三 最後の奉仕

 体が脱力する。自由が利かない。あっと声を発するより先に、今度は穴を突かれた。喉からはかすれた息しか出てこない。


「ご容赦を。ここにいたことが知られるとマズい」


 耳元で囁く美麗な声。流螢は目玉だけを動かし、力を失いくずおれた身体を受け止める相手の顔を見上げた。下からではその横顔もよく見えないが、その整った輪郭は一人しか知らない。房遺愛だ。

 どうして――問いたくても声は出ない。房遺愛は流螢の肩を強く抱きつつ、左手を掲げた。怪我でも負ったのか包帯を巻いたその腕で皇太子らの方角を指し示す。


 皇太子らが腰かけるちんの先、承慶殿の裏口からそろりそろりと姿を現す者がいる。それも一人や二人ではない。ぞろぞろと十人以上も出てくるではないか。さらには直接外と通じる門からもガシャガシャと鎧を揺らして兵士たちが駆け込む。このときにはもう皇太子と称心もただならぬ空気を感じ取って警戒していた。

「何者だお前たちは。何の用だ!」


 皇太子が問うのにも構わず、兵士たちはたちまち亭を取り囲む。緊迫した様子だが、兵士たちは武器を抜いてはおらず、敵意らしきものは感じられない。だが皇太子らがその場を動くようであればたちまち取り押さえるのだろうと容易に察することができる。

「ここは私の母が暮らした宮殿だぞ。息子の私が入り込めば罪だとでも言うのか」

 皇太子が凄んでも兵士らはうろたえもしない。整然とただその場を守っている。むしろそちらにこそ皇太子は気圧されているようだった。

「殿下、彼らは北衙ほくがではありませんか?」

「なんだと?」

 北衙禁軍は皇帝直属の近衛兵だ。その兵卒を動かすことのできる人間は当然ながら皇帝以外にない。


 皇太子が顔を上げた先、君主の衣冠を纏った人物がそこにいる。

「お前の妃を決める催しに、お前がいないとはどういうことだ?」

 亭を包囲していた兵士らはさっと道を開け、その場に片膝を立てて頭を垂れる。称心も皇太子も慌ててその場にひざまずいた。皇帝のとても落ち着き払ったその様子は、まるで岸壁を背負っているかのような圧がある。あれが帝王の覇気とでも言うものなのだろうか。誰もが否応なくひれ伏してしまう、そうさせるだけの強制力。

父皇ちちうえにお目通りいたします」

「顔を上げろ。ちんは理由を問うているのだ」


 皇帝の語気は厳しい。皇太子は顔を上げつつも正面から皇帝を見れずにいる。

「今日の試合は半分のみ、妃が決まるのは明日です。私が立ち会うのはその日だけでも十分でしょう」

「お前が東宮に留まっていたなら、その言い分も聞いただろう。お前は脚が悪く、むやみに出歩くべきではないからな。だが実際はどうだ? ふらふらと勝手に出歩き、またもこの男と親しげに!」

 怒れる指先で称心を指す。称心は未だ頭を伏せたままだったが、皇帝はその上から言葉を浴びせる。

「朕は警告したはずだぞ! この男を側に置き続ける限り、お前の周囲に蔓延る根も葉もない噂は消えぬのだと。その関係が潔白であるならば、この者の首を刎ねて証明せよと!」


 流螢の驚くまいことか。皇太子と称心の関係は宮中でもはや知らぬ者なしの噂になっている。多くは女王武氏の予言と同じ、皇太子を陥れるための根も葉もない流言飛語と考えている。とはいえ火のないところに煙は立たぬ。実際に皇太子と称心の親密ぶりは明らかであったし、それを見た人間は「あれは本当だった」と吹聴しただろう。結果、噂は日に日に真実味を帯びてゆき、今では事実同然に語られるに至っている。比武召妃の参加者も何名かその話を聞いて病を偽り棄権したとか。


(確かにあの噂は放置してよいものではなかった。でもだからといって、人を一人、称心さまを殺せだなんて! それも、皇太子自らだなんて!)

 なんと非常なことを命じるのかと、流螢はまず皇帝に対して怒りを覚えた。だがよくよく考えてみると、それは理にかなっているようにも思えるのだ。

(他の誰かが皇太子と称心さまを引き離したのでは、それこそ噂は真実だったのだと誤解されてしまう。あれは根も葉もない妄言なのだと示すには、皇太子ご自身が称心さまを遠ざけなければ。それもただ遠方に追放する程度では温情をかけたのだと思われる。まったくの身の潔白を証明するには、確かにそれしか方法がない)

 本当にそれしか方法はないのだろうか。流螢は頭の中で別の解決策を模索したが、そんなものがこの学のない頭で出てくるようなら、聡明な皇帝はとうにそれを見出していただろう。


