七 長い夜の始まり
「……なに?」
訝る皇帝。へぇ、と師父が感嘆の声を上げる。
「おもしろいことを言うね、我が弟子は。それで? なぜそう思うんだ?」
「思い出したのです。玄武門の変を」
ぎく、と皇帝の肩が揺れた。図星を指されたようだ。
「徐恵から聴きました。陛下はもともと、皇位継承する身ではなかった。先帝が定めた皇太子を……ご自身の兄上を玄武門にて襲撃し、その地位を奪った。のみならず、それからすぐに先帝からも玉座を奪った。なにもかも今回の件にそっくりではありませんか」
「それがどうした。同じ歴史を繰り返しただけのことではないか」
「そうです。同じ歴史です。それこそが陛下の目論見だったのです。陛下はずっと玄武門でのことを気にしていたのではありませんか? もしかすると己の所業は、将来人々から後ろ指をさされるものとして歴史に刻まれるのではと恐れたのではありませんか?」
皇帝は何も言わない。否定しないということは、つまりそういうことだ。
「ですが事はすでに済んでしまったこと。今さらやり直すことはできない。ならば自分一人だけの例にならなければいい。自身の後にも同じように皇太子位を争い血を流した歴史が生まれれば、自分は史上唯一の極悪人にならずに済む」
バカな、と皇帝は口にして続く言葉が出てこない。流螢に突き付けた剣はゆるゆると垂れ下がり、そしてカツンとその先端を床に落とした。ふ、と小さく笑声が漏れる。
「よもやよもやこのような宮女ごときに朕の胸の内を見透かされるとは。……そうだ。朕は不安だったのだ。血塗られた皇位継承劇を演じた我が身が、後世どのように語り継がれていくのか不安で仕方がなかった。その不安を消そうとするあまりに息子たちを同じ道へ引きずり込んだ。ああそうだ、確かにそのような考えがあったのかも知れない。朕は知らぬ間にこの結末を望んでいたのやも知れぬな」
「クソだな」
それまで黙って聞いていた師父がよりにもよってここで口を挟む。容赦ないその一言に皇帝はちらりと不快そうな視線を向けた。先ほどから一切容赦のないこの女はいったい何者かと不思議がっているように見えた。
とにかく、と流螢は話を切り上げた。誰がこの事態を招いたのか、その責任の所在を追及すべきは今ではない。
「これ以上ここで話していても時間を浪費するだけ。腹の内を暴かれた魏王が今度は大軍を率いて押しかけるかも。皇太子も陛下を探している。三つ巴になるわ」
流螢の言葉に武才人も同意する。
「まずは陛下の身の安全を確保しなければ。私が陛下を護衛して城から連れ出すわ」
武才人の申し出に流螢は頷き、それから師父に向き直った。
「師父は禁苑へ向かってください。
「おやおや、そんな大役を私に任せてしまうのかい? 軍隊の統率なんて久々過ぎて自信がないぞ。それに私なんかの指示を禁軍が聞くとは思えないが」
「朕の令牌を持っていけ」
皇帝が腰に佩いていた黄金の牌を師父に投げる。おそらくは純金であろうそれには五指の龍が刻まれている。
「禁苑にある北衙の兵舎には
皇帝は最前師父に痛罵の言葉を投げつけられ、どうにも居心地が悪いらしい。師父もそれは理解しているようで、わざとにやにやと口元を歪めている。
「人にものを頼むときは、それなりのやり方ってものがあるのじゃないかねぇ?」
いつかのように皇帝を
「それで、あなたはどうするの?」
武才人が問う。それはすでに答えを知ったうえで、確認のためにあえて問いかけたようだった。流螢は決意を固めるように拳を握りしめた。
「私は東宮へ行きます」
ちらり、視線を東へ向ける。東宮の空は煌々とした灯りに照らされているようだった。皇太子の集めた軍勢が掲げたものだろう。準備はある、と皇太子は言った。きっと準備は万全だ。その中へ乗り込むのは困難を極めるだろう。だが、流螢はやると決めた。
「徐恵を助け出す。そして皇太子を止める」
そのとき室内に差し込んでいた西日がふっと翳った。日が落ちて、夜が来た。
長い長い夜の始まりだ。
後宮がある内廷と東宮を直接繋ぐ門はない。流螢は軽功を駆使して
