二 娘子軍

 皇帝暗殺に失敗した皇太子は一時撤退したものの、その手勢はいまだ宮中を駆け回り皇帝の行方を捜している。武才人はそれらをやり過ごし、時には無力化し、なんとか宮城を脱出できる道はないかと進むのだが、行けども行けども外へ出る道はいずれも封じられている。


「これはどこかへ身を潜め、禁軍が到着するのを待つしかないようですね」

 今しがた気絶させた兵士から剥ぎ取った衣服を皇帝に投げつつ、忌々し気に吐き捨てる武才人。そもそも彼女は比武召妃を穏便に終わらせるために行動していたはずなのに、どうしてこんな状況に陥ってしまったのか。


(こんなことなら、皇太子の助命嘆願になど行かなければよかった)


 武才人が協力していたのは魏徴であり、皇太子ではない。そして彼女は別に本気で皇太子妃になりたかったわけではない。比武召妃に参加したのは、ただ腕試しがしたかった、それだけの理由なのだ。

 父が死んだのは十二歳のとき。それまでは父親の愛情を受けて育った彼女は一転、親類に引き取られ従兄弟らにいじめられる生活となった。それでも一方的にやられることを我慢できなかった彼女はひそかに武芸を身に着け、あるときこてんぱんに従兄弟らを叩き伏せてやった。何の予告もなく後宮へ送られたのはそれから半年もしなかった。

 後宮でつまらない日々を過ごすのも悪くはなかった。ただ、退屈は人を殺す。心を殺す。そんな矢先の武芸大会だ。無視できるはずがなかった。従兄弟たちをぶん殴るために覚えた武芸だが、武才人は後宮でも密かに鍛錬を続けていた。何をやっても人並み以上にできたところで突出することはなかった武才人だが、武芸であれば他の誰にも引けを取らない自信があった。ただそれだけの理由だ。


 だから皇太子の進退など実のところどうでもよかったし、比武召妃が中止になったとしても多少残念なだけで別に構いはしなかったのだが。

(それをどうして、私はあそこまで続けさせたいと願ったのだろう)

 今日の皇太子の事件を知り、武才人は願った。ここで比武召妃を終わらせたくない、と。自身が思う以上に自己顕示欲が強かったのだろうか。擂台に立って衆目を浴びることを望んだのだろうか。あるいは、また別の理由か。


 きっとそうだ、そうに違いない。あの日、鳳露台で感じたあの視線。あの瞳の持ち主を見て何かを感じたのだ。誰かではない、あの瞳にこの姿を焼き付けたいと願った。

(朱流螢、あの宮女が高手つかいてということは一目見てすぐにわかった。だけれどあの憧れるような、同時に諦めたような――あの目が大嫌いだった)

 本当は実力があるのに、女だからだとか身分に適わないだとかのつまらない理由でそれを発揮できない、その不条理が何よりも嫌いだった。あの宮女はそれを甘んじて受け入れているようだった。だから、あの流螢が参加者となったとき、心の奥底で喝采を上げた。


(知らしめてやる、あの宮女に。教えてやる、あの朱流螢に。武⼠彠しかくが娘、武しょうはこれほどまでに強いのだと。決して弱い女ではないのだと。それはお前も同じなのだと)

 私はここにいるぞ、強く生きているぞと誰かに見せつけてやりたかった。そしてそれは誰にでもできること、決して特別なことではないのだと。

 まさかその朱流螢が比武召妃に参加するとは、あのときは想像もしていなかったのだが。


 どうした、と皇帝が声をかける。渡された兵装を身に着けて兵卒に化けているが、どうにも上に立つ人間の覇気のようなものが抜けきらない。武才人は適当に相槌を打ってから植え込みの向こうを探った。さて、この場をどう乗り切ろうか――。

 眼前に、誰かの顔があった。

「わっ!」

「あっ!」


 武才人はとっさにその場を飛び退き、それに応じて皇帝がさっと剣を植え込みの先へ突き入れようとする。武才人がその肩を引いて皇帝の攻撃を阻んだ。

「陛下、敵ではありません!」

 皇帝もはっとして剣を引く。植え込みの向こうにいたのは兵士ではなく、まだ幼さの残る少年だった。驚きのあまりに腰を抜かしている。


「お前、雉奴ちぬか。なぜここにいる?」

 その少年は晋王こと李であった。雉奴とは魏王の青雀せいじゃくと同様、幼名だ。腰を抜かしたのは武才人と間近で顔を合わせたからであって、皇帝が危うく剣を突き込もうとした場面は見えていない。地面に尻もちをついたまま晋王はぽかんと皇帝を見た。

