四 玉座に見た夢
「
ガタン、と鳴った物音に視線を向ければ、その先には転倒から起き上がろうとするでっぷりとした見慣れた後姿が。振り向かせた表情は恐怖に染まり、皇太子と見るやみるみるうちに蒼褪める。魏王だ。
視線が合うや、魏王はヒイッと悲鳴を上げて剣を抜いた。その手はガタガタと震えてとてもまともに剣技を扱えるようには見えなかった。
「兄上、これは誤解だ。吾輩が兄上を陥れようなどと考えるはずが――」
「なんだと?」
皇太子の反応を見て、ようやく魏王は己の過ちを知った。魏王はてっきり、これまで皇太子を失墜させるために講じたすべて、皇太子に知られたものだと勘違いしたのだ。そのために自分を探していたのだと怯えていた。だから思わず何か弁明しようとしたのだが、それが完全に仇となってしまった。普段の魏王ならば決してこのような失言は口にしなかった。しかし清寧宮にて皇帝の怒りを買い、この場に側近らは一人もおらず、そして誰あろう皇太子が眼前に現れ、完全に冷静さを失っていた。
「俺はまだ何も言っていないぞ……!
皇太子が剣を振り上げる。こちらも剣を握る手が震えている。それは魏王のように恐怖によってではない。怒りだ。このような人間に自身は追い詰められ、もっとも愛する者を奪われたのかと思うと、あまりの空しさに自分自身が許せない。
「あの夜に甘露殿を騒がせたのも、女王武氏の噂を流したもの、承慶殿に私と称心がいることを父皇に密告したのも、すべてお前だったのだな。それでは斉王は、殷徳妃は、お前に利用されたのだな。あの謀反はお前がけしかけたものだったのだな」
「ち、違う。それは違う。あれは斉王が勝手にやったのだ。殷徳妃めが馬毬試合の妨害に失敗して、蕭美人から危うく足がつきそうになった。それで吾輩が手を切ると言ったら、あんな暴挙に出たのだ」
口を開けば開くほどに墓穴を掘っていく。
「それでは、殷徳妃が死んだのは」
「吾輩が房遺愛に命じて、宮女に扮して毒を盛らせたのだ。あれが生きて捕まるようなことがあれば、吾輩との関係が明らかになってしまう。それはダメだ。まずは吾輩が皇太子になり、それから父皇に玉座を譲ってもらわなければ」
そこまで話して、魏王はひっと息を呑んだ。皇太子の表情が恐ろしいほどに歪んでいたからだ。
「なにゆえにそのような野望を抱いたか、青雀……ッ!」
せめて理由を聞きたい。皇太子自身には理解できないそれを知りたい。実の兄を排除してまで手に入れようとした皇太子の位に、いったいどれほどの価値があったのかと。
魏王はぶるぶると震えながらも、視線だけは皇太子から離さない。
「……昔、太極殿に忍び込んだことがあっただろう? 吾輩と、兄上の二人で」
覚えている。父が即位し、皇太子に封じられた直後のことだ。まだ十歳そこらだった兄弟は国の中枢、朝議が行われる太極殿がどのような場所であるか見てみようとそこへ忍び込んだ。
「あのとき、吾輩は父皇の玉座に座った。百官を見下ろすあの場所に。そして見たのだ。百官が吾輩にかしずいて、皇帝陛下万歳と唱えるそのさまを。白昼夢にしては明瞭なそれを。吾輩は確信した――これが未来だと! 玉座にあるべきはこの吾輩なのだと!」
「ふざけるな!」
皇太子の一喝に魏王はびくりとして剣を落とした。慌ててそれを拾い上げて構え直す。そうして再び見つめ返した皇太子の双眸は怒りに燃えていた。
「お前のような陰険悪辣な人間が、皇帝の器に相応しいものか! 私がお前ごときの手によって失墜したのは、私にその器がなかったからだ。だがそれはお前も同類だ。お前にこの国を統べる資格はない!」
