六 龍生派関門弟子

 刹那、楊怡は弾かれたように皇帝に向けて飛び掛かった。その手には光る匕首。皇帝は後退して逃げようにも、玉卓を背にしては動けない。突き出された匕首が脇腹を抉るかと思われたその瞬間、ひらりと武才人の剣が閃き剣腹で手首を打った。楊怡は匕首を手放しこそしなかったが、狙いは逸れて龍袍の一部を斬り裂くに留まる。そこへ流螢が横合いから組み付いて押さえ込んだ。


「放して、放せ! 私があの方の仇を取るんだ! 称心さまを殺した畜生を!」

 楊怡は普段の静かな物腰からは想像できないほどの激しさで暴れた。だが武芸の腕は大したことがないようで流螢を振りほどくことはできない。武才人が帯を解き、楊怡の腕と足を拘束した。これでもう動けない。

「なんということだ……お前たち全員、朕に仇為す者どもであったか!」

「お前が何者であるかなど関係ない! 私はもう誰だって失いたくはないのに、お前は……お前は称心さまだけでなく婕妤までも私から奪おうとした! 生かしてはおけない!」

 流螢は猿轡も噛ませようとしたが、やめた。楊怡には問わねばならないことがある。

「楊怡、質問に答えて。あなたは龍生派洪掌門の関門弟子なのね? でもそれならどうして、あなたは武芸ができないの?」


 今の出来事で流螢は見抜いていた。楊怡は一切武芸ができない。皇帝に突きかかったときも、流螢に抑えられて抵抗した今も、何もかもが素人のそれだ。とても承慶殿の庭で流螢を追い詰め、皇太子を負傷させた相手とは思えない。

 楊怡はふんと鼻を鳴らした。暴れるのもやめて観念したようだった。

「確かに私は龍生派の関門弟子よ。でも洪師父は私に武芸は教えてくれなかった。身寄りのない孤児だった私に教えてくださったのは親子の情愛と学問だけ。他には何も要らなかったもの」

「ではなぜ洪掌門を殺したの?」


 流螢の問いに楊怡はキッと怒りの視線を向けた。

「私は師父を殺してなんかいない! 魏大人も殺した肺腑だけを潰す招式わざ、そんなものは龍生派に存在しない。師父は騙し討ちされたのよ! あの日、師父は客を迎えていた。耳障りな甲高い声の主で、顔は見ていない。あれは誰なのかと師父に訊いたら、忠臣の家柄だと言っていた。私が師父の亡骸を見つけた時にはそいつはもう立ち去っていて、龍生派の武芸書を持ち逃げしていた。私は師父の仇を討つために宮女として宮廷に潜り込み、この十年来ずっと仇を探し続けていたの」

 ふっ、とそこで楊怡は自嘲の笑みを漏らした。

「でももうお終いね。私は師父の仇も、あの人の仇も討てなかった……。せっかくあと少しで宿願を果たせるところだったのに」

「なるほどねぇ。私の顔をこんな風にしたのは、私が洪掌門の墓を暴いたり、弟子に手を出したなんて悪口を言ったからか。あのときは事情も知らずに、本当に悪かったよ」


 いつの間にか師父は皇帝の背後に回り込んでいた。あっと皇帝は叫ぶ間もなく膝を蹴りつけられ、再びその場に座らされる。さらには片腕を取られて自由を奪われた。

「さあ、客人のご到着だ。上手くやり過ごしておくれよ」

 何のことだ、と皇帝が問うのと同時、清寧宮の門を慌ただしく通過する足音が聞こえた。流螢はその足音を数えた。足音は五人分、しかしうち四人は何か重いものを担いでいたらしい。それを地面に降ろすと。六人目の足音が聞こえた。先の四人は輿を担いでいたのだ。その六人目と、担ぎ手ではなかった一人が正殿に向かってくる。


父皇ちちうえ! ご無事でしたか!」

 駆け込んできたのはでっぷりと太った中年の男。流螢はこの男を見たことがある。馬毬試合の観戦席で菓子をほおばっていた、おうたいだ。

青雀せいじゃくか。なぜお前がここに?」

 青雀とは魏王の幼名である。

「兄上が謀反を起こしたと報せを受け、急ぎ駆け付けた次第です。父皇がご無事で何より。怪我を負われたのですか?」

 魏王が今しがた楊怡が裂いた龍袍の破れ目を指して問う。師父がギリと腕を捻り上げると皇帝はやや顔を歪めて答えた。

「いや、大したことはない……。それよりもあいつは、承乾しょうけんはどうした」

 承乾とは皇太子の名である。魏王はその問いにどんと拳で胸を叩いた。

「ご安心ください。父皇が児臣わたしに兵権を委ねてくれさえすれば、ただちに兄上を……あの逆賊を捕らえてみせましょう! 兄上が候君集を味方につけたところで、父皇の北衙禁軍にはかないますまい。ハハ、ハハハ!」


 ――瞬間、流螢は雷撃に身を貫かれたかの如き感覚に襲われた。この声を知っている。この笑い声を知っている。あの日、あの場所で、確かにこの耳で聞いた!

