増田朋美

今日も寒かった。ここのところ、暖かい日はものすごく暖かくて、まるで春みたいな陽気になるのだが、それ以外の日は、霜柱が立つほど寒いのだった。それではいけないという人もいるし、もう仕方ないなと嘆く人もいて、見識は様々だが、いずれにしても、この気候は、何もよいものを生まないという事だけは確かなようである。

その日も製鉄所では、勉強したり、そのほかの仕事をやったりするために、利用者たちが食堂に集まっていた。おかしなもので、似たような状態の人間が集まると、人間は一人でいるのが嫌になってしまうらしいのだ。もちろん製鉄所では、各部屋に勉強用の机も用意してあるのだが、そこで一人で勉強をしようという人は、仲間が見つかると非常に少なくなっていく。どんなに一人が好きと主張している人であっても、同じ悩みを持った仲間が見つかると、その人といつまでも一緒にいたいな、という感情が沸いてしまうようなのだ。

その日も、通信制の高校に通っている利用者が、学校はそれぞれ違っても、一緒にやればモチベーションも上がるという事で、一緒に宿題をやろうと、それぞれの部屋を出て、三人で廊下を出たときの事である。

三人は、廊下を掃除している人物を目撃した。それは、まぎれもなく、水穂さんだった。もう、寝間着ではなく、普通に着物を着て、廊下にモップをかけている。それが銘仙の着物でなかったら、いいのになあと利用者達は、思わずにいられなかったが、それよりも、先に、しなければならないことがある事に気が付いた。

「水穂さん何をやっているんですか。」

一人の利用者が、そういうと、

「ええ、あんまり寝ていては体が鈍りますから。」

と、水穂さんは答えるのである。

「だけど、寝ていなきゃいけないのに、掃除をしようなんて、一寸無理をし過ぎです。掃除なんて、あたしたちができますから、水穂さんは、早く横になってください。」

もう一人の利用者がそういうが、水穂さんはいえ、大丈夫ですよ、と首を振った。

「そうですけど、無理なものは無理ですよ。その顔が、何よりの証拠じゃありませんか。鏡で見てください。もう、紙より真っ白い顔してます。無理なものは無理ですから、直ぐに四畳半に戻ってください。」

ちょっと強気な口調で、三人目の利用者が言った。水穂さんは、そんな事ありませんけどね、といいって、頭を下げてしまった。

「ほら、ボケっとしてないで、早く着物を脱いで、横になってくださいよ。それに、こんなぼっろぼろのモップ、これじゃあ、使い物になりませんでしょう。」

初めの利用者がそういうと、三人目の利用者が直ぐに言った。

「それじゃあ、あたしたちが買ってきます。その間に水穂さんは、部屋に戻って、寝てください。」

と、その利用者は、水穂さんからモップをとったのだが、

「いえ、僕が買ってきます。モップくらい、近くのホームセンターで見つかるでしょう。皆さんは、大事な宿題があるんでしょうから、それをちゃんとやってくださいませ。」

と、四畳半に戻っていき、すぐに机の中から財布を出して、巾着の中に入れた。

「水穂さん、止めてください。モップの事は、あたしたちが後で買ってきます。今は、出来る限り体を安静にして横になっててくださいよ。出ないと、あたしたち、水穂さんにひどいことをしたって、怒られちゃうんですよ。」

二番目の利用者がそういうが、水穂さんは、それを振りほどいて、玄関先に向かって歩いていくのである。

「いいえ、行ってきます。いつまでも寝ていたら、職務怠業になりますし、それに、皆さんの宿題を邪魔したって、怒られるのは僕ですし。」

そう言って水穂さんは、下駄箱から草履を出して、草履を履いた。

「待ってくださいよ。もうちょっと考えなおしてください。その体ではとても、ホームセンターまで歩いては、」

三番目の利用者が、そういうことを言ったが、

「いいえ、行きます!」

水穂さんはちょっと強い口調でそういうのだった。それに負けてしまった利用者たちは、水穂さんが、玄関の戸を開けて、ホームセンターに向かって歩いていくのを、許してしまった。あーあ、本当に、人のいう事を聞かないんだから、と、一番目の利用者が大きなため息をつく。

「いいえ、こうしちゃいられないわ!すぐに止めに来てもらいましょう!あたしたちは止められなかったんだから!水穂さんを止められる人というのは、ほら、由紀子さんか、それか花村先生。すぐ連絡取れる人は、その二人しかいないわよ。早く電話しなきゃ!」