「それを決めるのはあんたじゃない!」
魏王が剣を振り上げて襲い掛かる。皇太子は自身も剣を掲げてこれを受けた。ガチ、とかみ合う双剣。すると魏王の剣がするりと潜り込んで皇太子の剣を押し上げる。空いた側面から魏王の拳が突き込まれる。『飛来蛟』の型。
ゴキ、と鼻の軟骨が潰れる音。鼻血を吹いて吹き飛んだのは魏王の方だ。皇太子は上体を捻って魏王の左拳を回避しざま、自身も左拳の突きを放っていた。
「……さすがは少林寺、龍生派の対処法は実に的を得ていたな」
称心が取り寄せた武芸書を皇太子は見ている。当然、龍生派の四つの型とその対処法も把握していた。魏王は房遺愛から龍生派の技を学んでいたが、それがむしろ仇となったのだ。
鼻を潰された魏王は剣を放り出し、鼻を押さえながらずるずるとその場を這いずった。逃げようとしているが腹肉が邪魔で四つん這いでは逃げられない。皇太子に尻を蹴られ、甲虫か何かのようにごろんとあお向けに転がった。
「や、やめ……」
「先に逝け。私か父皇か、いずれかが後を追う」
皇太子の剣が振り下ろされる。その一撃は魏王の脳天を割ってたちどころに絶命させるだろう。魏王は腕を上げて守ろうとしたが無意味なことだ。
魏王の脳天に刃が至る直前、飛来した光が甲高い音とともに皇太子の剣を弾く。もぎ取るまでは至らなかったが、魏王を狙った一撃は阻止した。地面に突き立つ一振りの剣。
誰かが剣を投擲した。誰が? 皇太子と魏王は揃って視線を剣の飛来した方角へやる。そこにいたのは宮女が一人。
「間に……合った」
朱流螢がそこにいた。全身に汗をかき、その紅の裳はボロボロに裂け、左肩に負った傷からは血が滲んで青衣を汚している。
皇太子の手が強く剣を握りしめる。体を開き、正面を流螢に向ける。
「朱流螢……お前はすでに用済みだ。それがどうしてここにいる? どうして……私の邪魔をする!」
皇太子の左手がもう一振りの剣を抜く。流螢は剣の鞘を構えて前に出る。皇太子の注意が逸れたことで魏王は慌ててその場を這いずって逃げた。皇太子はそれを横目で見て、すぐにまた流螢に視線を戻す。この場において誰を最優先で排除すべきか理解しているようだ。
「我が足を奪っておきながら、未だこの私の行く手を阻むか!」
左足で飛ぶ。双剣が銀色の軌跡を描いて襲い掛かる。流螢は前へ飛び出しつつ鞘を掲げてこの斬撃を受けた。たちまち鞘はばらばらに切り刻まれる。流螢はそれを投げ捨て、地に突き立っていた剣を抜いた。それを即座に背面へ薙ぐ。追撃を仕掛けた皇太子の剣を阻んだ。余波を喰って前に転がる流螢。片手を地につけ低く構える。
「私はあなたの味方です、殿下。どうか剣を収めてください」
皇太子はカラカラと笑った。
「私の味方であるというなら、なぜ私を止める? 味方であればこやつを斬り捨てて然るべきであろうに!」
右の剣で魏王と示す。魏王は地面にへばりついて声も出ない。
流螢はそれを一瞥してから頭を振る。
「唯々諾々と従うだけが忠義ではないはず。その過ちを諫めることも従者の務めです。私は殿下の従者ではありませんが、殿下を心よりお慕い申し上げております。だからこそ、こうして殿下の過ちを阻止しようと立っているのです」
「そうだ、お前は俺の従者ではない! それをわかっていながら邪魔立てするとは、呆れるほどに大胆な奴だ。今ならばまだ見逃してやろう。そこを退け!」
「拒否いたします!」
その言葉が終わるや否や、皇太子の剣が翻った。
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