白い町の、きらめく思い
大城ゆうみ
第1話 白い空になんて書こう
1
声は、届いている。
だって、すぐそこにいる。
彼が、どんな顔をしているかは、よく見えない。彼は机の上に開いた本を読んでいるし、前髪が目を隠しているから。
名前を呼んだら、返事や反応がある。
それは、当然のことだと思っていた。
家族や友達、恋人、職場の人、そして先生と生徒。
喧嘩のあとだったら、一方的に怒りをぶつけたあとだったら、無視されることがあるかもしれない。
けれど、彼との関係は始まっていない。
これから、始まるはずだったのに。
北海道を菱形と捉えて右の角の少し上、オホーツク海に突き出たような高台に北野市立幌内小学校はある。
「今日、十月一日から後期が始まります。前期から取り組んできた運動会が十日後に、続いて雪合戦大会、スケート大会と後期には楽しい行事がたくさんありますね。特に六年生は小学校生活の集大成です。大いなる活躍を……」
朝礼台の上で校長が話をしている。女性の教頭が司会を務め、その横に年配の職員が並び、列の端に私は立っていた。
私達とむかいあっている、全校児童。
人数を目視で数えてみる。一学年一列ずつ、全校で60人くらいだろうか。私が受けもつ六年生の列が最も長い。男子が6人、女子が9人、合わせて15人。横浜とは全然違う。
こども達の頭のむこうには、茶色い土のグラウンドがフェンスの手前まで扇形に広がっている。全校児童が気がねなく走り回って遊べる広さだ。敷地に隣接して古い平屋とアパートタイプの教員住宅があり、他に目に入るのは緑色や茶色、自然の色。こんな環境で過ごせば、こどもはのびのびと素直に育つのだろう。
昨日の夕方、私は初めて幌内小の校舎に入った。
職員玄関の姿見の前に立ち、肩までの髪を手櫛で整えてブラウスの襟を整える。背筋を伸ばし、持参した新しい室内履きで廊下を歩いた。
教育実習で行った横浜市の小学校長は厳しかった。信頼される教師としてきちんとした服装、言葉遣い、行動をするように、こどもや保護者からなめられないようにと何度も言われた。
けれど、幌内小の職員室の扉は開け放たれ、教師は全員がジャージ姿だった。
「幌内は港町だし、濃いよぉ。まぁ、親父さんたちにめんこがられれば、なんも問題ないから」
校長室のソファーにでんと座っている校長は、上下グレーの作業着だ。背広を着ていない校長を産まれて初めて見た。まん丸の顔の中で頬だけが赤く、七福神の大黒天に似ている校長。
「後藤先生、飲み会には必ず参加してねぇ。そんれが何よりも大事だからね」
まず、飲み会の話?
「いやいや、若くてきれいな女の先生にみんな喜ぶさぁ。若さは特権だからねぇ」
いやいや、セクハラすれすれでしょう。
「明日の着任式や歓迎会ではよぉ、もっと派手な服にして親父さん達を喜ばしてなぁ」
完全なセクハラ。しかも喜ばすって……?
父兄である『親父さん』の話が延々と続く。
テーブルに置かれた履歴書。去年、教員採用試験を受けなかった理由を訊かれるだろうと思っていた。それか、どうして教師になろうと思ったのかを。両親が教師で、幼い頃から教師になろうと決めていました。今回もそう答えようと思っていた。
ちょっ、と舌打ちとも、相槌とも取れる音を出し、校長はため息をついた。
「問題は、小学校統合のほうさぁ」
統合については保護者の反対が根強く、揉めにもめているという話に変わる。
そして、一時間近い面接の間、私への質問は一切なかった。
「さて、みなさん。私が4月に話した、三本の木の話を覚えていますかぁ?」
スーツを着ている校長が朝礼台の上から問いかけたら、一年生から六年生まで口が半開きになった。三本の木の見当もつかない、という感じだ。
思わず、笑ってしまった。
その瞬間、カシャ、という電子音がした。
膝をつき、教師達の方へデジカメを構えている子がいる。細い身体の女子で、極端に短いショートパンツをはいている。私を見てピースをし、指先を頬につけた。
「三本の木の一つ目は元気、二つ目はやる気、三つ目は根気。ちゃんと覚えていた人?」
低学年のこどもが揃って、はーいと手を挙げる。覚えていなかったのは見え見えだが、低学年は何をしても可愛い。
「運動会は、三本の木を生かす絶好の機会です。元気に取り組み、やる気で挑戦し、根気よく練習する。人との競争ではなく自分との戦いです」
いかにも学校で使われそうな語呂合わせ。元気やる気根気、最後に「き」がつく言葉は他にあるだろうか。この木なんの木気になる木というフレーズが浮かび、歌が頭で流れた。あのコマーシャルに映っていた木のように、幌内小の木々も思う存分枝を広げている。
隣りの職員がお辞儀をしたので、慌てて頭を下げた。こども達も朝礼台にむかって礼をしている。話を終えた校長は身体の向きを変え、教頭から賞状を受けとった。
「先日、幌内小学校の野球チームが市の大会で二位になりました。チームの皆さん、前に出てきてください」
教頭がやわららかい声で言い、両端の列から男子と女子が走って朝礼台の前に並んだ。きびきびとした動き。20人くらいだろうか。
運動ができそうな締まった身体の男子が二人、朝礼台に上がる。きっと六年生だ。一人は校長よりも背が高く、もう人一人は彼より20センチくらい小さい。
デジカメを持った女子が二人の姿を写している。
校長が賞状の文面を読みあげる。
二人ともイメージ通りの、北海道の小さな町で育った純朴な少年、と言う見た目だ。
よかった、と思いながら、私は六年生の列をもう一度見た。三分の二が欠けた列に残っているのは女子が四人、最後尾に黒いジャンパーを着た男子がいた。長い前髪が彼の目を隠している。彼はうつむき、足で土に模様を描いている。校長の話、野球チームの表彰も興味がなさそうだ。彼の周りにだけ重い空気が漂っているようにも感じる。
野球チームのメンバーが元の場所に走って戻り、再び教頭がマイクを持った。
「六年生の担任は今日から後藤ゆき先生になります。後藤先生は横浜から二日前に来たばかりです。幌内小学校のことはみんなのほうがよく知っているので、みんなから後藤先生に声をかけてあげてくださいね」
はーい、と一年生がそろって返事をする声に混じり、「おぉ」と言う男性の低い声が聞こえてきた。いつから居たのか、子ども達の後ろに作業着姿の父兄が十人くらい立っている。
あれが校長が言っていた親父さん達か、と思いながら、錆びている朝礼台に昇る。若い、可愛いという女子のひそひそ声が耳に入り、カシャという電子音が再び聞こえた。デジカメの子が朝礼台の下から撮っている。黄色いタイトスカートの短さが気になる。が、今さらどうしようもないし、と背筋を伸ばした。
「おはようございます」
私の名前は、と続けようとしたとき、おはようございまーす、と一年生がゆっくり繰り返した。
「元気に挨拶してくれてうれしいです。私は横浜から来た後藤由紀です。ゆきではなくて、ゆ、う、き、なので、ゆうき先生って呼んでください」
続きを話そうとしたら、一年生の「はーい」という返事に消された。一年生は「してください」と言われたら「はーい」と返事をするように躾けられている。ただの条件反射のようにも思えるけれど、学校はそういうところだ。
デジカメを持った女子と目があう。彼女は肩をすくめて見せた。返事は良いことだから仕方ないね、というように。
私は彼女に小さく笑ってから前をむき、思わず息を止めた。白い空が、端から端まであった。プラネタリウムのような半円形の空だ。
さえぎるものがないと、空はこんなに広い。
幌内小学校は50年以上の歴史がある。でも、コの字型の二階建ての建物は近年改築されたばかりで古びた感じはしない。職員室は一階の中央に、六年生の教室は二階の中央にある。私は出席簿とファイルを持ち、窓から外の光がたっぷり入る廊下を歩いていた。隅に埃はたまっていない。職員玄関の隣りの児童用玄関も砂が掃きだされている。
「後藤さん、忘れ物」
パーマがかかった長い髪の女性が職員室から出てきた。手にプリントの束を持っている。
「これ、今日中に配布するようにと教頭が言っていたっしょ。もしかして緊張している?」
「自分では普通なんですけど。あの、先生は何年生ですか?」
彼女は笑った。白く、ふっくらとした頬。
「私? 先生じゃないよ。事務の安藤みどり。30歳になったばかり。後藤さんと一番年齢が近いからよろしくね」
いってらっしゃーい、とみどりは大きく手を振った。
会釈を返して階段を昇る。
踊り場で立ち止まり、出席簿を開いた。名簿は男女混合のあいうえお順になっており、名前には全てふりがなをふってある。大丈夫。読み間違えることはない。
階段を上りきると、六年一組の教室の扉から顔をのぞかせている女子と目が合った。デジカメを持っていた子だ。小走りでこちらに来る。もう一人、六年女子の中で唯一スカートをはいていた子と手をつないでいる。
「由紀先生ってなんまらめんこい。もてるっしょ」
「なまら?」
「私、理衣子(りいこ)。こっちは明莉(あかり)。ねえねえ、由紀先生のことをゆうちゃんって呼んでいい?」
五年の教室の前で足を止め、理衣子の大きな黒目を見つめる。
「したっけ、前の担任のことも岡ちゃんって呼んでいたし、去年の担任も堅(かた)やんだったし」
理衣子は、ぽっちゃりした明莉にそうだよねえ、と問いかけた。明莉はにっこりと笑い、「うん、うん」と一度目は理衣子に、二度目は私にうなずいた。
「ゆうき先生って呼んでほしい。そう言われるの、楽しみにしていたから」
名簿とファイルを両手で胸に抱き直す。
私とあなたは友達ではないし、と心でつけ足した。きつい声にならなかったかな、とも思った。
「なら、由紀先生のうちへ遊びに行っていい?」
「なんで?」
「あそこっしょ。堅やんちの二階でしょ。一昨日、引っ越してきたんだよね?」
廊下の窓から見える教員用アパートを理衣子は目でさした。
「紺色の軽自動車が由紀先生の車だよね。小さい車は危ないってパパが言っていたよ」
先生達のことを全て知っているのは当然という感じだ。
「一人暮らしなんだからいつ遊びに行ってもいいっしょ? 明莉も行きたいよね?」
明莉は困ったように笑いながらもうなずく。
「引っ越したばかりで家の中はぐちゃぐちゃだし、人を呼べる状態じゃないから」
私は半笑いを浮かべて歩きだした。
「したっけ、片付いたらいってもいいっしょ?」
「いつか、ね」
「まじで? 約束だよ。待って、由紀先生。先生が教室に入るところを写真に撮るから、いいって言ったら来てね」
理衣子は明莉と手を繋いだまま、先に教室に入っていった。
いいよー、と理衣子が教室から叫ぶ。
扉は開いていたから黒板消しが落ちてくる心配はなかったけれど、なんとなく上の方を気にしながら教室に入った。
こども達は私に、新しい担任に、注目している。
意識的に背筋を伸ばし、黒板の前に置かれた教師用の机に出席簿を置いた。
教室が広い。木目の床がこれだけ見える。横浜の教室は机と椅子でぎゅうぎゅうなのに。始業式のときの校庭と同じ、人数が少ないということは一人当たりの面積が広いということだ。
廊下側から窓側へと全体を見渡した。窓側の一番後ろの席の男の子とだけ目があわない。黒のジャンパーを着た彼は机の上で文庫本を開いている。
「最初に出欠をとります。名前を呼ばれたら手を挙げて返事をしてください」
教室の真中に座る理衣子が手を挙げ、「はーい」と一年生の口調そのままに返事をした。思わず笑ってしまう。こども達の顔からも力が抜け、教室の雰囲気が和らいだ。
再び、1番いでさぶろう、と名簿で確認した。『あ』からではなく『い』から始まるのも人数が少ないからだ。
「1番、井出三郎さん」
はい、とはっきりとした声が教室に響いた。手を挙げた彼は、表彰されていた野球チーム代表の小さいほうだ。
「先生、オレ、男なんだけど」
くすくすと笑い声が起きた。何を言われたのかわからず、名簿を見る。確かに男子のマーク、青の蛍光ペンで井出三郎の下に線が引かれている。
「先生、三郎のこと、三郎さんって言ったっしょ。三郎くんじゃないの? 三郎さんって変だよ」
理衣子にむかって、そのことか、と伝える。
「変じゃないよ。先生は男子も女子もさん付けで呼ぶから。くん、や、ちゃんは高学年にはふさわしくない」
えー、という声があがった。お前はなんとかさんだぜ、女子みてえ、と数少ない男子が言いあっている。
「先生、おれ、三郎でいいよ。三郎さんはなんかイヤだ」
呼び方を大事にすること、こどもとはきちんと距離をとること。そう、教育実習で習った。
「私は先生で、あなた達は生徒。友達ではないから呼び捨てはおかしい。教室では三郎さん。そう呼びます」
三郎が目を逸らす。
「次ね。2番、加藤明莉さん」
「はい」
すっと手を伸ばした明莉は微笑んでいる。彼女と明るい理衣子がいればやっていけるかもしれない。
一人ずつ「さん」を付けて名前を呼び、出席のチェックを入れていく。わざと大きな声で返事をする男子、はにかんで顔の横までしか手を挙げない女子。
15番目。六年一組の最後は、和瀬亮さん、だった。
私の声が教室に響く。
誰の手も挙がらない。男子は6名。返事をしていないのは窓際の一番後ろ、黒のジャンパーの彼だった。本を読む姿勢に変化はない。彼だけ透明なカプセルに包まれていて、周りの声は遮断されているようだ。
「和瀬、亮さん」
みんなが彼を見ている。目だけで様子を見ている。
名前を間違えて呼んでしまった場合は考えていたけれど、返事がないなんて。どうすればいいのか。大学では教えてくれなかった。
