四 沈む心、荒れる夜
悲痛な声を上げ、楊怡はその場にぺたりと座り込んでしまった。
「称心さまが……そんな、どうして称心さまが……!」
それ以外の言葉を忘れてしまったかのように何度も何度も繰り返している。流螢が助け起こそうとするとその腰にしがみつき、あべこべに流螢を押し倒しそうになる始末だ。
「称心さまは皇太子を思えばこそ、あのような行動を取られたのよ。さもなければ二人の関係は勘ぐられたまま、皇太子の立場を悪くしてしまうから」
「それがどうしたというの? 何が悪いの? 皇太子が女性を愛そうが男性を愛そうが、お世継ぎさえできれば誰だって構わないでしょうに! 皇帝はそんなこともわからないほどに目が曇ってしまわれたのかしら!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら縋りつく楊怡をなだめつつ、流螢はぎょっとして徐恵を見た。楊怡の今の言葉は言いすぎだ。清寧宮以外の人間に聞かれたなら不敬罪に問われかねない。だが徐恵は楊怡を咎めることなく、しかしなんと言葉をかけてやればよいのかも探しあぐねているようだった。
おいおいと泣き叫んでいた楊怡が急に静かになり、流螢の腰からも離れてぐっと身体を丸めた。胸をぎゅっと掴んでうーうーと呻き始めた。呼吸が乱れ、息は掠れている。強い感情は肉体にも影響を与える。大きすぎる悲しみが肺を損傷させているのだ。このままではいずれ深い内傷を負い、文字通り胸が裂けてしまうだろう。流螢はこれもやむなしと、楊怡にさっと数か所点穴を施した。たちまち楊怡の意識は昏睡し、ぐたりと身体から力が抜ける。手荒いやり方だが、流螢も徐恵も、想い人を突如失った人間をどのように落ち着かせればよいのかわからなかった。
流螢は楊怡を寝床へ運び入れた。点穴は数刻で解けるが、おそらくはそのまま朝まで眠るだろう。そのころには多少なり心が落ち着いていることを願うばかりである。
「擂台試合の裏側でまさかそんなことが起こっていただなんて」
徐恵は玉卓に上体を預けながら深い息を吐いた。玉卓の上には豪華な料理が並べられている。楊怡が二人の一回戦通過を祝して準備してくれていたのだ。そこへ暗い表情の流螢が戻ってきたものだから、当然何事かと問いかけた。流螢はあまりの出来事にありのままの事実を伝えてしまい、先ほどのような惨事になってしまった。
「皇太子はその後、どうなったの?」
「ひたすらに哀哭されているのを兵士に引きはがされて、そのまま東宮へ連れて行かれた。ただ去り際に陛下へ……その……」
流螢は言い淀み、肩に頬を擦りつけた。果たしてこれは徐恵に伝えてもよいものだろうかと。すると徐恵はある程度察したらしく、深く頷いて流螢に先を促した。
「殺してやる、と言って睨みつけていた。陛下はとくに表情を変えたりはしなかったけれど、ずっと皇太子を睨み返していた。――ねえ、皇太子はこれからどうなるかしら?」
わからない、と頭を振る徐恵。
「こればかりはもう、どうなるか予想もできない。これまでは殷徳妃が話されたように、陛下は皇太子を廃位しないご意向だったかもしれない。実際、称心さまを処刑せよと命じられたのは皇太子を皇太子たらしめるため。廃位しないための計らいだった。だけれど皇太子はその命令に背いたばかりか、明らかな簒奪の意思を示した。皇太子の位に不適当と糾弾されるには十分すぎる。そればかりか、厳格に処罰される可能性さえある」
それは、と流螢は息を呑む。皇帝に対する害意があり、さらにはそれを実行できるだけの権力を持っている。そんな人間を流刑や幽閉だけで済ませるはずがない。
「
「どうにかできないの? せめてお命だけでも助ける方法は?」
「皇太子次第、ね。陛下の命令に逆らったこと、暴言を浴びせたことを謝罪して、謀反など一切企んではいないのだと示すことができれば……
ギクリ。流螢は自身の身体がこわばるのを自覚し、何とかそれを徐恵に悟られないようにと意識して弛緩させた。ほっ、と息を吐いてわざと安堵したように見せる。命が助かる方法があってなによりだ、と。
だが実際は真逆だ。
(皇太子は本当に謀反を計画していた。直前に中止の意思を決められたけれど、準備を整えていたことはまぎれもない事実。身の潔白を証明だなんて、できるはずがない。どうする、どうする? 徐恵にすべて話してしまう? 皇太子は本当に陛下を弑する意思があったと。そのうえで命をお助けする方法はないのかと、無理難題を投げつける?)
