八 一命を賭して

 輿こしの担ぎ手が一人、どっと血を吐いて倒れた。全速力で突っ走っていた輿は瞬く間に姿勢を崩して転倒する。残る三人も地面にばたりと倒れ伏すなりもはやピクリとも動かなかった。

「おいこら、何を寝ておるか! 早く立て!」

 輿から転げ落ちた魏王が跳ね起きながら叱咤するが、すでに事切れた相手に何を言ったところで無意味である。この巨体を担いで清寧宮から休まず走り抜けば心臓が破れて当然だ。

「ええい、この役立たずどもめが! 楚客そかくは死んだ、令武れいぶは王府に置いてきた。畜生め、誰か使える奴はおらんのか!」

 杜楚客は厳密には死んでいないのだが、利用できないのなら死んだも同然だ。魏王は腹の肉を抱え上げ、輿から剣を手に取り自分の足で走り出した。今わの際の担ぎ手は「お前走れたのかよ」と心中呟いて果てた。


 どったどったと歩くのとさほど変わらない速度で行くことしばし、ふらりと前方に人影が現れた。急停止して剣の柄に手をかける魏王。目を細めてその人影の容貌をまじまじと見るや、一転してぱっと表情を輝かせる。

「お前か!」

 白い大袖沙羅に薄桃色の長裙。流した黒髪は絹のよう。左手に剣を提げたその人物は駆け寄る魏王に小さく会釈する。

「ちょうど良いところにいてくれたな。父皇ちちうえに吾輩の所業がバレてしまった。公になる前に暗殺しなければならないが、横にいた女どもが一筋縄では行かんのだ。お前、清寧宮へ行って女もろとも父皇を殺してはくれないか」

 長裙の人物は俯いて魏王から視線を逸らす。魏王は眉をひそめてその背中を叩いた。

「おい、まさかこれ以上人を殺めるのはできないだとか、そんなことを言い出すつもりではなかろうな? お前の剣技を見込んで仲間に引き入れてやったのは誰だ? お前のために「括地志」を編纂する名目でいくつも妙薬を集めてやったのは、他ならぬ吾輩だろうが。お前は吾輩の言う通りにしておれば良いのだ」


 俯いたまましばらく考えていたようだが、ややあってから深く頷いた。険しかった魏王の表情が一瞬で晴れやかに変わる。

「それでこそお前だ、美貌と剣技を兼ね備えた大人物だ。各派の武芸を極めたお前がいれば吾輩に怖いものなどない! ハハ、ハハハ!」

 魏王は高らかに笑いながらその背中を押し、今来た道を逆行する。しかしいくらも行かぬうちに長裙の人物はぴたりと歩みを止めた。どすんと魏王の巨体がぶつかっても微動だにしない。

「おいこら、何を立ち止まっておるか。まさかこの期におよんで怖気づいたなどと――」

 言いさして、魏王もそれに気づいた。進もうとした道の先、暗がりの中に何者かが立っている。小柄だが子供ほど小さくはない。誰何すいかするよりも先に、その人影は月明かりの下に姿を現した。


 それは青衣を着た宮女だった。緊張していた魏王は「なんだ」と呟きながら安堵の息を吐く。

「ただの宮女ではないか。気にすることはない。さっさと行くぞ」

 魏王はまた背中を押そうとして、しかしびくともしないので訝し気にその顔を見る。長裙の人物はじっと宮女を見つめている。静かにその手が腰の剣にかかった。

「――龍生派の武芸は右手で剣を、左手で拳を使う。そのため右には剣ダコが、左には拳ダコができやすい」

 はっとして長裙の人物はその両手を眼前にかざした。が、どちらの手も目立ったところはない。

 宮女は――楊怡はギリと奥歯を噛み締めた。

「今のは嘘よ。でも……やっぱりあなたが師父のかたきだったのね!」


「――いつから気づいた?」

 音楽のような声で問う。昼間ならば宮女たちはこの一言で陶然とするところ、楊怡はギリと奥歯を噛みしめる。

「師父と魏大人が同じように殺されたのだと知って、それでようやく一つに繋がった。魏大人は死の間際にすべての扉と窓を閉めて密室を作った……すなわち房子へやそのものが下手人を示す手掛かりだった。房姓の手練れは宮中であなた以外にいない。――房遺愛、あなたが師父の仇」