もう一度、呼ぶべきだろうか。
声が、出るだろうか。
それでも、返事がなかったら。
「亮、呼ばれているよ」
理衣子がつまらなさそうに言った。
彼の反応はない。
もう一度息を吸い、和瀬、まで声に出した。
「先生、亮は小さい声で返事をしました。次へいってください」
新担任に対して初めて敬語を使ったのは、和瀬亮の前に座る鳥羽護(とばまもる)、野球部の代表として朝礼台に上がっていた背の高いほうだった。
でも、次の人はいない。
私は六年一組と書かれた黒い表紙の出席簿を閉じ、指の爪を噛んだ。
そう簡単にはいかない。
横幅の広い道路がまっすぐに伸びている。信号はない。対向車は時々しか通らない。六十キロで運転していたら大型トラックが追い抜きをかけてきた。トラックからの風圧を受け、私が運転している軽自動車はオホーツク海まで吹き飛ばれそうだった。
「小さな車は事故にあったら一発で死ぬから、特に由紀ちゃんは雪道初心者だしなぁ。早く買い替えろぉ」
北海道に着いた一昨日の晩に叔父は言い、埃が積もったスバルの車を車庫から出してくれた。叔父の二階建ての家は床暖房とガスファンヒーターがつけられ、半袖でも過ごせる温かさだった。叔母は北海道の教師になった祝いだとわざわざ赤飯を炊いてくれていた。北海道特有のピンクの赤飯だった。去年の七月に行われた教員採用試験のときにも、この家に泊まらせてもらった。そのときに小豆ではなくて大納言甘納豆で作る、ほんのり甘い赤飯を初めて食べた。
「いいかぁ、狐や鹿が飛びだしてきてもハンドルは切るなよぉ」
叔父が言い、
「切らなかったらどうするの?」
私は赤飯を口に入れた。
「動物を轢けばいいさぁ。当たり前だろ」
「ハンドルを切ったらさぁ、ゆきちゃんが滑るか、対向車とぶつかってしまうからねぇ。ゆるくないけどねぇ。滑り出したらわやだから、わや。それにしてもゆきちゃんがこっちに来てくれてなんまら嬉しいわ。いつでも遊びに来ていいんだからね」
「ゆきちゃんは今年は横浜の試験は受けなかったんかい?」
赤飯を飲みこみ、うなずいた。昔から二人とも私のことを「ゆき」と呼んだ。どことなく、雪、にも聞こえる発音だった。二人の言う「ゆき」はいつまでも幼さが残る由紀のような気がする。
「ゆきちゃんの母ちゃんは、縛りがきっついからなぁ。逃げ出したくもなるべ」
「そういうわけじゃなくて」
「去年はどっか受けたんだっけか?」
「受けていないよ」
「なして? 就職活動してたんだっけか。全部だめだったかい?」
「お父さん、こうして北海道へ来てくれたんだからそんなことはどうでもいいっしょ。ゆきちゃん、おかわりは?」
私はピンクの赤飯を三杯食べた。
今から、北野市内にある北海道東部の教育庁舎へ行かなければいけない。着任日、こどもが教室にいる時間に30キロの距離を運転してわざわざ本人が辞令を取りにいくなんておかしい。昨日から何度もそう思った。それよりもこどもと一緒に過ごすことが大切なはずなのに、と。
もちろん、来年の三月までの臨時職員の私はそんなことを言える立場ではない。今年度の試験に通っているかもわからない。経験もないのに雇ってもらっている。でもそれなら、六年生の後期という卒業前の大事な時期を経験不足の私に任すのはどうなのだろう。しかも、返事をしない、と言う反抗的な態度をとる子もいるのに。
久しぶりの信号で車を停止させ、T字路の突き当たりにある灰色の建物を眺める。看板の『海が見えるレストラン』の、レの字が消えている。昼にはまだ時間があるせいか、駐車場に車は一台も停まっていない。夏期のみの営業なのかもしれない。灰色の建物の右側には『原生花園』の看板があった。草が茂っていて花は一つも見えない。
教育実習はたった一ヶ月の実習だったけれど、お別れ会で寄せ書きをもらったときに泣いてしまった。よくあるお別れのセレモニーで、まるで学園ドラマのように自分が泣くとは思っていなかった。
幌内小学校の六年一組の子達が卒業するときに私は泣けるのだろうか。
半年先の、自分。
信号が青に変わり、灰色のレストランを視界に入れないようにアクセルを強く踏んだ。
十月二日、後期が始まって二日目、一時間目の授業は学級活動にした。昨日は慌ただしく教室をあとにしたから今日はゆっくり話をしようと決めてきた。
六年一組の扉を開けて黒板の前に立つ。日直が号令をかける。全員が席を立ち、朝の挨拶をした。おはようございまーすと語尾を伸ばしているのは理衣子だ。家庭調査表の川口理衣子の欄には一年半前に札幌市から転入、父親は北野市で働き、四歳上の姉がいるとあった。
着席し、昨日と同じように出欠をとる。「さん」を付けて名前を呼び、手を挙げて返事をした子と目をあわせた。出席番号14番、円(まどか)達也さん。はい、と答える声を聞いてから間を置かずに、15番、和瀬亮さん、と大きく声をだした。
返事はない。
窓側の一番後ろの席で亮は窓の外に顔をむけている。亮は北海道新聞の東部支局の記者をしている父親と二人暮らしをしている。母親は、いない……。
もう一度呼ぼう。声を落として。
「和瀬、亮さん」
返事ぐらいはして、と言いたかった。けれど、そう言っても反応がなかったら。
私は三度目は呼ばずに出席簿を閉じた。
「今日は最初に自己紹介をしたいと思います。でも、みんなは一年生のときからずっと同じメンバーだから、お互いのことはよく知っているでしょう?」
「保育園からだよ」
三郎が答えた。
「それはすごい。でも先生は今日で二日目、しかも半年しか一緒にいられないから早くみんなのことを知りたいの。先生のことも知ってもらいたいし」
亮以外の十四人は顔を上げている。
「みんなも楽しめるように9マスビンゴをしよう。マスごとにお題があるからそこに自分の一番好きなことを書いてね。お題がスポーツだったら野球、サッカー、スキー? 色だったら赤でも青でも一番好きな色。お題がないところはフリーだから自由に好きなことを」
3マス×3マスの枠が印刷された紙を配った。
「フリーの3マスは何を書いてもいいの? あれ、先生。名前を書くところがないよ」
理衣子は前の席の明莉から紙を受けとり、後ろへ回した。
「本当だ、ごめんね。ビンゴの上に名前を大きく書いておいて。フリーは何を書いてもいいけれど、先生もやるから先生と同じのを書いた人がビンゴになるよ」
「先生と同じだったらビンゴ? ビンゴになったら賞品は?」
理衣子と数秒を目をあわせ、
「みんなからの拍手が貰える、かな?」
と疑問形で答えた。
「えー、つまんない。理衣子が一番にビンゴしたら先生ちに行っていい? 一緒にお出かけもいいね」
「それはちょっと」
笑顔をつくって椅子に座り、ファイルから紙を取りだした。昨日、辞令交付式が終わってから幌内小学校に戻り、9マスの枠を埋めておいた。
「そのファイル、なまらめんこい。やっぱ若い先生が一番だよね。岡ちゃんはじいちゃんだし、堅やんは流行とか疎いし」
理、衣、子、と明莉がふり返って注意した。
「いいっしょ。本当のことなんだから」
「先生、全く思い浮かばないよ」
廊下側の三郎の席へ近づく。
「早い。三郎さん、あとはフリーだけだ。野球以外で三郎さんが好きなことってある?」
「寝ること。ゲームも」
「加藤の名前を書けば?」
窓側に座っている、尖った顎と目の細さが印象的な達也から声がとんだ。皆がくすくす笑う。「バーカ」と三郎は言い返し、左腕で顔を隠すように肘を立てて鉛筆を動かした。みるみるうちに三郎の顔が赤くなっていく。家業は農業、三郎は三人兄弟の三番目。父親は五年間、幌内小学校のPTA会長をしている。私は背中で三郎を隠し、亮へ視線をむけた。亮はまだ窓の外を見ていた。鉛筆を持っている気配はない。
一人ずつに声をかけながら亮の席へと向かう。予想通り、亮の机上にある九マスビンゴの紙には何も書かれていない。
どうして書かないの?
書きたくないから。
そうやって亮が答えてくれたら、むしろ楽かもしれない。けれど最も可能性が高いのは、質問を無視する、だろう。
護が振り返り、私を見てから前にむき直った。護以外の子は顔をむけてはいないけれど、私がどういう態度で亮と接するかを見ている。無理強いはしないが無視はせずに気長に声をかけ続ける。昨晩読んだ教育書にはそんなようなことが書いてあった。それが正しいのかもしれない。でも私は教師になったばかりで、半年後に彼らは卒業してしまう。気長にやっていく時間はあるのだろうか。
「亮さん、まずは名前を書こうよ。と言いながら名前を書くところがないっておかしいね」
頬杖をついている亮は、今日も透明カプセルの中に入っている。
「筆箱は持ってきている?」
私の声だけがふわふわと浮いていく。
他の子の鉛筆が紙の上を動く音が聞こえてくる。かけるべき言葉を思いつかない。
私は両手を頭に乗せ、横の髪、頬と手を滑らせた。ムンクの叫びのように顔を下に伸ばしてみる。
「先生、はんかくさーい。めんこいのが台無しっしょぉ。ていうかシャッターチャンスだったのにぃ」
理衣子の声で皆が一斉に振りむき、私の伸びた顔を見て笑った。変な顔で笑わせることができるならと手の平で頬を押し、唇をタコのように突き出してみた。笑顔のままでいてくれたのは明莉だけで、理衣子も含めて他の子は寒いギャグ、もしくはキモいというような冷めた顔をして前をむいた。
亮には、変化がない。
私はわざとらしく肩をすくめて、亮の机の高さに屈んだ。
「思いついた。昨日読んでいた本の題名を書くっていうのはどう? 私も読書は好きだから」
ふいに、亮はこちらに顔をむけた。前髪が邪魔だったけれど初めて目があう。
次の瞬間、亮は自分の机の上に置かれた紙をひっくり返し、「えむ」と言った。
「えむって?」
亮はさっきまでと同じように右手で頬杖をついた。私の前に壁を作るように。それからはぴくりとも動かない。
諦めて亮の机から離れようとしたとき、護が後ろをむいて鉛筆を差しだした。亮は無言で受けとり、左手の中指と親指で器用にまわし始めた。受験生や浪人生がやる鉛筆まわしだ。
「上手。亮さんは左利きなんだね」
亮の反応を待たずに自分の椅子へ戻った。
先生の好きなスポーツは野球です、と言ったら、イエーイと男女とも大きな声があがった。三郎がどこのファン? と訊いてきたので、横浜育ちだからベイスターズと答えた。一転、教室は静かになる。北海道は巨人ファン、もしくは日本ハムファンが多いのかもしれない。
先生の好きな色は赤、赤と書いた人? と訊くと手を挙げたのは護だけだった。
好きな食べ物はお赤飯と言ったら、再び教室に沈黙がおりた。
「先生、普通、ザンギか焼き肉でしょう。空気読んで」
理衣子だった。
「ザンギって鶏の唐揚げのことだよね。ならザンギって書いた人?」
理衣子もいれて男女十人以上の手が挙がった。
「先生はあのピンクの餅米が好きなんだけれどな。ではフリーの好きなことを言うね。先生がすごく好きなのは温泉です」
皆、呆気に取られた顔をしている。
「温泉っていいよね。先生、北海道に住むと決めた一番の理由はそこかしこに温泉があるからなんだけれど」
反応がない。理衣子でさえも無表情だ。
「次へいきます。温泉の次に好きなのは映画を観ること」
「私も」
すぐそこの席で明莉が言ってくれた。
「よかった。先生が一番好きなのは007シリーズ。知っている?」
ジャンジャラジャンジャン、とテーマ曲を口ずさんだ。ジェームス・ボンドが登場する画面だ。けれど現実の世界で目の前にいるのは首をかしげるこども達だった。護と目があったような気がしたけれど、護は後ろをむいて亮に声をかけている。
「あとは好きな音楽ね。AKBとか言いたいけれど先生が好きなのはノラ・ジョーンズ。しっとりとした歌声。ワインにはノラだよね。あっ、先生はワインやビールも好き」
だんだん早口になっていく。
「フリーの好きなことはこれが最後ね。温泉、映画ときたら旅行だよね。まだみんなは行かないか」
「この9マスビンゴをやって私達と先生の間にはなまら距離があるってわかった。こんなのは意味ないっしょ」
理衣子が言い、他の子が笑った。
「でもさ、私とみんなは十歳しか歳が違わないんだよ。ということで、みんなが好きなことも知りたいから一人ずつ発表してください」
えー、いやだー、と今回に限って大きな声があがった。
「オレ、ドッジボールがしたい。もう教室にいんのは飽きたよ。昨日、先生がいなくなったあと、ずっと復習テストだったんだ。先生、お願い」
三郎は顔の前に拝んだ両手をもってきた。横浜では誰もやらなさそうな動作につい笑ってしまった。
「やったー、行こうぜ」
三郎の後ろの席の男子が席を立ち、ロッカーから赤いボールを取りだした。
「ちょっと待って。他のクラスがグラウンドを使っているかもしれないし」
女子も男子も三郎達に続いて廊下へ出ていく。9マスビンゴの紙は机の上に置きっぱなし、椅子も出しっぱなしだ。
「先生、全学年が同時にグラウンドで体育をやっても大丈夫です」
護が小さな声で言い、椅子を入れながら席を立った。教室に残っているのは護と亮だけだった。亮はブックカバーに包まれた本を持って護の横に立っている。
「亮さんはいつもどんな本を読んでいるの? ドッジボールは好き?」
護は亮に目をむけてから、すみませんと私へ頭を下げた。まるで亮の保護者のようだ。二人は後ろのドアから出ていった。グラウンドを見ると三郎と達也がライン引きを持ち、真っ直ぐに白線を引いていた。
「店まではどれくらいかかるんですか?」
「10分」
