八 皇太子の真意
ガラリガラリと身体が揺れる。流螢はつかの間の休息からゆっくりと目を覚ました。馬車だ――第一に認識したのはそれ。馬車に乗っている。これは馬車の揺れだ。
(私、売られたんだっけ)
花鳥使に買われ、家畜のように乗せられた荷馬車の記憶しか流螢は持ち合わせていない。この揺れは容易にそれを想起させる。父母に売られたことを恨んではいない。それどころか、あの辛い日々から脱せたことを喜んでさえいた。他の娘たちは外界と隔絶された後宮の宮女になったことを悲観して泣き暮れていたが、流螢はむしろ安堵していた。ここにいれば自分は安全だ。恐ろしい男性は一人もいない。自由がないことなど苦にもならない。どうせこの身は一生涯誰かに使われるだけなのだから。
そう、思っていたのだが。
「……あれ?」
ふと、意識がもう一段階目を覚ます。どうして自分はまた馬車に乗っているのだろう。どうしてこの背中は固い板ではなく、柔らかな布地に支えられているのだろう。どうして先ほどから、この足はちょっとくすぐったいのだろう。
ぱち、ぱちり。瞬きをして薄暗いその空間を見回す。積み荷を運ぶ馬車ではない。隅から隅まで内装を施された貴人の馬車だ。一時期裁縫を生業としていた流螢には一目でわかる。これらはすべて超がつく一級品ばかりだ。こんな内装の馬車を有する人間は国内にそういない。
では、なぜ自分はそんな馬車に乗っているのだ?
また足に何かが触れた。流螢はそちらへ視線を送り、自身の足に触れる者の姿を見、今度こそ完全に覚醒した。
「殿下――!」
流螢の足に触れているのは、いまだ明鏡鎧を身にまとう皇太子ではないか。その指先で流螢の足を撫でている。びく、としてその足を引っ込めようとした流螢だが、皇太子がしっかり掴んで離さない。
「起きたか。動くなよ、金創薬を塗っている」
皇太子はそう言って傍らに置いた薬壺から軟膏を掬い取り、それを流螢の足、正確にはそこにある傷口へと塗り込む。燕弘信に負わされた切創だ。皇太子の指が触れた一瞬ピリリと痛みが走るものの、すぐにくすぐったさで上書きされる。
「そんな、どうして。私が殿下の馬車に?」
「徐婕妤に頼まれたのだ。意識のないお前を皇城まで運んでくれないか、と。この薬は房遺愛がお前にと渡してくれたものだ。剣技に秀でたあいつがこんな薬を持ち歩くとは珍しい」
言われてようやく流螢は思い出す。燕弘信との戦闘後、気が緩んで意識を失ってしまった。あのあといったい何がどうなったのだろう。
「
流螢の表情から疑問を読み取ったらしい皇太子は、また別の傷に薬を塗りながら答えた。
「徐婕妤も、韋貴妃も無事だ。刺客はすべて片づけた。叛乱軍の残党は
「私は大した働きは……」
「謙遜するな。父皇が逃げる時間稼ぎをしたのだろう? 十分な功労ではないか。お前がいなければ今夜の一件、最悪の結末を迎えていたかも知れん」
「ですが、徳妃娘々は」
「言うな」
息を吐きながら皇太子は指先を拭い、金創薬の壺に蓋をした。およそ目立つ部分の傷にはすっかり薬が塗り込まれている。流螢は今度こそさっと足を引っ込め、まくり上げられていた裾を降ろす。今夜、徐恵が無理やり流螢に男装させたことを感謝する。これがいつもの
「殷徳妃の末路について、楊近侍からあらましは聞いた。実に残念なことだ。だが、お前がそれを気に病むことはない。
流螢には皇太子にかける言葉が見つからない。斉王李祐は皇太子にとって異母とはいえ兄弟だ。それが兄の謀殺を企み、ついには兵を起こして自滅するなど。その心中いかばかりか。
「殷徳妃は死の間際にこう語っておられました。ただ斉王の、我が子の側にいたかったのだと。どうか恨まないでやってはくださいませんか」
「死んだ人間を恨んだところでどうしようもない。赦すも赦さぬも、私の埒外だ」