 キンッ。楊怡の手が匕首を鞘から引き抜く。魏王はわっと悲鳴を上げて腰を抜かしずるずると後ずさった。楊怡はそれを気にも留めない。匕首を構え、じりじりと歩み寄る。


 長裙の人物は細い指先で顔にかかる髪の毛を払った。その下から現れた美貌、長い睫毛に輝くような肌、女と見まがうその美貌は確かに房遺愛であった。


「さすがだ。それでは私がなぜ、洪掌門を殺めたか、龍生派の秘伝書を持ち去ったかも察しがついているのだろうか?」

「ええ、本当におぞましく、あさましく、そしてつまらない理由ね!」

 さっと楊怡の腕が伸びて胸を狙う。房遺愛は半身になってこれを回避した。楊怡は伸ばした腕を横に薙ぐ。届かない。房遺愛はすでに間合いを逃れている。


 楊怡はがむしゃらに匕首を振り回した。楊怡は龍生派関門弟子だが、武芸は一切学んでいない。学んだのは医学薬学ばかりだ。そんな楊怡が龍生派のみならずあらゆる武芸を研鑽し体得した房遺愛の相手になるはずがない。

 房遺愛は楊怡の闇雲な攻撃を一つ一つ見切って捌いていたが、やがて天を仰いで哄笑した。思わず楊怡は匕首を振るう手を止め、顔を顰めて耳をふさぐ。それは誰もがうらやむ美声ではなく、耳障りな金切り声だったために。


「つまらないだと? 何がつまらないものか! 生まれ持った自身の病を治療することの何が悪い? それなのに洪掌門は失敗を恐れ私の治療を拒んだのだ。ならば私は私自身を治療するまでのこと! 生まれながらに性をたがえるというこの病を、私は治したい。硬い筋骨も、高すぎる身の丈も、低すぎる声も要らぬ。すべて作り変えてしまいたい。ただそれだけのこと!」

 楊怡はギリと奥歯を噛みしめる。

麗人草れいじんそう月華蝶げっかちょう紫根女人花しこんにょにんか――いずれも女性を賦活する妙薬。でもそれらを服用したからといって、男が女になれるわけではない! 生まれ持った性別は変えられない。それなのにあなたは、師父から秘伝書を奪うために殺した! 自身の私利私欲のために、よくも!」


 再び楊怡が突っ込む。右手で突き。房遺愛は半身のまま立ち位置を変えてその軌道を逃れる。そこで楊怡は背中に回した左手を帯の下に差し込む。そこからもう一振りの匕首を引き抜いた。体の前後を入れ替えながら大きく横振りで突き込む。直前まで一振りの匕首だけで仕掛けてきたところへ突然の二振り目だ。房遺愛もこれは予想していなかった。その切っ先は脇腹を狙っている。

 ――取った!

 確信した瞬間、楊怡は腹部に衝撃を受けた。脇腹に突き込まれようとしていた左の匕首がその手から吹っ飛び、這いつくばった魏王の目の前に落ちた。わっと叫ぶ魏王の声と、楊怡が地面に音が重なった。房遺愛は楊怡の拙い奇襲などお見通しで、十分な間合いを詰めさせてからその腹に蹴りを入れたのだ。


 直撃を喰らった楊怡は内臓がひっくり返るかのようだ。呼吸は呼吸になっておらず、開いた口からは苦い胃液が溢れ出た。さらには血も混じっている。酷い内傷だ。

「殺しはしない。お前を殺せば、洪掌門の口伝を得られない」

 房遺愛が歩み寄る。楊怡はかろうじて手放さなかった右手の匕首を胸の前で握りしめる。一命を賭して繰り出した奇襲は破られた。もう楊怡に仇討ちの策はない。


「――おやおや、女装の男が小娘をいたぶるとは。こんな光景、あと百年は見られないね。長生きはしてみるものだ」

 間近で声。房遺愛は美貌の中に驚愕の色を浮かべ、さっと楊怡から距離を取る。楊怡も声がした方角、自身の背後を振り返った。たった三歩の位置に白衣の尼僧が立っていた。

蟾蜍せんじょさま……どうして?」

「いやなに、流螢から面倒くさい用事を頼まれたんだが、その道すがらでここに行き会ってな? いつもなら見て見ぬふりだが、さすがに私にも義理がある」

 ちらりと蟾蜍師父は視線を上げ、房遺愛を見た。房遺愛はというと、突如気配もなく現れたこの尼僧を何者だろうと怪しんでいる。うかつに動かず様子を見ているようだ。


 師父は視線をそのままに楊怡へ語りかける。

「実をいうと、洪掌門とは知らぬ間柄でもなかったんだ。それでうっかり冗談めかしてお前の師父を悪く言ってしまった。だからその詫びとしてお前を手伝ってやろう」

 さっとその手が翻る。楊怡の身体を素早く数か所点穴する。するとどうだ、腹の痛みがすっかり消えて立ち上がれるまで回復したではないか。

 房遺愛はまさか楊怡が立ち上がるとは思っていない。瞠目しているところへ、さらに師父がにやにやしながら楊怡に囁く。

「あいつの武芸は左肩に不足がある。私の言う通りにすれば奴に一泡吹かせてやれるぞ」


 囁くといっても声量はそのままで、内容は房遺愛に筒抜けだ。房遺愛はぎょっとして左肩を隠すようにした。房遺愛自身、自身の武芸にはその位置に隙があることを自覚していたのだ。それをまさか見知らぬ尼僧にいきなり言い当てられるとは。

