五 女と政治

 流螢は反射的にその場を飛び退き、身構えてから剣の持ち主を見た。そして驚いた。予想もしなかったその人物は、比武召妃予備試験で抜群の成績を修めた妃嬪――武才人ではないか。しかもそれだけではない。左肩では負傷した人物を一人支えている。流螢はその人物の衣服に見覚えがあった。間違いない。承慶殿で見たあの衣装は、皇帝ではないか。


「……匿ってちょうだい」

 呼吸を乱しながら武才人が言う。こちらも服の所々が斬り裂かれ血が滲んでいるものの、目立って負傷しているようではない。あれは誰かの返り血か。

「どうしてあなたが……陛下の身に何が?」

「端的に言えば、皇太子が謀反した」


 ――瞬間、流螢の世界から一切の音と光が消えたようだった。流螢本人には長い時間のように感じられたが、現実は一瞬だったらしい。

「それは一大事だ。とにもかくにも、まずは怪我人を座らせようじゃないか」

 師父の声で流螢は現実へ引き戻される。武才人の肩から皇帝を預かり、師父と二人で玉卓の前へ座らせる。皇帝は息が浅く随分と消耗しているようだったが、意識はあった。

「あのバカ息子め……朕が挽回の機会を与えてやろうと苦慮していたところに、兵を伴い押しかけるとは!」

 皇帝の平手がバンと玉卓を打つ。指先に付いていた血が跡を残して伸びる。流螢はもはや気が気でない。

「教えてください。甘露殿で何があったのか。私たちの主、徐恵はどうなったのか。甘露殿へ陛下を訪ねて行ったはずです」

「私が話すわ。陛下は体を休めていてください」

 うむ、と頷いて皇帝は手を振った。武才人は血濡れた剣を玉卓に置き、流螢らを部屋の隅に集めた。


「私も徐婕妤と同じく、皇太子の窮地を知って陛下に温情を持って対処いただくように願い出ていた。そこへ当の皇太子が称心さまの件で陛下に謝罪すると言って甘露殿に入り、いきなり剣を抜いて襲い掛かったのよ。運悪く私たちと話すために陛下は人払いしておられたから、身辺を守る人がいなかった。幸いにして徐婕妤がとっさに割り入って奇襲を防ぎ、陛下の命は守られた」

「陛下は皇太子を許すおつもりだったの?」

 ちら、と気づかれないように視線を皇帝に向ける。武才人は小さく頭を振った。

「徐婕妤の説得の賜物ね。私が到着したころにはもうほとんど心を決めておられた。それなのに皇太子はなんてことを。武力で以て譲位を迫るだなんて!」


 武才人が大きく頭を振る一方、流螢はさっと顔面を蒼白にした。

(流螢よ流螢、お前の過ちだ! 皇太子には謀反を起こすお心があったと、その準備はすでに整っていたと徐恵に話すべきだった。そうすればこんな事態を招かないように取り計らってくれただろうに!)

 流螢が焦りの色を見せるのを、武才人は徐恵を案じてのことだと思ったらしい。

「皇太子は脚の傷が原因で早く大きくは動けない。徐婕妤に阻まれて皇太子は唯一の奇襲の機会を逃した。だけど皇太子は密かに兵を配し甘露殿を取り囲んでいた。駆けつけた陛下の護衛もそれを迎え撃って、たちまち甘露殿に血の雨が降ったわ。私たちは陛下を連れて裏から逃げようとして、それを皇太子とその配下の者が追いかけた。候君集や李元昌といった手練れたちよ。徐婕妤は……徐婕妤は私たちを逃がすため、自らその場に残ったの」


「そんな!」

 流螢はふっと脚の力が抜けそうになり、慌てて壁に手を突いた。

「それで……それで徐恵はどうなったの? まさか、死んだの?」

「死んではいない。候君集に取り押さえられていたのが見えた。助けに行くべきかと迷ったけれど、私も兵に囲まれて、陛下と活路を開くのに必死だったからそれはできなかった。とにかく安全なところを探して気づけばこちらへ向かっていた。あなたならきっと力を貸してくれると思ったから。あなたも魏大人と協力して皇太子の敵を探っていたのでしょう?」

