちこめる中での真剣勝負にそぐわない、明るい歌声が幌内のドラム缶の周りから聞こえてきた。理衣子が作詞して六年一組の音楽を担当している教頭先生が作曲したという、HSFS、ホロナイスノーボールファイトソングだ。

 熱くなるのはいつ? (今でしょう!) 

 やる気元気(やる気元気) 

 根気勇気(根気勇気) 

 勝つぞ、幌内(勝つぞ、幌内) 

 護(護) 三郎(三郎) 達也(達也) *( )内は全員で声を出す

 歌というか単語を連呼しているともいえる応援歌。歌の後半はゲームに出る人の名前がエンドレスで叫ばれる。

 全員が試合に出ること。本番の試合ではフォワード、バックスを全員が一度はやること。応援するときはかなり恥ずかしいHSFSを全員が歌うこと。おれが理衣子の家を訪ねた翌日から、雪合戦実行委員会の話し合いはスムーズに進んだ。三郎は強いやつがフォワードをやるべきだと主張していたけれど、両方やって互いの大変さを知ったほうがチームとしては強くなるというおれらの意見に納得してくれた。理衣子は研究してきたからと、練習方法や実際のゲームで使える作戦を考えてきていた。三郎や明莉は理衣子の変貌に驚いていたけれど、やる気があって文句はない。

 冬休み中は来られる人、下級生にも声をかけて練習を重ねた。由紀先生は毎回必ず来て、雪玉製造機でひたすら雪玉を作ってくれた。白い手袋はお洒落とは無縁の、緑の作業用手袋に替わっていた。

「ださいけれどすごく温かいんだよ。井出さんに教えてもらったの。みんなもこれにすればいいのに。学校のお金で買ってもらおうか」

 おれ達はもちろん遠慮した。

 欽水小との一セット目は両チームとも最初のゲームだったせいか動きが今一つだった。どちらもフラッグを取れなかったが、5分経ったあとにコートに残っていたのは幌内が六人、欽水が五人で、幌内が一セット目を先取した。3分の休憩時間にバックスの緑のゼッケンに着替えていると、

「情けをかけるなよ。次もけっぱれ」

 井出さんが後ろから声をかけてきた。

 二セット目は亮が7の赤いゼッケンを着けた。三試合のうち、亮がフォワードをやるのはこの回だけだ。幌内小のドラム缶を見ると和瀬さんがカメラを構えていた。うちの父親、母親の姿はない。亮、いいところ見せろよ。おれは自陣のフラッグに近いシェルターの真後ろに陣取った。

 このセットを落としたら負けが確定する欽水のフォワードは、ほぼ一セット目と同じメンバーだった。堺は青のゼッケン1をつけたままだ。相手メンバーの強さがわかるおれがバックスのときは、おれが指示した相手を一斉に攻撃することになっている。

 おれは青のゼッケンを待ち構えていたが、欽水は守りを固めているらしく、なかなか前へ出てこない。先に幌内のフォワードが一人、また一人と雪玉を当てられてコートから退場していく。赤の7、亮の姿も見えない。

 フォワードが三人やられたらフラッグの周りをおれと女子でかため、達也が相手陣地へ攻撃しにいくことになっている。

 笛の音がした。欽水小フラッグの近くで三郎と相手のバックスが二人、コートから出た。

 左のシェルターにいる達也に声をかけたとき、相手のフォワード三人が同時に左サイドから攻めてきた。雪玉を投げたが間に合わない。達也とフラッグを守ろうとしていた明莉がやられた。青の1番を先頭に三人が固まって走ってくる。おれは1番だけを見ていた。堺はすぐそこ、一メートルも離れていない場所まで迫っている。

 目があい、やられると思ったときにおれのヘルメットに雪玉が当たった。小学校特別ルール、頭部セーフだ。退場の笛は鳴らない。

 おれはゼッケン1番に向かって残り三つとなった雪玉を投げた。むこうからもおれを狙って雪玉が飛んでくる。ピーと笛が鳴った。

「緑、7。青、1。退場」

 おれと堺は走ってコートの外に出た。欽水のフォワードが一人、前線に走ってくる。

 うちのチームは六人が退場したことになる。幌内小の前線に雪玉を補給できるバックスは理衣子しかいない。また三人同時に攻めてこられたら。時間はどうなっている。このセットは無理か。