と、機転がきく三番目の利用者が、そういうことを言うので、利用者たちは、そうだ、それもそうだわと考え直し、急いでスマートフォンを取ったのである。

連絡を受けた由紀子は、駅員の仕事を早退させてもらい、すぐに車で製鉄所に向かった。田舎電車であるから、余り駅員というものは必要ないのだ。由紀子は、車でとりあえず、ホームセンターに行ってみたが、その何処を探しても、水穂さんの姿はない。ついでに、花村さんのところにも電話する。すると、花村さんも、利用者たちから連絡を受けて、ホームセンターに向かって歩いているという話だった。由紀子がホームセンターの店員に、水穂さんが来店しなかったかと聞いてみると、そのような客が来て、モップを買っていったという形跡はないようだった。と、いう事は、もう疲れてしまい、あきらめて製鉄所に帰っているのかも知れない。由紀子は車に乗り込んで、製鉄所に向かって車を走らせた。

少し離れた電車の踏切近くまで来たところだった。由紀子が、踏切の警報を聞いて、車を止め、電車が通りすぎていくのを、一寸イライラしながら待っていると、

「由紀子さん、一寸来てくれますか?」

と、男性の声が聞こえてきた。警報の音などどこかへ消し飛んで行って、急いで窓を開けると、そこにいたのは花村さんで、

「ああ、良かった。車のナンバーで、由紀子さんだとわかりました。あの、直ぐにこっちへ来てください。水穂さんが、道路わきで倒れていたんです!」

と、緊迫した声で言った。

「倒れていた、ってどこに!」

由紀子が聞くと、

「ええ、ここから、一寸離れた製紙会社の前の道路で倒れていたんです。かなり長い時間倒れていいたらしくて、声をかけたけど、反応しなくて。」

と、花村さんが言う。由紀子は、すぐに車から降りて、急いでその現場に行った。

確かに、踏切から、百丈ほど進んだところに、製紙会社があった。そういえば、ホームセンターに行くには、製紙会社の中に入った方が近道だと聞いたことがある。もちろん、歩行者だけで、クルマは行けないけれど。

製紙会社のフォークリフト置き場の前に、小さな物体があったように見えた。その物体は、白くて、井桁模様をしていて、、、って、物体と思ったのは人で、しかも男性であった。白い、井桁模様の着物を身に着けていたのである。それが誰だかわかった由紀子は、すぐに声をかける。

「水穂さん!水穂さん!」

そう言って肩をゆすぶったが、水穂さんはうっすらと目を開けて、金魚みたいに口を動かすだけである。花村さんが、鮮血で汚れてしまっている、水穂さんの顔と手をとりあえず拭いてやった。

「ここに居ても迷惑になるだけです。すぐに、製鉄所に帰りましょう!」

水穂さんを病院に搬送できないのは、由紀子も花村さんも知っていた。何も言わず、由紀子は水穂さんを背負って、自分の車に乗せた。そして花村さんも一緒に乗ってもらう。この時由紀子は、軽自動車でなかったらと思った。軽自動車でなかったら、水穂さんをのびのびとのせてあげられたのに!

由紀子と花村さんは、製鉄所にたどり着いた。由紀子は水穂さんを抱きかかえて、製鉄所の廊下を歩き、四畳半に行く。花村さんはその間に、四畳半に布団を敷いてあげた。布団は、几帳面な水穂らしく、シッカリたたまれていた。由紀子がその布団上に寝かせ、暖かい、毛布で水穂さんを包んでやった。

「水穂さん、わかる?大丈夫?」

と、由紀子が声をかけると、水穂さんはゆっくり目を開ける。でも、とても会話ができそうな感じではない。

「薬飲んで休みましょうか。」

花村さんが、枕元にあった、吸い飲みを水穂さんの口元へ近づける。水穂さんは、中身を静かに飲んだ。

「よかった、飲んでるわ。」

由紀子はほっとする。先ほどの三人の利用者が、水穂さんが戻ってきたことが分かって、心配になってやってきた。由紀子も花村さんも、三人を責めることはしなかった。

「水穂さん、ごめんなさい。」

彼女たちは、申し訳なさそうな顔をしている。

「一体何があったんですか?水穂さんに、なにか買ってきてくれとでもお願いしたんですか?」

花村さんが、彼女たちに聞いた。

「はい。あたしたちが力づくでも止めるべきだったんです。水穂さん、どうしても、モップを買いに行くんだって言って、聞かなかったんです。あたしたち、止められなかった!」