それは暗に流螢の願いを聞き入れたとも取れる。流螢は安堵した。これで終わりだ。皇太子の座をめぐる争いは終幕を迎え、役者も舞台を降りる時が来たのだ。
流螢は居住まいを正し、皇太子に向けて深く頭を垂れた。
「殿下の敵はすでにこの世を去りました。私の役目ももう終わりです。朱流螢が後宮で妃嬪の身辺を探る必要はもうありません。私はまたしがない宮女の一人に戻りたいと思います」
皇太子はこれに対し、ぐっと眉間にしわを寄せて頭を振る。
「終わりだと? 何を言う。お前にはまだ比武召妃があるではないか」
「それも辞退します。朱流螢は人知れず姿を消したと、そのように徐恵に処理してもらいます」
「ならぬ、それはならぬぞ朱流螢」
皇太子の腕が流螢の両肩を掴み、ぐいと上体を起こしてその正面を向き合わせる。流螢は皇太子の瞳を見た。真正面から直視した。
「お前には比武召妃に勝つという役目がまだあるではないか。私がお前を参加者に入れたのだ。その理由がわからぬか? 比武召妃の優勝者はお前でなくてはならんのだ。私には、お前がいてくれなければ困るのだ」
その瞳の中に嘘はない。だが同時に、真実もない。
「……私は、徐恵と楊怡が話しているのを聞きました」
流螢の手が皇太子の手首を取り、肩を掴む手を解かせる。
「二人が話していたのは、殿下と称心さまの関係です。私はお二人の関係を知っています」
はっ。皇太子が息を漏らす。それは嗤いだ。何をバカなことをと吹き飛ばすための。
「宮女どもは一人残らず噂好きだ。お前までもがそのような妄言を信じるのか。私と、称心が恋仲だなどと?」
「私には信じるに足る理由があるのです。私が殿下をお慕いするようになった、それこそが噂を真実たらしめる理由なのです」
「……何を言うのだ?」
皇太子は心底理解できないと首をかしげる。無理もあるまい。それとこれとはまったく関係がないではないか。
流螢は掴んだ皇太子の手を放す。右頬を肩に擦りつけようとして、やめた。
「私は男性が怖いのです。男性に見つめられると、それだけで身が竦むのです。本来ならばこのような距離で、このように向かい合い、腕を取られた時点で、私は息ができないはずなのです。ただ一人の例外が殿下でした。私は殿下にだけは恐怖を感じません。その理由に、私はやっと気づいたのです」
「なぜだ」
「殿下が女性を愛されないから」
――一瞬、皇太子の視線が泳いだのを流螢は見逃さなかった。
「先の皇太子妃を廃されたのも、その後も次の妃を娶られないのも、殿下が女性を愛されないからでは? 女性というものに一切の関心がないからでは? 私は無意識の内にそれを感じ取り、殿下は他の男性とは違うと直感していただけなのです」
「何を根拠に」
皇太子は顔を背けて鼻を鳴らす。バカげたことをと嗤っているが、流螢は態度を変えなかった。
「根拠などありません。ですから、殿下。私に口づけを施してはいただけませんか」
ぎょっとして皇太子は流螢を見た。その表情に垣間見えたわずかな感情は、困惑か、あるいは嫌悪か。
「殿下がご自身を、男性でなく女性を愛する人であると主張されるのであれば、どうか私に口づけを。たかが一人の宮女、その貞操を侵すことに、
「正気か」
「正気です」
流螢と皇太子はしばし見つめ合った。それは男女の逢瀬とはほど遠い、果し合い直前の懐の探り合いに似ていた。
ガタゴトと馬車は揺れる。ややあって口を開いたのは、御者台の称心だった。
「朱近侍は一つだけ勘違いをしておられる」
「やめろ、称心」
皇太子が低い声で命じたが、称心はそれを無視した。
「殿下は確かに女性を愛されない。ですが、男性を愛されるかと言えば、そうでもない。殿下は単に愛をご存じないのです。男も女も、等しく愛されることはない」
皇太子は大きく舌打ちを漏らした。他の誰にも知られたくなかった秘密を暴露された、そのような痛苦の表情が浮かんでいる。