「それについては、すでに申し上げたはずです……!」

 苦渋の中から皇太子は絞り出す。拳を強く握りしめ、肩が震えている。

「称心は私の知己です。誰よりも私を理解している、信じるに足る臣下であり、友です。父皇にだって、長孫ちょうそん大人やぼう大人、王太監だっているでしょう。それと称心と、いったい何が違うと言うのですか!」

「長孫無忌むきは身内だ。房玄齢げんれいは臣下だ。王は従僕だ。だがこの男はどうだ? 元は少林寺の僧侶だったくせに、還俗して仕官したのはなぜだ? 朝議に出るときも、猟に行くときも、片時も離れないのはなぜだ? さらには毎晩のように寝室へ招き入れているそうではないか。これを疑わずにいろと言うほうが無理な話ではないか!」

「それのいったい何がダメだと言うんだ!」


 吼えた皇太子が一歩踏み出すと、たちまち北衙禁軍兵らが立ちはだかる。ズズ、と皇太子は右足を引きずりながら彼らを睨みつけ、そして皇帝をも睨みつけた。

「私が辛いとき、悩んでいるとき、苦しんでいるとき――あんたは何をした! 伯父を殺し、従兄弟たちを殺し、私が大切にしていた何もかもを奪い取ったくせに! お前のような人間の子であることを、その呪われた地位を将来受け継ぐことを決められた憐れな人間を、慰めてくれたのはこの称心だ! これは私の従僕だ、臣下だ。そして身内であり、もはや私の一部なのだ! それを奪い取ろうとする者がいるのなら、私はそいつを殺してやる!」

「愚かな!」

 皇帝の表情に怒気がみなぎる。傍らにいた禁軍兵の腰に手を伸ばし、提げた剣を引き抜く。禁軍兵も即座に剣を抜いてその切っ先を皇太子へ向けた。


「――お待ちください!」

 一触即発、この緊迫した空間で全員の動きを止めたのは、称心の声だった。顔は伏せたまま声を張る。内力に満ちた声は十分に響いた。

「陛下、お待ちください。皇太子は酒に酔っておられるのです。私が勧めたのです。そこを突然このように兵に取り囲まれ、気が動転しておられるのです。どうかここは私に皇太子を説得させてはいただけませんか」

「私は正気だぞ」

 言いさした皇太子の足首を称心はさっと掴んだ。皇太子はそれで激情に駆られるのをやめ、いくらか冷静さを取り戻したようだった。それ以上の口は挟まず皇帝へ視線を向ける。


 皇帝は深く頷いた。

「いいだろう。お前の口から、その首を刎ねるよう願い出るのだ」

 皇帝は引き抜いた剣を称心の眼前へと投げた。ガシャン、とその音は重く響く。称心が顔を上げて立ち上がるのと同時、禁軍兵らは剣を構えたままじりじりと半歩後退した。


「私は聴かぬぞ。聴くはずがないではないか」

 投げられた剣を拾い立ち上がる称心へ、皇太子は奥歯を噛みながら言う。称心は頭を振ってその肩を掴む。先ほどと同じように、教え諭すように。

「殿下、人の上に立つ者は、正直でなければなりません。先ほどはどうしてあのようなことを仰ったのですか。殿下と私がはじめて少林寺でお会いしたとき、殿下の悩みはそうではなかった。自身の大切なものを奪ったお父上は、殿下を愛されていないのではないかと、どうすればお父上に愛されるだろうかと、そうお話しになったではありませんか」


 それは、と皇太子の視線が泳ぐ。皇帝を見た。皇帝は、ピクリと眉を動かした。

 称心は続ける。

「殿下は愛がわからないと訴えられた。愛されたいとも願われた。だからこそ私は少林寺を去り、あなたのお側に仕えたのです。あなたを支え――そして愛して差し上げたかった。これが慈しみだと、愛なのだと示すことが、仏に仕えるよりも尊いことだと悟ったから」

「ああそうだ。私はお前に教えられたのだ。お前が私を愛してくれたから、私もお前を愛したのだ。だからわかるはずだ。お前を殺すなど、私にはできない!」

 静かに兵士らは困惑したようだった。まさかこの場この局面で、噂が真実だったと見せつけられようとは。皇帝は顎を上げ、今にも激昂しそうなのを必死で押し堪えているようだった。


 称心は頷いて――手にした剣を逆手に振り上げる。

「だからこそ! これが私の、殿下へ最後のご奉仕です!」

 皇帝も、皇太子も、兵士らもあっと息を呑んだ。流螢でさえ、唖穴を封じられていなければ驚愕の声を上げていただろう。


 称心は自らの胸を剣で貫いた。誰も動けなかった。ただ一人、皇太子だけがその頽れる身体を抱きとめようと足を引き摺った。間に合わなかった。転がるようにしてすがりつき、慟哭した。意味にならない言葉を叫び続けていた。

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