「亮、行けぇ」

 井出さんの声でおれは欽水小フラッグがあるエンドラインに顔をむけた。亮がダイビングしている。

 あいつ、今までどこにいたんだ。 

 亮は黒いフラッグに手を伸ばした。欽水小の二人のバックスが亮にむけて雪玉を投げる。亮がフラッグを取る。亮の身体に雪玉が当たる。

 どちらが先だ。おれは欽水小サイドにいる副審を見た。

 ピ、ピーという笛の音が響いた。フラッグを取ったのが先だと認められた。亮はフラッグを元通りに立て、7の赤いゼッケンと黒のジャンパーについた雪を払いながら、すました顔でセンターラインに帰ってきた。

 おれは笑いを堪えていた。なんだ、こいつ。おいしいところを持っていったくせに少しも顔に出さないで。ドラム缶の周りで起こっている、亮ってばすごい、かっこいい、という声はちゃんと聞こえているんだろう。

 おれ達はセンターラインに並んだ。頭を下げたあとに堺を探した。むこうもおれを見ていたようで目があった。おれは手袋を外して右手を出した。堺も同じように手袋を外し、おれ達は握手をした。堺の手のほうが熱い気がした。川沿戦、お互い、けっぱろうなと思いながら言葉は出さず、それぞれのドラム缶へ戻った。

「最後までどこに隠れていたんだよ。全然見えなかった」

 亮は口元を歪めるように笑った。

「女性ファンが増えたんじゃないか。親父さんにもいいところ見せれてよかったな」

 ちらっとおれの顔を見て、

「メットに雪がついているぞ」

 と、亮はおれのヘルメットを思いきり叩いた。

「なにすんだよ」

 逃げる亮を追いかける。ヘルメットを手に持ち、フードをかぶっている亮は、ここ何年も見たことがないような晴れ晴れとした顔で走っていた。


 日吉台小には二セット連取で勝った。第四試合、川沿小と欽水小の戦いでは一セット目は川沿、二セット目は欽水がフラッグを取った。おれと亮はドラム缶から少し離れたところで試合を見ていた。朝より気温が低くなっている。厚く積もった雪の地面から、じわじわとしばれが上がってくる。

 ゼッケン1をつけた川沿小のエース、駒津が苦々しい顔をしながらおれ達の前を通り過ぎた。

「堺を狙うのがお前の役目だろ。お前はもう出んな」

 駒津の後ろを背の低い男子がついていく。

「ひょー、こえぇ」

 亮が楽しそうにつぶやいた。

 欽水対川沿の三セット目、開始早々に駒津が堺に雪玉を当てて退場させた。一気に流れが川沿にいくかと思いきや、膠着状態が続いた。欽水が攻める人数を減らして守りを固めたからだ。堺はコートの外から懸命に声を出している。川沿は攻めきれず、フラッグを取れない。四対三の人数差で欽水小が勝った。笛が鳴った瞬間、堺は大声を出して喜んでいた。

「三つ巴だな」

 おれがつぶやいたら、

「幌内と欽水が英ソで、川沿はスペクターな」

 横で亮が言った。雪で濡れた前髪が亮の目を隠していたが、不適な笑みを浮かべているのは間違いなかった。

 第五試合の途中から雪が降ってきた。風に舞う粉雪だ。徐々に強くなり、視界が悪くなってくる。休憩時間に各小学校の先生達が集まった。様子をみるか、中止にするのかを検討しているのだろう。

 絶対に中止にはならない。おれは確信していた。幌内小の親、地域の人はもちろん、他校の応援の人もかなり来ているし、幌内小と川沿小という因縁の一戦が最後に残されている。米英とソ連くらいの因縁があるのかはわからないが、たぶんいろいろあるのだろう。それに、ここで中止になったら井出さんが黙っていない。