父皇ちちうえ? どうしてそんな恰好を? 武姐々ねえさんもどうして父皇と一緒にいるの?」

「いいから急いで立って!」

 武才人がさっと手を伸ばして晋王を立たせる。植え込みの中へ引き入れ伏せさせた。


「雉奴、どうしてここへ? 王府へ帰るようにと言ったはずです」

「お前たち、顔見知りだったのか?」

 皇帝が問うのを武才人は無視した。晋王は二人の顔を見比べるや、ぱっと表情を明るくする。

「もしかして、願いは聞き入れられたの? 父皇は兄上を赦すと約束してくれたんだね? だから二人は一緒にいるんだ。あれ、だけどそれじゃあ、あの怖い顔をした兵士たちは何をしているんだろう?」

「なんだと?」

 今度は皇帝が晋王と武才人の顔を見比べた。武才人は頭を抱える。説明するのがすこぶる面倒だ。


「陛下、私が甘露殿へ向かう途中で晋王とお会いしたのです。晋王もまた皇太子の話を聞きつけ陛下へ寛大な処置を願い出るおつもりでしたが、私がこの件に関わるべきではないと諫めたのです。代わりに私が晋王の分まで尽力するから、と」

「雉奴が承乾のために?」

 問われ、こくりと晋王は頷く。その表情は兄こと皇太子が赦されたのだと信じて疑わない。武才人は今度は晋王へ向けて語った。

「陛下は赦すおつもりだったけれど、皇太子がそれを無下にした。あの兵士たちは陛下のお命を狙っている。殿下も見つかると危ない。一緒に逃げましょう」

「兄上が? それは、それは……つまり、謀反を?」


 晋王の顔色がみるみる血の気を失っていく。武才人の腕を振り払い、さっと立ち上がり叫んだ。

「そんなこと、あるはずがない! きっと何かの間違いだ! 僕が兄上と直接話してくる。これは何かの間違いだって証明する!」

「雉奴、待って!」

 武才人が止める間もなく晋王は背を向けて走ってゆく。武才人が軽功を使えば追いつくのはあっという間だった。だがそれはできなかった。晋王の大声で兵士たちがこちらに気づいてしまったからだ。


「いたぞ、あそこだ!」

 たちまち十数人の兵士たちが皇帝と武才人を取り囲んだ。やはり皇帝に変装させたのは無意味だったか。武才人は剣を構えるや、先手を取って斬りかかった。

 たちまち三人を斬り伏せる武才人。皇帝も自ら剣を振るって迫りくる兵士を退ける。横合いから武才人が斬り込み、さらに二人を倒した。だが兵士らが槍を持ち出すとたちまち間合いの不利で劣勢に陥る。おまけに甘露殿から使い続けた剣はもやは刃こぼれだらけで使い物にならない。みるみる追い詰められ、とうとう壁際で進退窮まった。


 已んぬる哉ここまでか――今にもやりぶすまに突かれようとしたところ、シュシュッと風を切る音がする。直後槍兵の一人がばたりと倒れた。何事かと声を上げる間もなく、さらに二人三人と矢に射抜かれて倒れる。瞬く間に数十の矢が降り注ぎ、あれよあれよという間に兵士たちは一人残らず沈黙した。

 いったい何が起こったのか。武才人は矢が飛んできた方角へ視線を向ける。すると一人の女が飛び出し、皇帝の前に走り寄った。


「陛下、ご無事ですか」


 皇帝も武才人も目を丸くして驚いた。その女は革鎧で武装しており、腰には剣も提げている。それだけではない。その恰好をしている女の顔を見てさらに瞠目する。

「お前、韋貴妃か。なぜこんなところで、そんな恰好をしているのだ?」

 皇帝が驚くのも無理はない。その女は普段後宮でもっとも煌びやかな衣装を纏う夫人位の一人、韋貴妃だったからだ。


 問われた韋貴妃は恥じるように顔を伏せ、しかしどこか自慢げに答えた。

「温泉宮の一件以来、また同じようなことがあった場合を考えて備えを進めていたのです。それがまさか、これほど早く役に立つ日が来るとは。陛下、この装いは似合いませんか?」

「備えとは何のことだ?」

 装いについて何も言われなかったことを不満に思ったか、韋貴妃は一瞬つんと顎を上向けつつ、振り返って後方を指さした。


 そこには女たちがいた。おそらくは宮女であろうが、その装いは武器防具を備えた兵士のものだ。韋貴妃と同じく革や金属の鎧を身に着け弓を携えている。先刻矢を射かけたのは彼女らか。

「後宮は陛下のものである、と同時に私たち女どものものです。これを荒らす者があれば排除するのも私たち女の役目。どうか私兵だなどとは咎められませぬように。これは平陽へいよう公主と同様に陛下のために戦う――娘子じょうし軍なのです」

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