「流螢、どうしたの? 頬が真っ赤よ?」
気が付けば右頬を赤く擦り切れんばかりに肩に擦りつけていた。訝る徐恵。まさか心の内を読まれたか。危惧する流螢とは裏腹に、徐恵は「これがいい、それがいい」と頷いた。
「幸い、承慶殿にいたのは皇太子と陛下、流螢の他には禁軍兵だけだったのよね? 事が公になる前にすべて、今夜のうちに片をつけましょう。私は
善は急げとばかり、徐恵はさっさと清寧宮を出て行ってしまった。流螢は皇太子の叛意についてとうとう言いそびれた。できなかったことは仕方がない。流螢は一度それについては胸に仕舞い込み、言われたとおりに清寧宮の銀牌を手に東宮へ向かった。
ところが東宮は厳重に警備されており、東宮へ至る門のすべてが閉ざされ禁軍兵たちが見張っていた。銀牌を見せて通すように頼んでも「陛下のご命令だ」の一点張りで通してくれない。皇帝直々の命令はこの世でもっとも優先されるべきであり、妃嬪の権限では覆せない。ならば城壁を乗り越えて侵入するかとも考えたが、遠めに見ても歩哨の数が多い。気づかれないように侵入するのは困難であろうし、万が一にでも見つかればそれこそ皇太子に対する要らぬ疑惑を生じさせかねない。
どうすべきか流螢では判断がつかない。しばらく東宮を遠めにぐるぐると歩き回ったあげく、清寧宮へ戻ることにした。もしかしたらもう徐恵は戻っていて、また知恵を授けてくれるかもしれない。
そう期待していたのだが、帰り着いた流螢を待っていたのは思わぬ人物だった。
「ここはいつでも留守だなぁ。これじゃあ客人が来ても十分なもてなしができないのじゃないかい?」
玉卓の前に腰かけ我が物顔で居座っているのは、顔面にべったりと粘液のようなものを塗りつけた怪人だった。流螢は一瞬悲鳴を上げかけて、直後にそれが何者であるのか理解した。
「誰かと思えば、師父だったんですか。今度はドブに顔を突っ込んだとか?」
「お前ってばやっぱり私のこと嫌いだよね?」
何をいまさら言うのだろう。
師父は卓上に置いた小瓶に指先を突っ込み、そこからすくい上げた粘性の何かを顔に塗りつけている。それでようやく、あの顔面のてかりは軟膏によるものだと理解する。
「うっかり道に迷って、ついさっきようやく着いたんだ。そうしたら誰もいないし、奥にはあの小娘が点穴されて寝ているじゃないか。あれはお前がやったのかい? 随分と下手な点穴だね。ちょいとつついただけで解けたじゃないか」
「楊怡を起こしたんですか?」
また悲観に暮れて泣き叫んでいるのではないかと危惧した流螢だが、師父は「それがどうかしたのか」と言わんばかり、大げさに首をかしげて見せる。
「元々私は薬をもらいにここへ来たんだ。起こして何が悪い? 確かにあの娘は不機嫌そうだったね。薬をくれと言ったら顔も見ずに厨房の棚からこれを投げてきたよ。主人がいなければあんなにも不愛想になるものなのかね。薬を塗ってもくれずに、自分は厨房にこもりっきりだ。――で、腫れは大分ましになったかな?」
師父がぐいと顔を突き出せば、瞼の腫れは昼間に見たときよりもずっと収まっている。開けられないほど腫れていた左目もすっかりものを見られるほどに回復していた。
「明かりの中で見ればまだ人間に見えます」
「お前ってば本当に言うようになったよね」
やれやれと肩をすくめながら師父は軟膏の瓶に蓋をする。その瞬間、流螢の頭で何かが引っ掛かった。何か、妙だ。具体的に何がとははっきりしないが、とにかく気になった。
あれほどの効果がある軟膏を、楊怡はなぜ持っていたのだ? それも、厨房の棚に置いていたのだ?
考え込んだのもつかの間、流螢の背後で誰かが荒々しく扉を開けた。徐恵が帰ったのだろうか。振り返る流螢。
その目に入ったのは徐恵の衣に刺繍された青い花ではなかった。剣からしたたる赤色だった。
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