「幌内にも焼き肉屋があるんですね。他には、レストランって……」
「スナックしかない」
「スナック?」
「スナックさんご草。能取湖(のとりこ)の近く」
「名物料理とかって」
「ない」
「でも、北海道では何を食べても美味しいですよね」
理衣子が堅やんと呼んでいた堅田和政(かずまさ)は眼鏡をかけていて猫背。革ジャン、皺がよったチノパン。妻一人、二歳の娘がいる堅田先生は学校職員の飲み会でお洒落する気はないようだ。
「コンビニまで車で15分かかるし、ちょっと買い物をしたくなったらどうしているんですか?」
「買いたくならない」
堅田先生はぼそっと言った。去年の理衣子たちの担任だから訊きたいことがたくさんあるのに、堅田先生はいつもこんな調子だ。職員室ではめったに顔を上げない。教材の置き場所など必要最低限のことだけに答える。面倒そうに。
でも、今日は学校外。二人きりで話せる、焼肉屋までの歩きながらの10分間は貴重だ。
「私がいないときにやらせておいたテストの丸つけをしたら、理衣子さんと護さん以外はものすごく点数が悪いんですけれど、大丈夫でしょうか」
相槌はない。堅田先生は両手ともポケットに入れて歩いている。
「どの教科も平均70点もいかないし」
「なんもさぁ」
「なんも?」
「まあ、心配いらないってこと」
「そう、なんですか」
三郎にいたっては五年生までの漢字50問中、はねやはらいに目をつぶってなんとか四つ丸がついただけだった。百点満点なのに四×二でたったの8点。
「理衣子のとこ以外、親も期待してないし」
「男女の仲はいいですよね」
心持ち明るく言ってみる。
「理衣子から、報告があった」
「報告?」
「新しい先生はドッジボールが異様に強くて、先生の投げたボールが顔に当たった三郎は鼻血を出したって」
堅田先生がこんなに長い文章を口にしたのは初めてだ。しかも「鼻血」のところで眼鏡の中の目を細くし、にやっと笑っていたような。
「私ばかり狙うから、ちょっとむきになってしまって」
「三郎はマゾ体質だから。厳しくされると喜ぶだろ」
そうかもしれない。鼻にティシュを詰め、三郎は楽しそうにボールを投げていた。
「でも亮さんだけドッチボールはやらず、朝礼台に座って本を読んでいました。亮さんはどんな子ですか?」
答えはなかった。
私が口を開こうとしたとき、
「俺は嫌い」
白く曇った息と一緒に言葉が吐き出された。続きがあるのかと黙っていたが、堅田先生はそれ以上話さなかった。
歩道の両側に家はなく、丈の長い草、そのむこうに白樺のような枝のない細い木々があった。鈍く光る外灯のおかげで、かろうじて互いの姿が見える。車も通らないから、これこそ完全なる沈黙の闇夜、映画だったら悪者が出てくるか、堅田先生が悪者に変身する場面だ。
私は、横にいる堅田先生の横顔を盗み見た。
似ている。
堅田先生と亮。
人を寄せつけない雰囲気がそっくりだ。
私は口をすぼめて白い息を長く吐いた。亮と堅田先生が似ているからといってどうなるわけでもない。亮は昨日の復習テスト、今日の9マスビンゴの紙と白紙だった。9マス全て埋めてあったのは護と理衣子だけで、他のこども達も空欄が目立った。名前が書かれていない紙もあり、せっかくの自己紹介ビンゴは台無しだった。
足音がして、振りむこうとした瞬間、生暖かい手が私の太ももをさわった。全身に鳥肌が立つ。
「後藤さん、ミニスカートにタイツ? しばれてるのに? さっすが浜っこじゃん」
事務の安藤みどりが笑い、彼女の後ろにいる三人に声をかけた。
「寺山教頭、今日は井出さんが来るんでしょ。後藤さんに手を出さないように言っておかないと。飲むと井出さん、完全に親父になるから」
そうねえ、と教頭はみどりに返した。井出PTA会長は三郎の父親だ。父兄が飲み会に来るなら焼肉屋でこどもの話はできない。堅田先生は私達を避けるように早足で先に行ってしまった。
「私ね、二年前まで横浜で事務やってたの」
みどりは私の右隣りを歩いている。
「だから、浜っこ、って知っているんですね」
「でもさ、純粋な浜っこがこんな田舎でいいの? なんもないよ」
そうですね、とも言えない。
「後藤さん、六年一組はみんなかわいいでしょう」
教頭は私の左隣りを歩いている。
「教頭先生、和瀬さんって」
「和瀬亮ね。給食費、学級費の支払いはちゃんとしてるけど、私とは一回も口をきいたことがない」
みどりが言った。
「彼はどんな子なんですか? 私、和瀬さんみたいな子は初めてなんです」
教頭はくすっと笑った。
「後藤さんにとっては全員が初めてでしょう」
確かに。教育実習しか経験がないのだから六年一組の15人が初めて受け持つ子達だ。
みどりは私の側を離れ、前を歩く女性二人に追いついた。教頭は私と話をするためにゆっくり歩いてくれている。
「後藤さんは、亮くんのことをどういう子だと感じているのかしら?」
亮はクラスの男子の中で一人だけ野球をやっていない。名前を呼ばれても返事をしない。テストやプリントも一切やらない。
「正直に言うと、扱いづらい子だと思います」
教頭は微笑み、後ろに目をむけてから前の方を見た。薄らと赤く光る看板が先にあった。黒い字で焼肉と書かれている。
「後藤さん、ピグマリオン効果という言葉を覚えている?」
「教育心理学のですか? 指導者がこの子は頭のいい子だと思って接すると学力が伸び、問題のある子だと思って接する問題を起こす」
教頭は足を止め、私とむかいあった。
「後藤さんはきっといい先生になる。扱いずらい子や困った子ほど自分を成長させてくれるから。私も、先輩にそう言われたのを思いだしたわ」
笑みを残して教頭は歩きだす。
背の高い後ろ姿を見ながら、質問に質問で返したり、聞きたかった答えとずれたことを言われる感じが母との会話に似ているな、と思った。
後藤先生の席はあそこよ、と教頭が指差した。大黒天とゴリラの間、いや、校長と井出勝(かつし)PTA会長の間だ。低いテーブルの上に乗った七輪を四人で囲んでいる。全員で15人くらいだろうか。
「後藤先生、こんな辺鄙な町によく来てくれた。俺は、嬉しい。なまら嬉しい」
三郎の父親でもある井出は、既に酔っている口調だ。
「いい町だからさぁ。若いやつらも数は少ないけれどちゃーんといるから、今度は青年会で歓迎会をやろう。後藤先生の」
「おい、まさかお前も若いやつらのメンバーに入っているんじゃないだろうな。青年会の歓迎会は妻帯者禁止だよな?」
井出の正面に座っている、顔の細い男がビールを飲んだ。
「健太郎、はんかくさいこと言うなや。先生、こいつは円健太郎。達也の父ちゃん」
「そう言われれば、達也さんと似ています。顔や身体がしゅっと細いところが」
「健太郎はよぉ、脱いだらぶよぶよだけどなぁ。先生、達也も三郎もなんか悪いことしたらぶったたいていいから。なまら厳しくしてやって」
井出がビール瓶をこちらに傾けた。急いで半分くらい残っていたビールを飲み干す。
「いやいや、先生。そんな体育会系みたいなことしなくていいから。でも嬉しいなぁ。飲める女の先生、久しぶりでないかい?」
井出は私のグラスになみなみとビールを注ぐ。
「ちょっと井出さん。後藤さんにちょっかい出さないでよ。まったく存在自体がセクハラなんだから」
校長の向こう隣に座っていたみどりが言い、
「みどりちゃんには敵わんなぁ」
井出は大口を開けて笑った。
「みどり、ちゃん?」
「安藤さんところのみどりちゃんは、あいつがおしめつけてた頃から知ってるさぁ。いっぱしの女に育っちゃって」
それはそうと、校長の横に配置されているのが年齢の若いみどりと私というのはおかしい気がする。しかも職員より保護者のほうが多い。横浜では学校外で保護者やこどもと距離を置くのが当然だった。住所、電話番号は学校のもの以外は教えない。モンスターペアレントと呼ばれるような保護者が四六時中、担任の携帯電話に連絡したり、家の前で待っていたりして問題になったからだ。
「後藤先生も食べているかい? いいあんばいに焼けてるさぁ」
井出が私の皿に肉を山盛り置いた。
「北海道の焼き肉は日本一旨いから、腹一杯食べてよ。そういえばこの前、紺のスバルを運転している先生とすれ違ったって。先生、俺に気づいた?」
「気がつきませんでした」
「勝はまじではんかくさいなぁ。来たばかりの先生がお前の顔を覚えているわけないっしょ。先生、町内ですれ違うのはみんな知っている人だから。運転中にスマホとかいじったりしないほうがいいよ。先生がこんなことしてたって噂になっから。まあ、冬にそんなことしたら滑ってくけど」
「健太郎、後藤先生は絶対にそんなことしない。真面目でいい先生なんだって」
「なんでいい先生ってわかるんだよ」
「先生は野球が好きだって三郎が言っていたさあ。それだけでもわかっるしょ。なあ、後藤先生。先生はこどもが大好きで先生になったんだよな?」
私は口の中の肉を飲み込んだ。
「先生、幌内が好きかい?」
「勝っさぁ、来たばかりの先生にわかるわけがないっしょ」
「わかるさぁ。こども達も都会のこまっしゃくれた子よりめんこいべ?」
井出は私の皿の肉をつまんで自分の口に放り込んだ。
「それ、私の」
「ごめんごめん、美人の隣りだから緊張してさぁ」
校長は正面に座っている教頭と熱心に話をしている。堅田先生は一番奥の席でひっそりと肉をつまんでいた。周囲の人と話しているのだろうか。
「後藤先生は都会の香りがするもんなぁ」
井出は私のグラスにビールを注いだ。慌ててグラスを持つ。酔っぱらいの相手は私が一人でしなければいけないらしい。
「あいつはどうね? 和瀬んとこの」
円が生肉を網の上に置いた。
「和瀬、亮さんですか?」
「そうそう。あいつ、暗いべ。手なずけるのはゆるくないと思うよぉ」
「まだ二日しか学校に行っていないので」
「亮、なんかしゃべった?」
いいえ、と言ってもいいのだろうか。個人情報という単語が浮かぶ。
「低学年の頃は泣いてばかりいたなぁ。母親が事故死したってのもあったし。三、四年の頃はよく学校を休んでた。あの家でさぁ、一人で何してたんだべな」
「亮の母親がですか?」
「知らないの? 亮が一年のときに、そこの国道で」
「わかった」
突然、井出が叫んだ。
「ミニスカートだべ。始業式で着てた黄色の。よく似合っていたよぉ。あれで亮の前でしゃがめば」
「勝、完全にそれはセクハラだべ。先生が困っているっしょ」
井出が顔をのぞきこんできたので、私は赤ら顔を避けるためにのけ反った。そんなことより、もっと亮のことを知りたい。
「後藤先生、ながーく幌内小にいてください。頼みます」
「……まだ試験に受かっているかもわからないし」
「採用するように教育長に言っとくから。なあ、校長さん。受かっちまえば来年度もいられるよな?」
井出と同じくらい顔を赤くした校長はこちらをむき、それはちょっと、と言葉を濁した。
「今さぁ、もめてんのさぁ。幌内小学校が存続の危機なの。いやいや、幌内小学校は残るんだけども、他の三つの小学校、欽水、川沿、日吉台と統合しようって話があってさ。おれ達は反対してんのさぁ」
校長が面接のときにしていた話だ。
「市のほうは統合したら予算もつくし、一クラスの人数も増えるし、いじめは減り、競争が増して学力も伸びるって良さそうなことばっかり言うんだけれども。大きくなればいいってもんじゃないっしょ。横浜から来た先生ならわかるっしょ?」
井出は真剣な目をしている。酔いは消えているようだ。
「おれ達は、というか、おれ達のじいちゃんの頃から幌内と欽水、川沿はライバル校だったわけ。地区対抗運動会、陸上大会、スケート大会、昔はスキーもあったらしいけど、盛り上がるのさぁ。打倒欽水、打倒川沿ってな。こどもだけじゃなくて親、地域も一丸となって。それが一つの学校になってみろぉ。誰と戦えばいいのさぁ」
無理に戦わなくてもいいと思う。けれど、もし規模が大きくなったら広々とした教室や校庭は失われ、都会の学校のようになってしまうかもしれない。
「今度、役所の連中と話し合いがあるから先生も来てな。あいつら全く聞く耳持たんから腹立つさぁ。だいたい公務員は頭でっかちで、一度こうと決めたら何があろうと意見を変えない」
「ばっか、勝。先生も公務員だべ」
「後藤先生は違う」
井出が私の肩に手をまわしてきた。
「先生は大丈夫。頭でっかちなんかでねぇ。ちゃーんと人の意見を聞ける。おれはわかってる」
この手をどう振り払えばいいのだろう。
「後藤先生、困ったことがあったらいつでも俺に電話して。すぐ助けにいくから。これ、俺の番号ね」
井出はもう片方の手でスマホの画面を見せてきた。
「勝にい、いい加減にしなさい。後藤さんにさわるなんてもっての他。23歳なんだから。私がお金をもらうよ」
「なんで、みどりちゃんに金払わなきゃなんないんだよ」
肩から井出の手が離れた。
「もちろん口止め料。奥さんに言ってもいいの?」
場が笑い声に包まれる。
先生の番号は? と井出がしつこく訊いてきたけれど微笑んでごまかした。保護者と携帯電話で連絡を取り合うなんて考えられない。
四時間目終了のチャイムが鳴った。六年一組のこども達は先を争うように手洗い場へむかう。彼らは廊下に吊るされている白衣袋を手にして二列に並び、日直の合図で歩きだした。私は後ろをついていく。幌内小学校に来て初めての給食で勝手がわからない。
全校児童、全職員が揃って給食を食べるランチルームは幌内小学校の二階の東端にあった。細長いテーブル席には赤と白のギンガムチェックのカバーがかけられ、壁には目や口、手足がある人参や玉葱の絵が貼られている。
