七 柔らかい腕の中

 ぱっ、と血しぶきが石畳に飛び散った。流螢の胸元にもその赤色は広がる。が、その血を流すのは流螢ではない。燕弘信はその場で動きを止め、自身の右手首を見つめていた。その手首から細く血が流れている。何かしらの暗器に貫かれ、穴を穿たれたようだ。

「これは、少林寺の……!」

 燕弘信が顔を上げた瞬間、流螢の肩越しに掌風が吹き付けた。燕弘信はとっさに腕を胸の前で交差させつつ後方へ飛ぶ。掌風に煽られて十歩の距離を飛ばされ、さらに三歩を後退してようやく踏みとどまった。


 流螢には何が起こったのかわからない。全身に傷を負い片膝を突いた状態でかろうじて背後を振り返ろうとする。ちょうどそのとき、すぐ隣に二人の人物が現れた。

「流螢ではないか。なぜお前がここに?」

「殿下……!」

 現れたのは、いつか承慶殿で見た明鏡鎧を身に着けた皇太子ではないか。その肩を支えるのは称心だ。その様子から見て、足に障害を負った皇太子をここまで軽功で連れてきたのだろう。となれば、先の強烈な掌打も称心が放ったものか。


「陛下は奥へ、徐恵が一緒に……急いで!」

 流螢は何から言えば良いのやら、言葉が文章になっていない。しかし聡明な皇太子はすぐに状況を理解した。称心に命じて先へ進もうとする。

「おいこら、俺を無視するんじゃねぇ!」

 そこへ燕弘信が左槍を突き込んだ。称心は即座に皇太子を庇いつつ掌でこれを受け流す。後続の右槍による殴打は剣を抜き放った皇太子が防いだ。

「貴様の相手をしている場合ではないのだ!」

「お前にはそんな場合じゃなくとも、俺にはそんな場合なんだよ! クソが、俺の腕をよくもこんな目に!」


 よく見れば右手の槍は握っているのではなく、破いた布で手に縛り付けられている。流螢は足元に飛び散った血痕を見、その近くの石畳に突き立つ小さな光を見た。あれは、縫い針だ。称心はあの針一本をなげうち、燕弘信の手首を貫いたというのか。

(なんて雄渾な内力なの! 軽くて細い針に人体を貫くほどの威力を乗せるだなんて!)

 称心の武芸は計り知れない。そういえば以前に師父が言っていたような気がする。称心ほどの男に純陽じゅんようこうをやらせるのは惜しい、とか何とか。


 しかしながら称心は半身を皇太子を支えることに費やしており、二人一組の攻防は阿吽あうんの連携ではあるものの、燕弘信の猛攻をいなすのに精一杯だ。これでは皇帝のもとへはたどり着けない。

(殿下と称心さまにこの場を任せて、私が皇帝を助けに? 流螢よ流螢、それではダメよ。殿下ご自身が皇帝をお助けしてこそ意味がある)

 朝廷における皇太子の立場はいまやいつ沈んでもおかしくない泥船だ。しかしこの局面で見事皇帝を救い出すことができたなら、それは皇太子自身をも助けることになるだろう。皇帝の命を守ることが第一ではあるが、これは皇太子にとってのまたとない好機でもある。この場で前に進むのは皇太子でなければならない。


 流螢は大きく息を吸い込み、全身の経絡へ一気に内力を流した。傷口から瘴気を弾き飛ばし、痛みを和らげ、木剣を手に立ち上がる。

「そこを退け! 邪魔は許さない!」

 さらに皇太子へ攻めかかろうとする燕弘信の背後へ、流螢は渾身の力で打ちかかった。折りしも称心の掌打が迎撃に繰り出された瞬間、燕弘信は右腕を掲げて流螢の一撃を受けるしかない。


 直後、燕弘信の右手から槍が弾け飛んだ。流螢の振り下ろした木剣にはそれまでの攻防では一度も見せなかった深い内力が込められており、すでに手首を負傷した燕弘信の右手ではその衝撃に耐えられなかった。あるいは、負傷していなくとも結果は同じだったかもしれない。


