二 承慶殿の密談
流螢は内廷へ戻ると、迷わず東宮へ向かった。楊怡が徐恵の近くにいなければ、その行き先はほかの宮女と噂話に興じているか、さもなければ別の人物と会っているかだ。
(最近は何かと外出したがっていたし、徐恵も察しているようだった。まず間違いなく称心さまのところへ行ったに違いない)
斉王の一件が過ぎてから、楊怡は以前にも増して清寧宮を留守にするようになった。行き先は言わなかったが、徐恵は何も問わずにそれを許していた。それと同時に、楊怡は頻繁に厨房にも籠るようになっていた。
「調理場に入り浸っては頻繁に外出する、殿方以外の理由があるかしら?」
徐恵はそう言って微笑ましく楊怡の後姿を見送っていた。それで流螢も何となく察していたのだ。
そしてその都度、心に暗い感情が浮かびそうになるのを我慢していた。
(皇太子は私が子を望めない身体であることを知っていた。それを知っているのは清寧宮の人間以外にいなかったはず。きっと楊怡が称心さまに話して、それが皇太子にも伝わったに違いない)
楊怡に悪意はなかっただろう。おそらくは流螢の動向を探りたい称心が楊怡に清寧宮の様子を尋ね、彼の気を惹きたい楊怡はうっかり洗いざらい話してしまったのだ。
(比武召妃に参加している以上、いずれは明かさねばならないことだったけれど。そんな形で知られたくもなかった)
恨めしく思う心は頭を振って追い払い、流螢は後宮の庭を進む。すると、尚食局のあたりで見知った後姿を見つけた。称心だ。片手に
(どこへ行くのだろう? もしかして楊怡と待ち合わせているのかしら?)
居場所を知っているかも知れない。そう思って駆け寄ろうと思った流螢だったが、ふと歩みを止めて様子を見る。称心は心なしか早足で、誰かと出会わないか警戒しながら進んでいるように見えた。まるで人目を忍んでいるかのようだ。
(楊怡は後宮の近侍で、称心さまは東宮の従者。本来ならば深くかかわることのない立場なのだから、人目を気にするのも当然か。下手に声をかければきっとはぐらかされてしまう。ここはこっそり様子を見てみよう)
称心は武芸の達人だ。温泉宮ではその卓越した内力による絶技を目の当たりにした。気取られないよう流螢は十分な距離を開けて称心の後に続いた。称心はわざと細く人通りの少ない道を選んで進み、やがて流螢はその行き先を察した。
たどり着いたのは承慶殿だ。はじめて皇太子と出会ったその裏庭へ称心は姿を消す。流螢はしばし迷ってから、樹木の多い場所を選んで中へ忍び込んだ。かつてこっそりと武芸鍛錬に通った経験がまさかここにきて活きるとは。
称心は裏庭の中心、
「首尾はどうだ」
いつかの夜も、同じ場所で同じ言葉を聞いた。ただ亭の中にいるのはあの夜とは別人で、ましてや楊怡ではなかった。ここにいるとは思わない人物であることに変わりはなかったが。
亭の縁に腰かけ称心を待っていたのは皇太子だ。称心は皇太子の隣に腰かけつつ、両手の荷物を二人の間に置いた。
「
「好し、好し」
皇太子は深く頷きながら、称心の差し出した杯を受け取る。
「何人集まった」
「三千ほど。いずれも候将軍への忠誠篤く、信頼できる者たちだと」
「配置は」
「差配の通りに」
「では、残るは時期を計るのみか」
「いかにも」
称心が答えるたびに皇太子は満足げに酒杯を干す。流螢は生垣に身を顰めながらぞっと身を震わせた。
(あれはもしかしなくても、謀反の計画について話しているのでは?)
もしかするも何もない。それ以外の何だと言えるだろう。候将軍とは、候
(皇太子が備えはあると言っていた、あれは候将軍のことだったのね)
候君集の弓術は流螢自ら目にしている。それに⾼昌を攻め落とした軍功があることも確かだ。そんな智将が加担しているとなると、これはいよいよ皇太子は本気らしい。
喜色を浮かべていた皇太子だったが、その表情がふと曇る。酒杯を持つ手を止めてその内側に視線を落とした。
「それで、あの近侍はどうだ」
「先ほど楊近侍から聞いたところによると、初戦は難なく通過したと。予選上位者ですから、今日の試合はそれだけです」
称心はすでに楊怡と会い、そして別れたあとだったのか。当初の目的は果たした流螢だが、だからと言って立ち去れる状況ではない。
皇太子はふっと安堵の息を吐いたように見えた。間近の称心がそれを見逃すはずはない。
「殿下はやはり、迷っておられるのでは? 朱近侍の優勝を、何も事を起こさずに済むことを望んでおられるのではありませんか? お心が定まっておられるのなら、なぜあのような賭けを」
「言うな、称心。言うな」
皇太子は頭を振って、まだ中身のある酒杯を傍らに置いた。
「
俯いた皇太子の肩を称心は掴む。それはとても親密な友人の仕草で。
「はじめてお会いしたときも、殿下は悩んでおられた。皇太子に封じられ、将来この両肩に国を背負って立つことができるのかと。本来であれば自身がこの位に収まるべきではないのではないかと。それは自己を顧みることができることの証、帝王の素質ではありませんか」
「ただ優柔不断なだけではないのか。お前も本当は、早く決心をつけろと言いたいのではないのか」
「いいえ。所詮、私は殿下ではない。私にその胸の内は理解できません。悩みを解くなどなおのことできはしない。ですがあのとき、私は殿下に生涯お仕えすることを決めたのです。殿下が悩めるお方だからこそ、少林寺を出ようと決めたのです。ですから――殿下、存分に悩まれるがよろしい。私はそれに従いましょう」
皇太子は瞼を閉じ、しばし考えているようだった。それからややあって顔を上げ、どこか朗らかな様子で大きく頷いた。
「お前を友とできたことを、私はうれしく思う。そうだ、これは私が決めることだ。朱近侍にすべて委ねたのでは、私が決断したとは言えない。私は――決めたぞ。決めたのだ。すべて取りやめだ。中止だ! 皇太子でなくなったとしても、私はお前とならやっていける。この手の及ぶところ、お前の目が届く限り、平穏な世の中を作ってやろう。人生意気に感ず、功名誰か
置いていた酒杯を取り、高々と掲げる。称心もそれを受けて自らの杯を掲げ、二人はともにその中身を干した。さらに続けて三杯を空ける。
晴れやかな様子の皇太子を見て、流螢はほっと胸の重石が取れたようだった。
(皇太子は決心された。私の勝敗に関係なく、謀反は起こさないと心を決められた。ああ、良かった。本当に良かった!)
心の底から安堵する。それは自身の双肩に圧し掛かっていた責任が取り払われたからだろうか。いや、違う。流螢は知っていたのだ。皇太子が謀反を起こせば、その成否にかかわらず皇太子は大きな傷を心に負うだろう。流螢がもっとも恐れていたのはそれだ。
その心配がなくなった。張り詰めていた流螢の緊張が一気に解ける。それがために流螢は気づかなかった。背後に忍び寄った人物に気づいたのは、
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