子ども達はランチルームの入り口で白衣を羽織い、白い帽子をかぶり、マスクをした。所定の位置につき、スープをよそったりスプーンを配ったりと準備をしている。
「ゆうちゃんは、ここに座ってて。ゆうちゃんの分は私が持ってくるから。岡ちゃんは糖尿だったし、堅やんはメタボ防止だったから少なめにしていたけれど、ゆうちゃんは山盛りでいいっしょ?」
理衣子はサーモンピンクの四角い盆を重ねて持っている。
「理衣子さん、私のことをゆうちゃんって言わないで」
「なんで? 給食は授業じゃないからいいっしょ」
ゆっくりと首を横に振った。
「普通の量でいいから。少な目でいいし」
「うっそ。わかった。金曜の飲み会で焼き肉を食べ過ぎたんだ。それか、井出っちにやられたとか」
「え?」
「井出っち、しつこくてキモいっしょ。あまりの熱さにやられるよね。熱中症?」
「理衣子さん、なんで知って」
最後まで聞かずに理衣子は配膳台の前に並びにいった。マスクを顎におろした彼女は、これは由紀先生のだからね、とパンや紙パックの牛乳を乗せている。理衣子は幌内で起こることを全て知っている。彼女だけではないのだろう。私が学校外で何をしているかは筒抜けだ。
低学年が席に着き、次に中学年が現れ、最後に五年生が着席した。四列あるテーブルには、様々な学年のこどもが混ざって座っている。
手伝いをしようと配膳台の側をうろうろしてみたが、先生は座っていて、と再び理衣子に言われた。いつの間にか白い陶器から溢れんばかりのシチューが私の席に置いてある。クリーム色の中の赤い切り身は紛う事ない鮭の赤だ。朝昼晩朝昼、五食続けて鮭か、と思いながら六年一組のこどもの姿を目で追った。
亮は皮付きの梨をトングで皿に乗せている。亮の前髪は白い給食帽子に全て入り、亮の額が見えた。一つ、二つとニキビがある。ああしていると幼く見える。でも、亮は強い意思をもった十二歳の男子だ。私は新たな問題が発覚した三時間目の体育の授業を思いだしていた。
白に近い薄水色の高い空を見上げながら、私は外靴に履き替えた。
整列、体操をさせる体育係は予想通り三郎と達也だった。グラウンドに出ている人数はジャージ姿の自分もいれて16人。始業式よりもグラウンドが広い。横浜スタジアムくらいあるのではないか。
準備体操が始まった。教育実習で受け持った五年生はたいして膝を曲げず、腕も伸ばしていなかったが六年一組は全然違う。「1、2、3、4」と体育係が声をだせば、「5、6、7、8」と皆がきちんと応える。「先生もやらないと」と理衣子に言われ、三郎とむかい合わせに身体を動かした。「踵をあげない」「手の平を全部つけて」三郎に注意され、高校の体育教師より細かいと思ったが言われた通りにする。
亮は声を出していなかったけれど、三郎に注意されない程度には真面目に体操をしていた。上は白の体操着、下はいつも履いているような黒の長ズボンだった。忘れたのか、いつもそうなのか。
「先生、運動会の練習?」
体操が終わり、三郎の声で元の四列に戻るこども達。余計なおしゃべりをせずに三郎の指示通りに動く。
「Aグループは竹馬、Bグループは縄跳び、Cグループはフラフープにわかれて練習。10分で交替して最後はソーランでいい?」
私は一も二もなくうなずいた。初め、と言った三郎の声で全員が体育倉庫へ走った。亮も、最後尾だけれど流れに加わっている。そういえば授業の始まりの挨拶もしていないし、私は一度も指示をだしていない。
幌内小学校にはチャレンジタイムというのがある。一年生から六年生まで毎日、昼休みの15分間に竹馬や縄跳び、とび箱などを行っている。それの集大成が運動会での六年生の競争種目だった。前半は障害物競走でとび箱を跳んだり、平均台を渡ったりして全員が同じ障害を乗り越える。後半はくじを引き、そこに書かれた竹馬・縄跳び・フラフープの難易度が高い技を保護者の前で披露するというものだ。一年生のときから『元気・やる気・根気』で取り組んできた最大の見せ場というわけだ。
私は体育倉庫の近くでこども達の様子を見ていた。理衣子がいるグループはフラフープを一人で何本も使い、腰だけでなく腕や足首で回すという技を練習している。常に誰かの大きな声がし、女子の高い笑い声が聞こえてくる。
亮は縄跳びグループの端で、護と共に跳んでいる。前跳び、交差跳び、後ろ交差と、跳びながら技を変化させていく。野球もやっていないし、ドッチボールのときも読書をしていたし、いつも猫背だけれど、運動が苦手なわけではないらしい。
10分経過。
「次」と三郎が言い、練習する種目が変わった。こども達は無駄のない動きで移動する。
手持ち無沙汰だったので、私は余っていた縄跳びを手にした。二重跳びを十回以上続けて跳んだら、先生すごい、と女子の声が聞こえた。後ろ二重跳びは三回できればいいほうで、前の三重跳びは一回跳べるか跳べないかだった。
「うまくできないな」
後ろ二重跳びを練習している明莉だ。一回は跳べるけれど二回目でひっかかっている。跳ぼうという思いが先に立ち、膝と上半身を深く折り曲げているから連続で跳べない。アドバイスをしようとしたら、先に達也が明莉に声をかけた。明莉は真剣な表情で達也が後ろ二重跳びをするのを見ている。別の女子もそこに加わる。次に明莉が跳んだときには、連続では跳べなかったけれど姿勢はよくなっていた。
私は一人でもう一度、三重跳びに挑戦した。この子達に教師なんていらないかもしれないと思いながら、明莉のように姿勢を意識して跳んだ。一回、二回、三回。生まれて初めて三重跳びが三回続けて跳べた。左右を見渡す。こども達は練習に一生懸命で誰も私を見ていない。当たり前だ。私は褒める側で褒められる側ではない。
縄跳びを置いたとき、長い竹馬を構えた護が朝礼台の上に立っているのが見えた。亮は朝礼台によっかかっている。護が持っている竹馬の足を乗せるところは、亮の頭と同じ高さだ。竹馬グループの他の子達はもう一段低い竹馬を手にしている。
あんな高さの竹馬に乗れるのだろうか。
数秒後、護は竹馬を斜め前に倒し、一歩、二歩と進み始めた。護の身長の二倍はある細い竹がキリンの足のように動いていく。ちょうど十歩進んだところで護は軽くジャンプして前に降り、長い竹馬を両手で抱えて朝礼台まで運んだ。
亮は近づいてくる護をちらと見て、足先でグラウンドに何かを描き始めた。
やる? と護が声をかけている。
亮は、ゆっくりと首を振った。とても嫌そうに。
亮は竹馬をやらない。出席の返事を絶対にしないように、竹馬も絶対にやらない。
運動会は今週の日曜日。六年間の集大成。幌内小学校の伝統ある競技。大黒天のような校長の顔。体育が得意な三郎の父親でもある、井出PTA会長。
今すぐ朝礼台へ行き、亮さんは竹馬の練習はしないの? と言わなければいけない。私は六年一組の、亮の、担任なのだから。
あんな長い竹馬、普通はできないよ。別にできなくても死ぬわけではないし。
やる気がない人に無理にやらせる必要がある? 元気で根気があっても、やる気がなかったら竹馬は進まないじゃない。
それに、亮から、どうしてやらなければいけないのかと問われたらなんて答えればいいのか。
どうしてだろうねえ、一緒に考えてみようか、と質問返しくらいしかできない。
前髪の奥にある冷ややかな亮の目が浮かぶ。
堅田先生だったら、放っておくのかもしれない。
教頭だったら、足でグラウンドに絵を描く亮の隣りで別の話をするのかもしれない。
私は、と考えているうちに二度目の、次、の声がした。亮と護がいるグループはフラフープに移っていく。こっちの方が似合わないと思うのだけれど、二人は争うようにフラフープを三本ずつ手にし、滑らかに腰を動かし始めた。
「材料を用意してくださった人達、調理をしてくださった山崎さんと森さん、準備をしてくれた六年生に感謝して、いただきます」
五年生の代表の声に続いて、全校児童が手を合わせた。私は皆から少し遅れていただきますとつぶやき、先が割れた銀色のスプーンを手に持った。
「美味しいでしょ?」
隣に座っていたみどりが言った。長い髪をバレッタで一つに留めている。私はうなずき、シチューの中をスプーンでかきまぜた。鮭にブロッコリー、ジャガ芋、人参、玉葱が彩りよく入っている。
「ここで作っているから。二人ともすごくこども好きだし」
みどりは配膳台の近くを目でさした。白衣を着た調理員の女性が二人、座って給食を食べている。近くのこども達と話をしながら。
「いいですね。作ってくれる人の顔を見ながら食べられるのは」
鮭をスプーンですくって口に入れた。数回噛むと身がくずれ、脂肪分が溶けていく。
「横浜の学校はセンター方式だった?」
「そうです」
給食センターで作られたものがトラックで運ばれてきていた。まずくはなかったけれど、一斉に調理された味がした。
「人が多いのも考えものだよ。あっちはさ、遊ぶところがたくさんあって楽しかったけれど、水と食べ物はこっちが美味しいよね。あと空気も」
「まだ、そんなにわからないけれど」
「後藤さんって正直」
みどりは四角い牛乳パックをつかんだ。男子がスープ皿を持って配膳台の前に立っている。調理員が席を立ち、おかわりのスープをよそってあげている。三郎だ。食べるのが速過ぎる。まだ5分も経っていない。
「統合されたら、ここでは食べられなくなるかもね。さすがに狭いし」
教室で三郎の近くに座っていたら、もっとよく噛んで、せっかく作ってもらったんだから味わって、と言っていただろう。先生として。そして三郎は、うるさいな、もしくは、うざいな、と思うのだろう。
「安藤先生、一つ聞いてもいいですか? 運動会の竹馬は」
「私は先生じゃないから、みどりでいいよ」
彼女はパンをちぎり、口の端を上げて笑った。
「六年生の障害物競争は、みどりさんの頃からあったんですか?」
「もちろん。私はフラフープがよかったのに竹馬が当たっちゃって。光速で進んだけれど」
「光速ってすごい」
「みんな、身体を動かすのが好きなんだよね。他にやることもないし。だから二十歳になる前にこどもができちゃう子も多くって。おっと」
みどりはわざとらしく口を押さえた。
「それより、町民還元の鮭は捌けた? 一本丸々捌くのって初めてでしょ?」
「まあ、なんとか。ネットで捌き方を見ながらやりました」
「下の堅やんのところへ持ってけばよかったのに。堅やんの奥さんは北海道生まれだから、ささっとやってもらえたはずよ。堅やんと違って感じいいし」
そうなんですね、と牛乳パックを掴んで窓の方を見た。グランドには、朝礼台だけがぽつんと残されていた。
机にむかっていないのは、亮だけだ。亮は問題が解けたから外を眺めているのではなく、そもそも問題を解く気がないのだろう。
算数、『速さ』の単元。例題で一通り解き方を確認して練習問題を二問解く。例題と数字だけを置き換えた基礎問題だから、苦手な子でも10分くらいで終わるだろうと予想していた。誰かに発表させて解説をつけ足し、それから応用問題を解かせ、答え合わせをして45分の授業が終わる、予定だった。
机と机の間を通ってそれぞれの進捗具合をみていく。
護は一問目が終わっている。
理衣子は顔をあげてにっと笑い、両手で答えを隠した。
明莉は丁寧な字で問題文をノートに写し、答えを書く場所をカッコで作っていた。問題にはまだ取り組んでいない。
三郎は例題の解き方をノートに写している。さっぱりわからない、とつぶやきながら。
「どこがわからないの?」
三郎の机の横に屈んだ。どこがわからないかがわからないと三郎の目がいっている。
三郎ほどではないにしろ、クラスの半分が三郎に近い状態なのは、例題の説明が短すぎたからだろう。もっと詳しく丁寧に説明しなければいけなかった。教育実習のクラスには、授業が始まってから10分でその日やるべき範囲の応用問題まで終わってしまう子が何人もいた。このクラスの中レベルの学力の子が40人中一人か二人という感じで、残りの子は教科書の問題なんか簡単すぎるという学力だった。
「先生、終わりにしてドッジボールやろうよ。グラウンド空いてるよ」
窓際に座る達也の声だ。
そうしよう、と三郎が言い、やったーという男子の声が響く。ノートや教科書を閉じる音まで聞こえた。
「わからないままって悔しくない? この二問だけでも解こう」
私は教室を見まわした。えーっ、と嫌そうな声があがる。
「体育のときの『元気やる気根気』はどこにいったの?」
「したっけ、勉強できなくてもいいって。悪さしないで元気で、あとは家の手伝いしてればいいって、うちの父ちゃん言っていたさぁ」
三郎の父ちゃん、井出PTA会長。飲み会ではうちの子が悪さしたら厳しく怒ってくださいと言っていた。今、三郎を椅子から立たせ、文句を言うな、問題を解けぇ、と怒鳴ったらどうなるのだろう。
皆、引くだろう。
三郎はその場では従うかもしれない。
けれど、確実に距離は開く。亮だけでなく、全員が出欠のときに返事をしなくなる可能性もある。
「ドッジボール、ドッジボール」
クラスの半分くらいの子が手を叩き、グラウンドに行く気になっている。
いいよ、と言えたら楽なのに。
「三郎、先生が困っているっしょ。算数の時間は算数をやろうよ」
理衣子だ。
教室は静かになり、三郎が理衣子を睨んだ。
「理衣子は黙ってろよ。札幌の中学に行くから遅れたくないだけだろ。オレ達をつきあわせんなよ」
「なにそれ。理衣子は札幌に行きたくて行くわけじゃないし」
「いつもふざけてうるさいくせに、こういうときだけいい子ちゃんぶるなって言ってるんだよ」