流螢は困惑していた。称心が語ったのは、いったいどのような意味だろう。その疑問に答えたのは意外にも皇太子本人だった。
「……称心の言ったとおりだ。私は元来、色事に興味が湧かぬのだ」
ダン、と皇太子の拳が荷台の壁を叩いた。
「他者を好ましいと思うことの機序がわからぬ。子を成すということの意味がわからぬ。誰かと人生を共有し、心湧きたつようであるなら、それ以上の何を求めるのだ? なぜわざわざ姻戚を結び、身体までも繋がねばならぬ? 誰も彼もが御子を御子をと急かすたび、私はむしろ男女の情愛がおぞましい何かに思えてくるのだ!」
自らの頭を抱き、皇太子は髪を掻きむしった。流螢はいたたまれずその手に触れようとする。と、皇太子は突如流螢を荷台に組み伏せた。両手首を軋むほど強く掴み、押し付ける。流螢には悲鳴を上げる暇もなかった。
「だからこそのお前だ。お前は出自の卑しい宮女だ。父皇は比武召妃の優勝者を皇太子妃に据えると宣言された。その優勝者がお前のような
流螢は声も出なかった。そんな予感はあった。だが、本人に面と向かって言われるのでは精神的な傷の度合いがまるで違う。肺が呼吸を拒もうとするのを何とか叱咤する。息を吸わねば何も言えない。
「私だって、人です! 心ある人間です! そのような事のために……傷つくために戦えなど、できるはずがありません! 私は比武召妃を降ります。殿下はどうか良い女性を妃に迎え、この国の未来を担う方を
瞬間、流螢の頬に痛みが走る。乾いた音。何をされたのかすぐにはわからなかった。ややあって痛みが熱に変わり、流螢は頬を
「宮女めが、調子に乗るな! お前が私に意見する権利などない。比武召妃に勝つのだ。優勝するのだ! さもなければお前に用はない。お前を殺す!」
では殺せばいい――言いさした流螢の言葉を皇太子はさえぎった。
「お前だけではない。清寧宮の徐婕妤も殺す。後宮の女どもすべて殺す。父皇も殺す。俺の事を
ぞっとした。それはつまり。
「謀反なさるおつもりなのですか。たかが妃を娶るかどうかの話で、実の親を弑するおつもりなのですか。今しがた斉王のそれを阻んだばかりではありませんか。そんな、そんなのは……正気ではない!」
「何が正気だ? 私の望みなど顧みず、勝手に皇太子に据え、勝手に廃太子にしようとして……そいつらこそ! 他人の人生にグダグダと余計な口を挟む狂人揃いではないか! 排除することの何が悪い?」
そこでふと、皇太子は夢から醒めたように表情を変えた。憤怒から困惑、そして悲哀へ。
「……私とて、誰かを陥れ、蹴落とし、殺して帝位に就きたいなどとは考えていない。いたずらに国を乱したいだなどと、誰が考えよう? できることなら皇太子の座は誰かに譲ってやりたい。だがもしもそうして、新しい皇太子は私を生かしておくだろうか?」
間違いなく生かしてはおくまい。当代皇帝が健在である間はまだしも、新たな皇帝として帝位に就いたその瞬間、自らの地位を脅かすすべての人間を排除する。廃太子などその最たるものではないか。これを完全に消し去らねば安心して頂点に君臨するなどあり得ない。
「皇太子の座から降りるわけにはいかぬ。だが妃を取ることもお断りだ。だからお前を選んだのだ、朱流螢」
馬車が止まる。皇太子は身体を起こし、流螢も抱き起こした。
「お前が頼りなのだ。お前が比武召妃で優勝すれば、私は平穏無事でいられる。謀反など起こさずとも済むのだ。だがもしも、お前が敗北するか、あるいは逃げ出そうものならば……私は私にできる事をする。私にはすでに、その備えがある」
流螢は押し潰されそうだった。その期待は、この双肩に負うにはあまりにも大きすぎた。
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