三人の若い女性たちは、自分を責めて泣いていた。

「いえ、いいんですよ。水穂さんが、ご自身で行こうとされたんですから、あなたたちが、そんなに嘆く必要はありません。それにしても、水穂さんは、どうしてモップをかおうとしたんですかね。」

花村さんが言うと、三人は、わからないといった。

「どうしてなんでしょう。その理由をはっきりさせなければ、決着はつきませんよね。私たちを呼び出して迄。どうして、水穂さんは、掃除をしようと思ったのでしょうか。まさかと思いますが、御三方が掃除に手を抜いていたとか?」

「ああ、確かに、あたしたちは大雑把な性格なので、水穂さんには手を抜いているように見えたのかもしれないわね。」

と、少し抜けた二番目の利用者が、そういうが、

「いいえ、あたしたちは、ちゃんと掃除をやりました。掃除は忘れた事はありません。水穂さんが勝手にモップを持ち出して、、、。」

と、三番目の利用者がすぐそういうことを言った。

「しかしなんで、勝手に持ち出すようなことをしたんでしょうかね。」

と、花村さんは、どうもそこがわからないというような顔をしていった。確かに由紀子もそこは不明瞭だったが、何となく直感で思ったことがあった。

「きっと、水穂さんは、そうしなきゃいけないって思ったんじゃないかしら。」

「どういうことですか、由紀子さん。」

と、初めの利用者が聞いた。

「た、たぶん。」

由紀子はそう話し始める。

「水穂さん、自分の出身身分のせいで、いつまでも寝ていたらいられないと思ったんだと思います。ここまで悪くなっても、ヤッパリ働いていなきゃいけないっていうか、そんな気持ちが出たんでしょう。」

「しかし、水穂さんが安静が必要なのは、誰でもわかる事ですよね。」

と、花村さんが言った。

「そうだけど、そうしちゃうのが水穂さんなんですよ。そうやって、自分を犠牲にしようとするのが、水穂さんなんだわ。最後の最後まで、働かなければならないって、思ってしまう。それが水穂さんなのよ。」

「そうですけど、由紀子さん。誰だって、自分の寿命を縮めるような事は、したくないと思いますけどね。そのためには無理をしないことも必要だと思いますけど、、、。」

「いいえ、それが水穂さんなんです。あたし達より、低い身分である事を、いつまでも気にし続けるのが水穂さんなんですよ。」

花村さんのいうのが一般的な常識というか、気持であるが、由紀子は、そういって結論付けていた。そして、それを思うと、由紀子は、何とも言えない悲しい気持ちになるのだった。何とかして、水穂さんのその部分を溶かしてあげられたらいいのになあ。何か、そういう事ができる方法というものはないだろうか。今考えても全く思いつかない。思わず涙が出てしまう由紀子に、花村さんが、そっと、タオルを貸してあげた。

数日が経った。でも、水穂さんは、一日中布団の中で、寝そべっている。ご飯を食べさせても、まるで食べようとしないし、薬で眠ってばかりいる。時折、うっすら目を開けることもあり、由紀子や花村さんの声掛けに反応することもあるが、それに言葉を発することもなく、またうとうと眠ってしまうほど、弱ってしまった。こうなると、製鉄所の利用者たちは、誰も水穂さんに声を掛けなかった。あの三人の利用者でさえも、一緒に固まって宿題をすることもなくなった。


由紀子たちが、水穂さんにご飯を食べさせたり、布団を変えたりしていると、ガラッと玄関の戸が開いて、男性と女性の声が聞こえてきた。

「こんにちは。水穂さん元気ですか?」

「ご無沙汰ですけど、ひさびさに戻りました。恵子です。」

以前、製鉄所の調理係として働いていた、恵子さんが、新しい夫になった、秀明と一緒に、製鉄所を訪ねてきたのだ。収穫したばかりのリンゴを一杯入れた、紙袋を持って、二人は応対した由紀子と一緒に、建物の中に入っていく。

「で、どうなのよ。水穂ちゃんは。あれから、少し楽になってくれたかしら?このところ、寒暖の差が激しいけれど、それに耐えられているかしら?」

恵子さんが明るく言うのを聞いて、由紀子は、一度他人になってしまうと、本当に明るくなるんだなと、一寸恨めしい気持ちになった。

「楽になったか。何もそんなことを言えるはずないわ。」

と、由紀子は思わずぼそっと言う。

「あら、また風邪でも引いたかしら?」

明るく言う恵子さんに、由紀子は、恵子さんがそんなに面白いことを言えるなんて、本当に一時離れるという事は、そんなに人が変わってしまうんだろうな、と、由紀子は思わずにいられない。

