六章 叶わぬ願い
一 擂台に踊る
比武召妃最終試合は
皇城に仕える文武百官はこの擂台を取り囲むように集結し、高官や皇族たちは承天門に設けられた観覧席に陣取っている。宮廷を出られない宮女や妃嬪たちもこの稀有な催しを一目見ようと歩哨へ詰めかけた。
軍用の太鼓が打ち鳴らされ、大歓声の中で参加者全員が中央の擂台に姿を現す。馬毬試合の負傷や病を理由に棄権する者も出たが、それでも三十余名がまだ残っている。全員が真っ白な衣装に身を包み、手には木剣を握っていた。
王太監が勅旨を広げる。人々の歓声は一挙に静まった。
「偉大なる皇帝陛下の命により、ここに比武召妃最終試験、
「謹んでお受けいたします」
参加者が声を揃えてひれ伏す。王太監はその筆頭である岳修儀に勅旨を渡し、振り返って承天門を見上げた。
「比武召妃参加者三十二名、全員揃っておりまする。陛下、お言葉を賜れますか」
すると承天門の楼閣、その陽光の当たる場所に男が一人歩み出る。顔つきは初老の頃だが、髪も髭もまだ黒々としている。彼こそがこの国の中心、皇帝である。
「か弱き
「ありがたきお言葉にございます。万歳、万歳、万々歳!」
岳修儀に続いて妃嬪が同じく万歳を唱え、さらに観衆も含めての大合唱。参加者の末席に身を置いていた流螢は耳が裂けるのではと心配になったほどだ。
王太監は歓声が落ち着いた頃合いを見、続いて試合の取り決めを発表した。
試合は勝ち抜き戦だ。すべて剣術によって競い、三本先取することで勝利となる。彼女らが扱う木剣には特別な仕掛けが施してあり、刃に相当する部分に赤い顔料が塗布してある。試合着の白衣にこの塗料による色が付くことで有効打を判定するのだ。ゆえに剣以外での攻撃は無効であり、剣を取り落とした時点で敗北となる。また参加者が妃嬪ということもあり、顔面への意図的な攻撃は禁止とされた。
「流螢、言わなくてもわかると思うけれど。十分に気を付けるのよ」
徐恵がそっと耳打ちした意味を流螢はもちろん理解している。流螢は妃嬪ではない。そして優勝候補として名を知られすぎてしまった。対戦相手が反則を承知で顔面攻撃を仕掛けてくるのは容易に想像できた。宮女の顔が文字通り潰れたところで誰も困りはしないのだから。
「徐恵こそ気を付けて。そちらにはあの人がいる」
開会式典の前に対戦表は発表されていた。これまでの予備試験および馬毬試合の結果をもとに大きく東西の組に分けられ、流螢は西組、徐恵は東組だ。そして東組には武才人の名もあった。もし順当に勝ち進めば徐恵は第三試合で武才人と当たるだろう。
大丈夫よ、と徐恵は片目を瞑ってみせる。
「私は陛下の前で目立つことができればいいのだから、適当なところで手を引くわ。――それじゃあ、決勝戦で会いましょう」
そう言って徐恵は初戦に向かった。流螢はそれを見送って、それからやっと最後の言葉の意味を悟って苦笑した。
(徐恵よ徐恵、あなたは本当に負けず嫌いね)
やれやれと頭を振り、そして一転、表情を引き締める。
(皇太子に事を起こさせるわけにはいかない。そのためにはこの比武召妃、勝ち抜かなくては)
たかが宮女が妃嬪を打ちのめす――それがどれだけ痛快に見えたのだろう。流螢は大歓声を浴びながら初戦を通過した。圧勝だ。相手に一本も取らせなかった。
「出過ぎた真似をしました。どうぞお許しを」
擂台を降りて退場する途中、流螢は対戦相手の妃嬪にそっと声をかけた。観客は流螢の勝利にしか目を向けていなかったようだが、相手としては宮女ごときに惨敗して怒り心頭なのではと危惧したのだ。流螢は清寧宮の近侍である。ここで恨みを買って後々徐恵の災難に繋がるのではないかと恐れた。
