六 押し込められた枠の中で
皇太子は片足を引きずりつつ間合いを詰める。流螢もまた低い姿勢から引き絞られた矢のように飛ぶ。弾ける火花、耳を刺す金属音。皇太子はさらに左剣で流螢の胸を狙う。半身になって躱す流螢。そこで皇太子の右剣が流螢の首を捉えた。一撃で
皇太子が身を転じて追撃。襲いかかる上下二連撃を流螢は受け、今度は一転して高く跳躍、上方から身体ごと一回転させつつの大上段を振り落とす。皇太子は双剣でこれを横へ弾き、勢いを借りて流螢を投げ飛ばす。
流螢はごろりと地面を一回転、さっと懐に入れた右手から暗器を飛ばす。チィン、と皇太子の剣に弾かれて落ちた。それは縫い針だ。皇太子の表情が険しくなる。これは称心が使う少林寺の絶技ではないか。なぜそれを流螢が使うのか。
いや違う。称心の技ではない。十分な内力がこの針には込められていない。これは陽動だ。
流螢が再び低い姿勢のまま接近を仕掛ける。投擲針に気を取られた皇太子はわずかに反応が遅れた。斜め下からの斬撃。受けようとした皇太子の右剣をその手中から弾き飛ばした。さらに流螢は体当たりで皇太子の胸へ飛び込み、さらに左手首を
ヒュンッ、皇太子の右手が動く。これはいったい何の妖術だろう、その手中に剣が舞い戻っている。流螢は即座に技を解いて距離を取った。間一髪で皇太子の剣が掠める。
(落としたはずの剣がどうして――)
疑問に思うのもつかの間、皇太子が右剣を今度は自ら投擲する。キィン、と今度は流螢の手から剣がもぎ取られそうになる。なんとか堪えて構えなおした直後、落ちたはずの剣が生きているかのように跳ねた。ぎょっとして飛び退いた流螢の顎先を掠めて飛び上がったかと思えば、皇太子の腕の動きに合わせて大きく旋回、再び流螢を襲う。
これは内力の成せる絶技か、あるいは妖術か。考える暇もなく、流螢は飛翔する剣の攻撃を二回喰らった。そしてようやく、それが絶技でも妖術でもないことを知った。
剣には細い鎖が結び付けられており、それが皇太子の手首と繋がっている。あの剣は鞭を振るうように操作されていたのか。飛剣は再び皇太子の手中へ。いつの間にかすぐ目の前にまで迫っている。
皇太子は右足に負った後遺症で素早く動くことができない。あの飛剣の技はその欠点を補うために編み出したものだろう。離れた相手には剣を飛ばして攻め、接近すれば双剣にて組み討つ。実に厄介だ。
皇太子の左剣と接触。流螢は剣を絡めて抑えようとするが、それより先に右剣が喉を狙う。膝を曲げ上体を傾げて回避、そのまま踏み込んで突きへ変化。皇太子が退いたところへ足を差し込み、体を浴びせる。皇太子は耐えずに後方へ一回転、すかさずの飛剣投擲。流螢もまた後方へ仰け反りながら一回転、これを回避した。が、皇太子の本命は返しの一手にあった。地面すれすれを細鎖で薙ぐ。着地した直後の流螢、その足首を捉えた。二回三回とその足首に絡みつく。ぐいと引っ張れば流螢はその場に転倒し、その手から剣が転がり落ちた。
「お前はなぜ戦うのだ、朱流螢」
拘束した流螢と五歩の距離を開け、皇太子は剣尖を突き付け問う。
「私が大いなる過ちを犯していることぐらい、私が理解していないとでも思うてか? 親兄弟を殺めることの罪を知らぬと思うてか?」
つとその左目から雫が流れる。
「そうするしかないのだ、流螢。私はそうするしかないのだ。私は皇太子でなければならない。玉座に就かなければならない。さもなくば、私はこの世で生きてはいられない。誰もかれもが私に皇太子たれと、その器に見合う人間であれと勝手な期待を押し付けた。それのなんと生きづらいことか! 今日までは称心がいてくれたから耐えられたのだ。あいつの前ではありのままの自分でいられた。皇太子ではなく、李