理衣子はぱっと両手で顔を隠して泣き始めた。
明莉が席を立って理衣子の肩に手をかける。
他の女子は目配せしている。
教室に流れている空気から、理衣子のことをいい子ちゃんと思っているのは三郎だけではないことがわかった。
私は黒板にもたれた。なんだ、この学園ドラマみたいな展開は。どうすればいいのだろう。こうときはどうしろって教育書に書いてあったか。
「三郎、理衣子の気持ちがわからないの? いなくなるから黙れって言われたら私だって傷つくよ」
いつも微笑んでいる明莉が固い顔をして言った。
説得力がある。
三郎、追従していた男子も、理衣子と明莉から目を逸らした。
泣き止んで、と明莉が声をかけたときに窓際で手が挙がった。
「問題が終わったので、答え合わせをしてください」
護が席を立って言った。
みんなが私を見る。
私はこどものように「はい」と返事をして白いチョークを持った。背中に重い空気を感じながら、黒板に解答を書いていく。
教室にはチョークの音とこども達の鉛筆を動かす音が響いている。
ドッジボールは算数の時間にはやりませんとすぐに答えればよかった。
理衣子が卒業後に引っ越すことも知らなかった。
三郎の、理衣子に対するきつい言い方。
母が前に言っていた『夢の三日間』という言葉はこういう意味だったんだ。新しい担任と出会ったこども達は三日間、猫をかぶって過ごす。その間にいかに自分のやり方を伝えられるかが勝負、と。
今日は、後期が始まって四日目だ。
黒板に書かれた数式はどれも右斜めに上がり、数字の大きさもばらばらでひどかった。
職員室では右隣りが堅田先生で、左側は壁だ。席を立たない限り、堅田先生以外の人とは気軽に話せない。
「堅田先生、理科の教材ですか?」
「そう」
堅田先生は熱心に振り子のような物を組み立てている。窓側では先生達が、誰々くんがこんなことした、というような話で盛り上がっている。
「堅田先生、なんでこどもってあんなにドッチボールが好きなんでしょう?」
「さあ」
堅田先生は引き出しを開けてハサミを取りだした。プラスティックの細いパーツを慎重に切り落としている。
「堅田先生」
言葉を止める。
なに? と訊いてくれるかと思ったけれど反応はない。
堅田先生との会話はあきらめて私はノートの束から一番上のを取った。提出するのを嫌がった三郎のだ。濃い筆跡で問題が写されている。その後、解こうとしていないし、解答を写してもいない。父ちゃんは勉強なんかしなくてもいいって言っていたさ、という三郎の言葉が聞こえてくるようだ。
赤ペンを持ち、解答を書いていく。
まあ、そうなんだけれど。こんな問題、できてもできなくてもたいしたことない。でも、この先はもっと難しくなる。この問題ができなければ今後の算数、数学の時間はただの苦痛でしかない。わかるということは本来楽しいことなのにな、と思いながら、三郎のノートに詳しく解き方を書く。
「時間ですので職員室は閉めましょうね。仕事が残っている方はご自宅でなさってください」
寺山教頭が言った。母のように優しく、けれど有無を言わさない口調で。
職員室の掛け時計の短い針は5を指している。準備万端で教頭の言葉を待っていた人はすぐに鞄を持ち、お先、と職員室を出ていく。いつの間にか、堅田先生もいない。
私は、丸つけの途中だった漢字プリントを急いでまとめ、全員分の算数と理科のノートが入った水色の買い物かごの上に乗せた。こどものノートやテストの束などを買い物かごに入れて運ぶのは父のやり方だ。まだ個人情報や教師の自家用車通勤にうるさくなかった頃、父は学校関係のものを山程かごに入れて家に持ち帰ってきた。父も母も特別な用事がない限り、夕食の時間には家族が揃って家にいることを大事にしていた。夕食の後に、テストの丸付けや、判子をノートに押すのを私達は手伝った。姉は文句を言いながらやっていたけれど、私はそういう作業が楽しかった。両親の仕事が終わると映画の時間だったからというのもある。私の実家は普段、父がプロ野球を見るとき以外、家のテレビには布がかけられていた。母の方針だったが、だからこそ父がレンタルビデオ店で借りてくる映画は特別のものだった。父が透明のケースを取りだす。ケースを開いてビデオをデッキに入れながら今度の全米No.1は面白いぞ、と言う。また全米No.1? いくつNo.1があるの、と母は苦笑いをする。チャンチャラチャンチャン、と007のオープニング曲が流れ、ジェームス・ボンドが画面のこちら側にむけてピストルを打つ。
プラスティックの買い物かごは、ノートを入れるのにぴったりだけれど、入れ過ぎると重いという難点がある。
左腕にかごを提げてアパートの階段を昇ると、玄関の把手に白いビニール袋がかかっていた。ごつごつしたものが袋を膨らませている。
鮭、ではない。
袋を持ち上げると手の平より大きな貝殻が見えた。袋には帆立が二十個くらい入っていた。
殻が開かない。
フォークを殻の間に入れる。
殻が欠ける。流しが破片だらけだ。
ネットで検索した『帆立貝の開け方』通りにやっているのに。
やっと開いたと思ったら、帆立の身や耳の部分が殻から取れない。
無理だ、無理。あと二十個もある。
キッチンカウンターの椅子に腰をおろした。帆立のために叔父の家まで片道四十分を運転するのは面倒だし、まだ仕事も残っている。帆立は鮭より好きではないし、今度こそ金曜日の燃えるゴミの日に捨ててしまおう。殻も中身も全てビニール袋に戻した。
でも、金曜日に捨てるとして、それまでに腐って匂いを発する可能性がある。冷蔵庫に入るだろうか。
それより、捨てるのを誰かに見られたらどうしよう。帆立を穫っているのは、配っているのは、クラスの子の保護者かもしれない。
玄関のドアが開いた。堅田和政は、ぼさぼさの髪、上下グレーのスエット姿だった。
私が持っているビニール袋を見て、どうぞ、と先に居間へ入っていく。
嬉しそうか嫌そうかと訊かれたら確実に嫌そうだったと思いながら私は靴を脱いだ。
部屋は同じ間取りだが、家族と一人暮らしはこうも違うのかというくらい堅田家には物があった。座ると音が鳴る子供用の小さな椅子、色鮮やかなのおもちゃ、薄い大型テレビ、大きな冷蔵庫。白いソファの横のキャビネットタイプの棚にはずらりとDVDが並んでいる。私はビニール袋を提げたまま棚に近づいた。
「堅田先生も映画好きなんですか? 私も映画が大好きなんです。あっ、インディ・ジョーンズシリーズ。三作目ではショーン・コネリーが活躍しますよね。ボンドを思いださせるようなアクションもあったし」
スタジオジブリのもの以外はほとんどが洋画だ。
「ホラーが多くないですか?」
「私が好きなの。特にサスペンス系が」
カウンターキッチンの中から奥さんが言った。堅田先生はキッチンに入り、奥さんが抱っこしている娘を受けとって胸に抱く。髪を二つに結った娘は、不審気に私を見ている。
「突然お邪魔してすみません。この前の鮭は捌いたのですが帆立は一枚剥いたら力尽きてしまって」
「なんも、なんもよぉ」
奥さんは笑顔だった。彼女の化粧は眉をひいただけで、肩より長い髪を黒のゴムで一つにまとめている。堅田先生の腕の中で、なんもぉ、なんもぉ、と娘が高い声をだした。
「帆立をやっちゃう間、だいちゃん、マイのことをみててくれる?」
私は短く息を吸った。眼鏡をかけ、クールな印象がある堅田先生がだいちゃんと呼ばれている。笑わないように堪える。いいでしゅよー、そうでしゅねー、など、いつもは赤ちゃん言葉を使っているのかもしれない。ぜひ聞いてみたい。
「これ持っている? これがないと大変なのよ」
奥さんはもんじゃ焼きで使うへらみたいな道具を見せてくれた。
「ネットにありました。うちにはないからフォークで一つは開けたんですけど」
彼女は一つ、二つと簡単に帆立を開けていく。
「誰か余計に持っているだろうからもらっておくわよ。まずは生でどうぞ」
貝柱に醤油を垂らしたものが奥さんの手にあった。
「美味しい」
「でしょう。あとは自分でやる? 私がやるのを見てる?」
「自分でやります。今後できないと困るし」
「後藤さんはえらいわ。鮭だってイクラだけ取ってなげちゃう人も多いんだから。オスだったらその辺に放られるし。いたましい話でしょ」
彼女はにっこりと笑い、へらを差しだした。
「いたましいって」
「もったいないっていう意味。内地の人だったらお金払って買うのにね」
「そうですね」
ついさっきまで私も捨ててしまおうかと思っていた。
「捨てるぐらいだったらくれればいいのに。うちの親戚に送ったら大喜びするってね、だいちゃん」
ああ、と堅田先生は返事をし、娘の前に積み木を重ねた。私はへらみたいな道具を使って貝を開けた。三つ目からは貝を開けて貝柱と耳を取りだすまで三分もかからなくなった。奥さんは私の横で食器を出したり、鍋に湯を沸かしたりしていた。
へらを洗っていると、となりのトットロ、トットローと歌う低い声が聞こえてきた。堅田先生は娘を膝の上に乗せて『となりのトトロ』を見ている。今の歌声は堅田先生の声だろうか。トトロを歌うんだ。私は流していた水を止めた。堅田先生のトトロを聴けるのは一生に一回かもしれない。
「実際には、いないわよね」
奥さんはボールに合わせた調味料を混ぜながら顔はテレビにむけている。画面には六年生という設定の五月(さつき)と三歳か四歳のメイが教室にいる場面が映っていた。
「五月ちゃんと坊主頭のカンタくん。六年生にしては純真すぎない?」
「私も、そう思います」
奥さんは微笑み、
「あの人、無愛想でしょ?」
と小さな声で言った。私は帆立に卵液をからませながら黙った。
「でも、けっこうこどもが好きなのよ」
「そうなんですか?」
心底驚いたというような声が出てしまった。すみません、と謝ると、彼女はおかしそうに笑った。
「しかもバンドをやっていたのよ。がんがんのロックバンド。見かけによらないでしょ。私も一緒にやっていたけれどね」
「本当に?」
「後藤さんはいかにも先生っていう感じよね。はきはきしているし、運動もできるってだいちゃんが言っていたし」
「昔から先生っぽいと言われます。両親ともに先生だったからかな」
彼女は私をちらと見てから、切った葱をザルに集めた。
「後藤さん、良(い)い子だったっしょ?」
テレビ画面を見ながら、たぶん、と答えた。小学生のときは良い子というより先生の味方だった。先生を困らせる子がいたら私がなんとかしなければと思っていた。亮みたいな子がクラスメイトにいたら、あのときの私はどうしただろう。きっと護みたいな役割をしていた。亮の気持ちもわかるし、先生も困らせたくない。
「寂しくない?」
え、と顔をむけたときに流しの台を押さえていた手が滑った。左手が卵液につかり、ぐにゃっとした貝柱にふれる。奥さんが笑いながらタオルをくれた。
「意外にそそっかしいところもあるんだね」
「職員室に忘れ物をしてよく取りに行きます。こども達にも、また? って言われていて」
「完璧に見えるよ。話す前は、近寄りがたいかもね」
それにしては理衣子や井出さんは最初からべたべたしてきたけれど……。
「私は行動は速いけれど雑なの。だいちゃんは丁寧だけれど時間がかかるし。あれ、なんの話していたんだっけ?」
彼女はテレビを見た。画面では親子三人がトトロの木にむかって話しかけている。
「こっちに一人で寂しくない? って訊きたかったの」
「いえ、叔父と叔母が北野に住んでいるから……」
テレビ画面が遠くなる。羽田空港で細長い飛行機を眺めている自分。寂しさなんか感じなかった。嬉しさだけだった。早く家を出て母から離れて一人になりたかった。横浜以外だったらどこでもよかった。
運動会三日前のリハーサル。朝から太陽が出ていて、夏のような陽射しを肌に受けた。
最終種目の全校リレーの直前に行われる、六年生の障害物競走。私は審判係としてゴールに立っていた。
順調に12人が種目を終え、亮は最終組だ。跳び箱を跳び、たらたらというよりは心もち速く走ってきた亮は、グループの三番目、最後にくじを引いた。亮より先にくじを引いた子は竹馬、縄跳びだったけれど、同じ種目が三本ずつ、計九本のくじが入っているから安心はできない。
竹馬以外にでお願いします。神様、竹馬だけはやめてください。
人の顔をあれだけ強い思いを持って見つめたことは久しくなかった。
亮は引いたくじを開かずに堅田先生に渡した。くじに書かれている内容がマイクを通して発表される。
「縄跳び、二重跳び前20回、後ろ10回」
亮は目の前に置いてある縄を手にして、当日は敬老席となるテントの前で跳び始めた。
私は大きく息を吐いた。肩から力が抜けていく。
亮は勢いよく縄を回している。跳ぶ度に前髪がはねて亮の額と目が露になる。後ろ二重跳びは何度か引っかかったが気にせずに淡々と回数を重ねていく。
テントには教頭と校長、井出が座っていた。教頭が校長に耳打ちし、校長と井出が笑顔で話している。
競争種目は一位に三点、二位に二点、三位に一点の点数が入る。けれど六年生の障害物競争にかぎっては順位よりも『元気やる気根気』を見せることが大切ななことが、テントの下にいる三人の表情から伝わってきた。
四、五、六年生と職員で用具の片付けをした。私は五年生と体育倉庫に等賞旗を運んでいた。
「後藤先生、おつかれさん」
井出がテントを潰している。運動会当日までテントは校庭に置かれたままになる。
「六年生はやる気満々だったな」
子ども達は先に体育倉庫へ歩いていく。
