六 強い女子

 温泉宮最奥の寝殿、そこへ至る手前の回廊では激戦が繰り広げられていた。十名ほどの刺客たちを相手に立ち回る一人は、皇帝その人である。

 皇帝は襲いかかる敵の懐へ自ら飛び込み、その胸に肩をぶつけた。胸を潰され弾き飛ばされる直前、その手中から剣を奪い取る。皇帝はその奪い取った剣で右方向から襲いかかった一撃を受け止めた。敵が二撃目を繰り出そうと剣を引き戻した瞬間、胸の中心へ剣を突き込む。背中までを一気に貫き通す。


「陛下、ご用心!」

 その声に振り向けば、今しもその腹を剣が刺そうとしている。皇帝はそれを防ぎきれない。あわやというところ、横から割り入った木剣がこれを弾いた。

 木剣を握るのは汗だくとなった徐恵だ。早馬を乗り潰して温泉宮へ駆け込んだ徐恵は、押し入った斉王の刺客らを追い越し、追い詰められた皇帝の前へと馳せ参じた。幾人もの太監が命がけで皇帝を守らなければ間に合わなかったかもしれない、危機一髪の状況であった。


 徐恵は皇帝と二人、背中合わせになって四方を固める。残り数名となった刺客たちは一筋縄ではいかない相手と見て距離を取っている。

「陛下、ご無事で?」

「なんとか、な。だがこの死地は果たして抜けられるかどうか」

「陛下は必ずお守りします。さもなくばともに死ぬまでのこと」


 徐恵の言葉は本心からのものだ。この生死を分かつ場にあって、この世で唯一の想いを寄せる相手と背中を預けあっている。こんなことが他の妃嬪にできるだろうか? 女の従軍は士気を削ぐからと禁じられている。徐恵にとってこの状況は、ある意味でまたとない機会であった。

 皇帝がそれを戦友としての鼓舞と受け取ったか、あるいは乙女の儚い願いと受け取ったか、定かではない。だがいずれにせよ皇帝は深くうむと頷いた。

「よく言った!」


 皇帝と徐恵、同時に仕掛ける。一人を斬り伏せ、一人を殴打し、たちまち二人を片付ける。徐恵の右から剣が迫るのを、皇帝は固く握った拳で殴りつける。剣刃は逸れて徐恵の肩をかすめたが、皇帝の手からはシュッと血が迸る。徐恵は素早く反撃の一打を脛へ叩き込み、さらに脚を振り上げ横っ面を蹴り飛ばした。

「陛下! そんな、私のために……!」

「気を散ずるな!」

 徐恵の斜め後方から刃が迫る。徐恵は翻身一閃、敵の肘を打つ。さらに足払いで転倒させた胸へ皇帝が剣を突き立てた。


 突如、頭上に殺気。皇帝は後退しようとしたが、思いのほか剣が深く突き刺さってしまい引き抜けない。やむなく剣を捨てるしかなかった。下がったところへ刺客の一人が追撃を放とうと踏み込む。皇帝は思わず「寄るな!」と発したが、聞き入れられるはずもない。むしろ追い詰められたがゆえの命乞いと誤解された。刺客は大きく二歩目を踏んで接近。

 直後、その脳天が西瓜のように潰れ、脳漿が飛び散った。果肉のような脳髄がぼたぼたと落ちる。そのその肩には頭上からの奇襲を仕掛けた人物がのしかかっており、さらにその身体までも押し潰して着地した。


「――ちっ、バカが、自分から俺の間合いに飛び込みやがって。取り逃がしちまったじゃねぇか」

 この事態には皇帝の命を狙う刺客らも唖然とし、動きを止める。その間に徐恵は皇帝の隣へ駆けつけた。眼前の潰れた死体にうっと吐き気を催しつつも正面の相手に木剣を向けた。


 その相手は他の刺客たちとは異なり、毛皮の上着に革の腰帯といった江湖人の装いで、両手には短槍を携えている。男はその短槍を片手に束ねて腰を曲げた。

「さすがは開国の将だ。玉座に収まってもまだ武芸は健在のようで」

「その短槍……えん弘信こうしんか」

 へぇ、と男は興味深げに首を傾げる。

「いかにも俺は燕弘信だ。皇帝にも名を知られるとは、俺も随分と大物になったものだ」

閃雷せんらい双槍そうそう燕弘信と、弟の旋風せんぷう双剣そうけん燕弘亮は、ともに江湖の剣客だったそうだな。それがどうしてまたいん宏智こうちの誘いになど乗ったやら」


 燕弘信はにやりと口元に笑みを浮かべ、束ねた短槍を再び両手に構える。

「――田舎者が尊き皇帝を殺したとなれば、後世まで名が残るだろう?」

 皇帝の表情にさっと怒気が浮かび、そして消えた。

「……朕を当てこすっておるのか。それとも真に狂人であるのか」

「さあな。だが少なくとも、俺の弟は兄をころそうなどとは思わんよ」

 やはり当てこすりか、と皇帝は吐き捨てる。燕弘信が言っているのは玄武門の変に間違いない。先の田舎者が云々というのも、皇帝が元は北の太原に封じられた家系であり、前王朝を滅ぼしたことを言っているのだ。もちろん、辺境の守りを任じられることは元来重臣の証であるのだが。