剣尖を今度は魏王へ。腰を抜かしたままの魏王は植木の陰に身を隠そうとしているが、その巨体が隠れるはずもない。
「だから私は私のままであるために、玉座に就くのだ。もはや誰にも戯言を口にはさせない。皇太子などという窮屈な枠に押し込められるのはもう終わりだ。もうたくさんだ!」
皇太子が右手首の鎖を外す。左剣を右手に持ち替え、足を引きずりながら魏王に迫った。魏王は最前落とした剣を再び拾い上げるが、構えた直後に皇太子に弾き飛ばされた。
皇太子が剣を振り上げる。魏王は言葉にならない悲鳴を上げる。今にも振り下ろされようとした剣はしかし、寸前で動きを止めた。
「なりません! なりません、兄上!」
横から飛び込んできた何者かが、魏王を背に皇太子の前に両手を広げて
「
皇太子と魏王は計らずも同じ言葉を口にしていた。
皇太子の剣を阻んだのは晋王だ。皇帝と武才人のもとを走り去った晋王は宮城内を走り回り、とうとうこの場にたどり着いた。そしてなぜ皇太子が魏王へ剣を向けているのか知らないが、とにかく止めねばならないと割り入ったのである。
「兄上、なりません! 青雀兄上を殺してはいけません!」
「どけ、雉奴! そいつは私の敵だ。排除しなければならない!」
「それでも兄弟です! 私たちは父母を同じくする兄弟ではありませんか。それが血を流して殺しあうなど、あってはならないことです!」
皇太子が剣をぎらつかせて脅しても、晋王は怯む様子もなくその場を動こうとしない。その後ろで魏王はじりじりと後退しようとしている。
「兄弟で殺しあってはいけないだと? 雉奴よ、それは父皇と青雀に言ってやるがよい!」
皇太子の左腕がさっと伸び、晋王の胸倉を掴んで投げ飛ばした。
「父皇は建成伯父上を殺して帝位についた。だが青雀、私は伯父上とは違う。お前に殺されるような人間ではない!」
剣を振り上げる皇太子。晋王はしかし逃げもせず目をぐっと閉じ、魏王はあろうことかその背中に隠れて弟を盾にしようとする。流螢は足首に絡まった鎖をいまだ解けずにいる。剣が振り下ろされる。一陣の風が吹き、そしてぱっと鮮血が散った。
晋王の身体がゴロゴロと転がった。頭に乗せていた小さな冠が吹っ飛び、その衣装は見るも無残に泥まみれになった。だが、その肉体は無傷だ。晋王は驚愕の面持ちで起き上がるや、あっと叫ぶ。
「武
武才人が血まみれになって倒れていた。返り血、ではない。武才人の背中はざっくりと斬り裂かれ、そこからどくどくと血が流れ出ている。
「雉奴、ご無事で……」
「そんな、なんで、どうして武姐々が!」
武才人は玄武門における娘子軍の優勢を確信するや、すぐさま宮中へ取って返した。一人で走り去ってしまった晋王が気がかりでならなかったのだ。そして皇太子が剣を振り下ろした一瞬、疾風のごとき軽功で晋王を横から攫っていった。晋王を守ろうとしたのだ。だがあと一歩遅れ、晋王は守ったものの自ら皇太子の剣を背中に受けてしまった。武才人は駆けた勢いそのままに地面へ突っ込み、晋王はその衝撃で放り出されたというわけだ。
「よくやった、よくやったぞ武才人! ハハ、ハハハ!」
絶体絶命を運良く切り抜けたためか、魏王の足に力が戻ったらしい。多少ふらつきながらも立ち上がり、武才人を称賛しながら皇太子から距離を取った。
「お前も、そうだ、お前だ。早くこの男を、逆賊を殺せ! 皇太子でありながら皇帝の命を狙う不届き者だ! ハハ、ハハハ! そうだ殺せ、殺し合え!」