 師父はその先を本当に小声で楊怡に囁き、腕も取ってぐるぐると動かした。楊怡が唖然とするのも構わず、最後にばしんと背中を叩いた。

「さあやれ! 教えてやるのはこの一回限りだ。私の言った通りにすれば勝てる、さもなきゃ無様に負けて死ぬ」


 バカな――房遺愛は柳眉を顰めた。楊怡は武芸ができない素人だ。それは先のやり取りではっきりしている。尼僧に自身の弱点を言い当てられたときは驚いたが、口伝だけであの小娘に自分が負けるなどあり得ない。

 戸惑った様子の楊怡だったが、やがて意を決して踏み出す。右斜め前。房遺愛もさっと一歩踏み出した。何を仕掛けてくるのか知らないが、先に潰してしまえばいい。右手を振り上げたところ、楊怡の足が地面を蹴った。土塊が房遺愛の顔めがけて飛ぶ。房遺愛はとっさに振り上げていた右手で顔面を守った。直後、楊怡が仕掛ける。逆手に握った匕首を房遺愛の左肩めがけて振り下ろす。右手を顔面の防御に回している房遺愛は左手を掲げて匕首の攻撃を受けるしかない。がっ、と楊怡の手首を押し留める。


 その瞬間、房遺愛はどっと背中に冷や汗を浮かべた。楊怡がこのまま房遺愛の腕を支点に腕を折り曲げればその肘は房遺愛の空いた胸、膻中だんちゅうを打つ。さしもの房遺愛も膻中に打撃を喰らえば気脈が乱れ、動けなくなってしまう。そこを追撃されればお終いだ。

 とっさに右手で胸を守ろうとする。が、その瞬間にびぃんと痺れが走った。何かが右肘の曲池穴にあたった。あの尼僧だ。尼僧が弾き飛ばした小石が点穴したのだ。右腕が動かない。防御できない。

 ところが楊怡は腕を曲げず、さらに匕首を押し込んできた。力技だ。その切っ先があと少しで肩に至る。房遺愛はさっと掌を返して楊怡の手首をつかみ取る。ぐいとその身体を引きながら腰を半回転、楊怡の脇腹へ横蹴りを叩き込んだ。


 楊怡の身体からメキメキと骨の砕ける音。師父はあっと叫んで飛び出し、吹っ飛んだ楊怡の身体を地面に落ちる直前で受け止めた。房遺愛はさっとその場を飛び退き左腕を押さえる。蹴りを入れた瞬間、楊怡の匕首が最後の抵抗とばかりにその手首を切っていた。房遺愛の左手に巻かれていた包帯が解けはらりと落ちる。そこにはいつか皇太子に負わされた切創痕と交わるように、新たな傷が刻まれていた。

「バカなことを! どうして私が教えた通りにしなかったんだい?」

 師父が問う。すると楊怡はその腕の中でごぼりと血を吐きながら笑った。

「あいつは、龍生派……の、仇……だから……仇討ち、は、龍生……派の、やりかた、で……」

 師父が顔を上げれば、房遺愛は見るからに焦っているようだった。負傷した左手首を押さえながら額に脂汗を浮かべている。ゆらゆらと頭頂からは湯気まで立ち上っているようだ。

「手の太陽経に、毒を入れた……陽気が、暴走する……!」


 突如、うおおっと叫んで房遺愛が飛び掛かる。毒薬には必ず解毒薬があるはず。動けない楊怡から解毒薬を奪い取ろうとしたのだ。

 師父は楊怡を抱いたまま飛び上がった。そのまま空中で脚技を繰り出すこと三手、そのいずれも房遺愛に命中した。顔と喉と胸だ。房遺愛は仰向けに吹っ飛ばされた。何をされたのか理解できなかった。再び房遺愛が起き上がったときには、二人の姿は消えていた。尼僧が軽功で連れ去ったのか。左右を見渡しても後ろ姿さえ見えない。なんという素早さか! いつの間にか魏王もいなくなっているではないか。


「オ――オオオオオオォォォォォ!」


 房遺愛の体は灼熱に包まれていた。陽気が暴走している。制御できない。このままでは自身が発する陽気で身体の中から焼け死んでしまう。解毒薬はない。ならばどうする?


 房遺愛は自らの衣服を脱ぎ捨て、素っ裸になった。その手に剣を握り締める。この暴走する陽気を鎮めるには、陽気の源を断つしかない。陽気の源とはすなわち、男性の象徴である。

 剣を振り下ろす。生き永らえるにはそれ以外になかったし、そもそも彼には不要だった。

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