 囁くように発せられた後半の内容に、流螢ははっとして目を見開いた。


「どうしてそれを? それではまさか、あなたが?」

 問いの形になっていない流螢の言葉を、しかし武才人は読み取って頷いた。

「私は女王武氏の予言を封じるため、魏大人と取り引きした。比武召妃に関連して怪しい動きを見せる妃嬪がいないか探ること、その代わりに女王武氏の身代わりを探してくれると。魏大人は確かに李君羨という身代わりを探し出した。だけれど動きを読んでいた敵側に先手を打たれ殺されてしまった。あの調書を処分される前に回収できたのは幸運だった。後になって李君羨の調書を徐婕妤が持って行ったと知って、あなたたちが味方だと知ったのよ」

 あの日、弘文館の執務室で出会った白衣の人物は武才人だったのか。徐恵が示唆していた皇太子側のもう一人の協力者とは、彼女のことだったのか。


「――話は済んだか?」

 話が途切れる頃合いを待っていたのか、自身で止血を施した皇帝がやや苛立った様子で問う。

「あの叛徒どもが勢いに乗るよりも先に北衙ほくが禁軍きんぐんを動かさねば。誰か太監はいないのか? 急ぎ勅令を伝えるのだ。東宮を焼き討ちにする」

 はっと息を呑んだのは流螢だけではない。武才人もまた、皇帝の発した最後の一言に驚愕を隠し切れないでいる。

「東宮を焼くと、そう仰ったのですか? 相手は陛下の血を分けたご子息なのですよ?」

「知ったことか。あの廃物クズが先に朕を裏切ったのだ。容赦するものか」

「徐恵は東宮へ連れ去られたのかも知れません。まずは助け出さなければ」

 流螢の進言に皇帝はふんと鼻を鳴らす。

「この状況でたかだか一人の妃嬪を気にかけてはおれぬ。徐婕妤は朕を守る大義を果たした。ここで命を落としても本望であろうよ」


 ――直後、乾いた音が弾けた。皇帝の頭に乗っていた冠が宙を舞って部屋の隅に転がる。皇帝は呆然として自らの頬に触れた。みるみるうちに赤く腫れあがる。武才人も呆気に取られて立ち尽くし、師父はニヤニヤと微笑を浮かべて見ていた。

「徐恵はあなたの妃ではありませんか。あなたが守って差し上げるべき女子ではありませんか。それを……それを、死んでも本望だろうと? ふざけないで!」

 流螢は自身が何をしたのか自覚していた。それでもなお、収まりが付かなかった。振り抜いた平手を胸に抱き、ギリと奥歯を噛み締める。

 皇帝が震えながら流螢を指さした。

「き、貴様……宮女風情が朕に意見したばかりでなく、手を上げるとは。なんと大胆不敵な輩か! 妃嬪と言えど女一人、何を騒ぐことがある? そもそもあれは温泉宮の一件で、朕のために死ねるならば本望とその口で言ったのだぞ」

「だからといって本当に見殺しにする道理がありますか! あなたにとっては百人を超す有象無象の妃嬪の一人でも、私にとってはかけがえのない友人なのです。それをあなたは、よくも!」

「女は男のために生きるものぞ。往年の文徳皇后とて朕の命とあれば喜んで命を投げ出したろうよ。貴様は『女則』を読んではおらぬのか」

「徐恵は徐恵です。文徳皇后ではありません。『女則』が何ですか!」

 ズダン! 流螢は気が高ぶるあまりに強く床を踏みしめた。皇帝の驚くまいことか。踏みつけられた床がくぼんでしまっている。なんたる内功の深さ!


 流螢の口はもはや留まるところを知らない。

「文徳皇后は陛下に尽くすことこそが自身の幸福だったのでしょう。しかし私たちは違う! 私は私のために生きるのです。徐恵は徐恵のために生きるのです。何人たりともそれを阻んでよい道理などありません! 徐恵の望みは陛下のために死ぬことではなく、陛下の隣で生きることです!」

「宮女が、よくも言ったな! ――武才人、この者の首を討て! こやつも朕に逆らう反逆の徒だ!」

 皇帝の命令は絶対である。武才人は歩み寄り、玉卓の上に置いていた剣を手に取った。その剣先を流螢へ。流螢はぐっと小さく腰を落として身構える。ここで大人しく斬られるほど流螢は潔い人間ではない。この場を逃れ、徐恵を助けに行かなければ。