「恵子さんが、自分で確かめるといいわよ。」

由紀子は、さあどうぞ、と、ふすまを開けた。もちろん、ふすまの向こう側に居たのは、水穂さんだったが、もう骨と皮という表現がぴったりなくらい痩せていた。眠っているのか、居ないのか、よくわからない目つきで、天井を見ていた。

「やだ、水穂ちゃん。こんなに悪くなって、、、。」

恵子さんは驚きを隠せないようだ。夫である秀明は、恵子さんの隣に座る。

「もしかして、何も食べてないんじゃないでしょうね。」

恵子さんにそういわれるが、由紀子は食べさせようとしても、食べないというところをどうしても、言えなかった。

「まあ、しょうがないじゃないか。水穂さんみたいな人は、一進一退を繰り返すのが当たり前だと思わなくちゃ。」

と、秀明がそういっている。やっぱり隻腕という障害を持っている以上、そういうことを何となく感じとってくれるらしい。由紀子は、秀明さんが、そういうことを言ってくれて、本当によかったと思った。

「それでですね。水穂さん、わかる範囲でいいから、聞いてくれますか。僕、来月郡山で個展を開くことになりました。」

と、秀明は語り始めた。そういえば、由紀子も秀明さんが画家志望だった事は、彼から聞いたことがあった。でも、そんな事は、今の由紀子には関係ない気がする。

「まあ、少し時間に余裕ができたので、絵を描いてみようと思ったんです。それを、郡山市の美術展に出品したら、意外に好評だった見たいで。それで、来月、小規模ですけど、個展を開くことになったんですよ。」

秀明はそう説明する。そんな事を聞かされても、由紀子は、何もうれしくないし、水穂さんだって、個展の話なんかされてもうれしくないだろうなと思った。

「それで、ぜひ、個展に来てもらいたいと思ったのですが、たぶん、水穂さん動けないだろうなと恵子さんが言いますので、今日は一枚絵を持ってまいりました。これです。」

と言って、秀明は、風呂敷包みを解いた。すると、額縁に入った、一枚の絵が現れる。波打ち際の海を描いたものであるが、由紀子はどうしてもその絵が好きになれなかった。なんで、海の色を描くのに、モスグリーンの色を、絞り出すような形で、描かなければならないんだろうか。

水穂さんは、絵を見せても何も反応しなかった。

「ブラマンクの絵みたいだわ。何だか気持ち悪い。」

思わず由紀子は、そう感想を漏らした。

「ええ、ブラマンクねエ。よく似てるって言われるのよ。でも、本人は、そのようなつもりは全くないっていうんだけどね。」

と、恵子さんがそれを素直に認めた。なんだ、わかっているのか、と、由紀子はちょっとため息をつく。

「ほら、水穂ちゃん、なにか感想言ってやって。由紀子さんは、ブラマンクの絵みたいだって。水穂ちゃんの感想、聞かせてあげてよ。」

恵子さんはそういうことを言っているので、由紀子は、恵子さんがどうしてこんなに変わってしまったんだろう、と思いながら、

「ごめんなさい。水穂さん今、すごく調子が悪いんです。失礼ですけど、今日は帰っていただいてもよろしいですか!」

とちょっと強く言った。

「あ、ああそうだね。それは確かにそうだよね。ごめんなさい、もうちょっと、よくなったらまた来ます。本当に今日は、すみませんでした。」

秀明はそう言って帰り支度を始めた。

「でも、この絵は貰ってくれないかしら。小濱君、一生懸命これを描いたのよ。その努力を無駄にしてもらいたくないの。それに、まだ、水穂ちゃんの感想も貰ってないし。」

と、恵子さんが言う。もう、どうして、恵子さんは、そういう女性になってしまったんだろうか、と思いながら、由紀子は、恵子さんたちを送り出してやった。恵子さんは、製鉄所を出るまで、水穂ちゃんの感想が出たら、必ず行ってと、言い続けていた。多分それが、恵子さんの秀明への愛情なんだろうが、こんな気持ち悪い絵を、お見舞いに貰っても、嫌な気持ちがするだけであった。