ところが対戦相手の妃嬪は怒るどころかひらひらと手を振って、
「勝者が敗者を気に掛けるだなんて、それこそ嫌味に思われるからおやめなさい。私は別に気にしていないから。もとよりあなたの腕前に私なんかがおよばないことは百も承知、むしろ早々に試合を終わらせてくれてほっとしたくらいよ。――次も勝ちなさいよね。あなたが勝ち進めば進むほど、私は自分を納得させられる。負けて当然だった、ってね」
あべこべに激励されてしまった。予想外のことに流螢が言葉を探していると、その間に相手は侍女を呼びつけてその場を去っていった。この後は観戦に回るか、あるいは自身の宮殿に引き上げるのだろう。
「いやぁ、見事な一戦だったじゃないか。弟子二号もあっちで大活躍だったぞ。出来の良い弟子を二人も持って私は嬉しいよ」
入れ替わるようにやって来たのは宮女の姿をした師父だ。いったいどこから忍び込んだのやら。流螢は何をしているのかと問い詰めようとして、そこでふとその顔面に視線が止まった。両瞼が随分と腫れているではないか。
「どうしたんですか。まるで本当の
「お前それ師父に対して喧嘩売ってるの?」
そうだ、と言いそうになるのを喉元で堪える。
「娼館でなにか変な
「私を歩く
別に頼んでいないのだが。
師父はぼったりとした両目のうち、とりわけ酷く腫れた左瞼に指を伸ばし、
「斉王の叛乱を報せるためにお前たちの宮を訪ねた後からかな、急に腫れ始めたんだ。すぐに引くだろうと放っておいたらこのザマだ。ものが見えづらいのはまあいいが、これじゃあイイ男がいてもバケモノ扱いされて引っ掛けられやしない」
「ざま――医者にかかってはどうです?」
「医者は原因不明と言っていたしお前は今なんて言った?」
それには答えず流螢は師父の目元をまじまじと見る。よくある流行り病には見えない。誰かに殴られてうっ血しているような、そんな症状だ。
「実は誰かと喧嘩したとか?」
「今すぐ弟子と喧嘩したい気分だよ私は。――そうじゃないんだ、流螢。これは毒だ。私は誰かに毒を盛られた」
患部に指を伸ばそうとしていた流螢はさっとその手を引っ込めてさらに三歩飛び退く。警戒しすぎだ。師父は「それは傷付くぞお前それは」とぶつくさ言いながら肩を竦めた。
「いつ誰にやられたのか、見当もつかない。だがこの毒症状には覚えがある。これは龍生派の毒だ。弱体化を目的とした非致死性のな」
少林寺から取り寄せた龍生派の資料に「薬学に優れ、自身を強め敵を弱める術に長ける」との記述があったことを思い出す。洪掌門も医薬学に通暁した人物だったと聞く。そんな龍生派が毒を使うことに不思議はないのだが。
「私はいつの間にか龍生派の弟子に接触していたらしい。しかしどこで遭遇したやら見当も付かん。毒は一滴でも十分に機能するものだが、私は目元に何かされた覚えなんかないんだ」
「娼館で変な遊びに興じたとか……」
「お前は本当に師父のことを何だと思っているんだ?」
変態以外の何だと言えばよいのだろう。流螢はまじめに返答に窮した。師父は真顔で言葉に詰まった流螢へペッと吐き捨て、きょろきょろと左右を見渡した。
「とにかくこんな
楊怡のことだ。思うところあり、流螢は早々にこの場を立ち去ろうとする師父を引き留めた。
「師父は清寧宮へ戻っておとなしくしていてください。私が代わりに楊怡を探して連れて行きます」
何百人もいる中から楊怡一人を探し出すのは難しい。それに徐恵の近くにいないのであれば、考えられるのはあそこしかない。
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