黒鷺

水島光みずしまひかりさん」


 皮肉な名前だな――自らの名前を呼ばれるたびにそう感じる。生まれながらにして奪われたそれを、名に冠しているのだ、皮肉以外の何ものでもない。

 名づけた本人である実の父は、もうこの世にはいない。いるのは、父の再婚相手である、血の繋がりのない義理の母だけだ。

 私の瞳から光が失われた理由も、私が光となった理由も、今はもうわからない。


「お変わりないですね」


 前者は知ろうと思えば知れるのだが、あまり興味がない。

 私は、生まれながらの全盲である。私の世界に光はなく、一歩先も、遥かな未来もわからない。それだけで十分ではないか。網膜がどうとか、遺伝がどうとか、何だというのか。


 欠伸が出そうになる定期検査を終え、私は病院をあとにする。こつり、こつり、と白杖はくじょうがアスファルトを叩く音がする。一定のリズムで響く音と、白杖を伝う地の確かな硬度が、私を落ち着かせる。


 すると、病院を出てすぐのところで、白杖の先端に異質なものを感じた。


「あ、すみません。余所見をしていました」


 私が歩を止めると同時、男の低い声があった。感触から察するに、どうやらその男の革靴に触れたようだ。


「別に」


 珍しいことでもないので、冷たくそう吐き捨てて、改めて白杖の先端を地面へと押し当てる。


「なにするのよ」


 白杖が捕らえたのは、またしても男の靴だった。私の行く手を遮って、杖の先にわざと足を置いているのだ。一体何がしたいのだこの男はと、戸惑いと怒りとが入り混じる。


「大変でしょう。どこまでですか。ご一緒しますよ」


 彼の気配が、急に近づいたのを感じた。男の吐息が鼻腔をつつく。病院を囲う針葉樹の香りに、ミントの匂いが混じる。


「結構。あんたみたいな胡散臭い男とは関わりたくない」


 煩わしい感情を、溜息と共に地へ落とす。はははと笑う声と清涼感のある香りを頼りに、男の顔を見つけ、左手で押しのけてやる。骨の形すら伝わるごつごつとした肌、剃ったばかりの髭の跡。手のひらから伝わるの感触は、どうしようもなく男のそれだった。


「胡散臭い男か。鋭いね」


 私に押しのけられた男は、けたけたと笑い始めた。

 先ほどまでの爽やかな声と同じ持ち主のものとは思えぬ、下卑た笑い。陽は照り、空は澄み、木々はさざめく――そんな空気が汚れていくように感じた。


「なんたって俺あ、詐欺師だからね」


 下衆極まれりといった口調の声と同時、頭上で鳥が飛び立つ音がした。


「馬鹿じゃないの。自ら名乗り出る詐欺師なんているわけないじゃない」

「自ら名乗り出る詐欺師なんているわけない、だからこいつは詐欺師じゃない。そう思わせたら、詐欺師的には勝ちも当然だ」


 少し声を荒げ、早口でまくし立てる。どうだ言わせたい台詞を引き出してやったぞ、とでも言いたげな口調。彼が早く喋るほどに、空気が震えるのを感じた。


「呆れた。胡散臭さも度がすれば、むしろ心地いいわ」


 けれども、取り繕うこともせず笑う彼は、嫌いではなかった。いかにも善人と言いたげな物腰より、好感が持てる。

 この杖を持っていると、嫌でも他人から善を向けられる。真か偽か判別つかぬその善が、同情とも哀れみとも受け取れるその感情が、私にはどうしてか煩わしい。だからか、彼のような砕けた言動に、どこか居心地の良さを感じてしまう。

 

「嫌いじゃないよ。そういうの」


 少しはにかんで、私は言う。声と気配を頼りに手を伸ばすと、彼の肩に触れた。心地よいシルクの感触、それを味わいながら、肘のあたりまで手を滑らせる。そのまま腕を組み、こつこつと数回彼の靴を白杖で小突いた。


「いいよ。ご一緒してよ」


 唐突に腕を組んだ私に驚きもせず、『役得だね』とだけ彼は呟く。連れ添って歩く場合、この方が安心かつ安全なのだ、他意はない。彼は盲目患者に理解があるのだろか、ふとそう思った。


「どこに行くんだ」

「海」


 私は、海を感じるのが好きだった。

 潮の香りも、海鳥の鳴き声も、風に凪いだ波の音も。一人で世界を感じるのにはもってこいの場所だ。舗装もされていなく岸壁だらけの場所なぞ言語道断、とよく言われるのだが、彼は了承の意を口にするだけだった。


「ところでお嬢さん、お名前は」

「水島光」


 自分でも驚くくらい、すんなりと言葉に出た。

 嫌悪の念を抱いて止まぬ、由来もわからぬ、皮肉な名前が。


「いい名前だ」


 彼がそう言ったのを聞いて、しがみつく腕に力が入る。

 彼に悪気はないのだろう。十分に理解している。けれど、私は苛立ちを隠せない。いい名前なものか、私が一生かけても感じ取れないそれが、自らの名前だなんて。


「水の島か。幻想的だ」


 薄汚れた感情が渦巻く私が聞いたのは、予想に反する言葉だった。

 そっちなのか、と思わず力が抜けてしまう。水島、だなんてありふれた苗字だ。この4つの音に、彼は何を感じ取ったのか。


「俺はね、水色を愛しているんだ」


 下品に笑っていた人間と同じものだとは思えない、どこか恋慕のようなものすら感じる温い声。今度は逆に、彼の腕に力が入った。


 水色と言ってもわからないかな、と私を気遣う言葉が降ってくる。そう思うのは当然だろう、事実として私にそれを見ることは叶わない。だが知識としては知っている。寒色である冷たい青を、淡く薄くした色。青と同様に寒色で、涼し気な色。


 だが、彼の語る『水色』は、私の知識とはまるで正反対の性質をしていた。



「水色っていうのは、暖かい色だよ」



 彼の口から洩れる『水色』という言葉は、確かに熱を帯びていた。

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