インビジブル・ライトブルー

稀山 美波

水色

 海は時折、『母』と形容される。


 海は全ての生命の始まりであるとともに、想像を絶するほどの広大さだという。海が母たるのは、そういったことに起因しているのだろう、と私は思う。寄せては返す波の音、遥か頭上から届く海鳥の声、潮や藻の入り混じった匂い――なるほど確かに、幾億の命が息づいている気配がする。


「人の母は水色で、海は水色だからさ」


 私のそんな思いは、隣の男に一蹴された。

 水色、暗く冷たい色をした『青』を薄めた、淡い色。知識では知っている。海もその水色をしているという。水の色だから、水色。なんとわかりやすいのだろう。

 

 何も言えないでいる私の頭を撫でながら、彼は続ける。髪の毛が乱れるほどの乱雑な触れ合いだが、嫌ではなかった。『ここにいる』とでも言いたげな彼の所作に心地よさを感じながら、彼の声に耳を傾ける。この声に色をつけるのなら、まさしく水色なのだろうと思える、透き通った声だ。


「水は透明だ。色なんてありゃしない。なのに人は、淡い青色を水の色だと、『水色』と呼ぶだろ」


 透明というのはだね、青色というのはだね、と続ける彼の唇に手を押し当てる。湿った唇の感触が、手のひらから伝う。彼の唇を湿らせているそれも、水色なのだろうか。


「それはなぜか」


 手のひらを押しのけることも、私が手を離すのを待つこともせずに、彼は続ける。やけにくぐもった声と、唇が震える感触が煩わしく、私はそっと手を下ろした。


「水の色はこの色なんだと、人は本能に、魂に刻まれているんだよ」


 先ほどとは真逆のやけに通る声が、鼓膜と脳髄を震わせた。

 人の本能に、魂に、刻まれている色、水色。私の目の前に広がっているであろう空も海も、水色だという。その淡く澄んだ色の中に、彼の声色は溶けていく。

 彼の声が溶けると同時に、私の心はざわめき出す。一面に闇が広がる私の世界にも、水色は存在しているのだろうか。本能や魂に、刻まれているというのだろうか。 


「生命の母は液体、つまるところ水だ」


 私の心情を知ってか知らずか、彼の繰り広げる持論は止まることを知らない。


「愛液と精液とが混ざり合って、人の核たるものが誕生する。やがてそれは、羊水の中で成長する。そんな経緯を経て人間は生まれるが、その体の約6割は、水だ」


 彼の声が全身に染み入り、刻まれていく。自身の体が世界に、水色に溶けていくような感覚に陥る。溺れている、という表現のほうが的確かもしれない。未知の世界が、未知の色が、私を覆い尽くしていく。


 水色の世界が侵食する中で、私は彼の言わんとせんことを感じ取っていた。

 人の生には必ず液体が絡んでいる。人は『液体』と聞くとまず、水を思い浮かべるだろう。そして無色のそれに最も合致する色を、『水色』と呼んでいるのだ。確かにこれは、人の本能や魂に刻まれた色と言ってもよいのかもしれない。


「人の根幹たる水。水こそが人の母さ。無色透明で透き通った母のイメージに最も近い色が、水色。『水の色』と書いて、水色だ。そして海は水色だ。母なる海、なんて言われても仕方ないとは思わないか」


 彼の言葉に同調するよう、波が打ち寄せる音がした。そして、次の言葉を待つかのように、凪いだ。言葉の代わりに、浜の砂が鳴く。一定のリズムでそれは続き、私の周りをうろついている。砂浜に腰かけていた彼が立ち上がって、辺りを闊歩しているようだ。


 手の届く範囲をぐるりとまさぐって杖を取り、私も彼に倣う。杖が砂を削る音が続いたが、波の音がする方へ近づくにつれて、聞こえなくなった。


「人の魂には、水色が刻まれているんだよ」


 先ほどと同じ言葉が、背後から聞こえる。私の耳に届く頃には、その声はすっかり水色の世界に紛れてしまっていた。



「その目に光が差し込まなくたって、世界に色がなくたって、君の魂には水色が刻まれているんだよ。君の世界は闇なんかじゃない。君の世界には水色しかないはずだ」



 彼の水色の声色は、世界に広がる水色よりも、どこか少し濃い。

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