「護、走ろうよ」

 理衣子だった。ドラム缶の周りには六年一組のメンバーが揃っている。おれはうなずき、三郎に声をださせようとした。

「HSFSを歌いながらね。理衣子が先頭で走るから」

 えー、と嫌そうな声が出てしまった。

「いいっしょ。HSFSを歌えるのは今日だけなんだよ」

 理衣子は誰もいないコートの周りを走りだした。

「みんな、走って身体をあっためよう。理衣子についてって」

 二列になって皆が走りだす。面倒くさい、の声が聞こえなくてほっとした。

 楽しくー、という理衣子の声が最後尾のおれまで届き、笑顔でー、とみんなが続けた。

 はりきってー、熱くなるのはいつ? 今でしょう! 皆が右手を上に突き出した。いつの間にポーズまで決めたんだ。

 勝つぞ、幌内、勝つぞ、理衣子。皆が、理衣子、と叫ぶ。よく自分の名前から言えるもんだ。ある意味、あいつはすごい。しかも後ろ向きに走りながら全員の名前を間違えずに呼んでいる。これだけ雪が降っているのに誰が誰だかわかっている。

 コートでは後半が開始されようだ。もうすぐおれ達の出番だ。達也、達也。亮、亮。亮もちゃんと走っているようだ。護、と理衣子の声がし、護、と皆がおれの名を呼んだ。にやついてしまう。くすぐったいとはこういう感情か。

 おれで終わりと思っていたら、理衣子はゆうき、と言った。振りむくと白のスキーウエアに緑のださい手袋をつけた由紀先生も走っていた。おれ達は、ゆうき、と叫んだ。やばい、けっこう楽しい。

 コートの周りを大回りしてドラム缶に戻ってきたときには、皆の吐く白い息が降り続ける雪を溶かすくらいまで温まっていた。

 

 第六試合開始早々、中央のシェルター裏にいたおれに川沿小の三人のフォワードが雪玉を投げてきた。おれの居場所が最初からわかっていたような攻撃だった。一人は当てたが、おれも当てられた。

「赤、7。青、3。退場」

 おれが当てたフォワードは川沿小のエース駒津ではなかった。

「亮、あと何分ある?」

「4分21秒」

 ドラム缶へは行かず、センターラインと自陣のフラッグの間くらいでゲームを見守る。川沿小フォワード三人組の真中が駒津、練習試合でいい動きをしていた男子と女子が駒津をガードするように並び、幌内陣地へ入っている。

「達也、前へ行けー」

 おれは叫んだ。むこうサイドは雪で見えない。これだったら審判の目の前じゃないと雪玉に当たったかどうかはわからない。反則があっても余程じゃないかぎり笛は鳴らない。練習試合のときと同じだ。

 川沿小の三人組はシェルターの陰に隠れ、うちのバックスを倒していく。

「残りは?」

「あと2分15秒」

「長いな」

「やっていると短いのにな」

 一瞬、だった。駒津がうちの黒いフラッグを取った。ピ、ピー、セット終了の笛が鳴る。

 おれ達はドラム缶の周りに集まった。三試合目にして初めてフラッグを取られた。川沿はやっぱり強いね、大丈夫かな、と女子が小声で言う。

「護、次のセットはメンバーを替えようぜ。お前とオレと達也、亮もフォワードに入って攻めよう」

 口火を切ったのは三郎だった。私も替わってほしい。出たい人が出ようよ。女子の声が続く。

「最初に決めたメンバーでやろう」

 おれはできるだけゆっくりと言った。火の周りだけ雪がないから、三郎のせっぱつまったような顔がはっきりと見えた。

「このセットを取られたら終わりなんだよ。三郎が言う通りでいいよ」

 しゃがれ声の理衣子だ。泣きそうな声にも聞こえる。

「負けてもいいから楽しくやりたいって言ったのは理衣子だろ」

「そんな。ここまでがんばったんだから勝ちたいよ。みんなだってそうだよね?」

 理衣子の問いに皆がうなずく。理衣子の後ろに由紀先生の顔が見えた。横には口を出したそうな井出さん、川沿小に負けたBチーム監督の近藤先生もいる。

「慌ててメンバーを替えてそれで負けたほうが悔いが残る。おれはみんなでやってきた練習を無駄にしたくない。前に決めたメンバーと作戦でいこう。おれはバックスにいるからいつでも上がれるし」