 流螢は気づいていない。今しがた目にした称心の純陽じゅんよう擲針てきしんと掌法によって、流螢自身もまた内力の運用について開眼していたのだ。

 称心が修めた純陽功は、一切の陰気を排除することで陽気を極限まで亢進させる武功だ。本来ならば陰陽の調和と相乗を目指すべきであるところ、意識的に一方へ傾ける。それは極めて不自然な状態でありながら、一方で陽気が有する動の活力を最大限に発揮することができる。

 そして流螢は陰気を養うことができない身体だ。加えて、流螢はここしばらく招法ばかりを鍛錬して陰気養生の座禅が疎かになっていた。意識せずとも陰気は減衰し、相対的に陽気亢進と同様の「陽盛陰虚」状態になっていたのである。


 槍を取り落とした燕弘信はとっさに拾い上げようとしたところの顎を打たれそうになり、慌てて上体を起こして飛び退いた。その隙に流螢は皇太子を背に庇う位置につけた。

「ここは私が。殿下は先へ」

「あれはお前の手に余る」

「時間稼ぎくらいなら、できます」

 ここで問答を続けるほうがよっぽど時間のムダだ。流螢はもはや皇太子の制止を聞かず、燕弘信へ打ちかかった。流螢の身体は数多の傷を負っているものの、先と比べれば陽気の循環は怒涛の勢い、逆に燕弘信は片腕を負傷し得物も一方を取り落とした。


 形勢逆転、不可能ではない。


 流螢は地を蹴って跳躍、空中で翻身しながら怒涛の三連撃。単槍となった燕弘信はこれを受けきれない。第三撃を左肩へまともに喰らった。流螢の手に異様な手応え。たぎる内力が鎖骨を折ったようだ。

 燕弘信もひとかどの武芸者だ。骨を砕かれても悲鳴を上げたりはしないものの、さすがに激痛耐え難い。うっと呻いて距離を取る。が、その拍子にぽろりと左手の槍も取り落としてしまった。折られた側の腕ではもはや得物を保持する事もかなわない。


「お前の負けだ!」

 流螢はさっと間合いを詰め、燕弘信の喉元へ木剣の先を突きつけた。流螢とて疲労困憊、ともすれば木剣を落としかねない。それでも残る気力を振り絞り、出せる限りの声で告げる。

「お前の負けだ! 降参してばくにつけ!」


 燕弘信の顔面はもはや人のものではない。江湖に名のある者と自負するにもかかわらず、たかが後宮の侍女に叩き伏せられた。その屈辱をありありと表情に現している。

「この俺が、おめおめと負けを認めるとでも? この閃雷双槍燕弘信が、小娘相手に敗北するだと!? そんなことは、断じてない!」


 ――マズい。

 気圧されてはいけない。ここで怯んでしまっては、せっかく追い詰めた相手に余裕を与えてしまう。それなのに、流螢は半歩を後退させてしまった。

「俺はまだ負けちゃいねぇ! 違うと言うなら――その木剣おもちゃでこの胸突いてみやがれ!」

「――そうだな、そうさせてもらおう」


 燕弘信の背後に人影。一切の気配がなかった。燕弘信ははっと振り向いた瞬間、その胸を深々と剣に貫かれた。そこにいたのは眉目秀麗で女と見まがう美貌の武人。

「お前、は……この、剣は……」

「たとえ相手が何者であれ、潔く敗北を認められぬようでは三流。私の剣を汚すほどの価値はない。弟の遺物を抱いて逝け」


 房遺愛は右の掌打を燕弘信の脇腹へ叩きつける。メキメキと肋骨を潰された燕弘信の身体は風に煽られた花弁のごとく吹き飛び、はるか数十歩先の地面に転がった。もはや二度と起き上がることはあるまい。

 ああ、と流螢の口から深く息が漏れた。

「房さま、そちらはご無事で」

「韋貴妃はお守りした。朱近侍も大いに功を立てたようだ」


 そんなことは――流螢は謙遜の言葉を紡ぐ余裕も有らばこそ、激戦の緊張から解かれた瞬間に一気に全身が弛緩してしまった。ぐらりと頽れそうになるその身体を房遺愛はふわりと受け止める。男性の身でありながら、房遺愛の腕も胸も驚くほどに柔らかい。


「お休みになられるがよい」

 その誘いに抗う余力などなく、流螢はそのまま気を失った。

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