七章 後宮大乱
一 義姉妹の誓い
流螢の身に槍が迫る。流螢は今しがた顎を打ち据えた兵士の
これで二人。
たかが女と侮っていた兵士たちが動揺したように動きを止める。ここで持ち直す猶予を与えてはならない。流螢は大きく真気を吸い込み全身の気脈へ通した。
速攻。さらに三人を木剣の一撃と当て身で突き飛ばす。残り……七人。
二人が同時に曲刀で斬りかかる。流螢は壁を蹴って跳躍、その頭上を飛び越える。間合いの外と油断していた槍兵を足で踏み潰す。これで残り六、かつ槍を持った相手は今ので全員片付けた。残りは刀兵だけだ。
右から腰を狙った斬撃。木剣を立てて受ける。一拍遅れて左から。脚を振り上げ曲刀の持ち手を蹴る。パァン、と兵の手から曲刀が吹き飛ぶ。その脳天へ流螢は振り上げた脚を叩き落とした。それと同時に右の木剣を水平に突き出す。立て直そうとしていた兵の喉にドスンと突き刺さった。いかに木剣と言えど喉を突かれれば重傷だ。たちまち血反吐を吐いてその場に
「ラァァァァァァァァシャァァァァァァァァ!」
ダダン、と転倒する李元昌。流螢は追撃せずに離れる。残る曲刀兵が将を護ろうと左右から迫ったからだ。
その足がぴたりと止まった。意図してのことではない。流螢はぎょっとして足元を見下ろした。先ほど踵落としで沈めたはずの兵が右脚に組み付いているではないか。
今度こそ防がなければ脳天を割られるだろう。だが流螢は動けない。逃げられない――。
バガァァァン! 目の前でぱっと火花が散った。もうもうと灰煙が立ち上り、兵士たちがわっと叫んで後退する。次いでガランと床に転がったのは称心の遺体を安置していた祭壇の香炉だ。これが流螢にとどめの一撃を与えようとした兵の顔面に命中したのだ。鼻柱を折られて昏倒している。しかしなぜこれが?
ガスッ、と流螢の脚に組み付いていた兵の頭を誰かが蹴った。ぐげっ、と呻いて兵士は力を緩める。流螢はぐいと腕を引かれて後退した。
「流螢、なんて無茶を!」
流螢の窮地を救ったのは徐恵だ。
「徐恵は逃げて。ここは私が――」
「バカを言わないで。誓いの言葉を忘れたの?」
香炉から飛び散った灰が敷物に引火し、炎を発した。ぱっと弾けてみるみるうちに燃え広がる。徐恵は足元に転がっていた曲刀を拾って構えた。
「義姉妹の誓約……私たちは幸福も苦難も分かち合う。
「……同年同月同日に死ぬと誓った」
「だったら。ここであなたを一人残して行けるはずがないでしょう?」
ゆらり、炎の向こう側で李元昌が立ち上がる。背を丸め、ぎろりと
「さすがは比武召妃優勝候補なだけはある。宮女風情が……この俺を地に転がしたな!」
衝撃。李元昌の足が床を蹴り、一瞬にして間合いを詰めてきた。大振りな剣の一撃。流螢は木剣を掲げてかろうじて受ける。が、踏み留まれずに後方へ吹き飛ばされた。衝立をいくつも押し倒して転がる。
「流螢!」
徐恵が李元昌の膝を狙って斬りつける。李元昌はこれをさっと脚を上げてやり過ごし、さらにはそのまま蹴りを放ってきた。徐恵もまた吹き飛ばされる。ごろりと転がって立ち上がった徐恵を兵が取り囲む。
「そいつは任せた。こっちは俺がやる!」
李元昌はその巨体からは予想もつかない敏捷さで流螢との間合いを詰めた。体勢を立て直したばかりの流螢は慌てて軽功で飛び退く。一瞬遅れて喉の位置を剣光が走る。
(さすがは候将軍が宮中の達人の一人に挙げただけのことはある。膂力ばかりに優れるかと思えば、こんなにも速い――!)
李元昌の剣はただでさえ重厚であるのに、同時に目にもとまらぬ連撃を仕掛けてくる。さながら押し寄せる濁流、大海の渦に呑まれるかのような。
手にした木剣はみるみるうちに削ぎ落され、流螢は崇教殿の奥へ奥へと追い詰められた。遠くからは徐恵と兵士たちが武器を交える音が聞こえる。流螢は焦った。早く徐恵を助けに行かなければ。早く皇太子を追わなければ。それなのに自身は後退してばかり。どうする、どうする、どうする?
焦りが守りを破綻させる。李元昌の剣が遂に流螢の左肩を捉えた。激痛が走る。肩口を斬り落とされることはなかったが、刃は骨に沿って流れ、流螢の左鎖骨に溝を刻み込む。深手ではないものの、痛いものは痛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
「ぐ――うっ――!」
痛みが記憶を呼び覚ます。幻痛が全身を襲う。全身を押し包むような恐怖が湧き上がる。やめろ、来ないで、これ以上私を虐めないで!
「これで終わりだ! 死ね!」
李元昌が剣を振り被って迫る。真っ直ぐに脳天を割る軌道。到達するまで瞬きするほどの時間もない。
「アアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァ!」
眼前に迫った刃へ向けて、流螢は渾身の力で左拳を叩きつけた。
(流螢よ流螢、いつまでも過去の恐怖に囚われてどうする? 戦うことをやめてどうなる? お前は今、ここで戦わねばならないのだ。ここで死ぬわけにはいかないのだ。今この瞬間をこそ、生きなければならないんだ!)
ここぞとばかりに迸った内功が拳を鋼に変える。李元昌の剣は流螢の拳が触れた部分からバラバラに砕け散った。
「な、に――!?」
ここではじめて、ほんの一瞬だが李元昌に隙が生じる。折れた剣を投げ捨て腰の匕首に手を伸ばす。それを引き抜くまでのわずかな間隙を流螢は見逃さなかった。匕首を掴んだその手首を木剣で打ち据える。グキ、と李元昌の手首が折れ曲がった。
勝った――その確信が油断になった。李元昌はそれでも左腕を伸ばし、流螢の喉をがしりと掴む。そのまま体を吊り上げて壁に叩きつけた。
「宮女めが、この俺に傷を負わせるとはやるではないか。だが所詮は女! 男には勝てぬが道理――」
そこまで言ったところで、流螢はボロボロの木剣を李元昌の左腋下に突き込んだ。ここは人体の急所である。たちまち李元昌は腕が萎えて流螢を手放す。これで李元昌は両手とも使えなくなった。
「一言だけ言わせてもらうけど」
一歩後退した李元昌の背中に徐恵が声をかける。はっと振り向いた李元昌の視界に、息を荒げる徐恵と、その後方で山積みになって伸びている兵士たちが見えた。
「女だからどうだとか、そんな言い方、嫌いよ」
徐恵の曲刀と流螢の木剣、その両方が左右から同時に李元昌の頭部を殴打した。流螢の木剣はととうとう砕けて木片を散らす。ガラン、と兜が落ち、李元昌の巨体はどうとその場に倒れ伏した。
「流螢は内廷へ急いで。皇太子を見つけて、止めるのよ。私はこの人たちを運び出す」
崇教殿はみるみるうちに炎に呑まれていく。このまま放置すれば李元昌らは焼け死んでしまうだろう。それは流螢も望むところではない。
流螢は剣を拾い、この場を徐恵に任せて東宮を出た。
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