 そうしようと誰も言わない。かといって反論もしない。

「理衣子、こういうときのUSJだろ。歌って盛り上がろう」

「ギャグのつもり? 幌内スノーボールファイトソング、HSFSだし」

 はあ、と理衣子は白い息を吐いた。

「楽しくー、笑顔でー、はりきってー、熱くなるのはいつ?」

「今でしょう!」

 おれと何人かが右手を上げる。由紀先生の緑の手袋も上がっている。

「勝つぞ、幌内」

 がらがら声の理衣子が叫ぶと、

「勝つぞ、幌内」

 ドラム缶の周りで声が響く。

「勝つぞ、幌内。勝つぞ、幌内」

 一番声が出ていたのは井出さんと近藤先生だったけれど、それはそれでよしとしよう。

 おれと亮は自陣のフラッグの横についた。頼んだぞ、三郎。雪は激しくなり、すぐ前のシェルターは見えるが、その前のシェルターになると人の動きは見えない。吹雪いているといってもいいくらいだ。このセットで終わりになるかもしれない。そしたら、このセットを取ったほうが優勝だ。

「おい、聞いてるのかよ」

 亮が雪の上に座って黒のスノーシューズを脱いでいる。

「何してる?」

「交換。お前も早く脱げ」

「なんで?」

「時間ない。早く」

 厚手のソックスを雪で湿らせながら、赤のスノーシューズを亮に渡した。

 ピーと笛の音がした。前の方で誰かが退場になった。吹雪のせいで審判の声が聞きとりづらい。うちのメンバーじゃないといいが。

 おれは雪玉を右のシェルターにいる明莉、左にいる理衣子に転がした。二人からさらに前へと補給される。また笛が鳴った。

「三郎がやられたみたい」

 理衣子がふり返ったとき、青のゼッケン1が見えた。

 危ない、と声を出す間もなく理衣子がやられた。笛が鳴る。理衣子がいたシェルターのむこう側にいるのは駒津だ。駒津をガードするやつらはいない。駒津一人。完全にシェルターの裏に入り、おれ達からは狙えない。

「明莉、気をつけろ」

 叫んだとき、明莉の肩か頭か微妙な位置に雪玉がぶつかった。笛は鳴らない。

「当たっただろ」

 駒津が大声を出した。おれと明莉の目があった。

「頭じゃないか?」

 おれが大声で言い返したのと、駒津が明莉の目の前に姿を現したのと同時だった。駒津は明莉の腹めがけて思いきり雪玉を投げた。明莉の持っていた雪玉が転がる。明莉は腹を押さえながらコートの外に出た。