明徳殿は徐恵の使いで皇太子とはじめて正式に面会した場所だ。あの時はまだ日が出ている時間帯で、人の姿も少なかった。しかしそれが今はどうだ。灯籠に照らされ、何百人もの兵士たちが整然と並んでいる。明徳殿の西、
「この国の正当な後継者は皇太子以外にあり得ない! それを皇帝は
兵士たちの中心で演説を振りまいているのは候君集だ。兵に自らの大義を語っているようだ。高揚した兵士たちは武器を打ち鳴らし、腹に響く
(これだけの軍勢がなだれ込めば後宮はあっという間に制圧されてしまう。師父は果たして禁軍の本営までたどり着けたかしら? 武才人は無事に皇帝を城外へ連れ出せるだろうか)
武才人の実力は身を以て知っているが、手負いの皇帝も一緒となればまだまだ時間はかかるだろう。それに宮内にはすでに魏王の配下がうろついているはずだ。魏王も皇太子も狙いは皇帝の玉座だ。そのためには皇帝を捕らえて譲位を承諾させようと血眼で探し回っているだろう。
候君集の兵が動き始めた。明徳殿の左右、流螢がいる西の
(北衙禁軍の到着が遅れれば玄武門は先に皇太子軍に制圧されてしまう。師父、どうか急いで!)
流螢一人ではこの大軍の進行を阻むなど不可能だ。それに最優先事項は徐恵の救出であることを忘れてはならない。流螢はさっと宙に身を躍らせ楼下の歩哨へ降り立った。
「――おい、そこにいるのは誰だ?」
その声にさっと振り向けば、歩哨を巡回していた見張りの兵が松明を掲げてこちらを伺っている。世闇の暗がりに紛れ込んではいるもののこれだけの距離では姿が浮かび上がっても仕方ない。加えてあれだけの兵が明かりを灯していれば闇も薄まる。
ここで気づかれるわけには行かない――流螢は即断即決、地を蹴って躍りかかった。見張り兵はあっと叫ぶ暇も有らばこそ、まず喉に一本指を突き込まれて声を奪われた。むせたところで腹に一撃。体ががくりと曲がる。そこへ流螢は大上段から手刀をあらわになった首筋目掛けて打ち下ろす。見張り兵はどさりとその場に昏倒した。
歩哨には兵が多い。流螢は左右を見渡して他に見張りの姿がないことを確認すると、さっと身を翻して城壁を蹴った。邁進する兵らの頭上を飛び越えて一気に東宮の中、明徳殿の裏へと降り立つ。
(徐恵はきっといずれかの宮殿に捕らわれているはず。順番に調べていくしかない)
流螢は東宮へ向かう途中で甘露殿の様子も見てきた。その死屍累々の有様にぞっとして事の重大さを再認識したが、同時に安堵もした。そこに徐恵の死体がないことを確認できたからだ。武才人は徐恵が取り押さえられているところを見たと言っていた。その場で殺さずに連れ去ったということは、何らか利用価値があると見ての事だろう。すぐには殺すまい。
北上すると
ふと、鼻につく匂いがある。流螢は警戒しながらその匂いを追った。これは線香の匂いではなかろうか。衝立を回り込み、流螢はあっと声を上げそうになった。祭壇がある。その上に人の体が横たわっている。一目で死んでいるとわかった。全身に白い布を掛けられて誰だかわからない。線香はその祭壇で煙をくゆらせていた。流螢はそっとその白布をめくり息を呑んだ。そこに横たわっていたのは称心の遺体だった。
(あの場面ではああするしかなかった。だからあなたが自ら死を選んだのを間違いだとは責められない。でも願わくは――あとほんの少しだけ、皇太子のお側にいてほしかった)
皇帝の第一子であるというだけで皇太子に封じられ、その生活を規律された。それがどれだけ本人にとっては息苦しいことだっただろう。誰もが羨む地位にあっても、それを妬まれ狙われる恐怖に怯えるのはどんな居心地だっただろう。そんな中で唯一皇太子が心を開いた相手が称心だったに違いない。皇太子は他に何も要らなかったのだ。大々的に妃を選び与えられたところで、皇太子は何の喜びも得られはしなかった。
最初から皇太子の隣にあるべき人物は決まっていたのだ。流螢自身はきっと称心の代わりにはなれない。しかしそれならば、流螢は皇太子のために何をしてやれるだろう?