「入場行進、種目の入れ替え時の速足、係の動きもばっちりだった。ラジオ体操もきびきびしていたし」
「あれは三郎さんが毎回、厳しく教えてくれたから」
井出はそんなところに注目しているんだ。私は両手に持っていた等賞旗をグランドに置いた。
「亮もさぁ、ちゃんとやっていたじゃないか。先生の指導の賜物だべ」
いえ、なんにも、と首を振る。
「日曜日、晴れるといいな。今のところ天気予報だと雨か曇りなんだよ。おれは朝五時から並ぶからさ」
「随分早いんですね」
「場所取りしないといけないからな。じいちゃん、ばあちゃん、従姉妹、親戚、みんな来るから。楽しみにしてんだよ」
一番楽しみにしているのは俺だから、というような満面の笑顔だ。
「皆、後藤先生のTシャツ短パン姿に見とれるぞぉ。手え、振ってやってな。じいちゃん達に」
いつものが始まり、私はTシャツの裾を伸ばした。短パンが隠れるわけではなかったけれど。
「昼もさぁ、一緒に喰わないかい? みんな喜ぶさぁ」
「いえ、特定の家族とだけ仲良くはできません」
即答したら、井出は目を大きく広げた。
「こども達が待っているので失礼します」
私は頭を下げて体育倉庫へ歩きだした。
「先生、ちょっと待って」
顔だけ振りむいた。井出は照れたように頭をかきながら、
「おれもさ、由紀先生って呼んでもいいかな?」
と言った。
私は、まじまじと井出の顔を見た。今、距離を置いたつもりだった。私はあなたの先生じゃないし、そういうべたべたした関係は苦手なんです。喉の近くまで言葉がきていた。
「井出さん、職員室でお茶でも飲むべ」
校長が井出の後ろから声をかけた。
おじさん達にめんこがられればなんも問題ないさぁ。
校長の言葉を思いだし、私は唾を飲んだ。今日はお疲れさまでした、と言ってから体育倉庫へ走った。
「先生、片付け終わったから教室へ帰っていい?」
五年生が待ちくたびれた顔をしている。とうに片付けは終わってなくてはいけない時間だ。
「いいよ。ごくろうさま」
「先生、一位と二位の等賞旗はあそこでいいの?」
二つの等賞旗は低くつぶされたテントの横に残されていた。
学校で誰かと二人きりになるのは意外と難しい。バレンタインのチョコレートを学校であげようと思ったことがある女子なら、今の私の気持ちをわかってもらえるかもしれない。
出席簿を胸に抱えて階段を昇る。踊り場の窓から朝の白い光が射し込んでいる。
亮には、完全に避けられている。出欠の返事は絶対にしない。休み時間に机に近づくと、亮はあからさまに私に背中をむけ、拒否する。
しつこくはしない、けれど担任としての気持ちは伝えるべきと教育書には書かれていた。
それは、どの程度なのだろう?
たとえ背中にでも、亮さんと話したい、と言ったほうがいいのか。
竹馬、やりたくないの? と。
でも、やりたくないのは見ていればわかるし、話したくないと背中も言っている。
護と二人きりで話したかった。どうやったら竹馬を亮がやろうとしてくれるか、護ならいいアイデアがあるのではないか。亮が私と話そうとしない理由も聞きたい。
7時半。六年一組の教室には誰もいない。静けさを破りたくて教室の窓を全て開ける。冷たい新鮮な空気が入ってくる。緑の木々の中に赤い帽子をかぶせたようなサイロが見えた。護の家のサイロだろうか。
護と亮の家は隣りだ。隣りといっても酪農をしている護の家の敷地が広いから、玄関から玄関まで歩いて5分以上はかかる。二人は一緒に登校し、その後もほぼ二人でいる。亮がトイレへ行くときが護と話せるチャンスかと思ったら、いつも一緒にトイレへ行く。じっくりと観察すると、どうも亮がトイレへ行くときに護がついていくようだ。亮が人差し指で合図みたいなのを出しているのも見た。休み時間になると護は三郎達と一緒にグラウンドへ出る。亮は教室で本を読むか、外の日が当たる場所、朝礼台や児童玄関の前の階段、針葉樹の下に座って本を読んでいる。給食、チャレンジタイム、午後の授業、下校。学校は常に誰かと一緒にいる場所なんだと改めてわかった。
窓から上半身を出して清涼な空気を吸い込む。時間がない。
そもそも、私が担任になって10日後に運動会がある時点で時間はない。
「目標を今さら書くの? もっと前に書いておくべきじゃない?」
理衣子に言われるだろうな、と思っていた。
「でも、ただやるべきことをこなすより、自分はどういう思いで臨むのかをはっきりしたほうがいいと思うの。小学校最後の運動会を思い出深いものにしようよ」
考えておいた言葉を並べる。
「百メートル走や障害物走はわかるけれど、入退場、ラジオ体操の目標って?」
「下級生の見本になる、とか。ラジオ体操だったら、しっかり腕を伸ばす、とか」
鉛筆を持って書き始めている女子もいたけれど、明らかに面倒くさそうな雰囲気が教室には漂っている。
「先生も書いたほうがいいんでない。いつも体操で三郎に注意されてるっしょ」
達也だった。からかうような言い方が達也の父親に似ている。他の男子や数人の女子がくすくすと笑う。私は皆に配ったのと同じプリントをファイルから出して黒板に貼った。
「書いてきたよ。ラジオ体操についても。見たい人は前に出てきて見ていいいよ」
達也、三郎、理衣子が最初に出てきた。続くようにぱらぱらと何人かが前にくる。
明莉は既に五つの空欄を埋めていた。障害物競争の欄には、くじで縄跳びが出たら後ろ二重跳びを連続で成功させたい、とある。
こども達は縄跳び、フラフープ、竹馬と三種類の種目を毎日練習している。
どうして、くじなんだろう。自分で好きな種目を選べたらいいのに。それか全種類やるか。
前に出てきた子達は自分の席に戻利、目標を書き始めたようだ。
私も椅子に座ろうとしたら、白い紙が床に落ちているのが見えた。配ったばかりの運動会の目標のプリント。机の上にプリントが置かれていないのは亮、ただ一人だ。亮は、文庫本を読んでいる。落ちていたプリントには、名前さえも書かれていない。
「亮さん」
甲高い、ヒステリックともいえる声が出てしまった。
皆の視線が集まる。
私は肩が動くほど息を深く吸って、ゆっくりと吐いた。
「これ、落ちているけれど」
亮は上目づかいに私の顔を見て、それから文庫本に視線を戻した。私の手にあるプリントには目もくれない。
亮の動きも全部、皆が見ている。
顔が熱くなっていく。
どうして、こんな思いをしなくてはいけないのだろう。昨日、リハーサルが終わったあとに作ったプリントだった。目標を細かく書くことによって、きっと一つ一つが充実したものになる。入退場だって注目してくれる人がいるのだから。
「亮さん、運動会には参加するでしょ。名前だけは書いてほしい。このプリントも、私のことも、簡単に無視しないでほしい」
手に持っていたプリントが震えている。最後のほうは涙が声に混じってしまった。
絶対に、泣きたくない。
先生がこどもの前で、こどもにされたことで、泣いてはいけない。それは最低なことだ。
プリントを亮の机の上に乗せる。
護が振りむいて亮に鉛筆を渡し、亮は本を開いたままプリントの上に置いた。
護から受けとった鉛筆を二度、左手の指で回してから、りょう、と平仮名三文字がつながったような字で書いた。
それから、鉛筆を放るように置き、左手で前髪をはらった。亮は意外にも、困っているような目をしている。
身体から、熱がひいていく。
「他も書けるところがあったら書いておいてね」
早口で言い、亮の席を離れた。
アパートに帰ったら、ドアの把手に生米の入ったビニール袋がかかっていた。ちゃんちゃん焼きをするから食べに来て、というメモが袋に貼ってある。
今日、こども達に書かせた運動会の目標をまだ読んでいない。一人ずつに励ましのコメントをしようと思っていた。
プリントやノートが入った重い買物かごを玄関に置く。週に二回も下の階に住む人と一緒に夕飯を食べる。
それは、どうなのだろう。
玄関横の洗面所で手を洗う。水が冷たい。目が覚めるような冷たさだ。
鏡に自分の顔が映っている。化粧がとれて髪が乱れている。やつれているようにも見える。ちっとも楽しそうじゃない。教育実習のときは一度もそんなふうに思わなかった。こども達は先生、先生と慕ってきてくれた。休み時間に彼らと遊び、時々、授業をやればそれでよかった。問題がある子の相手は担任の先生がしていたから。
洗面所を出る。暗くがらんとした廊下。誰もいない居間。これから一人で夕飯の用意をする。
できるだろうか。
できなくても、気軽にコンビニの弁当を買いにも行けない。
私は何も持たずに家を出た。
堅田先生の膝の上にはマミちゃんが座っていた。彼が木のスプーンを近づけるとマミちゃんは口を開ける。ご飯ともやしと鮭の切れ端が乗ったスプーンがマミちゃんの口の中へ入っていく。
「手酌で飲んで。私もそうするから。行事があると仕事が増えて疲れるっしょ」
奥さんはビールの缶を傾け、自分のグラスに注いだ。北海道名物、味噌とバター味の鮭のちゃんちゃん焼きにビールはよく合う。
「こっちの運動会って、単なる学校行事じゃないのよね。地域の一大イベントで、おじいちゃんやおばあちゃんの楽しみだから。統合されたら楽しみ半減だよね。一人ひとりの活躍の場が減るわけだし」
「井出さんもそんなようなことを言っていました」
「それだけ地域のつながりが強いってこと。テキ屋みたいなお店も出るし」
「学校の運動会なのに?」
「一応、敷地外だけれど。地域のつきあいだからやめてくださいとも言えないのよ。どの家のお弁当も正月のお重くらい豪華だし」
私は顔を上げた。
「大丈夫。教員は7時には準備を始めるんだから、お弁当まで作れないっしょ。折り詰めが配られるから」
「よかった。昔から運動会のお弁当って苦手で」
「なんで?」
「家同士のお弁当の比べっこみたいな雰囲気が苦手なんです。うちは運動会が同じ日で親が来られなくて、コンビニのお弁当を職員室で食べたこともあったし」
二人とも何も言わなかった。堅田先生の膝に座っていたマミちゃんが、抱っこして、と言うように奥さんの方へ手を伸ばす。
「マミ、運動会だって。パパがピストルをバンって打つのを見にいこうねぇ」
ママに抱かれて満足というような顔をしたマミちゃんが、うん、とうなずく。2歳のこどもは無条件でかわいい。理衣子や亮にもこんな時期があったんだ。
私は残っていた鮭や野菜を全て自分の皿に取った。
ごちそうさまをしたマミちゃんを奥さんが手洗い場へ連れていく。テーブルは堅田先生と二人きりになった。
「亮、竹馬にさわろうとしないんですよ。もし、本番で竹馬のくじを引いたら」
堅田先生はイカの塩からを箸ですくった。
「私、全員ができるまでやらせるのは好きじゃないです。逆上がり、とび箱、踊りもそうだけれど。でも踊りはできるできないじゃなくて、身体を動かしていればいいわけだし。ていうか、亮もソーラン節は上手に踊れるし」
「四年からやっていて三回目だから」
「堅田先生、なんでくじを引かないといけないんですか。好きな種目をやらせればいいのに」
堅田先生はグラスを振った。焼酎のお湯割りの中で梅干しがゆらゆらと揺れている。
「田舎の、伝統競技だから」
「でも」
自分で言った、でも、が自分に戻ってくる。でも、私は一週間前にここに来たばかり。臨時で雇ってもらっている立場。
「今、思いつきました。くじを読むのは堅田先生だから、先生が竹馬以外を言ってくれればいいんじゃないですか」
「そういうのは好きじゃない。竹馬を引いて困るのは亮だろう。本人が練習しないんだから」
「それは、そうですが」
「みんなは亮の性格を知っているから。担任のせいとは思わないよ」
私は空のグラスを眺めた。こだわっているのはそこなのだろうか。返事がないとわかっているのに毎朝、和瀬亮さんと名前を呼ぶこと。真白のプリントやノート。
「堅田先生、教室に自分と話してくれない子がいるってきつくないですか」
まあ、と堅田先生は箸をグラスに入れた。
「亮さんに私のことを簡単に無視しないで、って言いました。なんかすごく悲しくなって。私なんでここにいるんだろうって思って」
あのときのように涙が目に溜まってくる。六年一組に担任なんて必要ないし、亮にはこれ以上、何もしないほうがいい。
奥さんとマミちゃんはソファーに座って絵本を広げていた。マミちゃんが絵を指し、二人で笑っている。
「堅田先生のときは」
「忘れちゃったな」
亮の様子はどうだったんですか、と問う前だった。
「嘘だ。去年のことを忘れるわけがない。亮は堅田先生とは話していたんですね」
「おれは、こどもと関わらないから」
堅田先生はそんなようなことをつぶやいた。
「だって理衣子が堅田先生の家へ遊びに行ったって」
「秋穂やマミと遊んでいたんだよ。あいつらは赤ちゃんが好きだから。来るなって言ってるのに」
来るなって。私に対しても堅田先生は来るなと思っているのかもしれない。
「堅田先生、先生って本当にこどもが好きなんですか。どうして先生をやっているんですか」
堅田先生は顔を上げ、いつかのように眼鏡の奥の目を細めた。
「後藤さんは、なんで教師に?」
両親が教師だったから教育学部へ行くのは当然だった。教育実習は楽しく、お別れ会で泣いたときに先生になってもいいかなと思った。いつもそう説明している。
「こどもとどういう関係をつくりたいわけ?」
「普通に、先生と生徒として」
「普通ってどんな?」
左の指の爪を噛む。考えたこともなかった。先生は勉強を教える。ときどき一緒に遊んで。ドッチボールや鬼ごっこをして。素直で純真な子達は、先生、先生、と慕ってくる。それが、普通?