その言葉は流螢へ向けて。流螢はようやく足枷を解き、剣を拾って立ち上がる。さっと皇太子が振り向いた。直後に皇太子はごろりと地面を転がり飛剣の鎖を掴み投擲。一瞬前まで流螢が立っていた地面を抉る。横へ飛び退いた流螢はさっと距離を詰めて皇太子へ体重もろとも剣を浴びせかける。皇太子は引き戻した双剣でこれを受けた。ガチッと三振りの剣が噛みあい、火花が散った。
「今度は青雀の側につくか!」
皇太子の上体が不意に沈む。動かない右足をわざとずらし、意図して転倒したのだ。流螢は剣を押し込む勢いそのままに前方へ転がる。だが皇太子は接触した剣を離さない。ごろりと地面に転がった流螢へ馬乗りになり、上からぐっと押し込む。腕力ではとても堪えきれない。流螢はふっと息を丹田に集中させ、内力を以てこれを迎え撃った。
「言ったはずです。私はあなたの味方だと。あなたの過ちを正しに来たと」
殷徳妃との問答を思い出す。もっとも愛する人が大きな過ちを犯そうとしていと知ったならばどうするか? 流螢は答えた。正しくありたい、と。
「こんなやり方は間違っています。これ以上は誰も傷つけないと約束してください。そうすれば、私は剣を納めます」
「できるものか! 青雀を殺し、父皇を殺し、私は皇帝にならねばならぬのだ。それでようやく、私は皇太子という
双剣は鋏のように流螢の首を左右から狙う。じわじわと迫る。右頬にすっと痛みが走り、血が滲み出た。
「いいえ、それは違う。それはあなたが皇太子でなくなり、皇帝になるだけのこと。真実のあなたはどこにいるのですか――李承乾」
「真実の――」
皇太子の剣を押す力が弱まる。流螢は脚を曲げ、皇太子の下腹に膝を蹴り込んだ。うぐっ、と呻いて皇太子が退く。その一瞬を突いて流螢は皇太子を横へ転がし、自身はさっと身を翻して距離を取った。
「私は宮女ですが、宮女ではありません。徐恵の義姉ですが、義姉ではありません。比武召妃に参加していますが、妃にはふさわしくありません。――それは私が、女という枠から逸脱しているから。だけれど私は宮女で、徐恵の義姉で、あなたを一度は愛した人間です。それは私が朱流螢だから。私自身が――朱流螢はこうであると決めたから」
言いながら流螢は、目の前がさっと開くような感覚だった。
掖庭の獄を思い出す。自身の運命に悲観し、その境遇を嘆いた。誰にも抗えず、誰かに利用されるばかりの人生だったと。だがそれは彼女にそれを打開する意思がなかっただけだ。その機会がなかっただけだ。
飛麗雲が死に、朱流螢が生まれるまでは。
「自身が何者であるか、それを決めるのは自分自身なのです」
そして今一度問う。
「皇太子……いえ、李承乾。あなたは何者でありたいのですか」
「私は――」
皇太子の眼前に一つの光景が広がった。草原の中、幼い彼は父と同じ馬に乗って駆けている。今は亡き祖父と母も側にいる。場面が変わる。寝台に眠る弟を眺めている。お前は今日から兄だと言われ、頭を撫でられる。また場面が変わる。はじめて弓で獲物を射た。お前には才能があるぞとほめてくれた。そしてまた場面が変わる。お前を皇太子にすると告げられたあの日の光景。
あの日からだ。あの日から何かがおかしくなった。皆が期待する皇太子になろうとして、自分自身を見失っていったのは。それまでの自分はいったいどこへ行った? 本当の自分は、李承乾という人間は、何を求めていたのだろう?
「私は、あの人の良き息子でいたかったのだ」
皇太子が呟いた瞬間、どすんと衝撃が走って身体が揺れた。同時にチクリと脇腹に痛みが走る。皇太子は剣を取り落とし、痛みを感じた部位を見た。
一振りの匕首がそこに突き刺さっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます