七 彼女の選択

「や、やったぞ。やった! これで吾輩が皇太子だ!」

 匕首を握った魏王がケタケタと笑いながら二歩下がる。匕首を握りしめたままだったため、刃が抜けた皇太子の傷口からはどっと血が溢れ出た。皇太子がくずおれる。流螢は慌てて駆け寄りその身体を抱き留めた。


「お前に無様な姿を見せるのは、これで二度目か」

「喋らないでください。ああ、そんな……殿下!」

 流螢が悲痛な声を上げると、しかし皇太子はふっと笑みを漏らす。

承乾しょうけんと呼べ。皇太子とも、殿下とも呼ぶな。私のことは承乾と……」

 直後、どっと口からどす黒い血を吐いた。流螢はぞっと背中に冷や汗を流す。これは、毒だ。毒にあたった症状だ。


 魏王はしばし血まみれの匕首と自身の手を見つめていたが、すぐに視線を流螢に移した。

「吾輩が刺したのでは恰好がつかん。お前、そうだお前が刺したことにすればよいのだ。さあこれを持て。そして吾輩がお前を斬れば、吾輩は皇太子殺害の犯人を討ったことになる。そうだ、そうだ。完璧だ!」

 言いながら匕首を差し出す。言葉の通りであれば渡そうとしているはずなのに、刃は流螢に向いたままだ。しかも腕が小刻みに震えているせいで危なっかしくて仕方がない。


「魏王、あなたは何と愚かなことをしたのですか! 早く解毒薬を渡して!」

「げ、げ、解毒薬だと? 何のことか、吾輩にはさっぱりわからんぞ。それよりも、さあ、これを持て。早く持たないかこのクソ女が!」

 子供をあやすような猫なで声が一変、歯をむき出しにして怒鳴り散らす。流螢は剣を握りしめたが、もう一方の手は李承乾を支えている。もしも魏王が匕首を振り回せば避けられない。しかもあの刃には毒が塗られているはずだ。かすっただけでどうなるかわかったものではない。


 魏王はぎゃあぎゃあと喚きながら匕首の刃を流螢に向ける。とうとう癇癪も限界に達した。

「吾輩に逆らうか! 逆らうのなら、お前など要らぬぎゅぅ!」

 すべてを言い終わる直前、魏王はよだれをまき散らして吹っ飛んだ。横合いから飛び出した誰かの蹴り足がその顎を的確に捉えたのだ。

「魏王といえど、私の近侍に不埒な真似は赦さない!」


「徐恵!」

 蹴りを放ったのは徐恵であった。さらにその後ろからは続々と武装した女たちが駆けつける。流螢は韋貴妃が編成した娘子軍のことを知らない。ただ比武召妃に参加している妃嬪もその中にいたので敵ではないのだろうと安堵する。

「魏王を縛り上げて、晋王と武才人の手当てを急いで! 流螢、あなたは大丈夫?」

「私は大丈夫。だけど、ああ徐恵、だけれど承乾さまが!」


 徐恵も一目で状況は把握している。救護の人間を呼びつけ一番近い宮殿へ李承乾を運び入れる。太医を呼んで治療にあたらせた。

 ところが太医は脂汗を浮かべて傷口を観察し、包帯を巻いて止血したきりウンウンと唸り続ける。流螢と徐恵が気を揉んでいたところ、やがて皇帝と師父も姿を現した。

「陛下、これはいけません。私の力が及ばぬばかりに!」

 皇帝に対して徐恵が挨拶しようとするのをさえぎり、太医は泣きそうな声で地面に這いつくばった。いきなりこのような姿を見せられ、皇帝は戸惑いを隠せない。


「どうしたのだ。承乾の容体はどうなのだ」

「ありのままを申し上げます、陛下。皇太子の傷は深いものの臓器まで至っておらず、出血も少なく済みました。ですがその傷を与えた凶器には毒が塗られていたのです」

 言いながら太医は布にくるんだ匕首を見せる。その刃には黒血がこびりつき、すでに固まっている。皇帝はおぞましいものを見るように顔を顰め、手振りで引っ込めるように命じた。


「小さな武器に毒を仕込むのは当然だ。それで、どのような毒なのだ。どのように解くのだ」

「それが、その……わからぬのでございます! 皇太子の気脈は暴れ狂い、今も着々とその身体を蝕んでおりまする。しかし私めには、これが何の毒なのか、どのように解けばよいのかまったくわからぬのでございます!」

 太医は自身の無力ぶりを嘆いてか、あるいは皇帝の叱責を恐れてか、おいおいと泣きじゃくる。皇帝はかっと目を開けたまま憤怒を押し殺しているようだった。やがて口の端を開いて苦々しく絞りだす。

「青雀、あの外道め! 毒を以て兄を苦しめるとは!」

「いや、違うね。あのデブっちょは毒については無関係だ」


 皇帝の言葉を即座に切って捨てたのは師父だ。これには皇帝も太医もきょとんとする。師父はそれを気に留めず、布にくるまれた匕首を摘まみ上げる。

「これは龍生派の毒だ。陰と陽との調和を乱し、じわじわと内傷を広げる厄介な毒だ。楊怡め、武芸はできないくせにこんな秘術まで修めていたとは。魏王は楊怡の匕首を持ち去り、それを使っただけ。解毒の方法は龍生派関門弟子である楊怡以外に知らない」

「では楊怡を探して解毒してもらえば」

 言いさした流螢を徐恵が止める。苦々しい顔で頭を振った。

「楊怡も重傷を負って意識不明よ。十日以内に目を覚ますことはないだろうと」

 そんな――流螢はふらついてすぐそばの柱に手を突いた。それではまったくの打つ手なしではないか。さらにそこへ太医が要らぬ追い打ちをかける。


「この様子では、皇太子はあと数刻も持たぬかと……」

「うせろ!」

 皇帝が一喝するや、太医は顔面蒼白となって出て行った。こちらも流螢と同じく柱に拳を叩きつける。何か方法はないのか、と呟くものの、誰もそれには答えられない。徐恵も考えを巡らせてみたが、妙案など浮かぶはずもない。困り果ててふと顔を上げれば、師父だけがなにやらにやにやしている。


「――師父、もしや何か名案をお持ちで?」

「よくぞ聞いてくれました!」

 待ってましたとばかり、師父は皇太子の横たわる寝台の前へ進み、その懐から二つの瓶を取り出して置いた。一つは赤、一つは青の栓がしてある。

「これは楊怡が持っていたものだ。あいつは二振りの匕首のどちらにも内力暴走の毒を仕込んでいた。であればこれの片方は毒で、片方は解毒薬と考えるのが妥当だ」

 にわかに色めき立つ一同へ、ただし、と師父は片手をあげて制止する。


「生前、洪掌門はこう話していた。もっとも厄介な毒とは一滴で十分な効果を発揮し、解くには希少な薬剤を大量に必要とするものだと。そして、色や臭いですぐに判別がつくようなものではないと。この二つの瓶の中身、ちょっと覗いてみたがどちらも無色無臭だ。まったく区別がつかない。さて、そのどちらをこの男に飲ませる?」

 もしも毒薬を飲ませてしまったら、などとは誰も問えない。一滴でも足りる、匕首の刃に塗布されただけで死に至るほどの劇毒を飲ませようものなら、たちまち命を落とすだろう。


「――であれば、やるべき事は決まっています」


 きっと誰もが同じ方法を思い浮かべていた。瓶に伸ばした流螢の手を、徐恵がさえぎる。

「ダメよ、それは。絶対にダメ」

「でも他に方法はない。一秒を悩む間に承乾さまは蝕まれてゆく」

 そうだけど、と言いながら徐恵は皇帝を見た。皇帝ならば何か他の妙案を思いつくのではないかと期待している。皇帝は少し考えていたが、やがて眉間にしわを寄せて頭を振った。


「お前が命を投げ出して承乾を救ったとして、謀反を起こしたことに違いはない。それなりの処罰を、場合によっては死罪にしなければならぬ。朕にも臣下に対する面目というものがある。今ここで賭けるお前の命はムダになるかも知れないのだぞ」

 やるな、とは言わなかった。流螢は杯に水をほんの少し入れ、そこへ赤い栓の瓶から中身を一滴だけ落とした。ゆらゆらと杯を揺らして十分に溶かす。


 二つの瓶の中身のうち、片方の一滴だけを飲む。その者が無事であればそれが解毒薬。その者が死ねばそれは毒、もう一方が解毒薬ということだ。

「もとより私は一年前に死んでいたはずの身、ここで死んでもそれはあのときの罪をようやく償うだけのこと」

 自身を鼓舞するように言い、右頬をぐいと肩に擦りつけ、流螢は一息に杯を干した。毒であれば回るまで百も数えれば十分か。


「流螢――」

 十を数えようとしたころ、徐恵が何かを言いかけた。流螢は首を傾げて続きを待ったが、徐恵は頭を振った。

「必ず生きて。そしてあとで一発殴らせて」

 声が少し震えているように聞こえたのは気のせいだろうか。


「これでお前が死んだら、せっかくの弟子が一人減るなぁ」

 二十を数えるころ、師父が明日の天気でも語るかのように呟いた。流螢はもし生き延びたら一発殴ろうと決めた。


「――承乾は、朕について何か言っていたか?」

 四十を数えるころ、皇帝が重い口を開いた。

「良き息子でいたかった、と仰っていました」

 流螢は正直に答えることにした。


「承乾さまは、陛下と皇太子の関係ではなく、親と子としての情を感じていたかったのです。陛下に――父親に褒められ、励まされ、その背中を追うことを求めていただけなのです。ですからもし、承乾さまが助かったなら。どうかそのお心を汲み取り、ほんのひと時だけでも親子としての時間を」

 言いながら、流螢は不思議な気持ちだった。流螢自身の親子関係は最悪で、完全に崩壊してしまっている。それなのにどうして、他人の家事に口を出してしまったのだろう。


(あるいは私も、承乾さまを羨んだのかも知れない)


 自身が持たない他人の幸福を妬むのは人の世の常か。あるいは業か。そんな難しいこと、流螢にはわからない。ただ、今目の前に横たわるこの男性には、その幸福を掴んでほしい。それだけが流螢の願いだ。

 ただの宮女が皇帝に願いを申し出るなど分をわきまえないにもほどがある。時と場所が違えば太監に叱責されてつまみ出されているだろう。しかし皇帝はゆっくりと頷いて、それを許した。


 流螢は深く深く息を吐いて安堵した。

 残り十秒。

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