「お前だ――お前があの日、承慶殿で話していた奴だ!」

 突然荒々しく声を上げ指を突き付けてきた宮女に、魏王はあからさまに不快そうな表情を向けた。侮蔑するように舌打ちを漏らす。

「なんだこいつは。この私が承慶殿にいた? それがなんだ?」

「お前が刺客と取り引きをして、皇太子を負傷させた。私はその場にいた!」

「なにをバカな。承乾兄上が脚を負傷したその日なら、吾輩わがはいは承慶殿になど足を踏み入れておらん。つまらぬ妄言を吐いて、貴様はいったい何者なのだ!」


 流螢の決断は早かった。即座に翻って皇帝の前にひれ伏した。先ほどまで皇帝を皇帝らしからぬ扱いで痛罵していた宮女が急に自身の前で平伏したので、皇帝は面食らって瞠目した。

「今こそ陛下に申し上げます。我が名は朱流螢――しかし真の名は、飛麗雲! あの夜、皇太子に命を救っていただいた織錦坊しょくきんぼうの卑しい宮女にございます」

 皇帝は目を見開いた。

「バカな! あれには死罪を命じたはず」

「徐恵と魏大人の計らいにより死を偽り生き永らえたのです。それもこれも、皇太子を陥れる敵を探し出すため。そして今! 陛下に申し上げます。私があの夜聞いた、皇太子を失墜させようと企んだ者の声……それはこの魏王のものです!」

 流螢の指が魏王を示す。魏王はぶるりと巨体を震わせて後退った。

「そんな、まさか! お前があの――」


 それはただ一言の、しかし決定的な失言だった。魏王が悟ったときにはもう遅い。皇帝の双眸がギラリと光った。師父がさりげなく腕の拘束を解けば憤怒もあらわに立ち上がる。一歩前に踏み出した。魏王はさらに一歩引く。

「この宮女があの――その続きは何だ? あの時の女だとでも言いかけたか? お前が本当に承慶殿にいなかったのであれば、そのような言葉が出てくるはずがないではないか」

「あ、あ……」


 やはり間違いない。皇太子廃位を目論んでいた真の黒幕は、この魏王だ。

「殷徳妃の死には不審な点があった。侍女に運ばせたばかりの含桃サクランボを一口も食べなかったし、わざわざ苦痛を伴う毒を選ぶとは思えない。それに……そうだ、あの方の後ろ盾を失った、とも言っていた。それはあなたのことですね、魏王。あなたは自らが立太子されたあかつきには斉王を都へ呼び寄せると、そう殷徳妃と約定を交わしていたのでは?」

「なにを根拠に、そんな! そんな……」


 魏王は弁明の言葉を探そうとして、しかし何も見つけられない。その狼狽ぶりが余計に疑惑を確信へと変貌させていく。魏王の顔からみるみる血の気が引いていく。皇帝の顔にいよいよ怒気がみなぎる。

「お前が承乾を陥れたのか! 女王武氏の予言も、称心との関係も、お前が奴を貶めるために朕の耳に入れたのか!」

「う、うわぁぁぁぁぁ!」

 否定しないのはすなわち肯定。魏王は大喝一声、腰の剣に手を掛けた。すらりと引き抜き皇帝の胸に突きかかる。

「玉座を寄越せ!」

「貴様なんぞに渡せるものか!」


 チィィィンッ! 金属音が鳴り響き、魏王の剣はその手を離れて真上に飛んだ。武才人が放った下からの払い上げでもぎ取られたのだ。武才人がさらに追撃を仕掛けようとしたところ、横から別の剣が割り込む。魏王に付いて正殿に入っていた配下の者だ。

楚客そかく、よくやった。吾輩が逃げるまで持ち堪えろ!」

「殿下、早く!」

 魏王は身を翻して逃走を図る。武才人はさらに剣を振るって楚客なる人物を攻め立てる。流螢は以前に候君集から聞いた話を思い出した。魏王府長吏の楚客は文人でありながら武芸に秀でると。

「杜楚客! ここで抵抗するは損だとなぜわからぬか!」

 魏王の手から離れた剣を皇帝の手がはっしと空中で掴む。武才人が杜楚客の左から攻め、皇帝は右から攻める。二人を相手にしながら、しかし杜楚客は焦る様子もなく応じている。


「――違う、こいつじゃない」

「流螢、これを!」

 師父が庭先から木剣を拾って流螢に投げる。流螢はそれを受け取るなり杜楚客の真正面から振り下ろした。ガン、と受けられたところで剣を下に潜り込ませ、払い上げる。空いた顔面に左拳を叩きこむ。『飛来蛟』の招式わざだ。これが決まるということは、この杜楚客は承慶殿で出会った刺客ではない。

「そ、その技はあいつの……」

 よろけたところへ皇帝と武才人の剣が襲い掛かる。杜楚客は両腕をざっくりと斬り裂かれ、鮮血を噴いてその場に仰臥した。死んではいない。だが腕を斬られた衝撃で気を失ったようだ。


 パチパチパチ。師父が他人事のように手を叩く。

「見事な連携だ。一方でちょっと困ったことがある。今のどさくさに紛れて楊怡が逃げてしまった」

 楊怡が転がっていた場所にはバラバラに千切れた帯が散らばっているだけで、楊怡の姿はない。杜楚客を相手にしている間に中庭の方角から逃走したようだ。楊怡の武功では帯を裂くことなど不可能だったはずだが。

 流螢はちらりと師父を見る。ばっちーん、とまだ腫れたままの片瞼を閉じる師父。これで本人は洪掌門を侮辱した罪滅ぼしのつもりだろう。流螢は心中息を吐いた。


「朕の息子は、なんと恥知らずばかりか。承乾のみならず青雀までもが朕を裏切るとは」

 皇帝の口から深々と息が漏れる。その口元がふと、笑んだように見えた。

「……恐れながら、陛下」

 流螢は皇帝の前へ。もはやこの期におよんで貴人を直視しない作法など気にも留めない。真正面から皇帝を見下ろした。


「これは他ならぬ陛下ご自身が望んだ結果では? 皇太子の真の敵は、陛下だったのではありませんか?」

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