 一瞬、笑った駒津の顔が残像のように目に焼きついた。

 コート脇でうずくまっている明莉の横に三郎がいた。三郎は鼻を押さえている。三郎の手袋が赤く染まっている。鼻血か。どんなふうにやられたんだ

 頬が熱い。熱が顔中に広がり、くぐもった音が耳に響いている。視界がせばまってくる。

 確認していたのに卑怯だろ。そう叫んだが、実際には唸り声だったかもしれない。おれはシェルターを飛び出した。雪玉も何も持っていなかった。

 駒津がいるシェルターから玉が飛んでくる。そんなのはどうでもいい。お前だけは許せない。

 黒い物体が、と意識したときには足にタックルを受けてシェルターの裏に横滑りしていた。全身に雪が降りかかる。

「無駄死にすんなよ」

 亮がおれの胸の上で笑っていた。

「あれ? 前にもこんなことがあったような」

 亮、とおれが言う前に、亮はおれの上から転がり降りた。亮は忍者のように低く構え、足を蹴りだす。明莉が落とした、まだ使える雪玉を拾っている。駒津から玉が飛ぶ。

「護、残り30秒もない。お前が取りに行け」

 三郎の声だ。三郎の横にいる審判がストップウオッチを見た。おれは亮が転がした雪玉を三つ手にして一歩を出した。大丈夫だ。頭も身体も雪で冷やされた。

「違う、護。お前は左、オレが右だ」

 亮と目をあわせ、交差するように飛び出した。駒津がいるシェルター横に両サイドから走る。駒津は亮の方を向いている。おれは駒津の背中に一発で当てた。笛が鳴った。

 おれは走った。幌内のフラッグを守るディフェンスはいない。こっちがフラッグを取る前に、川沿の誰かがうちのフラッグを取ったら負けだ。

 センターラインから相手陣地へ入ったとき、出会い頭に青のゼッケンが現れた。

「おれが幌内小、鳥羽護だ」

 亮が叫んだ。敵は亮を狙う。おれは当てようと思えばそいつを当てられたけれど走り抜けた。

 笛の音。亮がやったのかもしれない。やられたのかもしれない。時間がない。残り10秒くらいか。カウントしながら走る。おれがフラッグを取らないと負けだ。川沿の黒のフラッグ。道大会で三郎が最後にスライディングしたときのように。今度は、たとえアウトでも滑りこんで終わりたい。

 雪が横なぐりに吹きつけ、大きな壁であるシェルターさえもはっきりと見えなかった。最短距離だ。おれはコートの真中を走った。雪玉が飛んでくる。右、左とステップを踏むように身体を動かす。これで雪玉を外せるのかどうなのか。やらないよりはまし。

 フラッグの横に川沿の女子が一人、見えた。おれは持っていた二個の雪玉を彼女のゼッケンをめがけて投げた。やや下に逸れたが、彼女の太ももらへんに当たった。残り5秒。

 笛は鳴らない。

 おれは声にならない声、あー、だか、うおーというような声を出してフラッグめがけて飛び込んだ。

 手にプラスティックのフラッグをつかんだ。背中に雪玉をくらった。

 笛は鳴らない。どうして審判がフラッグの近くにいないんだ。おれはフラッグを持ったまま立ち上がった。

「取ったぁ。幌内の勝ちだ」

 みんながいるであろうドラム缶へ、思いきり叫んだ。

 

「本当に行かないのかよ。亮も好きだろ、ジンギスカン」

 亮はソファーに寝転んでじゃがりこをくわえていた。大型テレビには最新の007の映画『スカイフォール』が映っている。

「お前、ダニエル・クレイグに似ているよな。金髪にしてみれば?」

 ダニエル・クレイグとは六代目ボンドだ。実はおれも鏡を見るたびに似ている、とこっそり思っていた。

「むっつりスケベっぽいとこが」

 おれはわざと大きく舌打ちをし、

「由紀先生も来るのにいいのかよ」

 と乱暴に言った。

「おれの活躍も結局はお前に消されたし、陰に生きるよ」

 川沿小との二セット目、時間内におれがフラッグを取ったことが認められた。天候不良のため続行困難となり、今年の小学校対抗雪合戦は幌内小の優勝が決まった。

 センターラインに両校メンバー全員が並んだ。駒津は目を真っ赤にして泣いていた。男の先生に肩を抱かれ、なんとか立っているという感じだった。

「演技、演技」

 亮がおれの耳もとでささやいた。

「あいつも勝ちたかったんだよ」

「おっ、ほんの3分前は殴りにいこうとしていたのに、いい子ちゃん完全復活」

 にやにや笑う亮に言い返すことができなかった。亮が止めてくれなかったら試合はめちゃくちゃになっていたかもしれない。雪合戦実行委員まで作って、朝練もして、川沿小まで歩いたことも、雪合戦に関することは全て苦い思い出になっていたかもしれない。

「じゃあ、おれ行くから」

 亮はドアの前に立っているおれを見ずに、

「理衣子と仲良くやってくれ」

 と言った。温められた空気が逃げないように居間のドアを開け、わずかな隙間から身体を滑らせてドアを閉めた。

 玄関で赤のスノーシューズを履く。あのとき、亮がこれを履いたから亮が狙われたのか。それとも亮が右、おれが左を走ったからか。亮が叫んだからか。

 きっと理衣子の言う通りなんだろう。おれが亮を頼っている。いや、頼っているのとは違う。亮がいるから、たぶん、おれは。

 亮、と部屋にむかって言った。後が続かない。おれは軽くジャンプしてスノーシューズの奥へ足を入れた。

「あとで冷えたジンギスカン、持ってくるから」

 二秒、間があいたあと、

「中に変なもんを入れんなよ」

 笑いを含んだ亮の声が聞こえた。

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