「亮は低学年レベルだから。くっだらない理由で話さないだけだよ」
堅田先生は眼鏡を外してテッシュで軽く拭いた。二重の目がはっきりと見えた。
「堅田先生って、眼鏡をかけていないと若く見えますね。顔立ちも整っていてかっこいいかも。ロックも似合うし」
堅田先生は眼鏡をかけ直し、わかったかも、とつぶやいた。
「何がわかったんですか?」
「なんも」
「なんでもいいから、教えてください」
「ねえ、由紀ちゃん。高学年は寺山教頭が音楽の授業をやっているんでしょ。見にいった?」
浴室のドアを開け、奥さんが言った。バスタオルやマミちゃんの着替えを手に持っている。
「まだ一度も音楽をやってもらっていないんです。明日か明後日の五時間目にもしかしたらあるかも」
「音楽やってもらえたらさ、見学させてもらうといいよ。寺山さんは音楽畑出身だから幌内の子はラッキーなの。きっと良い授業が見られるはずよ。じゃあ、マミとお風呂してくるから由紀ちゃんはゆっくりしていってね」
奥さんはドアを閉めた。
いつの間にか彼女は私のことを由紀ちゃんと呼んでいた。
職員室の机にマグカップを置く。ぬるくなったインスタントコーヒーが残っていたが、五時間目が始まる3分前だった。
「後藤さん、六時間目は私に任せてね。ゆっくりお茶でも飲んでいて」
教頭は自分の広い机に習字道具を広げていた。隣りの校長の机の上には『観覧席』と達筆な字で書かれた画用紙が置かれている。
「音楽の授業を見学してもいいですか?」
「それは、もう少ししてからにしてもらおうかな」
「でも」
先に続く言葉を思いつかず、教頭の目を見た。
三秒くらい間が開き、後藤さん、と教頭がやわらかく言った。
「音楽準備室だったら、こども達は気づかないと思うわよ」
教頭は筆に墨をつけ、『御手洗い』と途中で墨をつけ直さすことなく一気に書いた。
子ども達に、六時間目の社会が音楽にかわり、教頭先生が教えてくれることになった、と伝える。
やったーと理衣子は大声をあげ、その他の子達も笑顔になった。えーっと言う子は一人もいなかった。算数にかわった、と言っていたら正反対の反応だったろう。
五時間目が終わるやいなや、こども達は給食前と同じように廊下に整列して二部屋隣りの音楽室へ移動していった。私は一階に降りて宿題のプリントを印刷し、コーヒーを作り直して座った。職員室には私以外、誰もいない。このままここでコーヒーを飲んで、さっきこども達に書かせた国語のノートを見てしまいたい。明日の授業の準備もしたいし、運動会で使うゼッケンのチェックもしたい。
カップを持ったまま、足で椅子を回転させる。グラウンドでは四年生がソーラン節を踊っていた。私より一まわり年長の、がっしりとした体格の近藤先生が朝礼台の上で踊っている。こども達は踊るのに精一杯で担任を見る余裕はなさそうだ。
私はあんなふうには踊れない。ソーラン節を完全に憶えていないことが理由ではなく、踊れたとしても朝礼台の上の見本は三郎か達也、意表をついて明莉あたりにやらせるだろう。
こどもと、どういう関係を作りたいわけ?
堅田先生にはそれがある、のだろう。
私には、ない。ただ、大学で習ったこと、本に書いてあることをやってい流だけ。そうしたら、うまくいく、と思っていた。
私はカップを机に置き、音楽準備室の鍵を持って二階へ上がった。
音楽準備室に入ると、隣りの部屋からこどもの話し声と笑い声が聞こえてきた。なんだか嬉しくなる。ほんの10分間離れていただけなのに。
音楽室に続いているドアは5センチくらい開いていて、ピアノの周りに男子6人が集まっているのが見えた。
教頭がピアノを弾く。
男子の、声変わりしていない声が響く。
三郎の声はすぐに聴きわけられた。
護も大きな口を開けている。
その隣りの亮の顔は影になっていてよく見えない。
ピアノを弾きながら、教頭が深い声をだした。男子6人の声量よりも、教頭一人の声量のほうが勝っている。女子はピアノの周りに並べられた小さな椅子に座って教頭や男子が歌うのを見ている。ピアノが音を奏でているときに話をしている子は一人もいない。
ピアノが止まり、歌声が消えた。
再び教頭が前奏を弾き、男子が声をだす。声に深みが出てきている。三郎の声が柱だ。それに他の子の声が重なり、曲をつくっている。今度は止まらずに音が流れていく。亮はどんな顔をして歌っているのだろう。私はドアを少し開いた。
亮は目を閉じて歌っていた。足を肩幅に開き、胸はやや反らしている。やっぱり、いつもは猫背気味なんだ。やる気のあるときの亮は、こんなに存在感があるんだ。
曲が一周し、教頭は左手で伴奏を弾きながら、右手で男子につめるように指示した。
男子が鍵盤に寄り、女子も全員でピアノを囲む。
間奏が流れる。
女子は歌う前から曲に身体がのっている。リズムをとるのとも違う、曲に入っている状態だ。
歌が始まった。男子の声は完全に女子に負けている。教頭はピアノの音を小さ目にして男子のパートに加わった。
和音が響きだす。
教頭の声に三郎の声が重なり、男子の声が盛り上がっていく。
こんなふうに歌う高学年を初めて見た。目を開けている子も閉じている子も、うっとりとしている。
いい。すごくいい。
加わりたい。私も、あんな表情で歌いたい。
あの輪に、入っていけたら。
でも、ドアを開けて拍手をしたらこども達はいつもの顔に戻ってしまう。私は彼らの一員ではない。ああやって歌わせる力もない。
私は、絶対に気づかれないように、ゆっくりとドアを閉めた。
細かい雨が窓を濡らしている。布団を敷いている和室の窓からグラウンドと校舎が見える。空は、黒よりも灰色に近い。
窓際に体育座りをして六年一組の教室がある場所を眺める。
私にできること、あるのだろうか。
大学では小学校課程の算数科だった。数学の大学入試レベルの問題をこども達の前で解いてみせるのはどうだろう。へー、すごい、で終わりだろう。三郎は黒板に羅列された数字を見ただけで嫌そうな顔をするかもしれない。
竹馬をやる。今から? なんのために? 先生も一日でこんなにできるようになったよ。みんなも、特に亮さん、やればできるよ。
寒い、もしくは、空気読んで、と言われるかもしれない。
左の指の爪を噛む。
普通にしていればいい。急に距離を縮めるなんて無理だ。彼らが今まで幌内小学校でどんな時間を過ごしてきたのかわからないのだから。
当たり障りなく。亮だっていつかは話してくれるかもしれない。可能性は低いけれど。
下の部屋でマミちゃんが泣いていた。その声が大きくなり、しばらくすると泣き声は止んだ。今頃、マミちゃんはパパかママに抱っこされているのだろう。堅田先生がトトロの歌を歌ってあげ、なんも、なんもだよぉと奥さんは言っているのかもしれない
母がいたら。
父は、こういうときにすぐに茶化す。気にし過ぎないのが一番。物事はなるようにしかなんないから。気分転換に映画でもみようか。きっとそう言う。
母は、私が納得するまで話につきあってくれる。
膝の上に顔をのせた。自分で望んで一人になったのに。そもそも、絶対に教師になりたいわけではなかった。だからといって他にやりたいこともなかった。単に親の思い通りになるのが嫌だったのかもしれない。教育学部へ行き、そのまま横浜の先生を目指すのが。
北海道を受ける、そう言ったときの二人の顔。父が、母の小言を途中で止めてくれた。好きにさせよう、と。
立ち上がり、窓から一歩下がった。ここから見ると、幌内小学校はよそよそしくて頼りなげだ。窓枠で切り取られているせいか、ちっぽけな田舎の小学校という感じがする。
朝礼台の上から見たら空はどこまでも高く、広いのに。自分はなんていい場所にいるのだろうと思うのに。
国道の左側は達也のところの敷地だ。冬が来る前に収穫は終わったのだろう。畑の土が雨をうけて黒々としている。道は緩やかな下り坂になり、右にカーブしていく。ここを抜けたら幌内ではなくなる。
目の前に、茶色の物体。
二つの目がこちらを見ている。
右足に力を込め、ハンドルを左にきった。
つんのめるように車が止まる。
クラクションが鳴り、大型トラックがすれすれを追い抜いていく。
一台、二台。少し遅れて三台目。
キツネの姿はなかった。
車道を横切り、歩道のむこうに降りたのだろうか。
ハザードを出し、左の路肩に車を寄せる。
自分の鼓動。身体のどこに心臓があるのかがはっきりわかる。
轢くことなんてできるわけがない。
でも、すぐ後ろをトラックが走っていたら。ほんの少しタイミングが違ったら。
ワイパーの音がうるさく感じ、エンジンを切った。
まだ、心臓が強く打っている。
片道三十キロ。これから叔父さんの家まで運転できるのだろうか。
いったい、何をやっているのだろう。
両手で顔を覆う。この前ここを通ったとき、辞令公布式の日。あんな遠いところまで行く時間があったら、少しでもこどもといたほうがいい、と思っていた。明日は運動会、本番なのに。
クラクションの音がした。対向車線にハザードを出して黒いワゴン車が停まった。
キツネが姿を消した方からゴリラが歩いてきた……。
助手席側のドアを開けて降りる。細かい雨が顔にあたる。
「大丈夫かい? 車、どっか悪い?」
首を横に振る。話したら、涙がこぼれそうだった。
「俺は北野まで買い出しさぁ。明日の弁当にあれが足りない、これが足りないって母ちゃんが言うもんだから」
厚みのある胸。
「先生、ザンギよりも赤飯が好きなんだって? 三郎が先生のために赤飯の握り飯作るって言ってから。明日、取りにきてやってな」
「井出さん、傘はささないんですか?」
井出は空を見上げ、
「傘はささないなぁ。こっちにはそんな習慣ないわぁ」
と笑った。
目に雨の粒がとびこんできた。何粒も、何粒も。
瞬きをする。こぼれたのは涙ではなく、雨のような気がする。
空は白くなりかけている。もう少しで、雨は止むのかもしれない。
「先生、大丈夫かい?」
目をあわせてゆっくりとうなずいた。
「さっき、キツネが飛び出してきて、轢きそうになって」
「それでそんな顔してんだ。怖かったべ」
「怖かった、すごく」
井出は私の肩をぽんぽんと二回たたいた。父の手に似た温かさだ。
「すぐ慣れっから。俺なんか、ついこの前、鹿を轢いて一週間うなされたさぁ。鹿がこう暗い目をしてじっと俺を見てんの。夢で」
井出の明るい声につられて笑う。
「ついていって、いいですか?」
「え?」
「井出さんの車の後ろをついていっていいですか? 私、幌内に戻ります」
「おう。構わんけど、本当に大丈夫かい?」
私はうなずき、車のドアを開けた。
運動会当日、午前の種目が終わる頃に青空は消え、端から端まで真白な半円形の空になっていた。
昼食の時間、迷子になっていた一年生を親の元へと送り届けてから職員室へ入った。先生達は無言で弁当をつついている。机の上には懐石風の三段弁当、枝豆やみかん、菓子の奥にはビールや発泡酒の缶まで置かれていた。ずっしりと中身がつまった紙袋を机に置くと教頭が近づいてきた。
「和瀬亮くん、誰か来ていましたか?」
「父親も一緒に鳥羽さんのところで食べていました」
「それは?」
「井出さんのところからいただいて」
ピンクの赤飯おにぎりが入った紙袋を開いて見せた。軽く10個はあった。
「楽しみね。午後の六年生の活躍も」
教頭は微笑み、校長室へ入っていく。
私は買い物かごの一番上に置いてある画用紙を目で確認してから、観音開きになっている三段弁当を開いた。乾いた刺身や冷めた天ぷらには箸が伸びなかった。紙袋からピンクのおにぎりを三つ手に取る。
「堅田先生、三郎のところからです。奥さんやマイちゃんにもあげてください」
彼は無言でおにぎりを3秒見たあと、ありがとう、と受けとってくれた。
「プログラム20番、六年生による競技種目『元気やる気根気』のチャレンジレースです」
待ってました、と井出PTA会長が大声で叫ぶ。
私はゴールで等賞旗やゴールテープの確認をしていた。
司会の子が話し終わった。
ちょっと待っていて、と五年生の決勝係の子に伝えてスタートラインへ走る。
一レース目のスタート位置に立っている理衣子と達也と護に画用紙を一枚ずつ持たせる。画用紙の文字を見た理衣子が眉を寄せた。私は大きくうなずき、
「三郎さん、六年生を立たせて」
と言った。三郎はわけがわからないという顔をしつつも、六年生、起立、と声をだした。条件反射のように亮も含めて全員が立った。
「理衣子さん」
小さな声で促した。理衣子は嫌そうな顔をしている。
「理衣子、お願い」
理衣子は短く息を吐き、画用紙を頭の上に掲げた。
「川口理衣子、『元気』いっぱい」
画用紙には毛筆で大きく『元気』と書いてある。教頭の習字道具を借りて昨晩用意した。裏には鉛筆でセリフも書いておいた。
「円達也、『やる気』をもって」
達也が理衣子の横に立った。
「鳥羽護、『根気』よく」
護が達也の横に並んだ。
「私、後藤由紀は、『勇気』をもって挑戦するみんなを心から応援します」
画用紙を高く掲げた。
グラウンド、客席、敬老席は静かなままだ。
人間の動きがないだけでなく、風もないし、雨も落ちてこない。
そうだろうな。学園ドラマじゃないんだから。ただの語呂合わせだし。
「由紀ちゃん、逆、逆」
敬老席のテントの横に、片腕でマイちゃんを抱いた堅田先生の奥さんがいた。車のハンドルをきるときのように手を動かしている。
逆? と私は首をかしげた。
「画用紙が反対になっています」
横にいた護がささやいた。
慌てて画用紙の向きを直す。奥さんに抱かれているマイちゃんが小さな手で拍手をしている。私達の後ろでも手を叩いている音がした。堅田先生かもしれない。
「由紀先生、いいぞぉ。新しい六年一組を俺達も応援しているからな」
井出が立ち、応援団の団長のような声をだした。敬老席に座っている方々、客席へと拍手が広がった。
「先生、カメラ呼んだから。この寒い演出を残しとかないと。みったくない顔しないでよ」
理衣子が顔だけこちらにむけて言った。五年生の撮影係の子がすぐ側にいて、デジカメを構えていた。
競技が開始された。
護が引いたくじは最も長い竹馬だ。護はゴールまで軽やかに竹馬を進め、客席から盛大な拍手をもらった。
三郎は縄跳びで、くじに書いていないハヤブサという技まで披露した。井出は席を立ち、テントの前へ出て大声で応援していた。
明莉は三本のフラフープを一度も落とすことなく回し続けた。
いよいよ最後の組、亮の出番だ。いつものように亮の前髪は目を隠している。黒の長ズボンをはき、やや猫背で亮はスタートラインに立っている。
私は採点表を強く握った。
どうか、神様、竹馬以外を引かせてください。縄跳びだったら横浜の六年生より上手なんです。フラフープも似合わないけれど腰が滑らかに動くんです。どうか、竹馬以外に。
数個のくじが入っているだけとは思えない、教室のゴミ箱くらいの大きさの箱を亮が抱えた。
亮は迷わない。最初に手にふれたのを引いたのだろう。すぐに堅田先生に渡した。
神様、お願いします。神様。
堅田先生が息を吸う。
「竹馬、大」
音が、なくなった。
亮は両手で頭を抱え、その場にしゃがんだ。
グラウンドは、ざわめいていたかもしれない。
けれど、音を感じなかった。
縄跳びやフラフープは練習していたのに。晴れ晴れしい六年生の舞台なのに。
遠くにある亮の紅白帽子。亮は自分が竹馬になるとは少しも思っていなかった。どうして、そんな自信があったのか。
一位の等賞旗の後ろに並んでいる護と目があう。
どうしよう、どうする?
等賞旗の横にはさっき掲げた『勇気』の字があった。頭の上に掲げる。亮さん、と声をだした。
「亮さん、こっちを見て。亮さん、亮」
亮が顔を上げる。紅白帽子のつば、長い前髪で亮の目が見えない。
「できなくても応援しているから。竹馬を持って」
私が歩きだそうとしたとき、亮は立ち上がり、長い二本の竹馬を左手でつかんだ。
竹馬が大きくしなる。
亮は竹馬を私がいる方へ持ち上げて見せた。
次の瞬間、二本の竹馬を思いきり投げつけた。
竹馬が、今まで幌内小学校の多くのこども達が使ってきた長い竹馬が、土の上に転がる。
顔が熱くなり、強ばっていく。
教室の床に落とされた真白なプリント。亮の返事を聞くことなく閉じられる出席簿。拒否を示す背中。
足が動かない。
竹馬は白いラインをまたいで横たわっている。
私は、画用紙を頭上に掲げたまま目を閉じた。
亮に、何を言えばいい。
何も、言えない。
声は、届かない。
空気が動いた気配がした。
目を開けると、亮は歩いていた。自分が投げた長い竹馬を手にしている。右手に一本、左手に一本持ってゆっくりと歩いている。私のいるゴールへむかって。竹馬の先が土につきそうになるとバランスを取るように持ち上げる。胸を張って歩いている。
笑ってしまった。声が、出ていたかもしれない。
くだらなくて、こども地味ていて、なにを威張っているんだろう、と思った。
でも、亮らしい。
前日準備と運動会の振り替えが月曜日と火曜日で、私が六年一組の教室に入ったのは水曜日だった。黒板には運動会が終わったあとに理衣子がチョークで書いた『元気やる気根気&ゆうき』という字がまだ残っていた。
理衣子は教室に入ってくるなり、ピンクのリュックから封筒を出した。『後期始業式 10/1』『運動会 10/10』と蛍光ペンで書かれている。
理衣子が教師用机に写真を広げたら、先に来ていた女子は机の周りに集まってきた。
「堅やんの隣りにいる由紀先生、顔が固くない?」
「この黄色の服、かわいかったよね」
「三郎と護、かっこいい」
運動会の写真は100枚以上ある。
「理衣子、印刷のお金はどうしているの?」
私の椅子に座っていた理衣子が足で回転し、こちらへむいた。
「これは私のだから。この中からいいのを卒業アルバムに使えばいいっしょ。個別に印刷してほしい人にはちゃんとインク代と紙代を貰うし。はい、先生」
理衣子は『ゆうき先生へ』と書かれた封筒を差しだした。
「特別にただであげる。でも、みんながいないところでこっそり見てね」
ありがとう、と封筒を出席簿に挟んだ。
護と亮が教室に入ってきた。護は三郎達と一緒に写真を見ている。亮はまっすぐに自分の席へ歩いていく。今日も黒のジャンパーに長ズボンを履いている。
「時間だから、席に着いて」
はーいと返事をし、こども達はそれぞれのロッカーや席に散っていく。
チャイムが鳴る。
日直が号令をかけ、全員が席を立ち、挨拶して着席をした。
私は座らずに、こども達の顔を眺めた。
最初に目があうのは教室の中央に座る理衣子で、廊下側の三郎から窓際の護まで、亮以外はみんな私を見ている。
「先生、出欠はとらないの?」
理衣子の言葉に小さくうなずいた。
「私、小さい頃からずっと後藤ゆきと呼ばれて、それが本当に嫌だったの。私の名前は後藤ゆうきです。ゆき、ではなくてゆうき、と何回も言い直してきた。だから先生になったら、みんなの名前を正確に呼ぼう。さんを付けて、大事にして呼ぼうと決めていたの。でも」
亮がゆっくりと私に視線をむけるのを目の端で捉える。
「でも、もういいかなと思って。みんなのことをさん付けで呼ぶのもやめにする。だって、理衣子は理衣子さんよりも理衣子のほうが似合うし。三郎も」
「はいはーい。由紀先生のこともゆうちゃん先生って呼んでいい?」
手を挙げた理衣子へ、それは嫌、と即答する。
理衣子は、やっぱりな、と笑う。
「私はゆうき先生って呼ばれたい。みんなも、先生にこう呼ばれたいっていうのがあったら言って」
明莉が手を挙げた。
「私は明莉さん、がいいです。先生の言い方にはこどもを敬う気持ちが入っている気がするから」
「わかった。明莉さん」
明莉以外に手は挙がらなかった。
「それでは運動会も終わったことだし」
「ドッジボール?」
三郎にむけて微笑む。
「もちろん、行事が終わったら作文。感じたことを残さないともったいないし。ついでに自分はこう呼ばれたいっていうのがあったら、作文用紙の最初か最後に書いておいて」
「作文、苦手なんだよ」
配られた作文用紙を後ろの席へ渡しながら三郎が言った。
「わかる。私も苦手だったから。でも短くてもいいから、自分は運動会のあの場面でこんな気持ちでいたって教えてほしい。本当は一人一人にあのときはどんな気持ちだったの? って訊きたいくらいなの。みんな、すごく活躍していたから」
三郎は仕方がないな、というようにペンケースを開いて鉛筆を持った。
他の子は作文用紙が配られた途端に書き始めている。
理衣子の隣りを通ったら、
「作文、大好きなの。運動会のことだったら30枚くらい書けるかも」
と小声で言った。一枚目は既に丸っこい字で埋め尽くされている。
「先生、運動会の飲み会で井出っちと一緒にはじけていたって聞いたけど」
え、と聞き返したときには理衣子は作文用紙にむかっていた。
さてさて、窓際の一番後ろの席は……。
あきらめていたのに、亮は紙の上で鉛筆を動かしている。やっぱり運動会で変わったんだ。飲み会でも賛否両論だった亮の竹馬放り投げ事件。幌内の歴史に残るな、と井出は笑顔で言ってくれた。
亮の作文用紙、マス目ではなく右端に、なまえはすきではない、とミミズが這ったような薄い字で書いてあった。
私が傍にきても亮の鉛筆は動いている。竹馬のことを書いてくれているのかもしれない、と期待して字を追う。
第一作 ドクターノオ(1962) ハニー・ライダー
第二作 ロシアより愛をこめて(1963) タチアナ
第三作 ゴールドフィンガー(1964) プッシー・ガロア
書かれていたのは、007シリーズの題名と公開年、ボンドガールの名前だった。
先生、と護が呼び、原稿用紙を右にずらした。亮と同じように右端にメッセージがあった。
亮が作文用紙に字を書いたのは六年間で初めてのことです。ぼくと亮は007の大ファンです。ちなみにぼくのことは護くん、もしくはMと呼んでください。
護らしい、しっかりとした字だ。
ああ、亮が前に言った「えむ」は007に登場するMのことだったんだ。私は声が出ないように笑い、自分の椅子へ戻った。二人が007のファンだとは思わなかった。確かに、いろいろな素振りがスパイにつながる。それならそうと言ってくれればよかったのに。
六年一組全員の鉛筆が動いている。私が担任になって初めてのことだ。
好きなことがあってよかった。お父さんの全米No.1の映画好きも、こんなところで娘の役に立ったよ。
勢よく出席簿を開いたら、さっき理衣子からもらった封筒が机に落ちた。四枚の写真が入っている。
黄色いミニスカートから伸びる脚の横に吹き出しで、黄色の『元気』の字が書かれている写真。
『やる気』と白のペンで書かれた黒板の前に、私が出席簿を抱えて立っている写真。
『根気』の画用紙を持った護と『勇気』の画用紙を持った私がピンクのハートマークで囲まれている写真。
最後は、竹馬を両手に持っている亮の横顔の写真だった。白い空に青のペンで太枠だけが描かれている。
視線を感じて顔を上げた。理衣子が私を見てにっと笑い、右手で書く動作をした。
亮の後ろに広がる白い空になんて書こう。
まだ、思いつかない。
でも、きっと、卒業の日までには決まっている気がする。
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