とりあえず、由紀子は、恵子さんたちが帰ったあと、その絵を捨ててしまおうと思ったが、なぜか破り捨ててしまう気にはなれなくて、絵を四畳半の箪笥の上に立てかけておいた。


翌日、水穂さんは、その日目を覚ましていたようだ。でも、まだ体がよろよろして、おきることはできなかった。由紀子がお茶をもっていくと、水穂さんは、目を開けたまま、箪笥の上を見つめている。

「ああ、それはね。」

由紀子は、説明するのも嫌だったが、しなければならないなと思ったので、こういった。

「あの、昨日、恵子さんと、秀明さんが来て、置いていったのよ。来月、個展を開くんですって。どうしても絵の感想を欲しいそうだけど、いい迷惑よね。水穂さん、とても、答えを出せるような状態じゃなかったわね。それなのに、感想を家なんて、嫌な話だわ。」

「そう。とても、きれいな絵じゃないですか。嫌な話ではありませんよ。小濱さんも、立派な画家になるという、夢をかなえたんですね。」

と、水穂さんは言っている。そういうことを言って、無理して話すこともないのよ。絵を描くんだったら、こんな気持ち悪い絵を描くんじゃなくて、もっと、きれいな絵を描いて、持って来るべきなのに。と、思いながら、由紀子はある事を思いついた。

「其れなら、本物の海に行かない?そうよ、それがいいわ。本物の海は、こんな絵よりずっと綺麗よ。そうよ、それがいいわ。今だったら、レンタカーだって格安で借りられるわ。移動は、あの華岡さんが作ってくれた寝台車を使えばそれでいいじゃないの。よし、そうしましょう。そうしましょう!」

由紀子は、水穂さんが何も言えないのをいいことに、さっさとスマートフォンを出して、レンタカーの会社に電話した。こうなってしまえばもうこっちのもので、レンタカーはすぐに予約できてしまった。幸い、レンタカーの営業所が、すぐ近くにあるという事を、由紀子は知っていた。

翌日、由紀子は水穂さんを、華岡が作ってくれた寝台車に乗せた。以前、棺桶に車輪がついているようだと揶揄させたこともあったが、由紀子はそんな事は平気だった。まず、寝台車を押して、レンタカーの営業所まで行く。最近では、福祉車両も、簡単に借りれる時代になった。詳しい事情を聞かれることなく、レンタカーは直ぐに由紀子たちのものになった。由紀子は、さあ行くわ、と、水穂さんを寝台車ごとのせ、自分は運転席に座って、車のエンジンをかけた。

とにかく、早く着きたかったので、高速道路を利用した。高速道路を走って、30分前後。目的地である、三保の海岸に到着する。由紀子は、指定された駐車場に車を止めて、水穂さんを寝台車ごと外へ出す。

「ここよ。本当にきれいでしょう?」

由紀子は寝台車を押して、ゆっくり海岸を歩いた。確かに本物の海は、絵にかいた海よりずっときれいだった。水穂さんは、本物の海を見ても、何も言わないで、黙っているだけである。

「ねえ、黙ってないで、何か言ってほしいわ。」

由紀子は、水穂さんに言った。けれども水穂さんは、目を開けたまま黙っていた。

「何か言ってよ。あたし、軽い気持ちで、ここへ連れてきたんじゃないのよ。あなたが、あそこにいると、ずっと低い身分のまま生きていかなきゃいけないから、それから、解放されてほしくて、ここに連れてきたんじゃないの。」

由紀子は、水穂さんの目をしっかり見つめて言った。

「もう、良くなったら、製鉄所は出ましょうよ。そして、そういう身分なんて気にしなくていい場所に行きましょうよ。それを目標にしてもいいじゃないの。そうでしょう?」

本当は、水穂さんを抱きしめたかった。ずっと生きていこうといいたいけれど、それだけはどうしても言えないのだ。いざ、水穂さんをまじかで見つめると、そういうことは言えなくなってしまう。

「いいえ、そんなところ、あるはずないじゃないですか。」

水穂さんは、ふっとため息をつく。それが、答えなんだと由紀子も思った。でも、それであっても、こういいたかった。

「あたしが、そばに居るわ。それでいいじゃない。」

其れで良いじゃない。あたしが、この人の凍り付いた部分を溶かしてみせる。

由紀子は、穏やかな海を眺めながら、そう誓ったのであった。


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増田朋美 @masubuchi4996

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