 そこでふと、武才人はひらりと剣を翻した。その剣先を皇帝の肩に乗せる。その場にいた誰もが、師父も含めて目を見開いた。

「武才人、何をする? 貴様まで気が狂ったか?」

 皇帝の問いに武才人はほほ笑む。その容貌はこの世のものとは思えぬほど美しく、そして恐ろしかった。

「いいえ、陛下。私は正気です。私は元来、男だから女だからと人に左右されることがこの世でもっとも憎たらしいのです。私が武芸を身に着けたのは、両親の死後私をさんざん虐めた従兄弟に対抗するためでした。一度ぶん殴ってやったら、ふん、血相を変えて私を後宮に送り出しましたわ。――陛下、私は流螢の意見に賛同いたします。徐婕妤を見殺しにすることは、いずれ彼女と対戦する相手である私が許しません」

「小娘が、朕を弑するつもりか! 今この状況でそんなことをすれば国が潰れるぞ! それとも貴様ら女に政治がわかるとでも?」


 皇帝の問いに武才人は声を上げて笑った。ぞっとするほど妖艶で、ぞっとするほど恐ろしい声で。

「女は子を産むことができます。女は文字を書くことができます。女は馬に乗ることもできます。そして陛下ご自身が、我々女は武芸もできると証明する機会を与えてくださった。それなのになぜ、女にまつりごとができないなどと決めつけるのです? ならばいっそここで陛下を斬り捨て、私が皇帝となり、女に政治ができるかどうか証明してみせましょうか」

 流螢の脳裏にあの一節が蘇る。――曰く、国三代にして女王立ち、李に代わり武が栄える。あの予言は世迷いごとなどではなく、真実を言い当てていたのだろうか。


 しばしの沈黙。それを破ったのは厨房から顔を出した楊怡だった。

「皆さま落ち着いてください。状況が状況だけに、知らず気が立っているのです」


 そういえば師父が、楊怡は点穴を解いてやってからはずっと厨房にこもっていると言っていた。この騒ぎはどこかの段階から聞いていたのだろう。玉卓に茶壺と茶杯を運び、落ち着いた仕草で注ぎ始めた。

 武才人は剣を引っ込める。それでもなお、武才人と皇帝は睨み合っていた。楊怡は皇帝の隣に膝を突き、湯気立つ茶杯を差し出す。

「陛下、どうかこの瓜廬かろを飲んで怒りをお静めください」

 皇帝はようやく武才人から視線を外し、楊怡の差し出した茶杯を受け取る。ふわりと湯気が立ち上り、流螢の鼻にもその茶の香りが漂った。


(瓜廬……?)


 皇帝が茶杯に口を付けようとする。刹那、流螢の中で何かが閃いた。

「いけません! それを飲んではダメ!」

 言うなり皇帝の腕を掴む。知らず脈どころを押さえてしまったため、皇帝の手から力が抜ける。落ちそうになった茶杯を流螢はさっと反対側の手で受け止めた。

「貴様、この期におよんでまだ朕に逆らうか……!」

 皇帝が何か言うのを無視して、流螢は茶杯を覗き込んだ。一見すれば何の変哲もない茶だ。だがその表面をよく見れば薄く膜が張っている。これは水を激しく煮立てた際に浮かぶもので、本来ならばこの状態になった湯は茶を淹れるのに使わない。そう流螢に教えたのは他でもない楊怡だ。


 流螢は楊怡に茶杯を差し出し、震える声で言った。

「あなたが先にこれを飲んで。陛下にお出しするのはその後よ」

 その意味するところを皇帝はすぐに察した。

 そもそも楊怡が皇帝に茶を出すということ自体が妙なのだ。皇帝は称心を自死に追いやった張本人である。先刻あれほど泣き叫んでいた楊怡がどうして皇帝をもてなすことなどできようか。それにこの瓜廬茶は称心から楊怡へ送られたもの。それを憎き相手に出す理由など一つしかない。


 楊怡は茶杯を受け取り、口元に運び、そして――その中身を投げ捨てた。

「どうして、邪魔するのよ」

 ふらりと揺らぐ湯煙のように立ち上がる楊怡。落とした茶杯が床で割れた。

「こいつが死ねば、私は留飲を下げることができる。あなただって、誰にも邪魔されずに徐恵を助けに行けたのに」

 ああ、と流螢の口から息が漏れた。信じたくはなかった。何かの間違いだと思いたかった。だが気づいてしまったのだ。

「……厨房には茶葉だけでなく、薬草もあった。師父の顔にあなたは茶をかけて、それから師父の顔は腫れた。その腫れに対処する薬をあなたは調合された状態で持っていた。あなたはただの宮女にしては医薬学に通じすぎていた」

 それが意味するところは、つまり。


「楊怡――あなたが龍生派の関門弟子だったのね」

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