 燕弘信が動く。右の短槍が皇帝の肩を狙って伸びる。皇帝は膝を屈めてこれを回避し、燕弘信の懐へ潜る。拳を突き込む、が、これは左短槍の柄に阻まれた。燕弘信の右手中で短槍が半回転、逆手で皇帝の後頭部を狙う。そこへ横から木剣が割り込んだ。徐恵だ。

「陛下、どうかお逃げください!」

「テメェに用はねぇ!」

 右の槍が徐恵の喉を、左が腹を狙う。徐恵は斜め前へ踏み出しつつ、右槍を伏せてかいくぐり、左槍を木剣で受け流す。そしてすかさず翻身、身体を縦回転させ燕弘信の頭頂を狙う。燕弘信は双槍を掲げてこれを受けようとしたが、寸前で徐恵の木剣はひらりと狙いを変えた。頭上を狙うと見せかけ、実際には空いた腋を突く。いつか承慶殿で流螢が見せた技だ。


 ところが燕弘信は焦る様子もなく肘を軸にしてこの刺突を外側へと弾く。それどころか槍で木剣を抑え込み、もう一方の槍で徐恵の胸を狙う。心臓を貫く軌道。徐恵は後方へ飛び退こうとしたが、なんと身体が動かない。燕弘信はその足で徐恵の足を踏みつけていたのだ。これでは間合いを切って逃れることができない。――届く。


 瞬間、横から強烈な掌風が吹き付けた。燕弘信は直撃を避けて地面を転がる。徐恵はあわやという瞬間で危機を逃れる。燕弘信が起き上がりざまに短槍を繰り出せば、カーンと追撃を仕掛けた剣と交わった。金属ではない、木製の剣だ。

 両者相手を突き飛ばし距離を取る。木剣を携え燕弘信と相対したのは、帷帽を被った江湖人だ。男性の装束だが肩や腰の骨格から女性の男装であると推察できる。


「誰だお前は!」

「流螢!」


 徐恵が安堵の息とともに発した通り、その男装の江湖人は流螢である。房遺愛とともに温泉宮に到着した流螢は二手に分かれて皇帝の居場所を探し、そしてもっとも騒ぎの大きなこの寝殿前へと駆けつけた。そこで間一髪、徐恵の窮地を救ったのだ。

「ごめんなさい、遅れてしまった」

「そんなことない。英雄の到着にふさわしい、これ以上ないぐらい最高の頃合いよ!」


 流螢と徐恵、二人並んで皇帝を背中に庇う。燕弘信は双槍を構えなおし、ペッと忌々し気に唾を吐き捨てる。

「女が二人も邪魔立てしたところで、この俺を止められるものか!」

「ならば試してみる?」

 徐恵が言うなり燕弘信の右腋を狙って突きかかる。さらに連動して流螢も跳躍からの袈裟斬りを放つ。燕弘信はこれを払い受け、シュシュッと反撃の突きを左右同時に放つ。流螢も徐恵もそれぞれに迫る槍先を弾き、ひるむことなく再びの連撃。木剣と双槍がけたたましく音を発しながら接触すること十数回、燕弘信はとうとう一歩後退させられた。


 江湖の二つ名を持つ燕弘信にとって、こんな局面で噂にも聞かない女二人に道を阻まれることは自尊心を大いに傷つけられる出来事である。しかも一人は先の皇帝とのやり取りを見る限り、後宮の女ではないか。そんな相手すら簡単には倒せぬのか。

 燕弘信はギリと奥歯を噛みしめ、背後で呆然としている配下たちを叱責した。

「何をボケっとしていやがる! とっととクソ皇帝の首を取れ!」

 はっとして配下の兵たちはわっと前に出る。流螢と徐恵がこれを阻もうとしたところ、燕弘信が槍を突き込む。徐恵は身をよじって回避し、流螢がカーンと打ち払う。皇帝に今にも斬りかかろうとしていた敵を徐恵は飛び込む勢いで叩き伏せた。


「徐恵、陛下をつれて逃げて!」

 流螢は木剣を一回転、燕弘信に対して壁を作る。その間に徐恵は皇帝の腕を引き、さらに奥へと逃げる。

臭丫頭こむすめが、たった一人で俺を阻めると思うなよ!」

 俊敏強烈な突きが左右から流螢を襲う。流螢は双槍の交差する一点を叩き据えて落とし、さらに足で踏みつけ跳躍。頭上から燕弘信の肩を襲う。狙うは肩井けんせい穴。燕弘信はサッと身を翻して回避、双槍を頭上に掲げて防御。応じて流螢は縦に一回転、燕弘信の背中を蹴りつけ距離を取る。が、その瞬間に足首にピリリと痛みが走る。着地の瞬間に顔を顰めれば、右足首に血が滲んでいた。


 斬られた――たちまち焦りを覚える流螢。直後、上下左右から同時に烈風が吹きつけた。燕弘信の連続突きだ。それはまるで閃光迅雷、目にも留まらぬ速さである。燕弘信の短槍は持ち手を短くすれば匕首、長ければ剣として機能する。流螢は木剣を振るって守りを固めるが、あまりにも燕弘信が速い。威力の六、七割を削りつつも完全な回避には間に合わない。まず肩が斬られ、太腿を裂かれ、帷帽が弾き飛ばされた。

 燕弘信は剣として槍を構え、ついに流螢の胸へ必殺の刺突を送り込む。翻弄されきった流螢にはもはや受けきれない。


 心臓を穿つ三寸手前まで、槍先は迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る