うー、うー。どこかからそんな呻き声が聞こえた。流螢は耳を澄ませ、声のした方向へ走った。この場で呻き声をあげる人物など限られている。
「――徐恵!」
奥まった部屋の隅、衝立で隠された場所に徐恵が転がされていた。両手両足を拘束され口には猿轡を噛まされている。衣服の破れや血痕は甘露殿での戦いで負ったものだろうか。流螢はすぐさま猿轡を解いた。ぷはっ、と息を吸う徐恵。
「流螢! どうしてあなたがここに?」
「どうしてもなにも、徐恵を助けに来たのよ」
流螢は持参した匕首で徐恵を拘束する縄を切る。徐恵は擦れた手首をさすりながら状況を聞いた。流螢は皇帝が無事であり、武才人が護衛しながら城を脱出しようとしていること、師父が北衙禁軍の兵営へ向かったこと、皇太子廃位を企んだ主犯が魏王であったことを話した。皇帝が無事と知って安堵の息を吐いた徐恵だが、すぐにまた表情を険しくする。
「皇太子は数人の精鋭だけを引き連れて
温泉宮での攻防を思い出す。斉王の放った刺客に皇帝と徐恵はギリギリのところまで追い詰められた。相手は十分な準備をしており、こちらは不意打ちを受けた形だ。簡単に退けられるはずがない。
「ではどうすれば?」
流螢の問いに徐恵は顎に手を当て考えることしばし、やがて「これしかない、それしかない」と呟き顔を上げた。
「皇太子を押さえる。それさえできれば候君集の兵も戦意を削がれて投降するはず」
いずれにせよこの場に長居はできない。徐恵は甘露殿での一件と今の今まで拘束されていたのとで酷く体力を消耗していた。流螢は徐恵に肩を貸し崇教殿を出ようとする。
ところがその瞬間、さっと行く手に飛び出した者がいる。流螢は立ち止まって腰の木剣を引き抜いた。
「何やら怪しい影を見たとの報告があって引き返してみれば、思った通り、朱流螢がお出ましとはな!」
明鏡鎧に身を包んだその姿を流螢は馬毬試合の会場で見たことがある。観客席にいた一人、漢王
「徐婕妤を餌にすれば必ず食いつくと殿下は仰ったが、まさにその通りだったな。――殺せ!」
大喝一声、兵士が雄叫びを上げて殺到する。
「流螢、逃げて!」
徐恵が悲痛な叫びを上げる。徐恵は知っているのだ。流螢は男性に対して強い恐怖心がある。これだけの人数が一斉に殺意もあらわに襲い掛かるのを前にまともに戦えるはずがない。構えた木剣もふるふると震えている。
しかし、流螢は退かなかった。それは主の命令に対する明確な拒否だ。
「大丈夫よ、徐恵。私はついさっき、この世でもっとも畏れ多い殿方の横っ面をぶってきたところなの」
ぴた、と木剣の震えが止まる。瞬間、真っ先に到達しようとしていた兵の顎を、その懐に飛び込んだ流螢の一閃が打っていた。
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